たけくらべ

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たけくらべ』は、明治の小説家樋口一葉短編小説。1895年(明治28年)から翌年まで「文学界」に断続的に連載(文学界雑誌社、第25~27号、32号、35号~37号)。1896年(明治29年)4月10日、「文芸倶楽部」(博文館、第二巻第5号)に一括掲載された。

吉原の廓に住む14歳の少女美登利と運命の少年藤本信如との恋を中心に、東京の子供たちの生活を吉原を背景に描き出した作品。

目次

[編集] 概要

1893年(明治26年)、一葉は新吉原にも近い下谷龍泉寺町において荒物雑貨駄菓子屋を経営しており、このころの実体験で得た題材が「たけくらべ」はじめ作品へ繋がっていると考えられている。翌1894年には下谷から本郷区丸山福山町へ転居し、「暗夜」、「大つごもり」に続き「たけくらべ」を連載した。一葉は「裏紫」に至るまで作品を次々と発表しており、後に「奇蹟の14ヶ月」と評される期間にあたる。1895年1月22日の星野天知一葉宛書簡(日本近代文学館所蔵)によれば、星野は文学界1月号の原稿が集まらないために一葉に作品を依頼し、一葉は書き溜めていた作品「雛鶏」を改題して発表したという。翌1896年、一括掲載された際には森鴎外幸田露伴ら当時の文壇において着目され、鴎外の主催する「めさまし草」において高い評価で迎えられたが。一葉はこの頃結核が悪化し、同年11月には死去している。再掲載時の原稿は口述して妹の邦子に書き取らせたものであり、「一葉」と署名された上下に別人による加筆があり「樋口一葉女」と記されている(発表作品における一葉の署名は一般に「樋口夏子」か「一葉」)。没後に『一葉全集』が刊行され、「たけくらべ」をはじめとする作品は現在に至るまで広く親しまれることとなった。

1918年に刊行された真筆版「たけくらべ」では、鏑木清方が口絵を手がけており、鏑木は1940年(昭和15年)にも「たけくらべ美登利」(京都国立近代美術館所蔵)を制作している。また、1925年(大正14年)には木村荘八が吉原遊郭の賑わいを描いた「たけくらべ絵巻」を制作している。

作中に登場する龍華寺のモデルは、浄土宗寺院の大音寺であると考えられている。また、東京都台東区の一葉記念公園内には、佐々木信綱による記念碑がある。未定稿などの肉筆原稿は日本近代文学館、山梨県立文学館、早稲田大学図書館、天理大学附属天理図書館、駒沢大学図書館などに所蔵されている。

[編集] あらすじ

勝気な少女美登利はゆくゆくは遊女になる運命をもつ少女である。 対して龍華寺僧侶の息子信如は、俗物的な父を恥じる内向的な少年である。 美登利と信如は同じ学校に通っているが、あることがきっかけでお互い話し掛けられなくなってしまう。

当時吉原の遊郭は、鳶の頭の子長吉を中心とした集団と、 金貸しの子正太郎を中心とした集団に分かれ対立していた。 夏祭りの日、長吉ら横町組の集団は、 横町に住みながら表町組に入っている三五郎を正太郎の代わりに暴行する。 美登利はこれに怒るが、長吉に罵倒され屈辱を受ける。

ある日、信如が美登利の家の前を通りかかったとき下駄の鼻緒を切ってしまう。 美登利は信如と気づかずに近付くが、これに気づくと、恥じらいながらも端切れを信如に向かって投げる。 だが信如はこれを受け取らず去って行く。美登利は悲しむが、やがて信如が僧侶の学校に入ることを聞く。 その後美登利は寂しい毎日を送るが、ある朝水仙が家の窓に差し込まれているのを見て懐かしく思う。 この日信如は僧侶の学校に入った。

[編集] 映像化作品

『たけくらべ』 1955年

[編集] 舞台化

宝塚歌劇団によって、ミュージカル化。詳細は別項「宝塚歌劇団によって舞台化された作品の一覧」を参照。

[編集] 参考文献

  • 『樋口一葉展Ⅰわれは女なりけるものを』(山梨県立文学館)

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年9月11日 (金) 18:09 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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