つげ義春

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つげ義春
本名 柘植 義春
生誕 1937年10月31日(72歳)
日本の旗東京府東京市葛飾区
(現:東京都葛飾区)
国籍 日本
職業 漫画家随筆家
活動期間 1955年 -
ジャンル 青年漫画
代表作 李さん一家
紅い花
ねじ式
ゲンセンカン主人
無能の人
  
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つげ 義春(つげ よしはる、1937年10月31日 - )は、漫画家随筆家。本名 柘植義春(つげ よしはる)。『ガロ』を舞台に活躍した寡作な作家として知られる。

テーマを日常やに置き、をテーマにした作品もある。『ガロ』を通じて全共闘世代大学生を始めとする若い読者を獲得。1970年代前半には一部に熱狂的なファンを招来した。後の作家に大きな影響を残しており、現在でも往々につげ作品のパロディ漫画を見ることが出来る。また、「ガロ系」と呼ばれる、主に『ガロ』出身の作家性の強い漫画家たちの元祖的存在であり、決して多数派に支持はされないが、現在も新たな読者を獲得し続けている。

漫画家つげ忠男は実弟。妻藤原マキは、唐十郎主宰の劇団・状況劇場の元女優。一男あり。

目次

[編集] 生涯

[編集] 生い立ち

東京葛飾生まれ。父は板前伊豆大島(4歳頃)や母の郷里である千葉県大原(5歳の頃、約1年足らず)などを転々とした後、葛飾区立石に育つ。5歳で父を亡くし、貧しい母子家庭で苦労して育った。父の死の直前は錯乱状態であり、東京の出稼ぎ先の旅館の布団部屋に隔離され、布団の谷間におびえたように目を見開き爪で空をかくようなそぶりを見せており、母がつげとつげの兄を引きずるように父の前に立たせ「お前達の父ちゃんだよ、よく見ておくんだよ」と絶叫したという。つげはこのとき生まれて初めての恐怖を覚える。

1944年に葛飾区立本田小学校に入学するが、空襲が激しく、ろくに通学もできなかったが、学校嫌いであったつげは空襲で休校になるのがうれしく、毎日空襲があればよいと思っていた。この頃、つげは近くにあった高射砲B29を撃墜し真っ二つにする光景を目撃する。自宅の周辺は焼けることもなく、高射砲連隊があったことから空襲の恐さは実感できなかった。その後、空襲を避けて新潟県赤倉温泉学童疎開するが、なれない集団生活からかこの頃より赤面恐怖症を発症する。小学6年生の時には運動会で多くの観客の前で走るのを恐れ足の裏をカミソリで切る。疎開地で終戦を迎え東京に戻るが、兄と共に闇市セルロイドおもちゃを売る商売を始め、安価であったためよく売れた。その後、義父の発案でキャンデー売りなども経験する。母は千葉から海鮮物を仕入れ行商をしていた。6年生で初めて船員になる夢を抱いている親友ができ、つげ自身もが好きであったため、船員になるための勉強を一緒にしたりし将来を誓い合ったりしたが、親友は中学校に進学し、つげは就職することになる。

小学校卒業後はメッキ工になったが、母の再婚相手と折合いが悪く、転々としたメッキ工場も労働条件が厳しく、また赤面恐怖症などから鬱屈した心情になり密航を企て、1952年横浜港からニューヨーク行きの汽船に潜入。しかし野島崎沖で発覚し、横須賀海上保安部に連行された。

密航に失敗した後は家にいるのが気まずく、先の親友のそば屋で出前持ちとして働く。時には赤線への出前もあり、赤線の女にからかわれたりする。この頃、同じそば屋に戦争で両親を失くした同い年の美しい少女が働いており、彼女に誘われ休日に一緒に映画館へ行く。映画館の中では、彼女に手を握られたがつげは決まりが悪くずっと俯いていたという。後に、少女はヤクザ者にだまされ堕落する。

その後、赤面恐怖症はひどくなり、一人でできる職業として漫画家を志した。書きためた絵を持って1週間ほど多くの出版社を回り10軒目の若木書房でようやく採用される。

[編集] 貸本漫画時代

1955年に若木書房からプロデビュー。当初は貸本漫画に数多く執筆していた。この頃、赤塚不二夫と親交を持つようになる。新漫画党の集まりにも度々参加する。その紹介で短期間だがトキワ荘に住んでいたこともある。(ただし、人見知りが激しく、赤塚以外のいわゆるトキワ荘系の漫画家とは、それほど交流を持つことはなかった。)手塚治虫の影響を強く受けた『生きていた幽霊』(56)やトリック推理ものである『罪と罰』を契機として江戸川乱歩的なデカダンス風の推理ドラマをはじめ、『四つの犯罪』では初めて作者の温泉への憧憬も伺われる。探偵もの『七つの墓場』や『うぐいすの鳴く夜』、『おばけ煙突』、『ある一夜』なども描かれた。これらの作品は、ストーリーとしては完成度が高いもので、『ガロ』時代の旅ものを思わせるユーモアの片鱗をも随所に散りばめられていた。しかしながら『不思議な手紙』などの暗いタッチが主流を占め、当時の貸本マンガの主要読者層だった小学校高学年~中学生からは不評を買うこととなり、出版社からももっと明るい作風を要求された。

漫画家になって以降も赤面恐怖症はさらに悪化、家族とも顔を合わせるのが苦痛で部屋を仕切ったり、押入れにこもりじっとしたりしていた。通信療法も試すが効果はなかった。「女を知れば度胸が出るかもしれない」と考え、自転車で赤線へ赴く。3つ年上の女に親切にされ外へ出ると急に勇気が出たように思え、嬉しさでを流しながら中川の土手を自転車を走らせたが、数日して彼女に会いに行くと別の客が付いており、胸が張り裂けそうな思いをする。その後、赤線へ行くことはなかった。

貸本マンガ業界自体が衰退していくと、辰巳ヨシヒロなどの勧めもあって、従来の時代劇や推理ものに加えてSFや青春ものなど様々なジャンルに手を染めるようになり、一方、さいとう・たかを佐藤まさあき白土三平などこの頃の人気漫画家の絵柄を真似ることも要求される。

しかし作品はなかなか売れず、錦糸町の下宿の支払いを2年分も溜めたため、便所を改造した一畳の部屋に幽閉され、8年間にわたり悶々の日々を送ることとなった。桜井昌一によると、この頃のつげは錦糸町の装飾店に勤めてフスマなどを張り替えていたという[1]。血液銀行に通って売血したのもこの時期のことである。1962年には、自殺未遂を起こして病院に担ぎ込まれた。

[編集] 『ガロ』時代 (196670

ガロ』創刊当初、社長の長井勝一と三洋社時代に一緒に仕事をしたことのある白土がつげ義春の所在を誌上で尋ね、それに応える形でつげはガロに創作の場を得ることになった。1965年、「噂の武士」で『ガロ』8月号に登場。

1965年10月、白土はつげを千葉県大多喜の旅館寿恵比楼に招待し、また赤目プロのアシスタントは井伏鱒二を読むよう勧めて、これらの経験からつげは旅に夢中になり、のちの一連の「旅もの」作品として結実している。やがて、生活のために、水木しげるアシスタントを勤めるようになる。

1966年2月号の「沼」以降、作家性の強い短編群を続けざまに発表する。しかし当時の「カムイ伝」目当てでガロを買う読者層には主に「暗い」という理由(当時の読者欄より)であまり評価されなかった。だが、一部マニアックな読者からは高い評価を得、1967年3月創刊の日本初の漫画批評誌『漫画主義』(同人:石子順造山根貞男(当時は「菊池浅次郎」名義)、梶井純権藤晋)は、つげ義春の特集を組んだ。

1967年には水木プロの仕事量が増え、右手の腱鞘炎を患う。また、この頃、友人と各地に旅行をする。1968年6月刊行のガロ増刊号「つげ義春特集」に発表された「ねじ式」の独特な作風は「芸術的漫画」という新たな評価をも得る。4月に友人の立石氏と、秩父房総を8月には伊豆半島に、また秋には、単独で東北湯治場蒸ノ湯温泉、岩瀬湯元温泉、二岐温泉)などを中心とした旅行をする。その際、旅に強烈な印象をもち、また湯治場に急速に魅かれるようになる。このときの旅の印象はこの年後半から翌年にかけての一連の「旅もの」作品として結実する。また、このころ旅関係の書物や柳田國男などを熱読する。この年にはユーモラスな世捨て人的生活の日常スケッチである『李さん一家』(6月)や、少女が大人になる一瞬を巧みな抒情詩に仕立て上げた『紅い花』(10月)、小さな村の騒動記『西部田村事件』(12月)、そして翌1968年には紀行文学のスタイルを借りた『二峡渓谷』(2月)、『長八の宿』(1月)、『オンドル小屋』(4月)などを立て続けに発表する。しかし、旅は必ずしもつげの心を解放するものとは言えず、群馬県湯宿温泉を訪ねた時には打ち捨てられたような旅館に強烈な孤独と世捨て人の境地を味わい、その経験は仙人のような犬と旅人の心境を綴った物語『峠の犬』や雪国の孤独な旅を描いた『ほんやら洞のべんさん』に結実し、さらには(1968年6月)を経て、1968年の『ねじ式』と『ゲンセンカン主人』に結実する。

『ねじ式』は養老渓谷に近い千葉県の太海を旅行した経験が元になっているが、作風は前衛的でシュールである。つげ本人はこれを「ラーメン屋の屋根の上で見た夢」と評していたが、実際はストーリー漫画を10年以上にわたって描き続けてきたつげが、ストーリーを作ることに疑問を覚えるようになってそこから意図的にずれていこうとする緻密な計算に基づくものだった。時代は全共闘紛争のちょうど前夜。劇画ブームも手伝い、大学生や社会人も漫画を読むようになった時代であり、そうした世相を反映しアングラ芸術のタッチも取り入れた『ねじ式』は、漫画が初めて表現の領域を超越した作品として絶賛され社会現象となり、後続の作家たちにも絶大な影響を与えることになった。この作品に関しては多くの精神分析的解釈が試みられたが、つげはそのいずれをも「全然当たっていない」と一笑に付している。

[編集] 『ガロ』以降

ガロにおける最後の作品となった「やなぎ屋主人」では、劇画風のタッチを編み出し再度の変化を見せつけたが、予想外に巻き起こったつげブームにより印税収入が入ったせいもあって、だんだん寡作になっていく[2]。また『ねじ式』は、つげに芸術漫画家という烙印を押しつけ、それによって発表の場が限られるようになってしまい、だんだん描きたいものが描けないというジレンマに陥るようになった。その中で、自分が置かれた状況に対する反抗からか、『夢の散歩』(1972年)という見た夢をそのまま漫画化するような実験を試みる。

当時、徐々に進行しつつあったノイローゼの治療の意もあって、つげは見た夢をノートに綴っていく『夢日記』に夢中になり、1976年の『夜が掴む』以降、夢日記の漫画化を試みるようになる。夢のシュールで漠然とした風景を描くために、つげはパースをわざと狂わせた絵を意図的に描くようになる。『コマツ岬の生活』(1978年)、『必殺するめ固め』(1979年)などが描かれた。この当時より、女性の肉体をリアルに豊満に描く傾向が強まり、作品に独特のエロティシズムをもたらすようになる。かつてのおかっぱの少女は、若夫婦ものの妻に受け継がれるが、すでにかつてのような神秘性は失われている。これはつげ自身の述懐によれば、女性にかつてのような憧憬をもはや抱かなくなったからである。

また、漫画を描くことを苦痛に感じて他に職を求め、中古カメラを質屋で安く仕入れて修理し、マニア向けに販売したところ、思わぬ収入になった。そこで「中古カメラ屋」に転業を試みたが、次第に安い中古カメラが入手できなくなり、この「商売」は断念した。また、『無能の人』に描かれた「売石業」も、実際に試してみたが、うまくいかなかった。

これらの「駄目人間」としての体験を描いた『無能の人』(1985年)を刊行し、人気を博すが、つげ独自のユーモアに貫かれているものの、かつての緻密さや完成度は失われている。『別離』(1987年)をラストに、以降新作は一切発表されていない。なお、休筆前後の時期は子供と一緒にファミコンでよく遊んでおり、超高難易度で知られた「スーパーマリオブラザーズ2」をクリアしたことが桜玉吉らゲーム業界の人間の中で話題となる。

1990年代に入ると、つげファンである竹中直人石井輝男により、『無能の人』『ゲンセンカン主人』『ねじ式』と、代表作が続けて映画化がされ、それに併せて『ガロ』などの誌上インタビューやコメントなどを積極的に寄稿した。そして作者の若い頃や家族との旅行を綴ったエッセイ集『貧困旅行記』を発表、自身の原作を用いた映画に家族全員でゲスト出演するなど、公の場での活動も目立っていた。

2000年代に入っても作品の映画化は続いているが、つげは、年齢的なこともあるのか、ほぼ沈黙している。

なお、1999年に妻・藤原マキが死去。2003年に彼女の作品『私の絵日記』が文庫化された際に、巻末にロング・インタビュー「妻、藤原マキのこと」が収録され、つげは夫婦の間の葛藤などを赤裸々に語っている。

[編集] 主な作品

[編集] 漫画

発表順

  • 白面夜叉(1955年5月)
  • 生きていた幽霊(1956年11月)
  • 四つの犯罪(1957年6月)
  • おばけ煙突(1958年11月)
  • ある一夜(1958年12月)
  • 不思議な手紙(1959年2月)
  • クロ(1959年7月)
  • 古本と少女(1960年2月)
  • 腹話術師(1960年2月)
  • 灼熱の太陽の下に(1960年4月)
  • 女忍(1960年5月)
  • 噂の武士(1965年8月)
  • 沼(1966年2月)
  • チーコ(1966年3月)
  • 初茸がり(1966年4月)
  • 通夜(1967年3月)
  • 山椒魚(1967年5月)
  • 李さん一家(1967年6月)
  • 峠の犬(1967年8月)
  • 海辺の叙景(1967年9月)
  • 紅い花(1967年10月)
  • 西部田村事件(1967年12月)
  • オンドル小屋(1968年4月)
  • ほんやら洞のべんさん(1968年6月)
  • ねじ式(1968年6月)
  • ゲンセンカン主人(1968年7月)
  • もっきり屋の少女(1968年8月)
  • やなぎ屋主人(1970年2月-3月)
  • 夢の散歩(1972年4月)
  • リアリズムの宿(1973年11月)
  • 義男の青春(1974年11月)
  • 庶民御宿(1975年4月)
  • コマツ岬の生活(1978年6月)
  • 外のふくらみ(1979年5月)
  • 必殺するめ固め(1979年7月)
  • 日の戯れ(1980年1月)
  • 近所の景色(1981年10月)
  • ある無名作家(1984年9月)
  • 無能の人(1985年9月)
  • 別離(1987年6、9月)

[編集] 随筆

[編集] 映像化作品

[編集] ゲーム

詳細はねじ式 (ゲーム)参照のこと。

[編集] 関連書籍

  • つげ義春の温泉
  • つげ義春を旅する
  • つげ義春幻想紀行(権藤晋1998年立風書房)
  • つげ義春漫画術(上・下)
  • つげ義春1968(高野慎三2002年筑摩書房)

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 桜井昌一『ぼくは劇画の仕掛人だった』上巻p.146(東考社、1985年
  2. ^ その後も、一定の期間をおいて、書籍の再刊、文庫化、全集の刊行などが続き、それによって生活はささえられた。

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年10月15日 (木) 09:00 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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