吉田拓郎
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| 吉田拓郎 | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 出生 | 1946年4月5日(63歳) |
| 血液型 | A型 |
| 学歴 | 広島商科大学(現・広島修道大学)卒業 |
| 出身地 | |
| 職業 | シンガーソングライター |
| 担当楽器 | ギター ハーモニカ |
| 事務所 | 竹田企画 エイベックス |
| 影響 | ボブ・ディラン ビートルズ |
吉田 拓郎(よしだ たくろう、1946年4月5日 - )は、日本の男性シンガーソングライター。本名同じ。旧芸名は平仮名の「よしだたくろう」。楽曲提供者としては「入江剣[1]」の名を用いることもある。鹿児島県大口市(現・伊佐市)生まれ、広島県広島市南区西霞町育ち。鹿児島市立谷山小学校~広島市立皆実小学校~広島市立翠町中学校~広島皆実高校~広島商科大学(現・広島修道大学)卒業。夫人は四角佳子~浅田美代子~森下愛子。おひつじ座。血液型A型。身長176cm。竹田企画、インペリアルレコード所属。
日本のシンガーソングライターの草分け的存在である。マイナーな存在だったフォークとロックを一気に日本の音楽シーンのメインストリームに引き上げ、また大規模ワンマン野外コンサート、ラジオの活性化、コンサートツアー、プロデューサー、レコード会社設立など、さまざまな新しい道を開拓したパイオニアとして日本ポピュラーミュージック史における最重要人物の一人である。
2008年8月、母校でもある広島修道大学(旧広島商科大学)で在学中に作詞・作曲した「今日まで そして明日から」の歌詞と1970年代の拓郎の写真が組み合わされた歌碑が完成し披露された。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 生い立ち
鹿児島県大口市生まれ。父親は鹿児島県庁に勤務。鹿児島の郷土史を研究する仕事をしていた。1955年、9歳小学2年の時両親が別居。既に東京の大学に行っていた兄は別に、母親は姉と拓郎を連れて広島に転居。
立教大学でジャズ研に入りピアニストを目指していた兄が休みになると女性同伴で帰郷したのがきっかけで音楽に興味を持つようになった。幼少期から喘息持ちで体が弱かったため家にいる事が多く、母に本を買い与えられていたが、音楽に興味を持ったためウクレレを買ってもらい音楽を始めた。
1962年、皆実高校に入学し、級友と「トーン・ダイヤモンズ[2]」というインストゥルメンタルバンドを結成、ウクレレのパートを担当した。高校2年の時、自宅に下宿していた広大生にクラシック・ギターを教えてもらい曲作りを始める。1964年、バンドはビートルズの影響を強く受け、ビートルズのコピー専門となり、バンド名も「プレイボーイズ」に変更した。
[編集] アマチュア期
1965年、広島商科大学(現・広島修道大学)に入学しカントリー&ウエスタン部と応援団に入部した。また中学の同級生と新たに「ザ・バチュラーズ」を結成、ドラムスを担当した。同年秋に初コンサート、ビートルズのコピーのほかオリジナル曲も演奏した。メンバーと上京し渡辺プロダクションに売り込むがグループサウンズブームもまだの時代で相手にされなかった[3][4][5]。
1966年、カレッジフォークブームを受け、バンド活動と平行してソロでフォークスタイルの活動を始めた。
ソロでコロムビア主催のフォークコンテストに出場。中国大会で課題曲だった「花はどこへ行った」をブルースアレンジで演奏し、2位に終わったものの中村とうよう[6]から特別賞が与えられ決勝大会に進出した。ここで自作曲「土地に柵する馬鹿がいる」を、針金を曲げて作った手製のハーモニカホルダーと改造した12弦ギターで歌う。同曲は4分の5拍子の変拍子として有名な「テイク・ファイヴ」のリズムパターンをストロークを切りながら歌ったもので、歌詞は三里塚闘争から着想を得ている[7][8][9]。このコンテストの優勝者にはコロンビアからプロデビューできる特典がついていたが、ヴェークラント・クヮルテット[10]、フーツ・エミール(後に赤い鳥、紙ふうせんを結成する後藤悦次郎が在籍)に次ぐ3位に終わった[11]。審査委員長だった福田一郎が「あれはボブ・ディランの物真似ですよ」と評したのが順位に影響したともいわれる[12]。プロ志向の強かった拓郎は、コロムビアの大阪営業所や洋楽部を訪れデビューを懇願したが、誰一人手を挙げる者はおらず[13]さらにコロムビアの東京本社にまで呼ばれて社長の前で歌ったり、他のレコード会社にも売り込みを図るが全て不合格[14]。拓郎プロデビューまでの道は平坦ではなかった[15][16]。
「平凡パンチ」には「和製ボブ・ディラン」と紹介され広島では有名人となったものの[17]、広島の音楽仲間からは「土地に柵する馬鹿がいる」について「フォークでない」と批判が出た。アメリカで発生したフォークムーブメントは、埋もれた民謡を発掘する運動で、商業的な音楽の犠牲になっている歌を日本でも掘り起こしていくべきという意見や、当時、広島が原水爆禁止運動のメッカだったこともあって、うたごえ運動をやっている人たちから、広島を歌っていないという批判を受けた。この頃のフォークソングはうたごえ運動と重なっている部分があった。こうした居心地悪さと、ボブ・ディランが若い時、家出を繰り返したこと等に触発されてこの年の秋、家出しフォークの研究も兼ねて単身上京した[18][19][20]。友人に「東京近辺で民謡が聞ける所は千葉」と聞き、汽車に乗り検見川駅で下車。付近に旅館が無かったため広徳院で半年居候したが収穫はないまま帰郷。この影響で大学は1年休学し、5年間通うこととなる。
1967年、4人グループの「ダウンタウンズ」を結成、ギターとボーカルを担当した。バンド名はペトラ・クラークの同名楽曲(邦題:恋のダウンタウン)からとった。広島市内のカワイ楽器を練習拠点にし定期的にここでコンサートを開く。同年、広島見真講堂で開かれた第1回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト(LMC、実質のポプコンの前身[21])中国地区大会に出場しロック部門で優勝。この反響は大きく市内のディスコやビアガーデン、海の家などからの出演依頼が殺到。米軍岩国基地からも依頼を受け出演した[22][23][24]。ここではエレキギターによるロックや、黒人兵隊のために当時まだ日本で馴染みの薄かったリズム&ブルース(R&B)を最も多く演奏した[25][26][27]。後年の中津川フォークジャンボリーでのゲリラ演奏には、このときの経験が影響している[28]。しかしこの岩国基地での演奏がこの年9月にあったヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストの全国大会出場を拒んだ。ダウンタウンズがベトナム戦争の侵略基地である岩国を慰問し演奏した、参加資格のないプロのバンドでないかとの抗議が寄せられ、カワイ楽器のバンドである点なども含め、ヤマハの関係者から全国大会への出場を辞退してもらえないかと申し入れられ、これを受け入れた[29]。
1968年、前年に引き続き第2回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストに出場し中国地区優勝。この年は全国大会に出場しヴォーカル・グループサウンズ部門で全国4位となった[30][31]。この時演奏した1曲『好きになったよ女の娘』は後の『たどり着いたらいつも雨降り』の原曲である。優勝は後に拓郎のファースト・アルバム『青春の詩』のレコーディングに参加するマックス[32]。この頃から全国的にも知名度を上げていった。
この年の春、拓郎の発案で広島の3つのフォーク団体がアマチュアフォークサークル「広島フォーク村」を結成[33][34][35]。年寄(顧問格)として参加し実質のリーダーであった。拓郎人気は凄まじくレコードも出してないのに地元ラジオにリクエストが殺到したため、NHK広島に出演したり中国放送でDJを担当したりした。この年、全国で最後まで激しい学園闘争を続けた広島大学のバリケードで囲まれたステージで「イメージの詩」を歌う。演奏終了後、白いヘルメット姿の学生たちに取り囲まれ激しいアジを浴びせられた[36][37]。
1969年、カワイ楽器広島店に就職が決まっていたが、上智大学全共闘のメンバー[38]が自主制作(ユーゲントレーベル)で「広島フォーク村」名義のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を制作する事になり参加した[39]。音楽界の常識を無視した長いタイトルは、アングラ・レコードであったことの象徴であるが、これは全共闘の闘争資金を得るため企画されたものだった[40]。
1970年2月頃レコーディング後、3月頃ユーゲントレーベルから『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』が発売される。自主制作のため「広島フォーク村」メンバーによる手売りで販売された。このレコード制作に関係していたエレックレコードが、拓郎の「イメージの詩 / マークII」を本人に無許可でシングルカットし、関東と広島など一部地域でリリース[41][42]。その内容に本人が抗議して録り直すことになったが、そこでエレックレコードの浅沼勇に口説かれ社員契約することになり、「ダウンタウンズ」を解散し上京した[43]。
[編集] よしだたくろう期(1960年代~1975年)
[編集] エレック所属期
1970年3月、再び「平凡パンチ」3月30日号に「120曲のニューフォークを創った"日本のボブ・ディラン"」という記事名で4ページに渡り特集記事が掲載される[44]。4月11日、インディーズレーベルのはしりとも言うべき、エレックレコードがアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を発売。エレック盤にはユーゲント盤についていた写真集はついていない。
エレックはもともと英会話レコードなどの通信販売をする会社で、当時の人気DJ・土居まさるのレコードを出すために音楽部門をつくったような会社だった[45]。社員は6人ほどで、拓郎との契約はアーティストとしてではなく月給制の社員契約、初任給は3万5千円だった[46][45][47][48][49]。通信教育による作詞・作曲講座も手掛けていた当時のエレックの広告には「君も作詞作曲を覚えれば、プロになれる」というようなものがあって、拓郎はその広告塔のような役割があった[50]。
3月に録り直した本人承認の再録バージョン「イメージの詩 / マークII」が5月20日発売。これが実質のソロデビューシングルとなった[51]。弱小会社だったエレックはまともな仕事は取ってこれず[52]、愛川欽也が司会をしていた子供番組のオーディションに参加し「イメージの詩」を歌って審査員の子供に落とされたり、NHKのオーディションで藤山一郎に落とされたりした[53]。当時の音楽状況はメッセージフォークやカレッジフォークも下火となった時期で、テレビ・ラジオ局、雑誌関係者から「今さらフォーク?」と揶揄された。残された唯一の手段は"ステージ"に全精力を注ぎ込むことだった[54]。
6月、広島フォーク村アルバム発売記念コンサートが新宿厚生年金会館で開かれた。お客はほとんどいなかったが[55]当時イベントの企画などを手がけていた後藤由多加はこれを見て、その後請負コンサートなどに拓郎を起用した[56][57]。後藤はこれを機に拓郎の重要なパートナーとなる[58]。またこのコンサートの紹介記事を書いた朝日ソノラマが"ニュー・フォークの旗手"として拓郎を紹介し、7月号から9月号に拓郎の歌をソノシートにして付録に付けた[59][60]。レコード制作はエレック。このことを拓郎は後年「僕はソノシートでデビューしたんだ」と語っている。ソロデビューの仕方は曖昧だったが、もちろんソノシートでデビューしたわけでは無い。
11月、「青春の詩」「今日までそして明日から」「雪」や中沢厚子とのデュエット曲「男の子☆女の娘(灰色の世界I)」等を含むファーストアルバム『青春の詩』発売。
1971年4月、シングル「青春の詩 / とっぽい男のバラード」発売。5ヶ月間、広島時代のバンド仲間と3人組のミニバンド[61]でコンサートを行う。ライト・ミュージック・コンテストの審査員を担当した時小室等と出会う。オーディションの審査員の仕事は、テレビ等に売り込みが出来ないための苦肉の策である。
6月、アルバム『よしだたくろう・オンステージ ともだち』発売。このアルバムは拓郎のコンサートでの軽妙なしゃべり(MC)をエレックがアピールすべくライブ盤として出したといわれる[62]。この中には自作曲のほかに拓郎自身が歌いたいと希望した斉藤哲夫の「されど私の人生」も取り上げている[63][64]。このアルバムは予想以上の売上げを見せ手ごたえをつかんだ。
7月、「今日までそして明日から / ともだち」発売。宣伝活動はままならなかったが、ステージで人気が出始めた[65][66]。
夏、第3回全日本フォークジャンボリーに出演。このコンサートに於ける拓郎のパフォーマンスは神話化している[67]。当初、拓郎の出演予定は無かったが後から出演が決まった。メインステージとサブステージの分け方や、出演順を巡ってトラブルが繰り返され、拓郎も1日目は3曲しか歌わせてもらえなかった。このコンサートの模様は二つのレコード会社によってレコーディングされ会場内にテレビが持ち込まれていた。2日目の夕方、数百人にも満たないサブステージで演奏をはじめた拓郎がこうした商業主義の乱入に対しさかんにアジり[68][69]、2時間に亘り「人間なんて」を熱唱を続けるうち熱狂した観客が増え、小室等の「メインステージに行こう!」の言葉が引き金となり観客がメインステージになだれ込んだ。舞台を目がけて花火が打ち込まれ会場は騒然、主催者との討論会となり、そのままコンサートも自然流会してしまった。観客の暴動を恐れた岡林信康が逃げ帰ってしまったため、主役交代を印象付ける事となった[70]。
10月、TBSラジオの深夜放送・パックインミュージックのパーソナリティを務めた(~1972年9月)。フォークシンガーをパーソナリティに起用した先駆の番組で、前任はフォーク・クルセダーズの北山修、後任が南こうせつ[71][72]。毎週解説を加えて自分の曲をかけたり、フォーク仲間を呼んでバカ話をしたり、「今日はやる気がない」など、言いたい放題の自由奔放な放送が大人気を呼んだ[73][74][75][76][77][78]。
同年、ニッポン放送「バイタリス・フォークビレッジ」のパーソナリティも担当(拓郎が担当した期間は不明だが、この番組自体は1966年から1972年まで)。前任者は佐良直美、後任はかまやつひろし。拓郎が担当すると、それまでカレッジフォーク中心の曲構成ががらりと変わった。番組テーマ曲も拓郎に変更。内容はリスナーの詞に曲を付け歌う企画やアマチュアのコンテスト等があった。これに応募してきた人たちに中塚正人や、拓郎自身が "女岡林" と評した中島みゆきらがいる[79]。
ラジオ関東「ニュー・ミュージック・ムーブメント」パーソナリティ(開始月、終了年月不明)。
10月、後藤由多加と拓郎が中心となってユイ音楽工房を設立[80]。社名は小室等の愛娘・こむろゆいにちなむ。
11月、「人間なんて」の弾き語りヴァージョンを含むアルバム『人間なんて』を発表。エレックからの最後のリリースとなるこのアルバムは、プロデューサーを拓郎自身が務め、ディレクターに加藤和彦、木田高介、またアレンジャーや参加ミュージシャンに小室等、遠藤賢司、松任谷正隆、林立夫(後にティン・パン・アレーに参加)、小原礼(後にサディスティック・ミカ・バンドに加入)など、この後日本のロック&ポップスの礎を築くことになるミュージシャンを起用した。収録曲の「花嫁になる君に」は後に黄金コンビと呼ばれることになる作詞家・岡本おさみとの第1作である。
[編集] CBS(オデッセイレーベル)所属期
1972年1月、当時はまだ新興だったCBSソニーに完全移籍。新興とはいえ超大手会社への移籍にフォーク仲間からの評判は悪かった[81]。しかしこれは大手レコード会社もいよいよフォークが売れるという認識を持った表れともいえた[82][83]。移籍と同時に発売したシングル「結婚しようよ / ある雨の日の情景」は前シングルの「今日までそして明日から」に続きCBSソニーからのリリースだった。
「結婚しようよ」はオリコンチャート3位を記録し、40万枚以上を売る大ヒットとなった。この曲はそれまでのプロテストの意味あいが強かったフォークのイメージを一変させた[84][85][86]。「僕の髪が肩までのびたら結婚しよう」という男性の側からのプロポーズや、「お花畑を散歩に来る」のようなカラフルな言葉づかいの歌詞は当時としては斬新な内容で、手動式オルガン他を使ったアレンジ等、それまでのただギターをかき鳴らして自己主張を歌に託すフォークとは大きく異なっていた[87][88][89][90]。学園闘争の敗北や、アメリカのヒッピー文化、フラワームーブメントが、日本に飛び火した時代を反映したものであることも、インパクトを与える一因であったと言われる[87][91]。拓郎はこの大ヒットで人気を得て“フォークのプリンス”などと騒がれ、若い女性らが会場を占拠した。その人気ぶりはGSブームの再来のようだったと言われた[92][93]。反体制のシンボルだったフォークが“若者のポップ・ミュージック”として一般的になるのは「結婚しようよ」の大ヒットからである[94][95]。当時の音楽誌、週刊誌は拓郎らを称して"ニュー・フォーク"と呼んだ[96]。
6月、「結婚しようよ」の歌の通り四角佳子と結婚。 "ジューンブライド"という言葉がブームになったのは、この結婚がきっかけ[97]。また拓郎のように教会で白いスーツに身をつつんで結婚式を挙げるのがトレンドになった[98]。
4月、南こうせつに頼まれ、かぐや姫のデビューアルバム『はじめまして』をプロデュース。
6月、シングル「旅の宿 / おやじの唄」発売。60万枚を売りオリコン1位を記録。7月、シングルとは別ヴァージョンの「旅の宿」[99]。を含むアルバム『元気です。』をリリース。それまでフォークを取り上げなかった一般紙までも「フォークの吉田の初アルバム」と書きたてた[100]。アルバムが売れない時代に[101]、これも僅か1ヶ月間で40万枚を売り上げるというシングル並みのセールスを記録[102]、オリコンアルバムチャートで14週連続(通算15週)1位を独走しアルバム・セールス時代の先鞭をつけた[103]。『元気です。』前後の1位だったのは天地真理。なお、拓郎はこの「旅の宿」の大ヒット中に有名な「テレビ出演拒否」を行った[104](詳細はテレビ出演拒否を参照)。
7月、ロックバンド・モップスに「たどりついたらいつも雨降り」を提供[105]。
CBSソニーとプロデューサー契約を結び、ワンマンレーベル「オデッセイ」を立ち上げた。大レーベル内の個人レーベルという、これまた画期的な事だった[106]。
7月~10月に放送された、ファンだった若尾文子主演の連続ドラマ『おはよう』(TBS)に出演[107]。
8月、この拓郎が主催する「オデッセイ」から、フォークグループ・猫をプロデュース[108]。提供したデビュー曲「雪」は、当時としては珍しいボサノバ・ラテン調の洋楽ポップス的サウンドだった[109]。
10月、シングル「おきざりにした悲しみは / 花酔曲」発売。
12月、古巣エレックレコードは2枚組ライブアルバム『たくろうオンステージ第二集』をリリースするが本人に無許可だったため発売中止になった。このアルバムは現在に至るまでCD化されていない。
この年斎藤耕一監督の松竹映画『旅の重さ』の音楽を担当。「今日までそして明日から」が効果的に使われた[110][111]。
その他小室等のレコーディングライブに高田渡と共にゲスト出演した。
12月、NHKの歌謡番組『歌謡グランドショー』に出演[112][113][114]。
シングル曲、アルバムの大ヒットにマスメディアに大きな話題の提供、と大活躍の1年だったが歌謡大賞、レコード大賞、紅白歌合戦の3大行事は、まともに扱ってもらえなかった。唯一レコード大賞の歌唱賞の対象で残ったが最終的に落選。大衆賞に回され最終投票で橋幸夫24票、井上順21票、天地真理17票に次ぎ16票で最下位となった。レコード大賞はちあきなおみ「喝采」、最優秀歌唱賞は和田アキ子「あの鐘を鳴らすのはあなた」だった[115]。
1973年1月、前年バックバンドを務めた柳田ヒロのグループを発展させ"新六文銭"を結成。メンバーは小室等(ギター)、柳田ヒロ(キーボード)、後藤次利(ベース)、チト河内(ドラムス)、拓郎(リードギター)という顔ぶれだった。
この新六文銭のツアー中に拓郎が逮捕されるという事件が起こった。ファンの女子大生が1ヶ月前の金沢公演の夜に拓郎に暴行されたと訴えたというものだった。結局容疑は女子大生の狂言であることがわかり、不起訴となり釈放されたが、この時期マスコミの拓郎に対する敵意がバッシングという形で現れ、ツアーのキャンセル、曲の放送禁止、他人への提供曲も放送禁止、CM(スバル・レックス(富士重工)、テクニクス(松下電器))の自粛といった処置がとられた[116]。新六文銭はまともに音源を残さぬまま消滅した[117]。無罪で無く不起訴だったためか各種媒体からの謝罪はほとんど無かった[118][119]。しかし独房に勾留中発売したアルバム『伽草子』は前作に続きチャート1位を記録。事件によって拓郎のカリスマ性が一気に高まったのも事実であった[120]。釈放の翌日6月3日、早くも神田共立講堂のステージに立つ[121]。この日を境に“帰れコール”は消えた[122][123][124]。
この年3月に由紀さおりに書いた「ルーム・ライト<室内灯>」は、ニューミュージック系ミュージシャンによる歌謡曲歌手への楽曲提供の端緒といわれるが、前記の金沢事件の騒動で放送自粛の処置がとられたため大きなヒットにはならなかった[125]。由紀の楽曲を手がけることになったのは、由紀が東芝EMIのフォーク&ロックのレーベル(エクスプレス)にいたため[126]。
ラジオレギュラー『拓郎の気ままな世界』(TBSラジオ、放送開始、終了年月日不明)
8月に立風書房から出した初めての自著・エッセイ集「気ままな絵日記」はベストセラーとなった[127]。
本格的なブラス・ストリングスを加えて同年に行われたライブを『LIVE'73』としてリリース。
現在まで脈々と続く "日本のビートルズ(そっくりさん)・バンド" の草分け、ザ・バッド・ボーイズにデビューシングル曲「ビートルズが教えてくれた」他1曲を提供[128][25]。メンバーの一人・清水仁が後にオフコースに参加。
この年の後半、後藤は拓郎とザ・バンドを共演させようと渡米し説得に尽力し、口頭では契約にこぎつけ公演会場も決まっていたが、ボブ・ディランの復活コンサートのため流れた[129]。
金沢事件以来、楽曲の提供依頼は途絶えていたが、森進一からの依頼で、この年の暮れ、作詞・岡本おさみ、作曲・吉田拓郎、歌・森進一で「襟裳岬」を発売した。森も母親の自殺や、見知らぬ女性から関係があったと名乗りを上げられ、子供まで引き出されて訴えられ裁判になる(無罪判決)など苦難の時期であった[130][131]。
CMソング、富士フイルム「HAVE A NICE DAY–2」(作詞・作曲拓郎、唄、沢田研二、ソノシート、非売品)
1974年3月、ユイ音楽工房が新宿二丁目から原宿表参道交差点に移転。
5月、広島フォーク村の後輩、浜田省吾らがいた「愛奴」をバックバンドに従え春と秋に全国縦断ツアーを敢行。
オールナイトニッポンパーソナリティ(1974年9月~1975年12月 1980年10月~1982年3月 ※詳細は吉田拓郎のオールナイトニッポン参照)。
12月「シンシア」などを収録したアルバム『今はまだ人生を語らず』を発売。『元気です。』『伽草子』に続き3作連続アルバムチャート1位を獲得。収録曲「ペニーレインでバーボン」の歌詞に「つんぼ桟敷」という言葉があることが問題とされ(表現の自主規制)、現在ではこのアルバムのCDは販売されていない[132][133]。
その他、この年松山省二、浅田美代子、小柳ルミ子らに楽曲を提供。12月31日に、「襟裳岬」が第16回日本レコード大賞受賞。歌謡界きっての大セレモニーに拓郎が参加するのか注目されたが、拓郎は上下ともジーンズの普段着で登場。会場は少なからず動揺した。何ごともなく壇上に上がり平然と賞を受け取った[134][70]。当時最も権威ある音楽賞を拓郎が受賞したことは、それまでの職業作詞家・作曲家の楽曲プロデュースの時代から、現役ミュージシャンによる楽曲プロデュースという、新たな時代の到来を予感させるものだった[135]。
[編集] フォーライフ設立・吉田拓郎に改名
1975年、CBSソニーの拓郎が、ポリドールの井上陽水、エレックの泉谷しげる、ベルウッドの小室等と共にフォーライフ・レコードを発起した。 ニューミュージックという言葉はこれを機に一気に広まっていった[136]。
4月、フジテレビジョン|フジテレビの幼児向けバラエティ『ひらけ!ポンキッキ』から市販された第1弾シングル・「たべちゃうぞ」の作曲を担当。
5月、高額納税者番付(高額所得者番付、長者番付)で、それまで美空ひばりや三波春夫、北島三郎など、演歌歌手が独占していた歌手部門で、井上陽水とともにフォークシンガーとして初めてランク入り(拓郎5位、陽水7位)。フォーク、またシンガーソングライターが儲かることを世間一般にも知らしめ、後進の励み、目標にもなった。この年以降、南こうせつや松任谷由実、矢沢永吉ら、ニューミュージック系のシンガーソングライターが番付の上位を占めるようになった[137][138][139]。
8月2日、3日、静岡県掛川市のつま恋多目的広場で「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」を敢行[140]。
9月、フォーライフ・レコードからの初のシングル「となりの町のお嬢さん」発売。この年には他人への提供曲に多くのヒット曲を残した。かまやつひろしのアルバム『我が良き友よ』のタイトル曲はオリコン1位、70万枚の大ヒット。他に「歌ってよ夕陽の歌を」(森山良子)、「いつか街で会ったなら」(中村雅俊)、「あゝ青春」(トランザム)、「風の街」(山田パンダ)など。「歌ってよ夕陽の歌を」は森山良子の新境地を切り開き、再び"フォークの女王"に戻した曲[141]。「あゝ青春」は中村雅俊・松田優作主演の刑事ドラマ『俺たちの勲章』の主題歌、「いつか街で会ったなら」は挿入歌。「あゝ青春」は、拓郎の歌唱でこの年のつま恋コンサートのオープニングで歌われた。「風の街」はTBSのドラマ『あこがれ共同隊』の主題歌。
フジカラーのCMソング『私は小鳥』(山口百恵歌、ソノシート、非売品)を手掛ける[107]。
12月、オールナイトニッポン最終回で四角佳子との離婚を発表。一方的な形の離婚宣言だったため、女性誌などからは横暴な男として激しくたたかれた[142]。
1976年3月、シングル「明日に向って走れ / ひとり思えば」発売。 同月、久世光彦が初めて音楽番組の演出を手がけた『サンデースペシャル/セブンスターショウ』(TBS系)に出演。沢田研二、五木ひろし、西城秀樹、荒井由実ら、7人のトップスターのワンマンライブをオンエアするというドキュメント番組のトリを務めた[143][144]。
4月、新人オーディションでグランプリを獲得した川村ゆうこをプロデュース。拓郎作品「風になりたい」でデビュー。
5月、アルバム『明日に向って走れ』発売。オリコン3週連続1位。
11月、拓郎の発案で小室ら4人のオムニバスアルバム『クリスマス』発売。初回プレス30万枚、オリコンで1週のみ1位となったものの、累計が10万枚にも満たず、フォーライフの屋台骨を揺さぶる事となった。
12月、シングル「たえこMY LOVE」発売。
1977年3月、フォーライフは2年目の決算で8億円の赤字を出す。オムニバスアルバム発案者の拓郎はその埋め合わせのため4月25日、カバーアルバム『ぷらいべえと』(ボブ・ディランの『セルフ・ポートレート』と同じコンセプトに基づく)を発売[145][146]。他人へ提供した曲と自身の愛唱歌をスケジュールに余裕のあるミュージシャンを集め短時間で制作したためスタッフ関係のクレジットがアルバムに全く記載されていない。レコードジャケットも拓郎が週刊誌でキャンディーズのランちゃんを見てクレヨンで書いたもの。皮肉なことに、この年フォーライフのアルバムで最大のセールスを記録した[147]。パート2を作ってくれという営業サイドからの注文には頑強に断った[148][149]。
6月、小室に代わり、社長に就任。
7月、当時21歳の現役アイドルだった浅田美代子と再婚。
この年夏、解散を発表したキャンディーズに「やさしい悪魔」(オリコン4位)と「アン・ドゥ・トロワ」(オリコン7位)他を提供。渡辺晋からの依頼といわれる“キャンディーズ大人計画”に応えた。 また前年のフォーライフ第1回新人オーディションに応募してきた原田真二のプロデュースを手がけた。
9月、井上陽水が大麻所持(大麻取締法違反容疑)で逮捕。社長としての初仕事に記者会見で平謝りし、嘆願書を集めて東京地検に日参するなど陽水の救済に尽力した[150][151]。
1978年3月、阿久悠からの依頼で石野真子のデビュー曲「狼なんか怖くない」「わたしの首領<ドン>」他を作曲[152]。石野は「狼なんか怖くない」で同年の日本歌謡大賞新人賞等を受賞した。この年は他にアグネス・チャン、清水健太郎らに楽曲を提供。
4月、セイ!ヤングパーソナリティ(~1980年3月)。ラジオの深夜放送を全局制覇した唯一のパーソナリティ[153]。
この年5月から翌年にかけて放送されたTBSのドラマ『ムー一族』で、郷ひろみが演じた役名・宇崎拓郎は、拓郎からとったもの[154]。
10月、東京キッドブラザースのミュージカル『かれが殺した驢馬』の作曲を担当。全共闘の闘士・秋田明大や反体制のロック・フォークシンガーと交流を持った東京キッドブラザースの主宰・東由多加が拓郎に仕事を依頼したもので『かれが殺した驢馬』は、深夜の精神病院を舞台にしたパントマイム劇という異色作。柴田恭兵が初めて主役を演じた作品[155][156]。アルバム『かれが殺した驢馬』からテレサ野田の「ソファーのくぼみ」がシングルカットされた。
11月アルバム『大いなる人』発売。収録曲「カンパリソーダとフライド・ポテト」の影響でカンパリソーダが認知された。
1979年、2月、『たくろうオンステージ第二集』収録の「ポーの歌」が浜口庫之助の曲の盗作と報じられる。(拓郎自身は初めからオリジナル曲とは言っていなかったが『たくろうオンステージ第二集』を無許可でリリースしたエレックが吉田拓郎作詞・作曲とクレジットしてしまったというのが真相)[157][158]。
7月26日から27日にかけて愛知県篠島を借り切ってオールナイトコンサート。
秋から全国ツアー。12月には小室等、西岡たかしとともに「10年目のギター」ツアーを実施。急遽12月31日大晦日、日本青年館でのライブが決まり、フジテレビで生放送もされた。このライブで「古い歌は一切歌わない」と宣言した[159]。アンコールが叫ばれたが、拓郎は70年代最後の夜のステージには二度と姿を現さなかった[160]。
[編集] 1980年代
1980年、過去との決別を宣言し、自身初めての海外録音作品である『Shangri-La(シャングリ・ラ)』を発表した。アルバムタイトルは、ザ・バンドのドキュメンタリー映画『ラスト・ワルツ』(マーティン・スコセッシ監督)の舞台となったロサンゼルス郊外マリブ、“シャングリ・ラ”スタジオでの録音による。日本からミュージシャンは誰一人同行させず、単身渡米。プロデューサーに、少年期のあこがれの人物であるブッカー・T・ジョーンズを起用し、スタッフ全員を外国人で固めボーカリストに徹した。
8月10日、NHK-FMで『拓郎105分』という特番が放送された。
11月、代表曲の一つ「アジアの片隅で」を含む同名タイトルアルバム発表。
オールナイトニッポンパーソナリティ(1980年10月~1982年3月 二回目)。
1981年4月、資生堂のタイアップ曲「サマーピープル」を発売。
オールナイトニッポンの番組企画で拓郎のメドレー曲を覆面バンド・ビートボーイズ(正体はアルフィー)が製作。これが思わぬ反響を呼び「スターズオン23 吉田拓郎」(後に「ショック!!TAKURO 23」に改題)としてレコード発売。当時はまだ売れていなかったアルフィー最大のヒット曲となった。
1982年、武田鉄矢が原作・脚本・主演した映画『刑事物語』の主題歌を依頼され、全編広島弁の「唇をかみしめて」を発売し話題を呼んだ。ツアー最中の株主総会で、フォーライフ・レコード社長を退任。後任には後藤由多加が就いた。この年は精力的にツアーをこなし同年7月、日本武道館で行われたコンサートを収録した『王様達のハイキング・イン・武道館』を発売。
1985年、近藤真彦主演の連続ドラマ「ニッポン親不孝物語」(日本テレビ系、4月~7月)の主題歌に「ふざけんなよ」が使われる[161]。
6月15日、国立競技場で5万人の観客を集めて開催された国際青年年(IYY)記念イベント"ALL TOGETHER NOW"の企画参加と司会を担当。はっぴいえんどとサディスティック・ミカ・バンド(ヴォーカルは松任谷由実)の再結成の他、オフコース、佐野元春、サザンオールスターズ、さだまさし、南こうせつ、チェッカーズ、アルフィー、山下久美子、坂本龍一、武田鉄矢、財津和夫、イルカ、白井貴子、アン・ルイス、ラッツ&スターらが出演。再現は不可能な顔ぶれが揃ったが、拓郎から始まり、はっぴいえんど、松任谷由実を経由してトリが佐野元春、飛び入りゲストがサザンオールスターズという演奏順で世代交代を象徴する流れだったため、後に細野晴臣が「ニューミュージックの葬式」などと揶揄した[162][163][164][165][166]。しかしながら、このイベントは大規模ロック・フェスティバルの草分けとされる[167]。
7月27〜28日、10年ぶり二度目のつま恋オールナイトコンサート"ONE LAST NIGHT IN つま恋"。自ら「生涯最良の日」とし、今まで親交のあったミュージシャンが多数出演し”朝過ぎてもやるぞ!”を敢行。世間では「引退コンサート」と位置付けられたが、拓郎本人は一度も「引退」を表明していなかった[168]。 同年、映画『幕末青春グラフィティRonin坂本竜馬』に高杉晋作役で出演(映画公開は翌1986年正月)。
1988年、前年のアサヒビール・アサヒスーパードライ発売、大ヒットに始まる辛口ビールの販売合戦ドライ戦争で3月(1月、2月の記述あり)、サッポロビールの対抗商品・サッポロドライCMに起用され自身も出演、イメージソング「すなおになれば」も手がけた。TV-CMの全面出演はほとんど初めてのこと[169]。
4月、ライブ引退を撤回し「SATETOツアー」を敢行。
「とらばーゆ」のCMソングに女性シンガー、MICAが歌う「人間なんて」が使われ話題を呼ぶ。
[編集] 1990年代
1990年10月からアニメ版『三丁目の夕日』(毎日放送製作・TBS系列)の主題歌を「入江剣」名義で手掛けた。しかし裏番組が『ドラえもん』(テレビ朝日系列)だったため翌、1991年3月までの半年間で打ち切られた。
1993年4月から1年間に渡り「地球ZIG ZAG」(毎日放送製作・TBS系列)の司会を務め、番組のエンディングテーマも歌った。これがきっかけとなりタレントとしても開花する。この1年間、ライブツアーは一切行わなかった。
1994年に紅白歌合戦に初出場(曲目は「外は白い雪の夜」)。バックバンドに宮川泰(キーボード)、日野皓正(トランペット)、日野元彦(ドラム)、大西順子(ピアノ)、石川鷹彦(アコースティックギター)、渡辺香津美(エレキギター)、金沢英明(ウッドベース)、吉田建(ベース)を従え、さらにバックコーラスとして五木ひろし、森進一、前川清という顔ぶれのステージとなった。
1996年10月からフジテレビジョン|フジテレビ系列の番組「LOVE LOVEあいしてる」にレギュラー出演、KinKi Kidsと共に司会を担当した。テレビ嫌いで有名だった拓郎がテレビのレギュラー番組に出演することが注目を集めた。これは拓郎の大ファンだったフジテレビのきくち伸プロデューサーの、拓郎の「HEY!HEY!HEY!」への長年に亘る出演交渉が形を変えて実ったもの[170][171]。番組の始まった当初は拓郎に相談してゲストを決めていたという[172]。この番組では坂崎幸之助と共にKinKi Kidsにギターを指導。番組は4年半続いた。この番組で共演した武部聡志、吉田建らによるバンド、LOVE LOVE ALL STARS(メンバーは流動的)とともに自らのツアーも行った。
[編集] 2000年代以降
2000年10月、高見沢俊彦と深夜のトーク番組『T×2 Show』(テレビ朝日系)の司会を担当(~2002年9月)。
2003年の春、30年来の夢であったビッグバンド形式でのコンサートツアーを目前にして、健康診断で肺がんが見つかった。すぐに手術、コンサートツアーは延期となった。手術は無事成功し、秋には復帰コンサートで全国に元気な姿を見せた。これを機に禁煙。ビッグバンドでのコンサートツアーはこの年から2006年まで毎年行われた。
2006年9月23日。31年ぶりにつま恋でかぐや姫とのコンサート「つま恋2006」を開催。コンサートは午後1時過ぎから、拓郎とかぐや姫が一緒に歌う「旧友再会・フォーエバーヤング」に始まり5部構成で午後9時30分過ぎまで続くという大イベントであった。構成は1、3、5部が拓郎のステージで、3部ではかまやつひろし、5部では中島みゆきが共演した。主催者発表の入場者数は3万5千人だった。
このコンサートはNHKが生中継を行い、NHKBSハイビジョンにて放送されたが、途中2時間の大相撲中継が入ったために拓郎の第2部(全体の第3部)は放送されなかった。なお、2006年10月23日にはNHK総合テレビの「プレミアム10」でコンサートの舞台裏のドキュメンタリーを、2006年10月29日にはNHK-BS2にてコンサートの総集編が放送された。これらの放送からNHK紅白歌合戦に2度目の出場濃厚との報道も流れたが、拓郎は辞退のコメントを出した。
2007年8月21日、越谷公演を皮切りにツアー『Life is a Voyage TOUR2007“Country”』を開始。だが、ツアー2カ所目となる多摩公演が行われる予定だった8月24日、扁桃炎による延期が当日発表された。その後、喘息性気管支炎の診断を受け、当面の公演を延期。9月30日の熊本公演からツアー再開していたが、10月22日に慢性気管支炎と胸膜炎により、10月17日瀬戸公演を最後に以後の公演中止を発表した。
2008年2月24日、「俺たちのオールナイトニッポン40時間スペシャル」にパーソナリティの一人として出演し、4ヶ月ぶりに仕事復帰。「オールナイトニッポン」のパーソナリティを務めるのは1997年の「オールナイトニッポンDX」以来、10年ぶりとなる。
2009年4月、約6年ぶりに発売したオリジナルアルバム「午前中に…」が、オリコンアルバムランキングで初登場6位を記録。63歳1ヶ月での初登場トップ10入りは、小田和正が持つ60歳4カ月を上回る史上最年長記録。拓郎自身のアルバムトップ10入りもベスト盤では約9年ぶり。オリジナルアルバムでは約21年ぶりとなった。
6月21日、生涯ラストの全国ツアーと称して『Have A Nice Day LIVE 2009』(10ヶ所10公演)をスタートさせた。4公演は滞りなく行われたものの、7月8日の大阪公演の約45分前に体調不良を訴え公演中止が決定した[173]。診察の結果、慢性気管支炎の悪化で約2週間の自宅療養が必要との診断を受け、福岡、広島、神戸の3公演は中止となった。7月22日にいったん、残り2公演(つま恋と東京)について開催に向けて準備している旨を発表する[174] が、その翌日つま恋へ移動する車中で体調の異変を訴え、その日の内に残り2公演の中止が決定[175]、「最終となるツアーがこのような結末となり本当に無念であります」という一文で始まるコメントを発表した。
[編集] シンガーソングライターとして
[編集] 音楽性
自身の生き方や恋愛体験などをテーマにした拓郎の歌は、従来のフォークファンからは“商業主義”“裏切り者”“堕落した”などと批判され、ジョイントコンサートなどの会場では激しい“帰れコール”[176][177]を浴びることも多かった[178][179][180][181][182]。1972年4月22日に日本武道館で行われた「フォーク・オールスター夢の競演音搦大歌合戦[183]」なるイベントでは、岐阜の山から降りて久しぶりにステージに立った岡林信康の後に登場した拓郎に激しい“帰れコール”が浴びせられ歌が聞こえないほどであった[184]。またビール瓶などモノを投げつけられ本当に帰る事もあったという(慶應三田祭事件(後述))[185]。しかし全ての若者がプロテストの臭いがするフォークを支持しているわけではなく、すでにそういった言葉だけのプロテストソングには飽き飽きしていたこともあって、多くの“普通の“同世代の若者から熱狂的な支持を受けた[186][187][188]。
ダンガリーのシャツにジーパン、ギブソンのギター、ハーモニカ・ホルダーを首にかけ、歌詞カードを譜面台に乗せ座って歌う[189]、うつむいてボソボソと喋り、時々客席をむいて何かを叫ぶという拓郎のスタイルを多くの若者がまねた。拓郎が出てきてギターの売れ行きが爆発的に伸び、ダンガリーのシャツ、ジーパンもよく売れた[190][191][47][192][193]。拓郎以前は外国人ミュージシャンのコピーをする人が多かったが、拓郎が出てきてからは拓郎をコピーする若者が増えた[194][195][196][197][198]。田家秀樹は、それまでの関西フォークなどと違い、拓郎の曲は明るく、言葉にスピード感があって、それに誰でも歌えるという親しみやすさがあったと話している[199]。泉麻人は「自分の身のまわりの、ほんのちょっとしたことを唄にしてもいいんだ、と、拓郎の出現によって、レコードを聴くばかりでなく、オリジナルの曲を作って唄ってみたい、と思った人は僕らの世代に多いはず。そういう身近さが吉田拓郎の何よりの魅力だった」と述べている[200]。桑田佳祐は著書の中で拓郎を聴いて「これなら曲が作れる」と思ったと述べている[201]。桑田や長渕剛、氷室京介ら、後進に音楽の道を志すきっかけを与えたのも大きな功績。
現在も残る"シンガー・ソングライター[202]"という言葉は、拓郎の登場から言われ始めた言い方で、それまでは"弾き語り"という言い方をしていた[117]。その"シンガー・ソングライター(当時の雑誌表記は、"シンガー=ソングライター"という記載もあった[203])という言葉が日本の音楽界に大きくクローズアップされた1972年[204]内田裕也が「シンガー=ソングライターっていわれてる連中がやってることを見てると、昔、ロカビリーがだんだん歌謡曲になった、井上ひろしの『雨に咲く花』とかと同じような道を歩んでいる。だから、あんなの長続きしない」等と発言。これを受けニューミュージック・マガジン誌が1972年6月号で、中村とうよう司会、内田と拓郎とはっぴいえんどのマネージャー・石浦信三の3人による論戦を企画。しかし内田が都合で欠席したため論戦にはならなかった事があった[205]。
なぎら健壱は、フォークは拓郎の登場を境に硬派路線とアイドル路線に分かれ、拓郎が新境地を次々と開拓して絶頂期を迎えると同時に、フォークは終焉を迎えたと述べている[206]。1960年代後半の社会的な内容を含んでいるものが目立ったフォーク・ソングは、拓郎の登場で形態が大きく変わり拓郎以降、個人の心情や風景をうたう歌や、愛の歌が増え、次の時期のニューミュージックへの架け橋にもなっていく[207][208][209][210]。
通常フォーク歌手として言及されることが多いが、『ザ・ヒットパレード』がなかったら今はないと言い切り[211][212]、アマチュア時代は長くロックバンド(R&Bバンド)を組んで、ロックへ移行するディランをリアルタイムで体験している拓郎にとって、サウンドとしてのフォークは一部にしか過ぎない[213][214]。ファースト・アルバムの『青春の詩』からすでに収録曲もブルースロック調、オーケストラをフィーチャーしたサンバ、ボサノヴァ、ジャズ調とフォークではない楽曲が多数並んでいる[215]。アマチュア時代から幅広く音楽ジャンルを志向していた。
デビュー年のソノシートに収録された沖縄の基地問題を替え歌で唄った「基地サ」の他、1971年6月に発売された2枚目のアルバム『よしだたくろう・オンステージ ともだち』には、MCで差別用語を3度も連発する「私は狂ってる」、『たくろう・オン・ステージ 第二集』には「日本人になりたい」という人種差別を扱った問題作も収録されている。拓郎の放送禁止歌というと後年の「ペニーレインでバーボン」が有名だが、デビュー時から先鋭的なシンガーでもあった[216][217]。
こうした楽曲以外にも多くのレギュラーを持ったラジオや雑誌のインタビュー等での自由奔放な発言、言動は多くの共感を呼んだが、それは芸能界全体にも影響を及ぼした。1970年代後半の渡辺プロの凋落については他プロダクションの台頭などが理由として挙げられるが、渡辺プロの諸岡義明専務は、非常に鍛えられた渡辺プロの歌手たちが人気を失い、渡辺プロが変わった理由について「きっちり教育され、型にはめてつくられたタレントなり歌手なりが、視聴者に飽きられたからでしょう。拓郎もそうですが、型にはまらない自由で奔放なタレントや暗さがあるキャラクターが好まれるようになったのも一因だと思います」と話している[218]。
[編集] 影響を受けたミュージシャン
FEN 岩国放送が聴けたので、ビートルズやボブ・ディランもリアルタイムで聴いていた。ディランには詩よりもメロディに影響を受けたが、ビートルズは当初はうるさ過ぎるとあまり好きになれなかったという。アマチュア時代に曲作りで最も影響を受けた曲としてパーシー・フェイス楽団の『夏の日の恋』とボブ・ディランの『風に吹かれて』を挙げている。洋楽の原点はニール・セダカ、コニー・フランシス、リック・ネルソンやヘンリー・マンシーニなどアメリカンポップスと映画音楽だった。アマチュア時代のダウンタウンズでのレパートリーはビートルズ、ローリング・ストーンズ、スペンサー・ディヴィス・グループ、サム&デイヴ、オーティス・レディング、サム・クック、ウィルソン・ピケットや後年、たくろうのレコーディングに参加したブッカー・T&ザ・MG'sなどだった[25][28]。
楽曲や生き方を含めてボブ・ディランの影響を強く受けたことはよく知られる[219]。拓郎が「ディラン、ディラン」と叫びまわったため、CBSソニーから出ていたボブ・ディランのレコードが、以前の5倍以上売れたという[220]。日本に於けるボブ・ディランの最大の普及者でもある[221]。中学の時、「吉田拓郎になろう」と決めたという浦沢直樹やみうらじゅんは、拓郎を通してボブ・ディランを知ったという[222][223][224][225]。なおソニーは1973年に拓郎の選曲でボブ・ディランのベスト盤を発売している[226]。
高校時代のマドンナのことを歌った「準ちゃんが与えた今日の吉田拓郎への多大なる影響」は、ボブ・ディランの「ハッティ・キャロルの淋しい死」の替え歌である[227]。山本コウタローが1975年、自著「誰も知らなかったよしだ拓郎」出版にあたり拓郎に「歌謡曲でも何でもいいから、好きな曲を3曲挙げてくれ」との質問には『デソレイション・ロウ』『ジャスト・ライク・ア・ウーマン』『アイ・ウォント・ユー』と全てボブ・ディランの曲を挙げたという[228]。
特に初期の楽曲はボブ・ディランの影響・パクリを取り沙汰される。拓郎自身「おいしいメロディがある」[229]等、昔からインタビュー等で「盗作した」とはっきり発言をしており[230]、小室哲哉との対談でも盗作(パクリ)談義が盛り上がった勢いからか、「いっぱい盗作しましたけどね」とはっきり言ってしまっている[231]。
「イメージの詩」についてはファンだった岡林信康の「私達の望むものは」に感動はしたが、「私達は、と言えない。俺は俺っていう歌を作りたい」という意図で作ったと語っている[36][232]。
[編集] 新たな音楽スタイルの開拓
[編集] 楽曲・アルバム制作
[編集] 字余りの作詞法
曲作りに多用した"字余り"という作詞法(現在は"字あまりソング"という言い方で定着している)は、後のシンガー・ソングライターに多大な影響を与えた。それまでの日本の歌謡曲やポップスは、音譜ひとつにひとつの字、とぴったりハマっていた。"言葉を自由にメロディに載せる"或いは"日本語の歌を強引に捻じ曲げる"という手法は当時は革命であり、これは拓郎によって始まったもの[233][234][235]。この他の作詞法として、平坦な話言葉を使い歌詞を組み立てる、起承転結の形式を解体し独特の言葉の反復でリズムをつけていく、といった方法論も斬新で画期的であった[236][237]。
[編集] です・ます調の普及者
作詞やラジオパーソナリティとして多く用いた「~なのです」「~なのだ」「~であります」「~でありまして」「~でありました」等の言い回しは、"です・ます調(デス・マス調)"と呼ばれ、松本隆とともにその普及者といわれる。拓郎の場合は、曲作りだけでなく、多くのラジオレギュラーでもこのような言い回しを多用し、当時のフォーク少年にこの口調を真似られた。拓郎自身は自著で「深夜放送でのシャベリ口調は言葉の遊びとしてやたら連発した」「その後、歌謡曲や小説、誌面の見出しなどに"です・ます調"が増えた」「僕は音楽シーンにおける"です・ます"はひとつの革命と信じる。確実に歌の世界が広くなった」 等と述べている。こうした言葉の使い方は歌謡界、職業作家にも影響を与えた。穂口雄右が手がけたキャンディーズの「春一番」は、他の穂口作品の中で色合いが違う"です・ます調"で作られており、拓郎からの影響を指摘する論調が出た[238][239][240]。
[編集] 日本語による曲作りの定着
欧米からの輸入であるフォークやロックは、1970年代初め頃まで、そのまま英語で歌うべきか、日本語で歌うべきか、といった議論がまだされていた。"日本語ロック論争"(はっぴいえんど論争)などが有名だが「新譜ジャーナル」の編集長を務めた鈴木勝生は、「日本語でうたう運動そのものが影を薄め、日本語でうたうのが当たり前という時代を迎えたのは1972年、吉田拓郎の「結婚しようよ」「旅の宿」の二曲の大ヒット以降で、そのためか、1970年9月から東京日比谷野外音楽堂で年に二回開かれ、多くのフォークとロックのアーティストを育てた"日本語のふぉーくとろっく"のコンサートも1972年5月で終了した」と論じている[241]。
[編集] 拓郎節とも呼ばれる個性の強いメロディライン
拓郎のフォロワーが多く現れた理由として考えられるのが、とっつきやすいといわれるテンションが少なくシンプルなコード進行、それにも関らず、非常に個性の強いメロディラインをつむぎ出せる拓郎の凄さである。フォークっぽい雰囲気を持ちながらポップでメロディアスな楽曲は自らのオリジナル・ナンバーはもとより、他アーティストへの提供曲でも拓郎節は滲み出ている[242]。拓郎節、拓郎調とも称される独特のコード進行については、小室等との対談[243]や、小室哲哉との対談でその一端を言及している[244]。小室哲哉との対談は2008年11月5日の日本経済新聞朝刊の社説、1面コラムの春秋にも引用された。筒美京平論者としても知られる近田春夫[245][246]は著書の中で、無理のない曲で、シロウトにでも作れそうな、しかもプロを感じさせる作曲家こそ天才で森田公一と拓郎にそれを感じると述べている[247]。ピチカート・ファイヴの小西康陽も、好きな作曲家として"歌謡曲作家としての拓郎"を挙げている[248]。飲み友達でもある喜多条忠は、拓郎を当代一のメロディ・メーカーと評価している[249]。その他、佐藤良明は著書の中で、日本語によく馴染み、私的コミュニケーションの雰囲気を作りだす拍どりを「しゃべり拍」と名づけ、これを1970年代の日本のうたに浸透させたのは、この拍どりを多様した拓郎らフォークシンガーの功績と論じている[250]。なお、拓郎自身は日本の作曲家として平尾昌晃がいいと言ったことがある[251]。
[編集] 歌唱法
山本コウタローは、拓郎以前のフォークシンガーは、岡林にしてもわりときれいな声で、拓郎のような怒鳴り調、太い声で歌うシンガーはあまりいなかったと述べている。さらにその声だけでなくビートの強さ、リズムの良さ、その上歌詞も素晴らしい、一方で「イメージの詩」を歌いながら「マークⅡ」のようなポップな曲も歌える幅の広さが衝撃的だったと話している。また自分の歌、メッセージ、スタイルを人にどう伝えられるか、どう守るかといった"自己プロデュース能力"が早くから秀でていたと、今になると思うと話している[252]。
こうした作詞法[253][254][255]や作曲法、テーマ設定[256][257][258]、楽曲アレンジ、歌唱法などは、その後の日本のフォークとロックに有形無形の影響を与えることとなった[259][260][261]。渡辺プロダクションのお抱え編曲家だった東海林修は「旅の宿」が世に出たとき、ニューミュージックのパワーより、フォークやロックを回路して滲み出てきた日本の土着性を聴き分け「豆腐と障子紙以外に、はじめて日本のオリジナルが出た」と唸ったという。ナベプロにニューミュージックのセクションが創設されたのは「旅の宿」の大ヒットがきっかけ[262]。
[編集] ロックバンドと共同でのアルバム制作
ファースト・アルバム『青春の詩』の製作にあたり、エレックレコードの専務兼プロデューサー・浅沼勇は自身が審査員を務めたヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト第2回のボーカルグループサウンド部門で優勝したマックス(ドラムは再建後のエレックレコード社長・萩原克己)を起用した[263]。スタジオ・ミュージシャンと呼ばれるプロが歌謡曲歌手の音作りを専門としていた当時では、ひとつのロックバンドがアーティストと綿密に打ち合わせをしながら音を作っていく、という画期的なレコーディングであった[264]。同時期にはっぴいえんどが岡林信康のバック演奏を務めたことは有名だが、レコーディングは、はっぴいえんど主導で行われたといわれている[265]。浅沼はマックスを起用した理由について、拓郎のフォークの荒削りな良さを消さず、拓郎ワールドを創っていけるタイトなリズムを持つバンドが必要と考えた、と述べている。
[編集] 日本初の本格的ライブ・アルバム
1971年発売のアルバム『よしだたくろう・オンステージ ともだち』には曲の合間のMC(当時"シャベリ"などと呼ばれた)がたっぷり入っている。当時のフォーク・シンガーはこういうスタイルが多かったが、それをそのまま収めてライブ・アルバムで出すのは珍しかった。また拓郎の独持の口調「○○でアリマス」等の言い回しもよく流行った[266][267]。1973年に本格的なブラス、ストリングスを加えて行われたライブを収録したアルバム『LIVE'73』は日本のレコード史上最初の本格的なライヴアルバムともいわれる[135][268]。
[編集] カバーアルバムの先駆
フォーライフ2年目の赤字を解消するために制作されたアルバム『ぷらいべえと』では、石原裕次郎の「夜霧よ今夜もありがとう」、渡哲也の「くちなしの花」と演歌、 セルフカバー「メランコリー」、フォーク・クルセダーズのスタンダード「悲しくてやりきれない」ほか、年々評価を上げた郷ひろみの代表曲「よろしく哀愁」などの歌謡曲が取り上げられている。これも近年増えるカバーアルバムの先駆的なもので、現在では考えられないが、当時は"創作力のダウン"とか"売らんかな主義"とか酷評されるなど賛否両論が出た[146][269][270][271]。しかしながらメロディ・メーカーとしての才気やボーカリスト・吉田拓郎としての魅力も発揮したといえる[272][259][273]。オリコンで2週連続で1位を記録、カバーアルバム最初のNo.1ヒットでもあった。パート2を作ってくれという営業サイドからの注文には頑強に断った[274]。前述のように批判的な論調が多かったこともあってカバーアルバムは、当時は現在のように大流行することは無く、この次のカバーアルバムといえるものは、甲斐よしひろがソロ名義で出した1978年5月のアルバム『翼あるもの』となる[275][276]。
[編集] コンサート
[編集] 全国ツアーの手法に新機軸
1973年秋、タレント売り出しに何千万もかけてテレビ中心に売り込みをかける当時の業界への反発から、日本のミュージシャンで初めてPA、照明などのスタッフを帯同しての全国ツアーを敢行[277][278][114][117][279]。当時、この手法は色々と困難であるという指摘を受けたという。実際、会場が取れないなどの軋轢も生んだが、やがてこのシステムが一般的となった。この事は、従来、地元の興行師が仕切って来た運営が縮小し、地方のイベンターや、ぴあに代表されるチケット事業、情報サービス事業など、新たな産業を生み出した[280][281][282][283]。同じ年の10月に神田共立講堂で2日、渋谷公会堂で同じく2日と4日連続で行われた公演も今では珍しくない大ホール連続公演の日本でのさきがけと言われる。
[編集] つま恋オールナイトコンサート
1975年8月2日、3日に開催された「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」もまた画期的なものだった。それまでもオムニバス形式(多数の出演者)やオールナイトで行われたコンサートもあったが、観客は数千人から多くて1万人程度であった。このコンサートのように単独に近いアーティストで、5万人以上(警察発表7万5千人、チケット発売枚数推定5万6千人[284])を動員した大規模なものは前例がなく、これも大規模野外コンサートという、現在では珍しくない一つの形式を作ることとなった。またフォーク系の野外コンサートは数年来、退潮が伝えられ途絶えかけていた時代の開催でもあった[285][286][287][288][289]。
チケットはすぐに完売したが、静岡県の県条例が青少年の外出は夜11時と制限していたため、オールナイトイベントに強行参加する青少年を強制退去させれば中津川以上の暴動が起こるのでは、と不安視された。静岡県警と教育委員会に中止勧告が出されるなど、イベントが近づくにつれつま恋は開かれないのではという噂が立ち始め、ユイ音楽工房は何度もつま恋は開催されると広告を打った[290][291][292]。最終的に事態を打開したのは、そうした事情を聞き及んだヤマハの川上源一のバックアップだった。静岡県はヤマハが強く何とか開催に漕ぎ着けた[293][294][295]。
当日は、早朝から大群衆が長蛇の列を作り会場に一斉になだれ込んだ。コンサートは無事夕刻から始まり12時間、途中ゲストアクトをはさみながら、かぐや姫と交互にステージに立ち、拓郎59曲、合計108曲が「人間なんて」の大合唱で夜明けとともに終了した[296]。
コンサートの企画、及び運営は、後藤由多加が「ウッドストック」に触発されてユイ音楽工房主導で行ったもの。またこのコンサートの模様を収録したドキュメンタリー映画が作られ、日本全国でフィルム・コンサートという形で上映された。撮影したのは石田弘を中心としたフジテレビジョン|フジテレビの撮影クルー[297][298]。このコンサートを坂本九が最前列で全編通して見続けていたことはあまり知られていない。
[編集] 篠島コンサート
一つの離島を借切るというイベントは、外国ではイギリスのワイト島ポップ・フェスティバル(1970年)が有名だが、1979年7月26日、27日に行った篠島コンサートは、日本のコンサートでは史上初の試みであった[299]。先のつま恋と合わせ、常識を覆して深夜に人を集めるという方法で成功を収めた[300]。ゲストに小室等、長渕剛を迎え、2万4千人を集めた。デビュー2年目の長渕が一時の拓郎のように「帰れコール」を浴びながら最後までステージを押し通した話は長渕の有名なエピソードである[301]。コンサートの模様を収めたライブビデオの監督はつま恋と同じ石田弘[302]。
[編集] 音楽ビジネスへの影響
[編集] フォークの地位の向上
エレック在籍時には社員扱いだった拓郎の作品には作詞、作曲、歌唱の印税保証はなく、一緒にユイ音楽工房を設立した後藤由多加に聞かされ初めて歌にそういう権利がある事を知った[303]。これをきっかけに、自分の歌の権利を自分で守るという意識がフォーク界に浸透した[304]。それまで限られた関係者にしか知られていなかった"権利ビジネス" "制作者の権利"をミュージシャンが知ったことは音楽ビジネスの大転換でもあった[305][306][307]。
テレビへの出演を拒否していた拓郎の要求をテレビ側が受け入れたことはテレビ業界とフォークシンガーの力関係が逆転するきっかけとなった。現在でもテレビがJ-POPを扱う場合、ある種の配慮をアーティストにするのはこの時を始まりとしている。歌番組への出演を拒否した拓郎のために、テレビサイドは異例のコンサート中継をオンエアした。こうした対応も拓郎から始まったもの[308]。紅白歌合戦の場合も、NHKは拓郎に相当アプローチしたが最終的に拒否され以降、ニューミュージック系の歌は紅白では聴くことが出来ないという常識が定着したものだった[309]。拓郎はフォークにポリシーを持たせることで、歌謡曲とは違うという鮮烈なイメージを持たせ若者の心をとらえた[310][311][312][313][314][315][316]。また時と場合によっては出演拒否がニュース価値を生み、宣伝効果を持つことも明らかにした[317][318]。拓郎は"芸能界"とは別のところで"流行歌"が存在できることを証明したのである[319][320][321][322][323]。相沢秀禎は"1970年代は芸能界にとってテレビという巨大メディアが宣伝プロモーションには欠くことのできないものであることを決定付けた時代であったが、この大きなパワーを持つテレビをあえて拒否し独自の道を進んだ吉田拓郎らニューミュージック系歌手のやり方は、それを貫いたことで成功し定着した。これは多様化しはじめた宣伝作戦の方向性を指し示していたといえる"と論じている[324]。
マスメディアでの拓郎の露出の増大は、日本の音楽シーンでフォークのウェートを高め、音楽誌でも従来の洋楽中心から次第に日本のアーティストのページを増やすこととなった[325][326][327][328][329]。拓郎が登場する以前の三橋一夫ら、日本のフォークを評論していた人たちは、洋楽の片手間仕事に"日本のフォーク"を評論していたが、拓郎が急激に売れてさらにマスコミ拒否をやったため、まともな記事を書ける人がおらず、拓郎と岡林を聴いて東大を辞め、初の"日本のフォーク評論家"の看板を上げた富澤一誠の元に執筆依頼が殺到したという[330][331][332][333]。「ヤング・ギター」初代編集長の山本隆士も「拓郎に出会わなかったら『ヤング・ギター』はなかったと思う」と述べている[334]。小説家の盛田隆二は「いつか拓郎の本を作りたい」とぴあに入社し、拓郎が出演した映画『幕末青春グラフィティRonin坂本竜馬』(1986年公開)と連動した『THE BOOK OF Ronin』(ぴあムック・1986年刊)を企画し編集長を務めたという[335]。また『新譜ジャーナル』最後の編集長だった大越正実も、高校時代に聴いた拓郎のアルバム「ともだち」から自身の拓郎大バカ人生が始まり、それが高じて編集長まで務めてしまったと話している[336][337]。この他、1999年に刊行された福島直子著「吉田拓郎サマへの道」は、「オールナイトニッポン」で拓郎が懇意にしている「月刊明星」の編集者がいることを知った著者が、拓郎に会いたいがために「明星」編集部に就職する話で、歌謡曲アイドルの専門誌だった「明星」に拓郎がしばしば登場したのはこれらの理由から[338]。拓郎を入口に音楽の世界に導かれた人物は、このような出版、音楽関係者[339][340][341]ミュージシャンなど数多いが、テレビの音楽関係者でいえばその代表的な人物がきくち伸ということになる[342][343][344]。 先の『新譜ジャーナル』や『guts』などは巻頭グラビアをフォークシンガーの写真で飾ったり、彼らのエッセイや対談、そしてゴシップ記事を掲載するようになった[345]。この1972年には講談社から、拓郎らフォークシンガーが表紙やグラビアを飾る「月刊明星」のフォーク版ともいうべき「ヤングフォーク」なども創刊された(1982年廃刊)[346]。これも拓郎がそれまでのフォークシンガーになかったアイドル的な魅力を加えたため。女の子のファンが急増しファンレターは1日500通と、アイドル並みの人気があった。拓郎はフォーク界で初めてミーハー人気を得たスターだった[347]。こうしてファン層を広げて、フォークのパイを大きくしていった[348]。またこの頃から、書籍の分野でフォークシンガーを著者とする出版物が相次いだ。北山修「戦争を知らない子供たち」、高田渡「個人的理由」、早川義夫「ラブジェネレーション」、及川恒平「歌謡詩集」など。拓郎が1972年刊行した「気ままな絵日記」はベストセラーとなった。これらはフォークシンガーのタレント化によるもので、"タレント本"の類が量産されるのはこの頃から[349][350][351]。
拓郎が出てきて大ヒットを連発するに及んで、音楽業界でもフォークは売れるもの、十分商売になるものと考えられるようになった[352][353][354][355]。渡辺プロダクションにニューミュージックのセクションが創設されたのは「旅の宿」の大ヒットがきっかけ[356]。かつて岡林信康や高石友也がいくら人気を集めていても、レコードの売り上げはたかだか知れていた[357][358][359]。吉田拓郎に続けとばかり、すぐれたオリジナル曲を有する日本各地のミュージシャンの多くが上京。マイナーレコード会社だけでなく、メジャー系レコード会社もフォークの新レーベルを設立し、レコード会社もプロダクションも競ってフォークの新人たちを市場に送り込み[360][361][362]、後に続いた井上陽水、かぐや姫らの大ヒットで大きな潮流となり、1960年代後半のカレッジ・フォークブームを凌ぐ一大フォークブームを迎えることになった[363][364][365][355][366]。また演歌か歌謡曲かのくくりで燻っていた既存の歌手にも新たな道を拓くこととなった[367][368][369]。吉田拓郎最大の功績は、フォークをひいてはロックをビジネスとして確立し、日本で自作自演の音楽を普及させる大きな原動力となったこと。フォークなしに今のJ-POPは考えられない[370][371][372]。「日経エンタテインメント!」は、2000年2月号の特集 "J-POPの歴史をつくった100人" の中で、吉田拓郎こそが、自身の音楽がポピュラリティーを得るために戦った "J-POPの開祖" と論じている[373]。
[編集] コマーシャルソング
拓郎は早くからCMソングを自作自演し、反商業主義のプロテストソングと一線を画した[374]。1971年、中外製薬の『新グロンサン』のCMソングを歌い、ACC(全日本シーエム放送連盟)全日本CM フェスティバル・シンギング部門で入賞[375]。この年は他に、松下電器産業「テクニクス・ステレオ」試聴盤「僕の旅は小さな叫び」(唄のみ、非売品、ステレオ購入者へのおまけ)、SEIKOとタイアップシングル「サヨナラ僕は気まぐれ」(作詞・作曲・唄。B面「青春の終わり」は作詞・作曲が拓郎で、唄がピピ&コット、三越とのタイアップシングル、非売品)を手がけた[376]。翌1972年には「旅の宿」の大ヒットに目をつけたフジ・フイルムが拓郎の作詞・作曲・歌によるCMソング「HAVE A NICE DAY」を連日放送した(背景には1970年から国鉄の“ディスカバー・ジャパン”キャンペーンが始まっていたことがある)[377]。内容は全編広島弁の歌詞の拓郎の歌に合わせて若者がポーズをとるというもので、大きな話題を呼び"HAVE A NICE DAY"は流行語にもなった[378][379][380][381]。同年、松下電器のステレオのCMソングも歌唱(自作曲ではない)、前年に続きACC全日本CMフェスティバルで入賞[382]。この年にはさらに、りりぃに資生堂?フェミニンのCMソングを提供し、スバル・レックス(富士重工)のCMで「僕らの旅」を自作歌唱した[107]。このスバル・レックスのCMもテレビ・ラジオで大量露出し、当初はソノシートの非売品だったが反響が大きく後にレコードが発売された[376][383]。
これらの大ヒットをきっかけに企業はフォーク・シンガーをこぞってCMに起用するようになった。鈴木ヒロミツ、マイク真木のモービル石油「のんびり行こうよ」、BUZZの日産・スカイライン「ケンとメリー~愛と風のように~」、加藤和彦のナショナル住宅(現・パナホーム)「家をつくるなら」、「Cider'73」からはじまる大滝詠一が手掛けた三ツ矢サイダーの名作シリーズなどがよく知られる[384][385]。1970年代初頭に、テレビCMの世界で自らのサウンドスタイルを崩すことなく音楽制作を聞かせることができたのは拓郎と大滝だけであった[386]。これらは1970年代半ばからの資生堂とカネボウによる「化粧品キャンペーンソング戦争・タイアップ戦争」のニューミュージック系歌手の起用でピークを迎えた[387][388][389]。
[編集] 新旧の音楽界の交流の活性化
森進一に提供した「襟裳岬」の大ヒットをきっかけに渡辺晋は拓郎の楽曲の実力を買ってキャンディーズなど多くの自社所属歌手への楽曲提供を拓郎に依頼した[390]。渡辺プロダクションは、これを機に布施明へ小椋桂の「シクラメンのかほり」(1975年)、三木聖子へ荒井由実(1976年)の「まちぶせ」など、他社に先駆け積極的にニューミュージック系ミュージシャンの起用を行った[391][392]。これ以降、楽曲を媒介にして旧勢力と新勢力の両者は交流を始め、演歌界を含む歌謡界がニューミュージック系ミュージシャンの楽曲を取り上げることがブームになり定着していった[393]。これはニューミュージックという言葉をより曖昧なものとしてしまった原因のひとつでもあるがこの後、筒美京平のように歌謡曲側の作家が、桑名正博のようなニューミュージック側の人に、曲作りをするという現象も多くなった[394]。またCMソング作家だった小林亜星が作曲した「北の宿から」が1976年、第18回日本レコード大賞等を受賞するというようなケースも出てきた。「襟裳岬」の前までは演歌系歌手は演歌系作家が作る、のようなはっきりした図式があった[395]。「襟裳岬」が世に送り出されていなければ、今日のJ-POP自体がかなり異なったものになっていた。拓郎は同年、浅田美代子に「じゃあまたね」を小柳ルミ子にも「赤い燈台」を書き下ろし、シンガーソングライターとアイドルの蜜月という架橋を同時に築く。歌謡曲の進化をもたらした異業種混合のコラボレートの歴史は拓郎の偉業から始まる[396][397][398]。
[編集] プロデューサーとして
小室哲哉やつんくのプロデュース活動が話題を呼んだ頃、ミュージシャン系プロデューサーの先駆者としても紹介された[399]。拓郎自身、プロデューサー業を手掛け始めた1972年頃からすでにプロデューサー業に対する強いこだわりを持ち、1976年の自著『明日に向かって走れ』でも、プロデューサーとは何かとの持論が長く語られている。
小室哲哉は拓郎について "フォーク、フォークといわれながらメディアに対しての姿勢とかにロックを感じた" "歌謡曲への影響力の在り方は日本にもこういうことが有り得るんだ、と目標というか光が見えた気がした" "やっぱり憧れてたし少なからず影響は受けてると思う"等と話している[400]。 つんくは2003年ソニンに「合コン後のファミレスにて」という拓郎のパロディのようなシングル曲を書いているが、つんく自身は長渕剛を尊敬していると話している[401]。
かまやつひろしとのコラボレーション、1974年、デュエット「シンシア」、1975年のオリコン1位「我が良き友よ」は、拓郎ファンだったかまやつが「一緒にやろう」と長年、拓郎を口説いて実現させたもの。今でこそ異色とも何とも感じないが、当時の感覚からすれば、フォークの拓郎と元グループサウンズのかまやつとの共演は事件であった。かまやつはロック仲間から嫌味や批判を受けたと話している。こうしたロック、先の演歌やアイドル歌手を含む歌謡曲、子供番組などとのコラボレーションを含めて異種組み合わせの突破口を開いた先駆者でもあった[402][403][404][405][406][407]。
1977年、渡辺晋から「キャンディーズを大人にしてやってくれ」という依頼を受けた喜多條忠を介して、キャンディーズ の「やさしい悪魔」と「アン・ドゥ・トロワ」のシングル2曲を含む4曲の作曲を手がけた。もともと拓郎はキャンディーズファンで、キャンディーズのブレイク直前に自身の番組『吉田拓郎のオールナイトニッポン』にゲストで呼んだり(1975年3月4日、ミキちゃんは風邪で欠席)、特にスーちゃんファンで、やはり『オールナイトニッポン』」にスーちゃんを単独でゲストに呼んだこともある[408]。ただし拓郎のアルバム『ぷらいべえと』のジャケットの女の子の絵は、拓郎が週刊誌で見たランちゃんを書いたと言われており[409]真偽は不明。「やさしい悪魔」は音域の広い難曲で、歌のうまいキャンディーズもレコーディングに苦戦した。これはキャンディーズファンだった拓郎が、レコーディングでキャンディーズに歌唱指導をしたいがために、わざと難しくしたと噂が出た[410][411]。「やさしい悪魔」は、それまでのキャンディーズの清楚なイメージを一新、アン・ルイスのデザインによる大胆な衣装と“デビルサイン”を含めた斬新な振り付け、“大人化計画”に応えた詞曲も話題を呼び、キャンディーズ最大のヒットになった(最終的には「微笑がえし」、「わな」に次ぐ3位)。キャンディーズ自身も「私たちの代表曲」と話している[412]。拓郎も「やさしい悪魔」を自身のアルバム『ぷらいべえと』で、「アン・ドゥ・トロワ」は『大いなる人』でセルフカバー、後者はキャンディーズが解散宣言(1977年7月)した直後のリリースだったため、サブ・タイトルに「ばいばいキャンディーズ」と付け、歌のラストで“さよならキャンディーズ”と歌った[146][413][414]。このシングル2曲の他に、ビートルズの名曲をタイトルに入れた「やさしい悪魔」のB面「あなたのイエスタデイ」、1977暮れに発売された5枚組アルバム『キャンディーズ1676DAYS』に収録された「銀河系まで飛んで行け![415]」(いずれも『GOLDEN☆BEST キャンディーズ』に収録)を提供。キャンディーズのコンサートではよく歌われファンには人気の高い楽曲である。なお「銀河系まで飛んで行け!」は、事務所の先輩・梓みちよが気にいり、同曲を自身が先にシングルカットしてしまったため、キャンディーズがシングルに入れられなかったとされる。
梓みちよのレコーディングでは「アナタは歌がうまいから困るんです。僕としては、もっと下手に、そう、思い切って下手クソにやってほしいんです」と言うと、梓は『メランコリー』を目一杯下手クソに歌って一言、「これでいいわけ。フン、変なの、アンタたちの音楽」と言ったという[416]。この曲の作曲は拓郎だが "緑のインクで手紙を書けばそれはさよならの合図になる"と書かれた喜多条忠の作詞も話題を呼びヒットした。同年、梓も紅白歌合戦で歌う際、この曲の短縮を要求されNHKともめた。
フォーライフ第1回新人オーディション(1976年)に応募してきた原田真二は選考段階では不合格であったが、興味を示した拓郎が課題を再提出させ [417][418]原田の高校卒業と上京を待って1977年10月、拓郎プロデュースにより「てぃーんずぶるーす」でデビューさせた[419][420]。デビューにあたり原田の部屋探しから、原田の曲作りのため松本隆や瀬尾一三を交えて合宿させたり[140][421][422]、もともとギターを弾いていた原田を当時は珍しいピアノの弾き語りに変えたり、拓郎自身が始めた"ニューミュージック系の人達はテレビに出ない"という風潮の時代に、原田には一転、パブリシティのためラジオ・テレビの出演や雑誌の取材を積極的に用意した[423][424]。こうした戦略が功を奏し、シングル3曲が同時にオリコンベスト15位入り[425][426]、ファーストアルバム「Feel Happy」が史上初のオリコン初登場第1位(4週連続)を獲得する快挙を達成し[427]フォーライフの危機をも救った[91][428][429]。また原田はヤマハ出身の世良公則&ツイストとともに、女子中高生を中心に爆発的人気を呼び、それまでの"日本のロック系ミュージシャン"には付いてなかった女性ファンを開拓し新たな潮流を生み出した[430][431][432]。"日本のロック"のメジャー化に多大な貢献があった[433][434][435][436][437]。
1978年デビューの石野真子については、阿久悠が他のアイドルとは違う売り方を考え拓郎に作曲を依頼した[438]。石野はフォークソングが好きで拓郎のファンだった[439]。デビュー前の石野と六本木のバーで初めて面会した際、「本当にこの人デビューするんですか」と疑いたくなるほど最初は太っていたが、不思議な芸能界は3ヶ月で見違えるように変身させて来た。「狼なんか怖くない」のレコーディングでは、唄えば唄う程上手くなると石野を徹夜で励まし、デビューに賭けたスタッフからは、レコーディングが終了すると大歓声が上がった[440][441]。曲の音程の上がり下がりが難しくレコーディングに8時間かかったと石野は話している[442][443]。拓郎の曲は難しいとキャンディーズも話していた。吉田は石野真子に対して、デビューシングル「狼なんか怖くない」「ひとり娘」、2作目「わたしの首領」「いたずら」、そのほか「ぽろぽろと」、「ジーパン三銃士」(すべて作詞は阿久悠)を提供した。また1978年8月、文化放送深夜ラジオのセイ!ヤングに石野をゲスト出演させた際は、「初めてあなたと会った時は、こうゆうのは初めてですが二人で頑張りましょう!と話しましたね」、「あなたはラジオよりテレビのほうが面白いね」などと紹介した。
[編集] ラジオ・パーソナリティーとして
ソノシート制作のきっかけとなった1970年6月の広島フォーク村アルバム発売記念コンサートで拓郎を初めて見たという「ヤング・ギター」初代編集長の山本隆士は「しゃべりが面白く『歌えて、しゃべりも出来る』というスタイルは拓郎が最初じゃないかな」と述べている[444][445]。拓郎のファンになった切っ掛けとして長渕剛のようにギターやハーモニカを掻き鳴らして唄う姿に痺れたという人や、ルックスに惚れた、とにかく曲がよかったという人など色々だが、その他、コンサートでの"シャベリ"、"しゃべり"今でいう"MC"の面白さや歌唱時の声とは違う、喋るの時の低音でよく響く声の魅力を挙げる人も多い[446][447][448][449][450][451][452]。初期の拓郎の"しゃべり(MC)"は長く、持ち時間50分のステージでたった2曲を演奏し、残り40分がMCというようなこともあった[453][454]。後年始めたコンサートツアーと共にこうしたコンサート/ライブでの演出スタイル、ステージングに於いても草分けであった[455][456][457] [458][459]。これは後、多くのレギュラーを持ったラジオのパーソナリティでさらに活かされることになる。
1971年10月にパックインミュージックのパーソナリティーに就任したのを皮切りに、担当した多くのラジオ番組と合わせ深夜放送のミュージシャン・パーソナリティのスタイルを確立した[460]。深夜放送のDJを"パーソナリティと"いう呼び方に変え始めたこの頃から、各局はこぞってフォークシンガーを起用[461][462][463][464]。これは巨大メディア化するテレビに対して、若者のパーソナル・メディアとしての存在に生き残りをかけていたラジオと、この後テレビを出演拒否する拓郎を始めとするフォークシンガー達が、ステータスを維持するための利害関係が一致した結果であった[465][466][467]。それは商業的にも大きな可能性を秘めた市場の開拓であった[465][468]。ラジオでレギュラー番組を持ち、ヒットを出すやり方は、その後のニューミュージック系歌手の常套手段となった[469]。また拓郎の場合は自作曲の売り込みだけでなく、フォーク、ロック普及のため、他のアーティストを広く紹介したという功績もある。ガロの「学生街の喫茶店」やダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「スモーキン・ブギ」の大ヒットは拓郎が自身のラジオ番組でプッシュしたのが大きな理由だった[470][471][472][473][474][475]。ラジオのパーソナリティが曲を紹介するのは当たり前だが、局アナよりも現役ミュージシャンが紹介すれば、より強い影響力を持つ。現役ミュージシャンが、まだ世に出ていないミュージシャンをメディアで紹介するという今に繋がる慣習は拓郎らの時代から。小田和正は1972年、拓郎が「パックインミュージック」でかけたチューリップのデビュー曲「魔法の黄色い靴」に大きな衝撃を受けたと話している[476]。ECDも「パックインミュージック」で拓郎が次々と紹介する未知のフォークシンガーに大きな影響を受けたと話し[477]、古井戸の金崎芳樹(加奈崎芳太郎)も、拓郎が「パックインミュージック」で「花言葉」をかけてくれたときには、チャボ(仲井戸麗市)と夜中電話し合って泣いた。自分たちも担当番組(ラジオ関東・ナイト・トゥゲザー)で、他のフォークシンガーの紹介役になれればいいと話していた[478]。この他、1972年沖縄の本土復帰直後に佐渡山豊らの「沖縄フォーク村」をラジオで紹介し大きな反響を呼んだ[479]。1973年頃から深夜放送はあのねのねや笑福亭鶴光等、関西お笑い系、を加えて、それまでの局アナ中心から芸能人、タレント中心のラインナップに大きく変化、メジャー化し全国ネットとなって深夜放送は黄金期を迎えた[480][481][482]。
[編集] フォーライフの設立
フォーライフ設立は、CBSソニー内に個人レーベルを持ち、レコーディングに於いてはプロデュースという形で権限を与えられたものの、その先の営業・宣伝にもおける全権を握りたい、と考えていた拓郎に小室が提案したのがきっかけである[483][484][485]。
1977年6月には初代社長を務めた小室に代わり社長に就任した。新人がなかなか出ないまま1年半程が過ぎ、「小室さんがこのまま社長でいいのか」と陽水と泉谷の3人で話すと、陽水は「俺の知ったこっちゃない」と言い、泉谷は「俺にやらせろ」と言うので、自分がやるべきだ、と決意した[486]。それ以前にもミュージシャンが裏方にまわる例は過去にも多数あった。しかしその多くは現役を退いた後か晩年で、前任の小室ももちろんミュージシャンだが、拓郎のように頂点を極めた全盛期のミュージシャンが音楽ビジネスのトップになったのは初めてだった[91]。同時に小室、陽水、泉谷の三人に取締役を降りてもらうことになった[487][488]。
就任後の一時期はミュージシャンとしての活動は出来なかった。髪を短く切って、背広も毎日着て、社長の名刺を持って取引先と会った。拓郎が出てくると聞くと面白いから会ってやろうといわれた。井上陽水の大麻所持による逮捕事件後は自分から相手の懐に飛び込むべきと、関係会社の社長と銀座で飲んだりゴルフも始めた。「会社ごっこは楽しいか?」などと同業社長から揶揄されたりした[489][490]。大手プロダクションの社長から「ところでお前、何やってんだ」と言われ「今、社長を一生懸命やってます」と答えると「社長ごっこだろう?」「いや、ごっこじゃありません」「お前、歌ったりしてるじゃないか?」「いえ、今歌ってません」と言うしかなかった[491][490]。
地方の営業所回りで、レコード店のオヤジに頭を下げるのが最大の無力感だったと言う。後藤由多加が口説いた俳優の水谷豊(レコードプロデュースは拓郎)と拓郎がプロデュースした原田真二の二本立てでフォーライフのメジャー転向を打ち出したことで、「フォーライフは他と変わらない普通の会社になった」と泉谷が1978年退社[492][493]。1980年代に入りひかる一平やザ・ぼんち(恋のぼんちシート)、イモ欽トリオ(ハイスクールララバイ)など、アイドルや色物を手がけたことで多くの社員も去った。拓郎の社長業は6年間続いた。
拓郎は振り返って「世界中のヒット曲をフォーライフから出したいと意気込んだが、既存の音楽界の壁の厚さ、深さに勝てなかった。日本人的なものに負けたという感覚。現状のままでは日本の音楽はビルボード1位には絶対になれない。70年代には政治も音楽も変えようという機運があったけど今は誰も不満の声をあげない。日本人はアジアの親分と思っているけど、取り残されていると思う」と話している[494]。
[編集] 人物
[編集] 交友関係
[編集] 遊び友達
- 泉谷しげるはエレックレコードの後輩で、エレックを抜けた拓郎の代わりに売り出されたスターだった。世の中が泉谷の歌を下手だと言った時も「うまい、うまい」と褒めてくれたという。拓郎の家に遊びに行くと自分のレコードばかり聞かせ、イメージとは裏腹に神経質で、奥さんは「ツアーの荷造りも自分でやって1週間前から遠足に行く子供みたいに楽しそう」という。エレックが倒産しフォーライフを設立した時も、拓郎は泉谷を引き入れ、フォーライフが内部抗争を始めて泉谷が辞める時も懸命に引き留めた。「反乱を起こして出て行こうとするのに愛情がデカい。今でもオレにとって拓郎は独得の色気を持った "かなわない男" "目の上のタンコブ"。 拓郎の強引な発想に振り回されちゃう自分が楽しいんだから不思議だ」と表現している[495][496][497]。
- その泉谷と昔、飲み屋で大喧嘩をしたことがあるが、拓郎は泉谷に勝ってしまったというエピソードがある。この喧嘩の仲裁に入ったのが森山良子。森山は殴り合っている二人に「こら拓郎!泉谷!いい加減にせぃ!」と叫んだという[498]。森山はまだ無名時代の拓郎を自身のラジオ番組(キョーリン・フォーク・カプセル、ラジオ関東?)に度々呼ぶなど拓郎を可愛がったという[499]。森山は1971年から1972年にかけて結婚、出産(森山奈歩)のために休養した。そのブランクのために1973年はパッとせず。この時代になると拓郎らシンガーソングライターが台頭してきて当時、"歌謡曲歌手"というイメージがついていた森山はアルバムが売れない状況になっていた。1974年の賛美歌アルバムの完成と「ある日の午後」のヒットで盛り返した森山に1975年、「襟裳岬」を大ヒットさせた拓郎が前記の恩を返す形で「歌ってよ夕陽の歌を」を提供。曲もヒットしたことで森山のイメージは再び"フォークの女王"に戻った。この後発売されたアルバム『やすらぎ』には五輪真弓、岩沢幸矢、長谷川きよしら人気シンガーが曲を提供することにもなってアルバムとして久しぶりに大ヒットした。森山はこの年「歌ってよ夕陽の歌を」で第26回NHK紅白歌合戦に出場した[500][501]。
- かまやつひろしに提供した「我が良き友よ」で歌われる“下駄を鳴らして奴が来る。腰に手ぬぐいぶら下げて”は拓郎のことを歌ったものと言われた。当時の流行の洋服店に入っても店員に「今日は下駄じゃないんですね」と言われ、この頃は道行く人にもケンカを吹っかけると思われていた。地方で静かに食事をとったり、お酒を飲んだりしていても店員に構えられ「今日はおとなしいですね」と言われ「何を期待されてるんだろう」と思ったと言う[502]。かまやつも「50年間、この業界にいて警察官とケンカをしたのは横山やすしと拓郎だけ。ケンカが強いので拓郎を尊敬する」と述べている[503]。飲み屋ですぐにケンカを始めるようなヤツは、かまやつの回りにはそれまでいなかったという[504]。
- そのかまやつについて、拓郎は「東京へ来てから女、アルコールなど軟派系の遊びは全部かまやつさん。今日の僕があるのは、かまやつさんのおかげ。身体はガタガタですけど」と言う。かまやつは当時流行の最先端をいっていた業界人らと付き合い、拓郎をそういう人達が集う場所に連れて行った。作詞家・安井かずみの自宅は「川口アパート(プール付き)」(川口松太郎が造った高級マンション)と呼ばれ加賀まりこ、野際陽子、コシノジュンコや当時のトップモデル・シャロン宮田、ナンシー村井ら多くの業界人が集った。そこは大使館のような世界で、カルチャー・ショックを受けた[505]。誰にも紹介してもらえず、「絶対に東京に負けてはならない」との思いを更に強くした。同業者だった安井には「あなたたちが来てから日本はすごくつまらなくなった」「あなたの詩って男のエゴばかり、女のことなんか何も分かってない」と言われ大ゲンカとなり泣かれて、拓郎にいじめられた、と言い触らされた。しかし安井の言葉はとても響き、すごい大事な人を失った感じがある、と述べている[506][507]。拓郎は1986年、加藤和彦のプロデュースで全曲を安井作詞による『サマルカンド・ブルー』というアルバムを出している。なお、かまやつは、酒に関しては拓郎に何度も吐くまで飲まされた自分の方が弟子で、一番弟子が自分で二番弟子が陽水。男の世界では年齢じゃなくそういうのが重要で拓郎は僕のお兄さん、と話している[508]。
- 武田鉄矢は拓郎に憧れて上京しエレック・レコードに入った。ところが入った途端、拓郎はCBSソニーに移籍。また拓郎が表紙を飾った「新譜ジャーナル」に載るのも憧れだったが「新譜ジャーナル」もなくなった[509]。つまずきから東京暮らしが始まったという[510][511]。つき合いが始まったのはだいぶ後、武田が映画を撮り始めてから。1982年からの映画『刑事物語』の主題歌「唇をかみしめて」を拓郎が手掛けたり1985年、映画『幕末青春グラフィティRonin坂本竜馬』に高杉晋作役で出演した。これは坂本竜馬を演じた武田が、ずっと背中を追いかけてきた拓郎に一回、こっち側を向いて勝負して欲しい、と相手役として遮二無二に拓郎を説得したもの。最初は「お前、頭からアブラをかぶっているのか?頼むから近づくな!」と酷く嫌われていたという[512]。また武田は拓郎を高杉晋作役で起用した理由について、拓郎の声はアジテーターの声であり、たった一声で千とか万の若者が後について行くような声。それは高杉晋作もそんな声だったんじゃないかと思うという持論で、俳優では出せないと拓郎にお願いしたと説明している[510][513]。
- フォーライフの社長をしていた頃、夜中に武田鉄矢から「飲みませんか」と電話がかかってきたのを受けて、出かけて行った時のエピソード。夜中の酒の誘いは断る事も多いが、武田からの誘いの場合は「きれいどころ」が待っており、武田のトークで十分盛り上がっているところで、「はい、今お話していた吉田さん、はいはい拍手!」「よっ、フォーライフの社長!」などとよいしょされ、美人局のようだったという[513]。
- 1970年代半ばに、よくペニーレインなどで拓郎と飲んでいたガロの大野真澄は、拓郎から「一人でやれ、一人でやれ」といつも言われていたため、ガロの解散、所属レコード会社の倒産もあって1976年、フォーライフ入りした。この頃大野は、新曲より水原弘や服部メロディなど、昭和の歌謡曲のカバー・アルバムを作りたかった。ところが当時は全編カバー集を作っても売り方がわからない時代、スタッフから「そんなの作ってどうするの?」と言われ実現しなかった。ところが翌年1977年、拓郎が有名なカバー・アルバム『ぷらいべいと』を出したため大野は「別に僕のアイデアを使ったとは思わないけどね」と述べている[514]。
[編集] 音楽を通じたつき合い
- まだ売れていなかった頃、加藤和彦が拓郎を認めて大切なギター(GIBSON J-45)を15万円で[515]譲った[516]。この2人は今も師弟関係にあり仲がいい[517]。小田和正が1982年に"日本グラミー賞"を作ろうと奔走し、六本木で拓郎やユーミンや矢沢永吉、さだまさしらを集めて飲み会をした時、加藤が「拓郎は生意気なのは許せるけど松山千春が生意気なのは許せない」と怒って帰ったというエピソードがある[518][519][520]。
- 同期でもある小田和正は拓郎を盟友と呼び認めている。初めて会ったのはコンサート会場の通路。ギターの弦が切れて予備がないため、面識のない拓郎に頼むと「あ、いいよ」と快く貰えたのがきっかけ。小田が売れたのはずっと後だが、拓郎は既に大スターだった。初期の拓郎について小田は「ラジカルなイメージだけかと思えば、実はそうではなく、すごくロマンチックでナイーブな、でも強い言葉を持ってるシンガー」と評していた。その後は拓郎の深夜放送に二度ゲスト出演したりしたが、番組で「小田は初体験はいつなの?」との拓郎の質問に、小田が素直に答えたところ、拓郎の元に剃刀がごっそり送られてきたという事件も発生した。付き合いが少々濃くなったのは前記の1982年に小田が"日本グラミー賞"を作ろうと奔走したときから。結局この構想はミュージシャン仲間の賛同が得られず頓挫したが、これは1985年、国際青年年(IYY)記念イベント"ALL TOGETHER NOW"(6月15日、国立競技場)の下敷きとなり、亀淵昭信の音頭取りもあって、これの運営に拓郎と小田は大きく関わった。コンサートのオープニングアクトでもあった拓郎のバックバンドはオフコースが務めた。この後1994年の長崎・普賢岳噴火災害救済コンサート(3月13日、長崎市公会堂)、「日本をすくえ'94」(8月16日、日本武道館)、1996年の阪神・淡路大震災救済支援コンサート(9月14、15日、神戸ワールド記念ホール)と、三度のチャリティコンサートを拓郎と小田、泉谷しげるで企画運営[521]。これはギター・泉谷、ベース・拓郎、キーボード・小田、ツインドラム・浜田省吾、大友康平が一応の基本?と見られるスーパー・バンドを結成し井上陽水や忌野清志郎、さだまさし、南こうせつなどのゲストミュージシャンの曲を演奏するというものだったが、即席バンドで短期間の合宿ではなかなか上達せず、どんどんコードが簡略化されて、さらに拓郎が「親しくない奴と2日以上いられない」とダダをこねたりでピンチを迎えたが、なんでも弾ける坂崎幸之助がこのピンチを救ったという。こうして苦労を共にした間柄となって、打ち上げの席で酔った拓郎が小田の膝枕で寝るということもあった[522]。こうした関係からか「LOVE LOVEあいしてる」に出演した多くのゲストが拓郎を称賛する中[523]小田は拓郎を「コイツ、コイツ」と呼び[524]「拓郎さんをコイツと呼べる人がいるなんて」とKinKi Kidsを驚かせた。他に1994年の対談でも小田は「拓郎の曲っていうのが、近い将来、また"くる"と思う」と話していた[525][526][527][528][529][530][531][532][533][534]。
- イルカは、2007年他界した夫の神部和夫共々、最も古くからのフォーク仲間で全国をどさまわりした間柄。当時は2人が所属したシュリークスが非常に人気があり、拓郎のほうが前座だった。神部はいい声の持ち主だったが、拓郎が出てきてから「もう自分がうたっているような歌の路線はこれからはダメだ。綺麗にうたっていくんじゃなくて自分のメッセージをガンガンうたっていく世の中に変わったな、これからは俺の時代じゃない」と話していたという[535]。イルカがソロデビューして曲作りを始めた時、拓郎は自宅の居間で親身になってアドバイスしたという[536][537]。シュリークスの持ち歌で、イルカのレパートリーでもある「クジラのスーさん空を行く」は、神部の詞、拓郎の作曲。
- 井上陽水はフォーライフの設立まで一度も拓郎に会ったことがなく[538]、小室等から誘われて参加した理由は、拓郎に非常に興味があって、プライベートな形で拓郎に会えるということだった。もちろん道でも会えるが、同じ屋根の下で会った方がもっと分かるんじゃないか、何せあのころ拓郎はそれこそスーパースターでしたからね、と思ったのが参加した最も大きな理由だったという[539] 。
- 1972年、南こうせつに頼まれかぐや姫のデビューアルバム『はじめまして』をプロデュース。発売日にこうせつがレコード店に行くと、アルバムの宣伝ポスターのかぐや姫の写真より拓郎の写真の方が大きかったという[540][541]。
- 山田パンダは師と仰ぐ拓郎を年上と思っていたが、年下と分かり、デビュー時に自ら一歳さばを読み、拓郎と同学年としてきた。彼をずっと同い年だと思ってきた拓郎は会うたび「おい!馬鹿野郎!」と呼び続けてきた。パンダは30年以上たった2005年に還暦を迎えた際、年齢偽証していた事を公表した。
- かぐや姫が2000年、22年ぶりに再結成したのは、1999年の「南こうせつ サマーピクニック」で、井上陽水とゲスト出演した拓郎が、南こうせつと伊勢正三を見て「陽水も俺もいる。何でかぐや姫がいないんだ?」と、山田パンダを無理やり九州まで呼びつけたのがきっかけ[541][542]。
- 山本コウタローは1973年、一橋大学卒業時に「たくろう・スーパースター」という拓郎をテーマにした卒論を書いた。しかし内容に不満が残ったため、プロデビュー後、鹿児島や広島にまで足を運んで取材し、2年後に出版したのが「誰も知らなかったよしだ拓郎」という題名の本である[543]。"現役ミュージシャンが書いた現役ミュージシャンの伝記" という非常に珍しい本で、特にアマチュアだった広島時代について詳しく書かれており、拓郎について書かれた文章の多くはこの本を参考にしている[544]。何故、吉田拓郎でなければいけなかったかについては、日本の音楽を変えていく、次の世代に大きな波及力を残していくアーティストは、吉田拓郎以外には考えられなかったと述べている[545]。
- 岡本おさみとの曲作りは手紙や電話でのやりとりで、プライベートでのつき合いはほとんどなかった[546][547]。岡本が送ってきた詞に数年後、拓郎が曲を付けて世に出ることがあったという。「襟裳岬」に関しては、拓郎にかなり歌詞を変更されたため共同作業だったと思うと岡本は述べている[548]。
- 職業作詞家としてデビューしたての松本隆にCBSソニーの、これまた若いディレクター/プロデューサーだった白川隆三から担当の新人歌手・太田裕美売り出しのため作詞依頼が。これに拓郎は「お前ら(太田+松本+白川のトリオ)は売れない」と酔って松本に毒付いた。結局このトリオ+作曲家・筒美京平での4曲目のシングルが大ヒットした「木綿のハンカチーフ」で無事拓郎を見返せた。太田は拓郎をいっぱいいじめたという[549][550]。拓郎はその後、原田真二の売り出しに松本隆を起用した他1978年、初の二枚組アルバム『ローリング30』制作にあたり、ほぼ全曲の作詞を松本に依頼し二人で箱根の山に篭り、一人の作詞家との完全な共作がどれ程のものになるのか、という試みを行っている[551][552]。松本はこの時の拓郎との共同作業を通して、より物語性を深め、本格的なヒットメーカーとして花開くことになった[553]。
- 太田裕美は拓郎をボーイフレンドの一人として挙げている。1977年の太田のアルバム「背中あわせのランデブー」は、A面5曲の全てが拓郎からの提供曲で、B面は全て太田の自作。同アルバムのタイトルはそこから付けられている[554][555]。
- 1980年8月10日、NHK-FMで『拓郎105分』という特番が放送された。この番組は長年(プロデビュー10周年)音楽業界に貢献してきた拓郎を讃え、他のミュージシャンが拓郎に感謝状を贈るという内容であった。この番組で学生時代拓郎の追っかけをしていた中島みゆき[556][557][558]が、拓郎のことを「よた、よた」と呼び一人で悦に入っていた。与太者の意味か与太郎の意味か、または、「よしだたくろう」の姓と名の頭文字(「よ」と「た」)を取った呼称であるという説もあるが理由は不明。拓郎は自身のソングライティングが不調に陥った1995年、中島に直に楽曲提供を依頼。拓郎が詞曲の両方を他人に依頼したのは初めてのことで[559][560][561]、渡された曲が「永遠の嘘をついてくれ」だった。この曲の歌詞が中島の拓郎に対する感情を思わす内容であったため、両方のファンから様々な憶測をよんだ。2006年のつま恋コンサートで、シークレットゲストとして登場した中島がこの曲で拓郎とデュエット、このコンサートの名シーンの一つとなった[562][563]。この他、中島には2001年のアルバム『パラダイス・カフェ』の「「それは愛ではない」や2006年のアルバム『ララバイSINGER』の「あなたでなければ」など拓郎調の楽曲がある[564]。
- 同番組のスタジオゲストは松任谷由実で、松任谷や小田和正、桑田佳祐らからも感謝状が贈られた。松任谷からの感謝状は「女と見れば一様に声をかけ何とか~」という賞だった。桑田が贈ったのは「サザンのレコード売り上げに貢献してくれたで賞」。『勝手にシンドバッド』でデビューした時「何を言っているか聞き取れない、あれは歌か」などのバッシングもあったが[565]、拓郎は「素晴らしい。僕はテレビがダメだったが彼はテレビを壊している」と絶賛したことに応えての感謝状だった。桑田はこのあと1985年に拓郎からの影響[566]と当時、拓郎が引退(するかのような)宣言[567]に対する批判を歌った[568]『吉田拓郎の唄』という曲を書いているが、この時の放送では一番影響を受けた曲として「HAVE A NICE DAY」を挙げた。桑田は拓郎が手がけたコマーシャルソングの音作りに共感したことが、自身が曲作りを始めるきっかけだったと自著等で述べている[569][566]。これを受け司会者が「拓郎さんから桑田さんにエールが送られたということで、拓郎さんと桑田さんで次回の番組どうでしょう」という話になり、翌1981年3月8日に放送されたのが『激突105分!拓郎vs桑田』という番組。拓郎と桑田の他、ゲストは中学の時、拓郎の大ファンで、深夜放送で拓郎の結婚宣言を聞き布団で泣いたという原由子[570]でトークやセッションなどをした。また前回に続き松任谷もスタジオゲストの予定(新聞等にクレジットもあり)だったが、松任谷は体調不良で欠席した。
- 1994年の桑田vs長渕論争(すべての歌に懺悔しな!!による論争)で、拓郎は「ボクは桑田クンのファンとしていえば、桑田クンは何も説明しなくてもいい、謝る必要なんてない」などと桑田の肩を持つ発言を行い長渕をトーンダウンさせた[571]。
- 2003年夏に拓郎が癌治療で休業中、サザンオールスターズがライブで自身の楽曲『吉田拓郎の唄』の批判めいた歌詞を大幅に変更、拓郎をより賛美する内容にして、遠い地から拓郎にエールを送った。また2008年2月24日「俺たちのオールナイトニッポン40時間スペシャル」の放送で療養中、桑田から復帰を願いギターのテレキャスターを贈ってもらったエピソードを披露した。
- 松任谷はデビューしたての頃 "女拓郎" と呼ばれた[572]。このため、それまで聴いたことがなかった拓郎の曲を聴いた。感想は、私のやったことは拓郎やかぐや姫とは違う。私のつくった曲は今までにない新しいものと思った。拓郎らの音楽とは違う、これを区別する例えとして「四畳半フォーク」って言葉を自分が考え出したと自著で述べている[572]。
- 矢沢永吉とは矢沢がキャロル時代から付き合いがあり、ソロデビューした1970代後半に、フォーライフの社長となった拓郎にマネジメントのことを聞きに夜よく電話してきたという[573][574][575]。こうした関係から二度目のオールナイトニッポン(1980年~1982年)で、当時は拓郎以上にテレビもラジオも出なかった矢沢がゲスト出演した(1981年6月6日)。拓郎は矢沢を"永ちゃん""永吉君""永吉"と呼んだ。話の内容は、矢沢は江川卓のファンで「江川はマスコミの完全に上行ってる」という話や、当時人気が爆発していたたのきんトリオの近藤真彦が矢沢ファンと言ってることに対しての話などをした[576][577]。矢沢はこの頃コンサートでもあまりしゃべらず、神秘性を保っていたため、仲良しの拓郎と饒舌、かつ楽しそうに話して矢沢ファンを驚かせた。なおこの放送は、矢沢の公式サイト「YAZAWA'S DOOR[578]」で会員限定で配信され、再配信リクエストが1位になったことがあるそうである。
- 中村雅俊とは1975年『俺たちの勲章』の挿入歌「いつか街で会ったなら」のレコーディング以来、つき合いがあるようで[579][580]1981年頃、拓郎のオールナイトニッポンの生放送中、中村が泥酔状態でスタジオに乱入、「俺は拓郎が好きなんだ!」「だから俺は拓郎が好きなんだよ!」と同じ言葉を連呼し拓郎に絡み、あっという間に帰っていったことがあった。中村は拓郎の曲を全部歌えるという[581]。中村雅俊がニューミュージック寄りのイメージがついたのは拓郎の楽曲提供がきっかけだった[582]。1999年7月25日には『吉田拓郎&中村雅俊の蘇れ青春!広島の旅!』という番組がTBSテレビで放送された。拓郎が中村を2泊3日で広島の思い出の地を案内するという趣旨の番組で、母校・皆実高校の教室で初恋の女性・準ちゃんと30年ぶりに対面もした。
- 1998年9月19日・26日放送の「LOVE LOVEあいしてる」では、拓郎の曲の中で「恋の唄」が好きだという所ジョージから「自分が作詞・作曲したことにさせてほしい」と強引な依頼を受ける。所はそのお返しに「精霊もどし」という、グレープの「精霊流し」をパロディにした曲を吉田拓郎作詞・作曲にしていいと交換条件を出す[583]。所は自分が作ったにもかかわらず、「拓郎さんもすごい歌を作りますね」と言って笑わせた。その後、所はJASRACに登録されている作詞者・作曲者名も書き換えようとしたが、認められなかったという。ちなみに、所の担当レコーデイング・ディレクターはグレープでさだまさしとコンビを組んでいた吉田政美。
- 「LOVE LOVEあいしてる」でKinKi Kidsへのギター指導を企画されたときは全くその気にならなかったというが、彼らが合間の時間に階段で一生懸命練習しているのを見かけ、それ以来熱心に指導したという[584]。吉田自身KinKi Kidsをとても可愛がり、今でも交流がある。
[編集] 影響を与えたミュージシャン
- 井上陽水の現在の夫人である石川セリは新人の頃、当時絶頂だったアイドルのような演出を強要された。演歌と歌謡曲のくくりもイヤ、自分の居場所はどこにもないと考えデビューから2、3年、仕事も少なくなり、このまま引退するつもりでいた。ところが拓郎が出てきてくれて、やっと日本の歌謡界でも、ポピュラーミュージックの素晴らしさが評価される時代になったかもしれない、と自分の出番がやってきた気がしたという。歌を続けることができたのは拓郎のおかげ。まずは拓郎でしょう、拓郎の存在で浮かばれたと話している[585][586]。なお、石川セリと井上陽水が出会ったのは、石川と松任谷由実がゲストで出ていたラジオの生放送(TBSラジオ、林美雄のパックインミュージック、1975年11月26日)のスタジオに、石川のファンだった陽水と拓郎が酔って乱入したのが最初[587][588][589]。陽水は「あの時、オレたちは赤坂でウロウロしてて、拓郎の頭の中に"今日はユーミンがラジオに出てる"というひらめきがなければ、まったく違った人生をオレは歩いていたでしょう」と話している[590]。
- 長渕剛は中学を卒業した1972年、フォークコンサートでトリを務めた拓郎の歌を聴いて大きなショックを受け、一旦放り投げていたギターを再び手に取りフォークにのめり込んだ。「拓郎はカッコ良かった。オレたちの世代にとっては、みんなの憧れだった」と話している[591][592][593][594]。
- 広島フォーク村時代からの先輩・後輩となる浜田省吾とも師弟関係にある。拓郎は1970年にプロデビューして上京した後も広島フォーク村のイベント等に出演するため度々帰郷。この頃はスーパーの階段の催し場やレコードショップの横、等で歌うこともあった[595]。こうした折に付いてまわったのが浜田で、空港までの送り迎え等も浜田の仕事であった[596]。浜田らが「愛奴」を結成してCBS・ソニーのオーディションを受ける際も拓郎の自宅を訪れ相談。「愛奴」プロデビュー前の1974年、拓郎の全国ツアーのバックバンドに「愛奴」を起用し浜田はドラムを担当した[597]。「愛奴」の起用はザ・バンドに断られたため回ってきたもの。浜田は1997年に拓郎の50歳を祝って拓郎のデビュー曲「イメージの詩」をカバーしたり(拓郎自身もコーラスとアコースティクギターで参加している)、後のつま恋コンサートで再びドラムで参加するなど、長きに渡って交流を持ち続ける[598]。
- 途中5人組となったり、メンバー編成が何度か変わったNSPが、高専仲間の3人組となったのは拓郎が1971年に組んだ3人組のミニバンドの路線を狙ったのがきっかけ。バンド名で分かるようにNSPは当初ロック志向であったが、フォークブームでロックがまったく受けず、フォークグループに転換した。オリジナルを作り始める前のレパートリーは拓郎の曲が中心だったという[599]。NSPの1973年のデビューアルバムに収録された「僕の夏休み」というオリジナル曲に"ギターを弾いてマークツーを二人で歌うはずだったのに"という歌詞が出る。
- 2008年、『崖の上のポニョ』(宮崎駿監督)の同名主題歌を大橋のぞみと歌う藤岡藤巻(元まりちゃんズ)も拓郎世代。藤巻健史の部屋で擦り切れるほど拓郎を聴いたという。藤巻直哉は「あまりにも拓郎のインパクトが凄くて、われわれ拓郎世代からすると、その後の長渕剛や尾崎豊とかは拓郎の亜流に見える。それなら拓郎聴いた方がいい」等と話している[600]。
- 元19で現3B LAB.☆Sの岡平健治の父親は、拓郎らと広島フォーク村に参加したミュージシャンであった[601]。広島フォーク村の実質の活動期間は2年程であったが、1978年に第Ⅱ期広島フォーク村として再び活動を行った。この時に参加したミュージシャンには上綱克彦(元柳ジョージ&レイニーウッド)や原田真二、村下孝蔵らがおり、広島フォーク村の拓郎の一応の後輩となる[602][603][604]。
- 1981年、オールナイトニッポンの番組企画で、拓郎のメドレー曲の製作を依頼された"墨田川高校の拓郎"こと坂崎幸之助(覆面バンド・ビートボーイズ)は「待ってました」「俺しかできないだろ」と製作に励み、歌も生ギターの弾き方もMCもコピーする徹底ぶりで話題を呼んだ。高校時代の青春・拓郎と仲良くなれた坂崎は"僕のフォーク人生はこれで終わってもいい"と思ったという。BE∀T BOYSは遊びで作った割には完成度が高く、話題を呼び1988年に復活すると大人気となりレコード発売や全国ツアーまでやった[605][606][607][608]。
- 姉が拓郎のファンだった氷室京介は、姉のギターで拓郎の曲を弾いたのが音楽を始めたきっかけ[609][610]。氷室はBOØWY解散後、ソロになった後「たどりついたらいつも雨降り」をカバーしている。
- DREAMS COME TRUEの中村正人も中学の時、拓郎に憧れギターを始めたという。中村は拓郎から「コンサートを見に行くからお前頼むな」といつも席を取らされるが、一回も見に来てくれたことはないと話している[611][612][613][614][615]。
- 渡辺美里も拓郎が好きで、特に「どうしてこんなに悲しいんだろう」が大好きで、1987年初の日本武道館を含むアリーナツアーと、同年7月に発売されたアルバム『BREATH』の製作は、この歌を歌いたい、という想いが全体構成の軸になっているという。渡辺自身の歌は、ガンバロウ!というすごく前向きな歌が多いと受け止められているが、そればかりでない"もっと内なる部分の私的革命の歌"を中心にと考えた時、「どうしてこんなに悲しいんだろう」があって「どうしてこんなに悲しいんだろう」があるから「My Revolution」に続くんだろうと、前記のアリーナツアーでは「君はクロール」~「どうしてこんなに悲しいんだろう」~「My Revolution」と続く流れで歌われた。アルバム『BREATH』も同様で、アルバムラスト曲「風になれたら」は、「どうしてこんなに悲しいんだろう」の女の子版だと思うと話している[616]。
- 高橋ジョージがもっとも影響を受けた番組は、拓郎が司会を務めていた「バイタリス・フォークビレッジ」(ニッポン放送)という。このラジオとは別に、テレビに出た拓郎がレコードとはまったく違うアレンジで「旅の宿」を弾くと頭の中が真っ白になるほどのショックを受け「こんなスゴいことができるなんて...これはギターを買わないとダメだ!」と急いで通販でギターを買ったのが本格的に音楽を始めた切っ掛けという[617]。
- スピッツの草野マサムネは「子供の頃、明星みたいな雑誌で、ほとんどのアイドルが親交のあるミュージシャンとして"よしだたくろう"を挙げていたことから興味を持った」「自分で曲作りを始めてからも、僕は日本のロックに全然興味がなくて、参考にした歌謡曲の作者に筒美京平さんや都倉俊一なんかと同じくらい"よしだたくろう"さんの曲がいっぱいあって、すごい才能のある人なんだなと感心した」「スピッツの7枚目のシングル「君が思い出になる前に」は「春だったね」の歌いだしをタイトルに借用したもの」「ブルーハーツを最初に聴いた時は吉田拓郎みたいなものを感じた」「直接的な影響はそんなにないけど、間接的にはみんなものすごく受けてるんでしょうね。そういう意味では、日本のビートルズ的な存在なのかもしれないですね」等と話している[618][619]。同様にオークラ出版「FOLK LIFE 倶楽部」誌は"日本に「ビートルズ」がいるとすれば、後の影響力も考慮すれば、それは「吉田拓郎」その人なのである"と論じている[620]。
- 前記以外のミュージシャン・歌手・音楽関係者で、拓郎のファン、あるいは影響を受けたと話している人に、網倉一也[621]、ECD[622]、中川敬一(雅夢)[623]、ブラザートム(バブルガム・ブラザーズ)[624]、木根尚登(元TM NETWORK)[625][626]、長谷川智樹[627]、松井五郎[628]、織田哲郎[259]、八田ケンヂ[629]、花田裕之[630]、日浦孝則(class)[631]、ダイアモンド☆ユカイ[632]、錦織一清(少年隊)[633][634]、トータス松本(ウルフルズ)[635]、YO-KING(真心ブラザーズ)[448][636]、ROLLY[637]、矢口真里(モーニング娘。)[638]、TAKAYO(元ZONE)[639][640]、コザック前田(ガガガSP)[641][642]、山口隆(サンボマスター)[636]、大橋卓弥(スキマスイッチ)[643][644]、藤巻亮太(レミオロメン)[645]、ミドリカワ書房[646]、永友聖也(キャプテンストライダム)[647][648]、つじあやの[649]、熊木杏里[650][651]、玉城ちはる[652]らがいる。YO-KINGは拓郎軍団に入っていたという[448]。奥田民生は皆実高校の19年後輩、MEGは34年後輩。拓郎と奥田は1999年、『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』(フジテレビ)のオープニングMCを二人で広島弁でやったことがある。
[編集] 確執・その他縁のあったミュージシャン
- はしだのりひこは、「拓郎、岡林あたりの世代になっていくと、自分の心情をいかに少々過激に表現するかというようなものが多かったんですが、僕らの場合はどちらかと言うともっと企画的だったんです、企画演出的。(長文のため中略)僕らには遊び精神がものすごくあったように思う。(中略)だから、拓郎や岡林みたいに緻密に自分の心情を正直に、というふうなのも、実はちょっとクスッと笑えてしまうというか、マジだよな、あれじゃシャレになんないな、というような感じは僕らの中に若干ありました」等と話している[653]。
- フォーク・クルセダーズの北山修は、自身と拓郎や陽水ら1970年代以後のシンガーソングライターの違いについて「自分たちのようなアマチュアでやってたのがたまたまヒットしたのと"ここに歌いにくるつもりで来ました"というのでは違う」「1960年代には商売にならなかったわけで、スターになることなんて、思ってもみなかった」と話している[654]。
- 北山は"フォーク"が"ニューミュージック"になった分岐点を1975年頃、歌謡曲の森進一が拓郎の「襟裳岬」を歌ったときに始まると論じている。つまり1960年代にビートルズが出てきて、歌の聞き手が作者に代わることができるようになった時代から、1970年代に拓郎とか陽水たちが出てきてまたプロ化した。要するに才能と金、設備がないと出来ない歌の世界にした。歌作りが面白くなくなったんだというように、僕は時代を見ていると話している[655]。
- 拓郎が1971年7月から始めたライブハウス・渋谷ジャンジャンでの定期コンサートで、拓郎の前座をよく務めていたのが「僕の好きな先生」や「2時間35分」などをアコースティックでやっていたRCサクセションだった。忌野清志郎は当時、拓郎が嫌いで出番が終わると顔も見ないで帰っていたという[656]。ただ確執があったわけではない。拓郎の方は清志郎が好きだったようで、NHK-AM『若いこだま』 のDJ等を務め、1970年代のニューミュージック系ミュージシャンの売り出しに功績のあった吉見佑子が1970年代の後半、まったく売れてなかったRCサクセションの廃版になっていたアルバム『シングル・マン』の再発に業界を奔走した時も、拓郎は「オレはRCが好きだ」と自身の番組「セイ!ヤング」でRCの曲をプッシュしたし[657]清志郎は『LOVE LOVEあいしてる』にもゲスト出演(1998年12月5日)している。この番組の出演者、ゲストの選定は拓郎の意向がかなり反映されていた[658]。清志郎がテレビで奥田民生と初共演した時には「オマエ広島(出身)かぁ 何だ、それで吉田拓郎に顔が似てるのかぁ」とムチャ言ったこともあった。
- その吉見佑子は、熱を上げていた拓郎と食事をした時、「どうしてあんなつまらないシングル(レコード)出すの?あなたのシングルだけは信じらない」「あんなの出すの、恥ずかしいからやめてほしい」と、つい言ってしまった。すると拓郎は「ウルサイ!おマエはウルサイんだよ、そこが」と酷く怒ってしまい、横にいた甲斐よしひろも「吉見さんはやっぱりそこがウルサイんだよ」と言った。拓郎は「分かっているからこそいうな。そこにはいろいろ事情がある」などと言ったが、吉見はもうショックでその後は黙りこくった。すると「今日は佑子、いいねェ。色っぽいねー。黙ってると、ほんと色っぽいよ」と拓郎と甲斐が二人で言ってきた。吉見の拓郎に対する熱は一気に冷めてしまったという[659]。
- 古井戸の金崎芳樹(加奈崎芳太郎)が1971年8月頃、エレック・レコードに入社が決まり、一度会社に挨拶に行こうと事務所を訪ねると、部屋の隅でダンボールの梱包をしているオジさんと、奥の机で電話している拓郎がいて、拓郎に「社長さんはどこですか?」と聞いたら梱包をしているオジさんが社長で、拓郎は電リクをしていた[660]。加奈崎も仲井戸麗市も、拓郎さんには可愛がってもらいましたと述べている[661][662]。
- テレビ出演拒否のきっかけを作った布施明からは30年後に正式に謝罪を受けた。但し最近も布施サイドから曲の依頼があるが「俺は絶対に書かない」と言っているという話もある[663]。また2006年、つま恋の復活コンサートの大成功で、この年の『紅白歌合戦』の目玉とも言われた拓郎が出場を辞退したのは布施が出るからとも言われた[664]。
- 1971年11月6日、慶應義塾大学で行われたコンサートは、俗に"慶應三田祭事件"と呼ばれる。これは頭脳警察伝説として有名だが、はっぴいえんどの事務所と確執のあった頭脳警察が観客をアジりながら、えんえんと演奏を続けて居座り、次に出たはっぴいえんどの大滝詠一が「前のバンドが僕らのぶんもやってくれたので」と言ったため観客が反撥、石の飛ぶ中1曲だけ「はいからはくち」をやって帰ってしまったもの。その次の出番だったのが拓郎で、一人で全部を受けとめる羽目となり、ビール瓶が飛んで来て1曲も演奏出来ないまま引き下がった。この事をまったく知らなかった大滝は後で拓郎に「お前らよお、あれ、あの後も観客を静めるのに大変だったんだぜ、俺は」と散々言われたという。拓郎は頭脳警察にも憤慨していたが、その後、PANTAと話す機会を得て好意を持ちパックインミュージックで『頭脳警察セカンド』からシングルカットされた「いとこの結婚式」という拓郎のヒット曲を意識したような曲をプッシュしたり、頭脳警察をゲストで呼んだりしたがこの曲はヒットしなかった[665]。
- 細野晴臣は近年、元気のいい自身と同じ団塊の世代について、"彼らははっぴいえんどと吉田拓郎を並んで聞いていた。しかしはっぴいえんどの奥まで入ってきてくれなかった""はっぴいえんどはまったく売れなかった。だから辞めた""彼らもオレを理解しないし俺も彼らを理解しない。それは今も同じ。フォークは嫌い"等と述べている[666]。また拓郎と公私に付き合いの深い松本隆は、自身と拓郎らとの関係を「ぼくがロックの世界から歌謡曲側へ行って、その間に川が流れてたとするでしょ。ぼくはそこにコツコツと橋を作ったわけですよ。そしたらね。いつの間にか隣に鉄橋がかかってて、そこを新幹線がピューッと走ってた、と...。それがニューミュージックだと思うんです。最初は拓郎、陽水、こうせつ。で、後になってユーミンが出てきて~ だから、ぼくにとっての川は、その時点で消滅しちゃったんです」と表現している[667]。
- 小室等が1972年頃、グループを組もうと女性ボーカルを捜してリリィを決めかけていたが、その後リリィは長い旅に出てうやむやに。リリィはあの時、連絡がついていたら「今頃は私が拓郎と結婚してたんじゃないかな」と話している(小室と拓郎が非常に近い関係のため)[668]。
- あのねのねの替え歌レパートリーの一つに拓郎の「旅の宿」があって、これは"浴衣の君は尾花の簪~"の出足のあと、1番、2番の間を全て抜いてチャンチャン "色っぽいね"とすぐに終わるものだった。この曲はあのねのねの1973年のアルバム『あのねのねビューティフル・オン・ステージ~』に「赤とんぼ」「魚屋のおっさんの歌」等と共に収録されている。
- 宇崎竜童は大学を出るまでの10年間、ブラスバンドをやったり、デキシーランドをやったり、フォークをやったりでプロになる気はまったくなかった。その頃のロックの人たちは、とてもかっこよく見えて、これはおれはダメだなと。それが目安だった。ところが拓郎や泉谷、高田渡、武蔵野タンポポ団らが出てきて「きったねぇ。何だこのやろう、歌もうまかねぇ。ただシンガー・ソングライターって自分で曲書いただけで。こんなやつらが出てこれるんだから、おれだって出ていけないわけねぇ」と思ったのがプロデビューを決意し、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドを結成した理由という[669]。
- 山下達郎は「僕と拓郎なんてある意味、今の音楽界で両極端、対極じゃないか」と話している[670]。
- 「夜ヒット」初出演は1980年6月30日。その約8ヶ月前の1979年11月12日に出演が予定されていたが、直前になって曲目等の件でスタッフと折り合いがつかなくなりキャンセル。この時に拓郎の代役として夜ヒット初出演を果たしたのが、まだレコードデビューして間もなかったCHAGE and ASKAであり、この出演を機に一気に彼らの知名度が上昇し翌80年の「万里の河」大ヒットの土壌が育つこととなった。彼らも拓郎、陽水を聴いてた世代。飛鳥涼は「いまだに陽水さんに会うと緊張するし、拓郎さんに至っては話もできない」と話している[671]。
- コミックシンガーの嘉門達夫は「ペニーレインでバーボン」にインスパイアされた字余りの歌「天才でバカボンを」を作った。
- 松山千春は「拓郎が嫌い」とラジオや自著で発言[672]。これを聞きつけたか拓郎も「松山が嫌い」と発言する事態となり[673]、犬猿の仲ということになっていた。しかし2000年7月29日に拓郎が司会を務めていた「LOVE LOVEあいしてる」に松山がゲスト出演。並んで座ったが2人で会話をからませることはなく拓郎は終始無言、松山の独演会となった。拓郎嫌いの理由については、岡林信康が好きだったが岡林のあと[674][675]拓郎派と加川良派に分かれ、加川良のほうが好きになったため、好きの反対なら「拓郎→嫌いだろ」と説明した。
- 高見沢俊彦が現在のようにピンでテレビやラジオに出演するのは『T×2 Show』(テレビ朝日系、2000年10月~2002年9月)の司会を拓郎と担当してから。それまでは積極的にテレビには出ず、出演依頼も断り、場を仕切るなど考えもしなかったが、高見沢の面白さに目を付けた拓郎から「お前はテレビが性に合う」「将来必ず財産になるから」「俺の横にいるだけでいい」等と説得されやむなく出演した。ところが進行役は全てやらされたという。が、今では心の底から拓郎さんには感謝している、と述べている。また高見沢の“王子”キャラは拓郎がそう呼んだのがきっかけで始めたもの。高見沢は“王子”キャラの元祖である[676][677][678]。アルフィーにとっても拓郎はキーパーソンとなる[679]。
- 篠原ともえとは、「LOVE LOVEあいしてる」で共演する前に、番宣番組で共演しているが、篠原の濃いキャラに嫌悪感を抱いた拓郎は完全無視を決め込み、それでもめげない篠原に「なんだお前!?触るんじゃねぇ!!」と激怒し、追い払った。さらに「LOVE LOVEあいしてる」に篠原もレギュラー出演することを聞いた拓郎は、「アイツが出るなら、俺は番組を降りる!!」と断言。しかし、それを知らない篠原は、ほぼ毎日のように拓郎と接触し、何とかして仲良くなろうと思っていた。その努力が実ったのか、拓郎の口から「お前はウルサイけど、いないと寂しい。」との言葉が出て以来、仲が深まるようになった。ちなみに篠原は拓郎のことを「音楽の大先生」として尊敬しているが、初めて会ったときにブチ切れされた時、篠原は「もう芸能界で生きていけない」と思ったらしい。
[編集] ミュージシャン以外
- 志村けんとよく飲み、電話で呼び出せる仲良し[680]。志村の著書のあとがき・解説を拓郎が書いている[681]。志村は拓郎以外のミュージシャンの飲み友達で他に、拓郎よりも意外な柳ジョージを挙げている[681]。
- 明石家さんまは拓郎の大ファンで、さんまが音楽番組「LOVE LOVEあいしてる」に出演した(1996年11月9日)のは拓郎が司会だったから。拓郎の凄さをもうひとつ理解していないKinKi Kidsに、さんまは拓郎の素晴らしさを一生懸命説明したという[682]。この後、拓郎が『さんまのまんまスペシャル2001』(2001年12月28日)にゲスト出演したのも、さんまからの強いオファーがあったため。さんまは「"イメージの詩"を人生の教科書とし(拓郎をまねて)ハイライトを吸って生きてきた。今はマルボロですけど」と話し、自身がカラオケで歌うのは「イメージの詩」ぐらいという。ところが拓郎は「体のこと考えて軽いフロンティアに変えたんですよ」「僕の作る歌、全部ウソだから。信用してる人がおかしい」などと話し、さんまと拓郎ファンをがっかりさせた[683][684]。
- ビートたけしと1982年、『すばらしき仲間』(TBS、4月11日)で対談したのも、たけしから「会いたい」とオファーを受けたものだった[685]。世に出たのは10年違うが二人は同世代である。たけし軍団ではダンカンが拓郎ファン[686]。
- 清水ミチコの顔マネの原点は拓郎という[687]。
- 山口智充はアルフィーが覆面バンド・ビートボーイズとしてレコードを出した拓郎メドレー「スターズオン23 吉田拓郎」(後に「ショック!!TAKURO 23」に改題)を聴いて拓郎を知り、ギター弾き始めた切っ掛けも拓郎という[688][689]。
- 爆笑問題は二人ともファンだったと話している[690]。太田光はテレビで「流星」を歌ったことがある。
- 秋吉久美子は1972年高校三年生の時、将来を決めかね追い詰められた気持で夜中、ラジオで拓郎の深夜放送を聞いていると、拓郎が夏休み1ヶ月で四国に行って映画(旅の重さ)を作るのでヒロインを募集する、と言うのを聞き、"ああ、ちょうど夏休み1ヶ月間か、どっかに行っちゃいたいなあ"と思いオーディションを受けたのが芸能界入りしたきっかけだったという[691]。デビュー作の映画『旅の重さ』は音楽を拓郎が担当した。秋吉は"あたしは岡林信康、吉田拓郎、泉谷しげる、などで育った"と話している[692]。
- みうらじゅんは「気ままな絵日記」がバイブルといい、自身の文体はどんな文豪より拓郎の影響を受けているという[693][694][695]。
- 柴門ふみは「ある世代の人々にとっての美空ひばり、ある世代の人々にとっての石原裕次郎が特別な意味合いを持つように、"私たち"の世代にとってのその人は、よしだたくろうである」と自著で述べている[696][697]。2009年に拓郎のオリジナルアルバム「午前中に…」が、オリコンアルバムランキングで初登場6位を記録し史上最年長記録を更新したが、オリコンの小池恒社長は、拓郎の記録更新について「時代が吉田拓郎というアーティストを求めたのだと思う。購買層は団塊の世代を含む年齢層の高い男性が中心だと思われるが、この年代にとって拓郎は『フォーク、70年代文化の象徴』であり、『同じ時代を生きてきたヒーロー』」等と解説した[698]。
- 福田和也は雑誌「CIRCUS」の石丸元章との対談で「拓郎は熱心に聴いた。~彼はメロディメーカーとしては格が違う。『襟裳岬』のメロディーなんかは普通は書けない。しかもきちんと日本語に合っている。そういう意味でいうと、拓郎と桑田佳祐だよね。どちらかが残るかは微妙だけど」。 石丸「日本のロックの大御所ですからね」と述べている[699]。
- その他、文化人では鈴木敏夫[700]、残間里江子[701][702]、えのきどいちろう[703][704][705]、江口寿史[706][707][708]、泉麻人[449][709][710][711]、岡崎武志[712]、高須基仁[713][714]、佐々部清[715]、森達也[716]、秋元康[717]、喜国雅彦[718]、長井健司[719]、竹内義和、重松清[720]らがファン、ファンだったといっているが、文化人の理解者は多いと言えず、重松は「もし拓郎が亡くなっても朝日新聞の文化面とかに"吉田拓郎とは何であったか"をまともに書ける人って、ほとんどいないんじゃないかな」と心配している[721]。
[編集] 3度の結婚
最初の四角佳子との結婚では婚約発表も自身のラジオ番組、パックインミュージックの中だけ、マスコミの取材・会見も一切しなかった。おめでたい結婚でマスコミを拒否するということも当時の常識では考えられないことだった。スターが結婚したら人気は間違いなく落ちる、というのも世の常識だったが逆に人気が上昇した。
二人目の妻となった浅田美代子は拓郎自身もファンで、当時21歳で人気絶頂期だった浅田を自分の持ち番組にゲストで呼び、その後結婚した。後に浅田が芸能界に復帰し「オシャレ30・30」等のトーク番組でその時のことを詳しく話してしまい、拓郎の行状が明らかになった。ゲスト出演して電話番号を交換すると後日(浅田の誕生日の前夜に)拓郎から電話がかかってきて「今、小室等さんと飲んでるんだけど、誕生祝いしてあげるから0時過ぎたら来なよ」と誘われた。マネージャーからは会ってはいけない、と釘をさされていたが、言われた酒場に行くと拓郎一人しかいない。「小室さんは?」と聞くと「ああ今帰ったよ」と言った。小室をダシに使ったわけである。一説には男子トイレの前で拓郎が通せんぼをして「俺と結婚しろ!」と浅田に迫ったところ、浅田は恐怖と照れと喜びが混ざって頭の中が真っ白になり、思わず「ハイ」と承諾してしまった、とも言われている。なお拓郎からプロポーズを受けた浅田美代子の返事は 「……ハゲない?」だった[722]。最初にこの二人の熱愛報道が出た時は、まだ四角との離婚は成立しておらず、この結婚には内田裕也・樹木希林夫妻の奔走があったという[723]。
その後再び同じパターンで森下愛子とも結婚した。二度目のオールナイトニッポンのゲストで呼んだ時、森下は警戒し親友の竹田かほり(現・甲斐よしひろ夫人)と一緒にやって来た。森下は当時、根岸吉太郎との結婚が噂されていたが急転、拓郎と再々婚した[724]。「オシャレ30・30」に出演(1988年5月15日)した森下自身の話では、ラジオにゲスト出演した2、3年後に偶然?美容室で(当時、アンドレ・ザ・ジャイアントみたいな頭をしていた)拓郎に会って「今レコーディングやってるんで、見に来ませんか」と誘われて行ったのが付き合い始めた切っ掛けという[725]。他に古舘の「拓郎さんみたいな人を相手にするの大変でしょう?」という質問に対して森下は「いいえ、前のお二人が角を取って下さったみたいで、今はとても扱いやすいですよ」と答えていた。これらもフォーク・ロック系ミュージシャンとアイドル、あるいは女優との結婚の先駆けであった[726]。
なおこれとまったく同じことを弟子の長渕剛が石野真子との結婚の時にした[727][728][729][730]。こちらをセッティングしたのは当時、オールナイトニッポンの構成作家をしていた秋元康[731]。ハワイの教会で行われた長渕と石野の結婚式の仲人を務めたのは拓郎と浅田夫妻(当時)であった[732]。
[編集] 作品リスト
詳細は「吉田拓郎の作品一覧」を参照
[編集] 書籍
[編集] 自著等
- 気ままな絵日記(1972年8月・立風書房→角川文庫)
- 明日に向かって走れ(1976年7月・八曜社→角川文庫)
- BANKARA(1983年8月・角川文庫) ※歌詞集
- 俺だけダルセーニョ(1984年1月・集英社)
- 自分の事は棚に上げて(1992年11月・小学館→1998年10月・小学館文庫)
- ふたたび自分の事は棚に上げて(1995年1月・小学館)
- 吉田拓郎 CLUB26 教えてハワイ(1996年8月・TOKYO FM出版)
- 吉田拓郎・お喋り道楽(1997年10月・徳間書店) ※対談集
- 吉田拓郎のワイハーへ行こう!!(2001年3月・ワールド・フオト・プレス)
- もういらない(2002年4月・祥伝社)
- 晴れときどき拓郎 Younger than yesterday (2003年7月・小学館)
[編集] 解説書等
- 誰も知らなかったよしだ拓郎(1974年12月・山本コウタロー著・ペップ出版→八曜社)
- 吉田拓郎 挽歌を撃て(1980年9月・石原信一著・八曜社)
- 俺達が愛した拓郎(1985年8月・石原信一他著・八曜社)
- 吉田拓郎'70-'90ヒストリーブック(1990年10月・田家秀樹著・フォーライフ)※ビデオBOX付録
- 吉田拓郎ヒストリー 1970-1993(1994年1月・田家秀樹著・ぴあ)
- 地球音楽ライブラリー 吉田拓郎(1996年9月・田家秀樹監修・TOKYO FM出版)※1999年11月、2006年12月に改訂増補版発行
- 吉田拓郎サマへの道(1999年10月・福島直子著・ネスコ / 文藝春秋)
- 豊かなる日々 〜吉田拓郎、2003年の全軌跡〜(2004年6月・田家秀樹著・ぴあ)
- ヤング・ギター・クロニクル Vol.1 吉田拓郎 これが青春(2007年2月・シンコーミュージックエンタテイメント)
- いつも見ていた広島 〜小説吉田拓郎 ダウンタウンズ物語(2007年9月・田家秀樹著・小学館)
[編集] 写真集他
- よしだ・たくろうの世界(1971年12月新譜ジャーナル別冊・自由国民社)
- いまです よしだたくろう(1972年11月・立風書房)
- 拓郎・かぐや姫 5万人 炎の12時間(1975年9月・八曜社)
- ドキュメントつま恋(1975年9月・共同音楽出版社)
- 吉田拓郎・大いなる人(1977年12月・八曜社)
- 吉田拓郎One Last night in つま恋 1985(1985年10月・ユイ音楽工房)
- TAKURO-A magazine filled with essence of sexy guy(1986年・フォーライフレコード)
- 公式記録BOX 吉田拓郎&かぐや姫Concert in つま恋2006(2006年12月・阪急コミュニケーションズ)
- 吉田拓郎読本(2008年7月・CDジャーナルムック・音楽出版社)
[編集] 脚注・出典
- ^ 高校時代に考えた最初の芸名は入江(順)。好きだったモデル・入江美樹と好きだった女の子の名前(準ちゃんと思われる)を足したもの(いつも見ていた広島、田家秀樹、小学館、p164、184、185、ふたたび自分の事は棚に上げて、p176)。
- ^ バンド名は「リトル・ダーリン」の大ヒットで知られるアメリカのロックバンド・ダイヤモンズから(いつも見ていた広島 〜小説吉田拓郎 ダウンタウンズ物語、2007年、田家秀樹、小学館、p10)。
- ^ RIZE が、まるでビリーバンバンを歌うよな・・・ - 竹善のブログ「おくらの軍艦巻き」
- ^ 吉田拓郎20th Anniversary 元気てす!(FM NACK5、1990年10月10日)
豊かなる日々 〜吉田拓郎、2003年の全軌跡〜、2004年6月、田家秀樹著、ぴあ、p123 - ^ いつも見ていた広島、2007年、田家秀樹、小学館、p118-123
渡辺プロの諸岡義明専務は「渡辺プロがなかったら、地方の若者が音楽と出会える機会もなかったと思いますよ。吉田拓郎も広島で『ザ・ヒットパレード』を見て、おれも音楽をやりたいと東京へ出てきて、最初に渡辺プロを訪ねたんだそうですよ」と話している。荒俣宏は、"拓郎を音楽に走らせたきっかけの一つに渡辺プロの活動があったというのは、まさしくシンボリックな逸話といえる。なぜなら、その拓郎をはじめとする新しい波が、テレビとは無関係な音楽を創りだし、渡辺プロの創りだしたテレビ歌謡を変えていくことになったのだから"と論じている(TV博物誌、1997年、荒俣宏、小学館、p189)。 - ^ このコンテストに拓郎が出場した理由の一つは中村が審査員だったため。ディランのアルバムの解説はたいてい中村が書いていてディランのレコードもコロムビアから出ていた(いつも見ていた広島、田家秀樹、小学館、p149)。
- ^ Lapita 月刊吉田拓郎、2003年9月号、小学館、p25
- ^ いつも見ていた広島、田家秀樹、小学館、p161-162
- ^ 蔭山敬吾ブログ Welcome to GRACELAND & Keigo Kageyama's LABEL
- ^ 気ままな絵日記、角川文庫再版本、1983年5月、p50
- ^ 3位には終わったが「土地に柵する馬鹿がいる」と「花はどこへ行った」は7月にコロムビアのスタジオで録音された。レコード発売がされたかは不明。(ヤング・ギター・クロニクル Vol.1 吉田拓郎 これが青春、2007年2月、シンコーミュージックエンタテイメント、p60)
- ^ ニッポンのうた漂流記、2004年9月、飯塚恆雄著、河出書房新社、p107
- ^ 拓郎を見逃したコロンビア大阪営業所だが、この後フォークやロックが台頭してきて演歌が追いやられていた1971年、宮史郎とぴんからトリオの「女のみち」という"ド演歌"を発掘したという大きな業績がある(ニッポンのうた漂流記、2004年9月、飯塚恆雄著、河出書房新社、p127)
- ^ いつも見ていた広島、田家秀樹、小学館、p183-189、207-217
- ^ わが青春の流行歌、池田憲一、白馬出版、p109
- ^ 青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p51
- ^ 読むJ-POP 1945-1999私的全史、田家秀樹著、徳間書店、1999年8月、p130
- ^ 気ままな絵日記、p45-47
- ^ 産経新聞、1996年9月24日夕刊、p10
- ^ いつも見ていた広島、田家秀樹、小学館、p144-145、165-206
- ^ 日本フォーク私的大全、なぎら健壱、p327
- ^ LOVE LOVE あいしてる
- ^ 当時はベトナム戦争が最も激しかった頃であり、岩国基地は沖縄と並ぶ最前線基地だった。
- ^ いつも見ていた広島、田家秀樹、小学館、p278
- ^ い ろ は 地球音楽ライブラリー 吉田拓郎、TOKYO FM出版、p6
- ^ いつも見ていた広島、田家秀樹、小学館、p275-290
- ^ 俺達が愛した拓郎、石原信一、p135
- ^ い ろ 気ままな絵日記、p48-50
- ^ いつも見ていた広島、p291-298
- ^ いつも見ていた広島、田家秀樹、小学館、p349-360、422-431
- ^ 翌1969年、第3回大会のフォーク部門で優勝したのが赤い鳥、2位がジ・オフコース。彼らと競ったのがフォーシンガーズ(チューリップの前身)ら(風のようにうたが流れていた、2005年、小田和正、宝島社、p61-67、72-75、112-115、いつも見ていた広島、田家秀樹、小学館、p425、坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p136、137、141。)。
- ^ シニアコム.JP
れとろげーむまにあ: ハッカーインターナショナル元社長:萩原暁氏 - ^ ケータイde中国新聞 ケイタイでも読める「広島フォーク村」
- ^ 蔭山敬吾ブログ Welcome to GRACELAND & Keigo Kageyama's LABEL
- ^ いつも見ていた広島、田家秀樹、小学館、p415-418、432-438
- ^ い ろ 吉田拓郎 挽歌を撃て、石原信一、八曜社、p27-28
- ^ 読むJ-POP 1945-1999私的全史、1999年、田家秀樹著、徳間書店、p121
- ^ ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p47
- ^ 吉田拓郎読本、CDジャーナルムック、音楽出版社、p27-28
- ^ 読むJ-POP 1945-1999私的全史、p130-131
- ^ 「イメージの詩」は、アルバム音源を雑に編集したもの。「マークII」はアルバムに収録されたものとほとんど同じアレンジだが、音源は別。現在までこのシングルの音源は未CD化。レコード盤も売れなかった為、貴重品である。しかし、吉田に影響を受けたTHE ALFEEの坂崎幸之助は、このバージョンのシングルを発売当時に買って所有しており、2009年8月20日放送の「わが青春の吉田拓郎!坂崎幸之助のオールナイトニッポンGOLD」で実際に数年前にあるフリーマーケットで買ったと言う後に出た再録音盤の音源との違いを自ら掛けて聞き比べた。また、イメージの詩のあまりの編集の雑さに素人が曲の編集をしたんじゃないか?と批評した。
- ^ この『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』は東京のメディアでも話題となり、テレビでも紹介された。メンバーも出演したテレビ番組のなかで司会の芥川也寸志が「じゃあぼくも1枚買いましょう」と現金を払って買ったことがあった(ニッポンPOPの黄金時代、2001年、恩蔵茂、KKベストセラーズ、222)。
- ^ Lapita 月刊吉田拓郎、小学館、p22
- ^ 吉田拓郎ヒストリー 1970-1993、1994年、田家秀樹著、ぴあ、p161
- ^ い ろ 読むJ-POP 1945-1999私的全史、p131
- ^ エレックは拓郎、泉谷の大黒柱を失った等の理由で1975年倒産するが、泉谷は自著「泉谷しげるの治外法権」の中で、社長がオレたちの稼ぎを女につぎ込んだから倒産した(p62)、拓郎は「社長も専務も皆サギ師、泉谷もみんな騙されていた」と糾弾しているコンサートMC
- ^ い ろ 地球音楽ライブラリー 吉田拓郎、TOKYO FM出版、p7
- ^ 坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p26
- ^ 但し、浅沼専務に関しては一流のプロデューサーだったと評価する声が多い(ニューミュージック の危険な関係、1978年、富澤一誠、青年書館、p70-79、フォーク対談集、1974年、富澤一誠、アロー出版社、P40-58)
- ^ 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評44 拓郎&陽水と「フォーク黄金時代」、宝島社、p46、115、116
- ^ 平仮名表記「よしだたくろう」は、みうらじゅん、えのきどいちろう、いとうせいこうら平仮名表記のはしり(日本崖っぷち大賞、1998年、みうらじゅん、泉麻人、山田五郎、安斎肇、毎日新聞社、p175)。
- ^ 吉田拓郎ヒストリー 1970-1993、田家秀樹、ぴあ、p141-142
- ^ ツアーMC
- ^ 青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p67
- ^ 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評44 拓郎&陽水と「フォーク黄金時代」、宝島社、p77
- ^ 「音楽文化・産業論 2008 I」 講師:後藤由多加 「インディーズ創世記」
- ^ 夢のあがり―ニューミュージックの仕掛人たち―1983年4月、富澤一誠著、音楽之友社、p41-42、51-52
- ^ 吉田拓郎 挽歌を撃て、石原信一、八曜社、p32
- ^ この時代はレコードが「報道」の意味合いをまだ持っていたため、朝日ソノラマのソノシートには拓郎の歌と水俣病のドキュメントが並列に扱われていた(ロック画報03 特集フォーク・ミュージック、2000 年、ブルース・インターアクションズ、p70)。
- ^ ロック・クロニクル・ジャパンVol.1、1999年、音楽出版社、p29
- ^ 拓郎は2月から東京でマンスリーコンサートを行った。第1回紀伊国屋ホールから毎回会場を変え、第2回までのバックバンドはマックスだった。第3回目から登場し以後5ヶ月間活動を共にしたのがミニバンド。ライブアルバム『よしだたくろう・オンステージ ともだち』の音源はミニバンドによるもの(気ままな絵日記、p183、184、187、吉田拓郎ヒストリー 1970-1993、1994年、田家秀樹著、ぴあ、p10)。
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- ^ 詞の内容は理解できてなかったが、泣かせるコード進行が好きで、その後の曲作りにも大いに使わせてもらったと話している(AERA in FOLK あれは、ロックな春だった!、朝日新聞社、p44)。
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- ^ 関西では人気DJだった谷村新司は、拓郎のパックインミュージックに対抗するため、文化放送が東京では無名の谷村をセイヤングに1973年4月から抜擢したもの(夢のあがり―ニューミュージックの仕掛人たち―、p119-120)。
- ^ 毎週数千通の投書を集めた(ロック時代=ゆれる標的、相倉久人、文化放送、p289)。
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- ^ 丸山茂雄はこの頃の拓郎らフォークシンガーの担当者。山口百恵ら主流のアイドルを担当したのが酒井政利ら<丸山茂雄インタビュー><丸山茂雄対談録>。
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- ^ エレックのようなマイナーレーベル時代のものは、そういう世界ではまだ"ないもの"に等しかった(関西フォーク70'sあたり、中村よお、幻堂出版、p68)
- ^ 当時はシングルは売れても、アルバムは3千~5千枚売れたらいい方であった(ラヴ・ジェネレーション1966-1979 新版 日本ロック&フォークアルバム大全、音楽之友社、p282)。
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- ^ 当時、NHKの音楽番組に出演するにはNHKのオーディションに合格しなければならなかったが、数年前に拓郎がNHKのオーディションを受けて落とされた事実が分かると、NHKは同番組に出てもらうため、拓郎の吹き込んだテープを取り寄せ再審査しパスさせた(ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p63)。
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- ^ いろいろな圧力があったが、コンサートの後援で入っていた(オールナイトニッポンで放送あり)ニッポン放送の亀淵昭信が最後まで「拓郎を信じる」といって頑張ってくれたのが中止にならなかった理由という(ヤング・ギター・クロニクル Vol.1 吉田拓郎 これが青春、p126)。ただし、亀淵は自身が担当した「オールナイトニッポン」で拓郎の曲をかけなかったことで知られる。亀淵の番組しか聞かなかったリスナーは拓郎を知らなかったというエピソードがある(亀淵昭信のオールナイトニッポン 35年目のリクエスト、2006年、亀淵昭信、白泉社、p31、32)。
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- ^ が、翌年春のツアー1回限りで撤回。秋のツアーではアンコールが単なるお約束と化していることに異を唱え、アンコールをやらなかった。だが、これも1回限りだった(俺達が愛した拓郎、石原信一他著、p140)。
- ^ 読むJ-POP 1945-1999私的全史、p222
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- ^ 客が“帰れコール”浴びせたり、ステージに上がってわめいたりするのが1970年代に流行したのは前記、第3回の中津川での暴動から。その後のコンサートで、このときのマネをする勘違いが流行った(頭脳警察、2004年8月・須田諭一著・河出書房新社、P231-232)。
- ^ 耳を澄まして聴く歌詞に共感できれば拍手をし、気に入らなければ“帰れコール”を浴びせる。フォークと聴衆の関係はそのようなものという考え方があった(ロックミュージックの社会学、南田勝也、青弓社、p132)。
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- ^ 吉田拓郎ヒストリー 1970-1993、田家秀樹著、ぴあ、p163
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- ^ 本来フォークとは民謡という意味を持つため、日本のフォークとは趣旨もニュアンスも違うと番組製作者が「ジーンズサウンズ」というネーミングを考えラジオ番組のタイトルに付けたことがある。これは拓郎を始め当時のフォークシンガーがジーンズを穿く者が多かったため(永遠のJ-POP、2004年、島敏光、学習研究社、p229、230)。
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- ^ 地球音楽ライブラリー 吉田拓郎、TOKYO FM出版、p19
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- ^ こうした音楽性から拓郎は元来、ポップス歌手でありフォークブームを巧みに利用したにすぎない、という論調もある(流行歌 気まぐれ50年史、1994年、矢沢寛、大月書店、p103)。
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- ^ Gauguin(ゴーギャン)、2008年4月号・東京ニュース通信社、p17
- ^ ディランを語ろう、浦沢直樹・和久井光司、p38
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- ^ 替え歌とはいえ、この曲が最初のオリジナル曲。長いタイトルはやはりディランの「第三次世界大戦を語るブルース」などの長い題名に影響されている。「柔」とか「兄弟仁義」などの歌謡曲みたいな簡単なタイトルでは値打ちが下がる気がしたと話している(いつも見ていた広島 〜小説吉田拓郎 ダウンタウンズ物語、2007年、田家秀樹、小学館、p82)。
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Musicman'sリレー 第66回 武部聡志
阿部嘉昭ファンサイト: 再帰性と再帰性が反射する--三村京子について
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- ^ 歌詞の中で、自分のことを「おいら」と呼ぶのも拓郎が始まりと思われる(日本崖っぷち大賞、1998年、みうらじゅん、泉麻人、山田五郎、安斎肇、毎日新聞社、p180)。
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- ^ 「青春の詩」に見られるような、自分の身のまわりの、ほんのちょっとしたことを唄にしてもいい(僕の昭和歌謡曲史、泉麻人、講談社、2000年、p137)。
- ^ 拓郎は、形態こそギターを弾きながら自作曲を歌うという、それまでのフォークと同じスタイルをとりながらも、歌う内容は全く変わっていた。自分の思ったことを歌う、歌いたいことだけを歌うというマイペースの姿勢の変わりわないが、社会問題をテーマにするのではなく、自分の身近な私生活をテーマにした(音楽する社会、1988年、小川博司、勁草書房、p49)。
反体制イディオムと青春歌謡を直結させる手法は新鮮で、現在のロッカーもこの手法を無意識に踏襲(J-ROCKベスト123 1968-1996、1996年、講談社、p61)。
「旅の宿」「襟裳岬」等に共通する"和"の世界 "ジャパネスク"路線も、後のシンガーソングライターたちに無意識下に下敷きにされる(歌謡ポップス・クロニクル 特集アスペクト39、アスペクト、p122)。
例えば、田上雅充の「春うらら」は「旅の宿」をベースに春歌的趣味を加えたもの(決定版「一発屋」大全、2001年、宝泉薫、彩流社、p166)。
フツーの男が、とてもマガオでは言えないような話を平気で自然に歌に出来る力強さ(歌謡曲という快楽 雑誌『よい子の歌謡曲』とその時代 、2002年、宝泉薫+ファッシネイション、彩流社、p26)。
ファンに激震!人生、最後ツアー決定|吉田拓郎 - ^ い ろ は 演歌にも通じる日本人の歌心に新しいスタイルを提示。織田哲郎ロングインタビュー
- ^ R&B+浪花節を基盤とした曲作りの柔軟さ。現在の音楽畑ではもう生まれないと思われる不世出のコンポーザー(歌謡ポップス・クロニクル 特集アスペクト39、アスペクト、p123)。
- ^ ユーミン、陽水の前史として拓郎がある。拓郎は自身が考えていること、感じていることを、そのまま歌にして歌うという近代的な表現意識を、非常に直接的に、シンプルな形で典型的に確立した。大衆歌謡としての自己表出という非常に明瞭な方法意識を確立させた(ポスト歌謡曲の構造、1986年、足立里見著、五月社、p20、21)。
拓郎は演歌の歌唱法と歌詞法を超えて、身近な言葉を音(メロディ)に乗せえたいちばん最初の人。中島みゆきは、好むと好まざるとに関わらず、拓郎たちが領土化した発声と発想の路線上から出発した(中島みゆき その愛と歌の行方、1991年、菅間勇、春秋社、p210-212)。
小室等は、日本のフォークソングには拓郎と陽水という二つの大きな流れがある。それはアーティキュレイション(Articulation)でありフレーズ。拓郎の方が陽水よりポピュラリティがあって、日本のわらべ歌や民謡に非常に近いものがある。また言葉に対する感性のセンスがいい。陽水のほうはもっと英語に近いアーティキュレイションでの日本語。拓郎と陽水がやったことの成果、功績は大。二人がいなかったら日本語の歌って違った形になっていたと思う。だからユーミンには失礼だと思うけれど、拓郎と陽水がいなかったら、ユーミンがああいう形であったかどうかって、僕はそう思ってしまう。勿論、ユーミンも才能のある人だから、何らかの発見をしたかも知れないけども、でも拓郎と陽水という実績の上に、今のユーミンがあると思うし、日本の歌もその上にあると思うね(俺達が愛した拓郎、石原信一他著、p90、91)。「拓郎、井上陽水、ユーミン、小田和正といった人たちが、非常に洋楽的なエッセンスと日本語の感性をドッキングさせる才能に長け、日本語としての生命力を保ちつつ曲を作るという意味で、エポック・メイキングだった人たちだった思う。拓郎辺りまでは、まだ七五調な日本語感性に踏みとどまっていたが、その後日本の音楽は限りなく英語感性に寄り添っていったと思う」(ジェネレーションF―熱狂の70年代×フォーク、2001年、小室等他、桜桃書房、p27)。等と論じている。
フォークからプロテスト性をそいだ形で「自分の思ったことを自分の言葉で歌う」というテーゼだけを保持し、自身の「私生活」を表現(ロックミュージックの社会学、2001年、南田勝也、青弓社、p139)。
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- ^ また拓郎も、かなり早い時期から渡辺晋とよく酒を飲んでいたと渡辺プロの社史に記述されている。渡辺は「ニューミュージックの連中は、したたかだな。ちゃんと計算している。ウチの若いマネージャーでは歯がたたんだろう」と諸岡義明専務に感想をもらしていたという(渡辺プロダクション社史「抱えきれない夢~渡辺プログループ40年史~」、1999年、「渡辺プロ・グループ四〇年史」編纂委員会、p288)。
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2008年のインタビューで南こうせつは"大ヒットはしたけどブームが続くとは思ってなかった""3~4年食べられたら、その後は音楽関係に関われたらいいなと思っていた""それは拓郎や陽水も同じだったんじゃないかな"等と話している。拓郎や陽水がどう思っていたかは不明だが、そうならなかったのは後続のシンガーソングライターが続いたから(週刊ポスト、2008年8月1日号、小学館、p57)。
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1970年代に入ると、フォークは流行歌の主流ジャンルへ伸長していく。学生運動は鎮静化し、岡林信康や高田渡は時代の動向に合わせるように表舞台から姿を消すが、フォークからプロテスト性をそいだ形で、吉田拓郎が台頭、「自分の思ったことを自分の言葉で歌う」というテーゼだけを保持し、自身の「私生活」を表現する。かぐや姫や井上陽水の「抒情派フォーク」をへたうえで、1975年に荒井由実が自己肯定とサウンド志向を特徴として「ニューミュージック」を宣言。以降、サザンオールスターズや山下達郎、松山千春やさだまさしなど、人気を得るミュージシャンは軒並みニューミュージックのカテゴリーに包摂され、流行音楽の主流を占めていく。と1970年代の日本の音楽シーンは、通例このような文脈で語られる(ロックミュージックの社会学、2001年、南田勝也、青弓社、p139)。
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- ^ en-taxi 第21号、2008年、p100
- ^ みうらじゅんの「サブカルジェッター」
- ^ 日本崖っぷち大賞、1998年、みうらじゅん、泉麻人、山田五郎、安斎肇、毎日新聞社、p174
- ^ 柴門ふみ著「青春とはなんだかんだ」、小学館、1994年、p8
- ^ 吉田拓郎・お喋り道楽、p28
- ^ 小田和正抜いた! 吉田拓郎の新アルバム、最年長トップ10入り
- ^ CIRCUS、KKベストセラーズ、2009年12月号、p89
- ^ 鈴木敏夫のジブリ汗まみれ
- ^ 残間里江子ブログ 明日は明日の風、吹かそう! 2009年6月13日
- ^ 残間里江子ブログ 明日は明日の風、吹かそう! 2009年6月22日
- ^ ~えのきどいちろう公式ページ~ ガガンボン日記
- ^ 【えのきど いちろう】
- ^ 唄い方は勿論、喋り方まで深夜放送テープにとってマネしたほどで、"拓郎ファン"ではなく、ワンランク上の"拓郎かぶれ"でしたからと話している(俺達が愛した拓郎、石原信一他著、p97)。
- ^ マンガの道―私はなぜマンガ家になったか、2005年、渋谷陽一、ロッキング・オン、p76
- ^ 江口寿史の正直日記、2005年、江口寿史、河出書房新社、p321、451
- ^ 江口1985年の短編「マークII」は吉田拓郎に心酔する高校時代の江口が描かれている(江口寿史のお蔵出し、1994年4月、自著、イーストプレス、p13-27に収録)。拓郎2005年のアルバム『一瞬の夏』のアルバムジャケットのイラストは江口によるもの。
- ^ モウガニスト・ライフ -ココロのはえぎわ|泉麻人-
- ^ 僕の昭和歌謡曲史、泉麻人、講談社、2000年、p137
- ^ 日本崖っぷち大賞、1998年、みうらじゅん、泉麻人、山田五郎、安斎肇、毎日新聞社、p175-183
- ^ en-taxi 第21号、p104、105
- ^ 内外タイムス - 高須基仁のメディア国士無双
- ^ 高須基仁の"百花繚乱”独り言
- ^ ほぼ日刊イトイ新聞 - あのひとの本棚。
- ^ ぼくの歌・みんなの歌、森達也、講談社、p59、187-201
- ^ 秋元は「僕はフォーク世代だから、やっぱり拓郎さんなんです」とカラオケの十八番は自分の人生と重なる「今日までそして明日から」だという(FLASH臨時増刊 Extime、p62)。
- ^ シンプジャーナル ベストセレクション'80s、p376
- ^ 築地本願寺(本願寺築地別院)/築地本願寺新報
- ^ en-taxi 第21号、p96-99
- ^ en-taxi 第21号、p99
- ^ この話は少し前があって、二人が付き合っている頃、拓郎の実家に行ったら、拓郎の祖父ら先祖の写真が飾られてあって、その人たちがみなハゲていたため、こういう返事になったとのことである(トーク番組での浅田の発言)
- ^ 産経新聞、2008年10月21日、p14
- ^ 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評44 拓郎&陽水と「フォーク黄金時代」、宝島社、p34
- ^ OSHARE 30・30 VOL2、日本テレビ放送網、1989年6月、p186-187
- ^ 歌謡曲という快楽 雑誌『よい子の歌謡曲』とその時代 、2002年、宝泉薫+ファッシネイション、彩流社、p172
- ^ 吉田拓郎 挽歌を撃て、石原信一、p122-123
- ^ 俺らの旅はハイウェイ、1990年2月、長渕剛、八曜社、p214-215
- ^ よい子の歌謡曲、1983年、よい子の歌謡曲編集部編、冬樹社、p120-121
- ^ 歌謡曲という快楽 雑誌『よい子の歌謡曲』とその時代 、2002年、宝泉薫+ファッシネイション、彩流社、p19
- ^ アイドルという人生、石川順恵、p42
- ^ アイドルという人生、石川順恵、p43
[編集] 外部リンク
最終更新 2009年11月22日 (日) 17:53 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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