アイヌ料理
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アイヌ料理(アイヌりょうり)とは、北海道や千島列島、樺太の先住民族アイヌの伝統的な料理である。狩猟や漁労で得られた鮭や鹿、山野の採集で得られた山菜、畑で栽培された雑穀やジャガイモを素材とし、油脂をふんだんに使った味付けに特徴を持つ。
調味料は塩のほか、タラ、イワシ、サメ、アザラシ、シカ、クマなどの脂肪を用いた。近世以降は味噌も使用された。また、コンブや動物の骨、魚の焼き干しを使って出汁をとる文化をもっていた。香辛料としては、ギョウジャニンニクやキハダの実を利用した。
目次 |
[編集] 食材の調達
[編集] 狩猟
狩猟は盛夏~晩夏を除いて1年の大半の時期に行われ、ユク(エゾシカ)、キムンカムイ(ヒグマ)、イソポ(ウサギ)、モユク(タヌキ)、チロンヌプ(キツネ)、ホイヌ(テン)などの獣、エゾライチョウ、クスエップ(キジバト)、ガン・カモ類、カケス、スズメなどの鳥類を狩った。
このうちではシカが最も主要な獲物であった。往時の北海道には想像を絶するほどのシカが居住しており、「鍋を火にかけてから狩りに行く」という言葉もあったほど簡単に得ることが出来た。クマやタヌキなどの「狩猟の対象となる動物」をアイヌは「カムイ(神)が人間のために毛皮と肉を土産に持ち、この世に現れた姿」と解釈していたが、シカに関しては「天空にシカを司る神『ユクアッテカムイ』がいて、大きな袋から人間のためにシカを投げ下ろす」と理解し、それ自体に神格は存在しないものとしていた。あまりの数の多さゆえ、ありがたみが薄れたものらしい。
クマは春先に冬眠から覚めたところを狙い、こもる穴の入り口を塞いでから槍で突く。夏場には、毒を塗った仕掛け弓「アマッポ」を獣道に仕掛けて捕らえる。仕掛け弓から発射される矢にはスルク(トリカブト)の毒が塗られているが、矢が刺さった箇所の肉を握りこぶしの量ほど抉り取って捨てれば、ほかは食べても問題なかった。 シカは毒矢の猟の外、崖から追い落として捕らえることも行われた。
[編集] 漁撈
海に丸木舟を漕ぎ出し、離頭銛でタンヌップ(イルカ)、エタシペ(トド)、トッカリ(アザラシ)、ウネウ(オットセイ)などの海獣やシリカップ(メカジキ)、キナポ(マンボウ)、サメなどの大型魚類を捕らえ、網や釣竿でヘロキ(ニシン)、カレイ、イワシ、エレクシ(タラ)、カジカ、コマイ、チカなどの小型魚類をとった。
巨大な鯨はとても丸木舟や銛の手には負えない。したがって「寄り鯨」は大変な自然の恵みだった。北海道各地に伝わる伝説
- 沖に横たわる大きな岩を「寄り鯨」だと思い込み、焚火をしながら浜に打ち上げられるのを待っていた。しかし一向に打ち上げられるはずも無いまま薪も乏しくなり、大切なイタンキ(椀)までも火にくべてしまい、やがてそのまま全員が餓死してしまった。(室蘭市イタンキ浜の地名伝承)
- 砦に立てこもった敵をおびき出そうとして、一計を思いついた。海辺に砂を盛り上げ、大きな鯨の形を作っておく。それのあちこちに海藻や魚を差し込んでおけば、鳥が寄り付いて騒ぎ、まるで「寄り鯨」が打ち上げられたよう。案の定、敵は騙されて砦から飛び出す。そこを迷わず討ち取った。(浦幌町厚内の砂鯨伝説)
上記の例を見ても、寄り鯨の恵みが伺える。ただ、波の静かな噴火湾では古くからトリカブトの毒を塗った銛による捕鯨が行われていたようだ。
沿岸部のコタンは海の恵みで潤っていたが、やがて場所請負制によって住民は和人商人が経営する漁場に隷属されることとなり、困窮の道を歩む例が多かった。
川漁では釣り、網漁、ウライ(簗)、ラオマップ(受け)などの方法でカムイチェップ(サケ)、イチャニウ(マス)、スプン(ウグイ)、トクシシ(アメマス)、チライ(イトウ)、ユペ(チョウザメ)、ススハム(シシャモ)、ヤマメ、イワナ、ラプ(フナ)などの魚類を捕獲した。
川の漁で得られる恵みでは、毎年秋に川を上る鮭がもっとも重要な資源だった。アイヌは鮭を「カムイチェップ」(神の魚)と呼び、漁期が近づけば天空の天の川を見上げて「天の石狩川」「天の天塩川」など、その地一番の大河になぞらえ、どこが一番濃く見えるかで漁の豊凶を占った。白老、登別では頭がハゲたカラスを見れば、豊漁の兆しとして喜んだ。やがて最初に上って来た鮭を捕らえるや、それを神に捧げる「アシリチェップカムイノミ」(新たなる鮭の祈祷)を行い、イナウとトノト(酒)を共に捧げて祈った。サケは回転式の銛「マレック」で突くか、ウライ(簗)で捕らえ、水量のあるところでは2艘の丸木舟の間に網を張って漕ぎ、サケを追い込む「ヤーシ漁」(網漁)を用いた。天空のW字型をしたカシオペア座は2艘の舟と網に似ていることから、アイヌは「ヤーシ星」と呼ぶ。暴れるサケはそれ専用に作られた神聖な棍棒「イサパキクニ」で打って止めをさす。鎌などで引っ掛けることは神を冒涜するものとされた。漁期には物忌みが守られ、生理中の女性は川に近づくことを許されなかった。サケは河口のコタンで独り占めはせず、上流部へもいきわたる様に節度を持って獲る。そしてチポロ(筋子)やウプ(白子)を持った美味いサケを狙うのではなく、産卵を終えて弱ったサケ「ホッチャレ」を重点的に獲った。来年への資源確保も重要だが、脂肪が抜けきった「ホッチャレ」のほうが保存に向く、という事情もあった。
こうして獲られたサケは、一部を当座の食用に回すほかはすべて保存食に加工した。腹を割いて内臓を取り除き、戸外の物干し棚にかけて乾燥させる。屋内の囲炉裏の上に吊り下げ、燻製にする。あるいは雪の中に埋めて凍らせる。乾燥サケを「サッ・チェップ」(乾いた魚)、もしくは「アタッ」と呼ぶ。食べる際は水で戻し、魚油を加えて旨味を足しながら煮込む。 凍ったサケが、有名なルイベである。食べる際はマキリ(小刀)で大まかに切り分け、ヤナギの串に刺して火にあぶって解かし、少量の塩で味をつけて食べる。塩は交易でのみ得られる貴重品なので、保存料として大量には使えなかった。アイヌの伝統的な食文化に、塩引き鮭、新巻鮭は存在しない。
北海道各地に「熊牛」「熊石」などの地名があるが、これらはアイヌ語の「クマ・ウシ」(干場があるところ)に漢字をあてたものである。往時は豊漁の地で、住民が干魚作りにいそしんでいた様が伺える。
海浜採集でホタテ、アサリ、ホッキ、ナマコ、コンブ、ワカメなど、魚介類や海藻類が採集された。特に昆布やナマコは長崎貿易で日本側が俵物として清国に輸出する貴重な物産であり、和人との交易品として重要だった。しかし交易はアイヌの無知に漬け込んだ不平等なもので、乾し鮭100尾が米一升、背負いきれないほどの昆布が冷や飯一椀、という例すらあった。
[編集] 山菜・果実採集
狩りや川漁が男性の大切な仕事ならば、山野での山菜、果実採集はアツシ織り、子育て、農業とともに女性の大切な仕事だった。雪が解けて木の芽が芽吹くや、女性はサラニプ(シナノキの繊維で編んだ袋)とメノコマキリ(女性用の小刀)を手に山野へ繰り出した。
春一番でヤブマメ、プクサ(ギョウジャニンニク)、オハウキナ(ニリンソウ)、アンチャミ(アザミ)、ピットク(オオハナウド)、ノヤ(ヨモギ)、マカヨ(フキノトウ)、ソロマ(クサソテツ)、シケレペキナ(ヒメザゼンソウ)、コルコニ(フキ)、メンピロ(ノビル)、ムック(ツルニンジン)を採集し、初夏になれば保存食として重要なトゥレプ(オオウバユリ)の球根を大量に採集する。秋に至れば木の実が実る。トゥンニ(ナラの木)やコムニ(カシワ)に生るニセウ(どんぐり)、ハッツ(ヤマブドウ)、クッチ(サルナシ)。さらにカルシ(キノコ)の類も重要な食料だった。特にカムイカルシ(マイタケ)は味も良く、和人との交易に出せば優位な取引が出来る。そのため発見すれば踊り出さんばかりだったという。
湖沼の沿岸に営まれるコタンでは、ペカンペ(菱)も重要な産物である。秋になれば湖上に実るクリに似た味の実は、ラタシケプ(煮物)の具、神への供物となりえる上等な食物。特に釧路川流域の塘路湖はペカンペの大産地として知られ、沿岸にはその恵みゆえに戸数の多いコタンが存在した。昭和中期まで、この地では秋、ペカンペの恵みに感謝する神事「ペカンペカムイノミ」が厳かに執り行われた。狩猟漁労民族であるアイヌが植物のために行う神事は北海道でもここだけ、大変珍しい例である。それだけ塘路湖のペカンペが多くの人を養ったのだろう。
山菜類は茹で上げてアクを抜き、オハウ(汁物)の具やラタシケプ(山菜と脂の和え物のような料理)とする。そして最も大事なのは、乾燥加工だった。一年の半分を雪に覆われる北海道では、冬季は必然的に青物不足をきたす。それは脚気や壊血病に繋がり、死を招きかねない。そのため春から夏にかけ大量に採取された山菜類は、大鍋で茹で上げた後ゴザに広げて天日乾燥し、ポロサラニプという大きな袋に納め、プー(高床倉庫)に保存した。
ドングリ類は茹でてアクを抜き、シト(団子)やラタシケプ(和え物)に加工する。
山菜類の中で最も重要なのはプクサ(ギョウジャニンニク)だった。冬枯れの中で一番に緑濃い茎を出し、食欲をそそるニンニク臭を漂わせるそれはまさに春の喜び、女性達は山野に繰り出して採集する。採集の際、問題となるのがスズランの存在である。スズランの芽生えはプクサと酷似しているが、毒草である。したがってアイヌ民族はスズランを「セタプクサ」(犬のプクサ)と呼んで忌み嫌う。毒草をより分けながら採集されたプクサは茹で上げ、獣脂や塩で和えて食べたり汁の実にする。炊いた際の湯気には薬効があるとされ、風邪の際は蒸気を浴びた。さらに特有のニンニク臭は魔物を寄せ付けないとされ、天然痘などの伝染病が流行した際は、村の入り口に掲げ、退散を願った。西洋の吸血鬼除けにニンニクを使う風習と、相通じるものがある。北海道方言でプクサを「アイヌネギ」というが、その名はまさに「アイヌ民族の葱」から来ているのである。
そして、トゥレプ(オオウバユリ)の球根、そしてそれから抽出される澱粉である。これに関しては後述する。
[編集] 農耕
アイヌ時代の前段階である10世紀ころの擦文時代。さらにそれ以前の続縄文時代から、すでに北海道でも農耕が行われていた。札幌市のサクシュコトニ川流域から発見されたこの時代の遺跡からはヒエ、アワ、キビなどの雑穀類が出土し、コムギも確認されている。しかし12世紀から始まるアイヌ時代に至って、農耕は縮小する傾向にあった。これは寒冷な気候ゆえに農耕を諦めたというより、本州との交易用の干魚や毛皮調達のため、狩猟、漁労に重きを置いた結果らしい。
アイヌ語で「トイタ」と呼ばれる農業は女の仕事であり、片手間に行われるようなものだった。 畑は森を伐採して焼き払う焼畑ではなく、川の沿岸で樹木や雑草の少ない土地を「トイタイヨッペ」という刃を湾曲させた鎌でなぎ払い、土ごと刈り払って整地する。このように作った畑に十文字に組んだ木「クイタクペ」を立てれば、1年限りで土地の所有権が認められる。畑にはピヤパ(稗)、メンクル(黍)、ムンチロ(粟)、ソバ、アタネ(カブ)を蒔きつける。時代が下ってからはマメ類、ジャガイモ、南瓜なども栽培されるようになった。雑穀類にはアイヌ語名がついているが、マメ・ジャガイモ、南瓜はアイヌ語でも「マメ」「イモ・エモ」「カンボチャ」であり、時代が古くないことがわかる。畝を切らず、肥料は下肥は言うまでも無く、灰、腐葉土の類まで「大地を穢す」と見なされて施されなかった。除草もそれほど行われなかったため、秋の収穫はそれほどものにはならなかった。
ただ、広大な北海道は地方によって気候にも差があり、温暖な道南や日高地方では、畑の隅の糠を捨てる場所が、神聖な場所とされていた。それだけ農耕に重点を見出し、丹念に耕作をしていたのだろう。反対に寒冷で農耕に適さない道北に住むアイヌは、農業の基本すら知らなかったらしい。明治中期、役人が名寄付近のアイヌに農業の普及を図り、「これを土に埋めれば美味しいものができる」と、ジャガイモの種芋とニンジンの種を渡し、簡単な説明をして帰った。ところが秋になって再訪してみると、「シャモ(和人)に騙された!」と酷く機嫌が悪い。よく聞き合わせてみると、種芋は俵ごと土に埋めたのですべて腐ってしまい、ニンジンの種は藪の中にばら撒きにしたので、ネズミの尻尾ほどの太さにすらならなかったという。
秋に至って稔った穀物は、「ピパ」と呼ばれるカワシンジュガイの殻で作った道具で一つ一つ穂首刈りにされる。この収穫法は、弥生時代の内地で石包丁を使って行われた稲の収穫と酷似している。このようにして収穫された穀物は乾燥されたのち高倉に納められ、必要に応じてニス(臼)で精白、製粉し、サヨ(粥)やシト(団子)、トノト(酒)に加工される。カブや馬鈴薯、南瓜は汁の具、ラタシケプの材料となった。さらに馬鈴薯は冬の寒さを利用し、ポッチェイモという保存食品に加工した。
稲作は行われていなかったが、米は江戸時代以前から交易で入って来ていた。しかしこれは特別な時にしか食べられない、大変ぜいたくな物だった。アイヌ語で米を意味する言葉「シアマム」は、直訳すれば「真の穀物」。その重要さが伺える。
時代が下るにつれて野菜類も順次北海道に伝来した。幕末の探検家・松浦武四郎は空知川流域のコタンで、胡瓜が栽培されているさまを目撃している。さらに繊維用の麻や、嗜好用の煙草が栽培されることもあった。
[編集] 調理法
7世紀から12世紀ころにかけて栄えた擦文時代の竪穴式住居は家の中央部に囲炉裏が切られるとともに、壁際には煙道が備えられた竈が設けられ、煮炊きの一翼を担っていた。しかし12世紀ころを起源とするアイヌ文化時代に至るや、なぜか竈は廃れた。この理由はよくわからない。薪が貴重な寒冷地ゆえ、その浪費を避けるために、家の中心の炉に「暖房」、「照明」、「調理」を集約したためかもしれない。
アイヌの住居チセは、地面を踏み固めた上に藁やゴザ、毛皮を敷いて床とした。平地式住居で、その中央に木尻席を欠いた大きな囲炉裏が設けられていた。この囲炉裏に数個のシュワッツ(自在鉤)が下げられ、そこに和人との交易で得られた大小のシュー(鉄鍋)がかけられている。
炉の直火と鍋のみで可能な調理法。つまり「あぶる」「焼く」「煮る」「ゆでる」がアイヌ料理の調理法である。もちろん、素材の新鮮さを最大限に生かした「刺身」「肉や魚のたたき」も大変に好まれていた。オオウバユリの搾りかすから作った保存食品「オントゥレプ」やトノト(どぶろく)を除けば、発酵食品は存在しなかった。
[編集] おもな料理
[編集] オハウ(煮込み汁)
獣肉や魚肉、山菜、野菜を鉄鍋で煮込んだ汁物。単なるスープに留まらず鍋料理と言えるほど具沢山の汁物で、「主食」が存在しない狩猟・漁労民族であるアイヌの食生活の中心を成す料理だった。現在、北海道の郷土料理として名高い石狩鍋、三平汁の起源とも呼ばれている。
具材に特に決まりはないが、大体以下の様な方法で調理される。
1 鍋に水を張り、獣骨や小魚の焼き干しを入れて火にかけ、出汁を取る。
2 大まかに切り分けた肉、魚を入れて煮る。乾肉、乾魚の場合は時間をかけて煮る。この際、アクは取り除かない。
3 野菜は根菜などの煮えにくいものから入れ、つぎに繊維の多い山菜、そして葉物野菜を入れ、柔らかくなるまで煮込む。
4 動物性脂肪、魚油、少量の塩で味を整え、最後に風味付けとして焼き昆布の粉末、乾燥させたプクサ(ギョウジャニンニク)をふりかける。
中心となる具材からそれぞれ「チェプオハウ」(魚汁)、「カムオハウ」(肉汁)、「カムイオハウ」(熊汁)、「キナオハウ」(野菜汁)などと呼ばれていた。ニリンソウは汁と相性が良いため「オハウキナ」(汁の草)と呼ばれ、具材として特に好まれていた。
[編集] ラタシケプ(煮物・和え物)
直訳すれば「混ぜたもの」。山菜や野菜、豆類を柔らかく汁気が無くなるまで煮込み、軽く潰してから獣脂、魚油、少量の塩で味を整えた料理。 日常食としても作られるが、儀式の供物や振る舞いには欠かせない、ハレ食である。
使用する材料によって限りない種類がある。
- シケレペキナラタシケプ
乾燥させたシケレペキナ(ヒメザゼンソウ)を湯で戻してから、弱火で数時間、汁気が無くなるまで炊く。食べやすい大きさに刻み、獣脂と塩少量で味を整える。
- プクサラタシケプ
豆を柔らかくなるまで炊き、プクサ(ギョウジャニンニク)の茎を加えてさらに炊く。獣脂と塩で味を整える。
- チスエラタシケプ
初夏に採集したチスエ(エゾニュウ)で作る。豆を炊いて柔らかくなったところにチスエを加えてさらに炊き、獣脂と魚油で味を整える。
- かぼちゃラタシケプ
豆を柔らかくなるまで炊き、切干にして保存しておいた南瓜を水で戻して入れ、さらに炊く。南瓜が煮崩れたところで、塩と魚油で味を整える。香辛料としてシケレペ(キハダ)の実をふりかける。
- チポロラタシケプ
「チポロイモ」とも呼ばれる料理。馬鈴薯は皮ごとゆでる。別の鍋にチポロ(筋子)を入れ、弱火で潰しながら半煮えにする。茹で上がった馬鈴薯は皮をむいて厚切りにし、先ほどの煮えたチポロを入れ、塩を加えてよく混ぜる。
- ニセウラタシケプ
ニセウ(どんぐり)は殻を取り、渋皮つきのまま数回ゆでこぼしてアクを抜く。ここにあらかじめ水戻ししておいた豆を水と共に入れ、沸騰したら煮汁を捨てる。再度水を注いで全体が柔らかくなるまで煮込み、玉蜀黍の粒を入れてさらに煮る。好みの柔らかさになったら米の粉を入れ、全体を練り上げる。塩と脂で味を整え、出来上がり。
[編集] サヨ(粥)
ピヤパ(稗)やシアマム(米)で炊いた薄い粥。大抵は穀物のみで炊かれるが、山菜などを炊き込む場合もある。農耕民族のような「主食」としての粥ではなく、脂こい汁物や焼肉、焼き魚で腹を満たしたのち、「口直し」として茶のようにすすられるものである。したがって脂気が混じらないように、それ専用の小鍋で炊かれる。盛り付けの際も、掬うカスプ(お玉杓子)は汁用とは別のサヨカスプ(粥杓子)を用い、汁の味が混ざらないよう気を配った。
このサヨには、以下の種類がある。
- トゥレプサヨ
トゥレプ(オオウバユリ)から澱粉を採集した際の澱粉滓を醗酵させた保存食、「オントゥレプ」を入れた粥。まず硬く乾燥したオントゥレプを臼で搗き砕き、水で戻す。水の沈殿物で直径3センチほどの団子を作り、稗の薄い粥に入れてさらに炊く。
トゥレプの球根の鱗茎を入れた粥も、同じ名前で呼ばれる。
- イルプサヨ
オオウバユリのイルプ(澱粉)を団子にして入れた粥。
- エントサヨ
山菜の一種であるエント(ナギナタコウジュ)を入れた粥。独特の香気が好まれる。
- サッシラリサヨ
トノト(どぶろく)を作ったときにできるシラリ(酒粕)を、粥に入れる。
- キキンニサヨ
キキンニ(ナナカマド)の皮を入れた粥。
- チポロサヨ
米で粥を炊き、チポロ(イクラ)を入れる。生イクラを使ったチポロサヨは、秋にしか食べられないごちそうである。それ以外の季節は、サッチポロ(乾燥筋子)を入れた粥を作る。
[編集] シト(団子)
団子。名称の「シト」は、大和言葉でペースト状にすりつぶした生の穀物や団子をさす「しとぎ」と同系統とされている。かつて穀物の精白や製粉を臼による手作業でこなしていた時代は、その手間ゆえに贅沢な食品。日常の食品としてよりも、イオマンテ(熊送り)やイチャルパ(祖霊祭)その他、ハレの日の供物やご馳走して作られることが多かった。
材料はメンクル(黍)、ムンチロ(粟)、シアマム(米)。時代が下がればエモ(馬鈴薯)、南瓜も材料として加わった。日本の草餅と同じく、ノヤ(ヨモギ)を混ぜ込んだ「ノヤシト」も春の味として好まれていた。
作り方は以下の通り
1 精白された穀物を一晩水に漬ける。水から上げたのち、一晩水を切る。
2 穀物を臼に入れ、数人でイウタウポポ(杵搗き歌)を唄い調子を取りながら搗いて粉にする。
3 出来上がった粉を湯で練上げ、直径7、8センチ、厚さ1センチほどの大きさに丸める。
4 大鍋に沸かした湯で、鍋底に焦げ付かないように注意しながら茹で上げる。
茹で上がったシトは、供物にするならばそのままシントコ(漆塗りの桶)、パッチ(木鉢)、オッチケ(膳)に盛り付けるか、ミズキの串に刺した巨大な串団子「ニッオシト」にして神前に捧げる。
人間が食べる際は、チポロ(イクラ)を半潰しにしたものか、焼いた昆布を砕き、脂で練ったタレをつける。
[編集] チタタプ(肉や魚のたたき)
チタタプというアイヌ語を訳すれば、「チ・タタ・プ」(我々が叩いたもの)。その名の通り、魚のたたきである。
以下は、代表的な作り方。
- 3 焼き昆布と塩で味を整える。
鮭以外でも、スプン(ウグイ)、カスベ(エイ)、イチャニウ(マス)、カジカなどあらゆる魚、さらにユク(鹿)、キムンカムイ(ヒグマ)、モユク(狸)、イソポ(兎)、さらにルオプ(シマリス)などの獣肉も刻んで薬味を加え、チタタプに加工された。老いた獣の肉は固いことが多いので、チタタプに加工すれば食べやすい。
これらのチタタプの鮮度が落ちた場合は、つみれのように汁に入れる。
イオマンテの際は、熊の脳のたたき、「チノイペコタタプ」が作られる。材料は熊のほほ肉、脳味噌、葱、塩。儀式で飾り付けた熊の頭から脳味噌を取り出し、あらかじめゆでて刻んだ熊の頬肉と混ぜる。薬味として葱を効かせ、塩で味付けする。熊送りの際しか作られない貴重な料理なので、量も少ない。儀式を司るコタンの有力者から、掌に直に下賜される。
[編集] 保存食
[編集] 乾し肉・乾し魚
アイヌ語で乾し肉を「サッカム」、乾し魚は「サッチェップ」「ミゲルイ」「アタッ」と呼ぶ。
特に秋の鮭は当座の生食用以外に大量に獲られ、半年を生き抜く保存食に加工された。頭と内臓を取り除き、戸外の物干しで乾燥させてから屋内に取り込み、囲炉裏の煙に当てて燻製にする。夏のイチャニウ(マス)やトクシシ(アメマス)は蝿の害を防ぐため、開いてから火で炙り、焼き干しに加工する。これら干魚、焼き干しはそのままほぐして食べるか、水でもどして汁の実、煮物として食された。産卵後の鮭で作った干魚は味が落ちるので、食べる際は魚油を加えて煮込み、旨味を足す。
腹を開いた際に得られるウプ(白子)やチポロ(筋子)も乾燥して保存し、オハウ(汁物)の出汁やサヨ(粥)に用いられた。
獣肉はごく新鮮なうちは肉から内臓まで生で食されるが、やはり端境期を考えて干し肉に加工される。ユク(鹿)、キムンカムイ(ヒグマ)の肉を細かく切り分け、大鍋で軽くゆでる。汁気を切った後、囲炉裏の上に吊るし、乾燥させつつ煙を当てる。この干し肉「サッカム」はそのまま食べるか、水から煮込んで汁物にする。
[編集] ウバユリ澱粉
トゥレプ(オオウバユリ)の球根から得られる澱粉は、アイヌ民族が用いる植物質の食品の中では穀物以上に重要な位置を占める。
旧暦4月をアイヌ語で「モキウタチュプ」(少しばかりウバユリを掘る月)、5月を「シキウタチュプ」(本格的にウバユリを掘る月)と呼び、この時期に女性達はサラニプ(編み袋)と掘り棒を手に山野を廻り、オオウバユリの球根を集める。集まった球根から、以下の方法で澱粉を採集する。
- 1 球根から茎と髭根を切り落とした後、鱗片を一枚一枚はがし、きれいに水洗いする。
- 3 数日経てば桶の水面には細かい繊維や皮のクズが浮き、底には澱粉が沈殿している。繊維クズは「オントゥレプ」を作るために取り分ける。桶の底に溜まった澱粉のうち、半液体状の「二番粉」と粉状の「一番粉」を分離する。
これら2種類の澱粉は乾燥して保存するが、その前に水溶きした一番粉をイタドリやヨブスマソウなど、空洞になっている草の茎のなかに流し込み、灰の中で蒸し焼きにしてくずきり状にして食べたり、二蕃粉を団子に丸めて蕗やホオノキの葉で包んで灰の中で焼き、筋子や獣脂を添えて食べたりする。
乾燥して保存された澱粉のうち、日常使用されるのは二番粉である。団子に加工して、サヨ(粥)に入れる。一番粉は贈答用や薬用で、普段は滅多に口にできない。
なお、一連の澱粉採集作業の間、「酒」と「色事」に関する会話はタブー。澱粉が落ち着かなくなり、うまく沈殿しなくなるという。
[編集] オントゥレプ
訳すれば、「醗酵させたウバユリ」。トゥレプ(オオウバユリ)から澱粉を抽出する際、同時に集めた皮や繊維などのカスを醗酵させて作った保存食である。以下の方法で作られる。
- 1 オオウバユリの球根を潰して水に晒した際、水面や水中に浮く繊維や皮をイチャリ(笊)で集める。
- 2 よく水気を絞ったのち、蕗やヨブスマソウの葉で包んで3~10日ほど寝かせ、醗酵させる。この醗酵作業を「オン」という。
- 3 オンさせたものを臼に入れ、よく搗き潰す。搗きあがったらこねてドーナツ状に丸め、乾燥させる。
- 4 紐を通して炉の火棚に吊るして貯蔵する。
食べる際は搗き砕いて水でもどし、団子にしてサヨ(粥)に入れる。
[編集] ポッチェイモ
ペネコショイモ、ムニニイモとも呼ばれる、馬鈴薯で作る保存食。北海道の寒さを利用した製造過程は、南米のチューニョと酷似している。
秋に収穫された馬鈴薯のうち、形の悪いものや小さいものをそのまま戸外に放置する。やがて冬の寒さでイモは凍り、昼になれば融ける。この過程を繰り返すうちにイモの組織は破壊され、ぶよぶよした手触りになる。
このような状態になったイモを水に漬けて溶かし、底に沈んだ澱粉を取り出して丸め、暖かい場所に並べて醗酵させれば、キメの細かい馬鈴薯澱粉ができる。食べる際は丸めて脂で揚げ、潰したチポロ(イクラ)をかけて勧める。
[編集] 飲料
[編集] トノト(どぶろく)
[編集] 茶
「茶」と言ってもツバキ科の植物「チャ」の葉を加工した飲料ではなく、木の実や皮、薬草の煎じ汁である。
アイヌ民族はホオノキやコブシの実、クロモジやナナカマドの皮の煎じ汁を茶のように飲んでいた。
春先のシラカバの幹に傷を付ければ、大量の樹液が流れ出す。この樹液を「タッニ・ワッカ」(シラカバの飲み水)と呼び、周囲に水場がない場所で野営する際の炊事の水に用いていたが、このシラカバ樹液にシケレペキナ(ヒメザゼンソウ)で風味を付け、飲用とすることも行われていた。
もちろん、近代になれば内地から移入された日本茶が広く飲まれるようになった。
[編集] 煙草
煙草をアイヌ語で「タンパク」といい、和人との交易で漆器や鉄製品、米、綿織物とともに入手していたが、ごく少数の例でアイヌ自身が栽培していた「トイタタンパク」もあった。「トイタ」は畑仕事の意で、自ら栽培したタバコ、という意味合いである。
煙草は刻み、量が少ないならばクッタル(イタドリ)、ハッツ(ヤマブドウ)の葉と混ぜ、やはり交易で入手したキセリ(煙管)に詰めて吸う。
煙管は交易で入手するほか、中が空洞になったノリウツギの枝で自製した「ニキセリ」(木煙管)もあった。
アイヌの言い伝えでは、人間が好む煙草は神や妖怪もまた好むものとされていた。そこで儀式の際はカムイに煙草を捧げる。また、山の中でキムンアイヌ(雪男のような妖怪)やミンツチ(河童)に遭遇した際も、煙草を差し出せば悪さをされないばかりか、猟運や宝物を授けてくれるという。
[編集] 食具・作法
鍋で調理された料理はカスプ(お玉杓子)ですくい、イタンキ(椀)に盛り付けられる。このイタンキは和人との交易で入手した漆器で、400mlは入る大型のものである。椀に入りきらない大きな魚や肉の塊は、ヨシで編んだ敷物に乗せられる。
串焼きの魚やシト(団子)は手づかみで口に運ぶが、その他の汁物や煮物はパスィ(箸)やパラパスィ(スプーン)を使って食べる。これらはみな木を削り、自製したものである。
客人に対しては主人が「イペヤン」(お上がりください)といって勧め、それから食事が始まるが、家人のみの食事では何も言わず食べ始める。食事が済んだら、食べ物に感謝を捧げる意味で「フンナ」と一言いう。
出された食事は、和人と同じく「残さず食べる」のがマナーである。
[編集] アイヌ料理の現在
言うまでも無いことだが、今まで述べてきたアイヌ民族の食生活は江戸時代後期から明治初期ころまでの例である。以降は北海道の開拓=自然破壊が進行し、猟の獲物も腹を満たすほどには得られなくなった。明治政府の同化政策、農業指導、さらには戦後の経済成長などの結果、現在のアイヌ民族は「日本国民」として、周囲の和人と殆ど差のない食生活を送っている。
しかし山間部に住むアイヌ民族にとっては、春の山菜狩りは今なお一大イベント。先祖と同じくギョウジャニンニクを大量に採集し、「おひたし」「酢味噌和え」「卵とじ」「醤油漬け」など、和人の調理法を取り入れて賞味している。
「オハウ」(汁物)は、味噌を加えられ味噌汁と同化したが、それでも食生活の中では重要な位置を占めている。ラタシケプは獣脂や魚油の代わりにバターを使用し、「ポテトサラダ」風になって現在でも親しまれている。ミキサーを使ってオオウバユリの球根をすり潰し、抽出した澱粉を中華料理のとろみ付けに使う例もあるという。
アイヌ料理の伝統は、形をかえつつも今なお伝承されているのである。
現在、アイヌ料理は阿寒湖畔の観光コタンなどで味わうことができる。
[編集] 参考文献
- 『アイヌ民俗誌』 昭和44年 第一法規出版株式会社
- 『歴史と民俗 アイヌ』更科源蔵 昭和43年 社会思想社
- 『アイヌ伝説集』更科源蔵 昭和56年 みやま書房
- 『日本の食生活全集48 聞き書き アイヌの食事』平成4年 農文協
- 『世界の食文化 極北』平成17年 農文協
[編集] 外部リンク
最終更新 2009年11月23日 (月) 06:53 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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