アッティラ

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アッティラ
Attila
フン族とその諸侯の王
16世紀製作のレリーフ
チェルトーザ・ディ・パヴィーア修道院 (en
在位 434年 - 453年
出生 406年?
死去 453年
子女 エラク、デンキジック、イルナック 
王朝 フン族
父親 ムンズク
  

アッティラAttila, 406年? - 453年 )はフン族の王。原語ではアキラ、ドイツ語ではエッツェル(Etzel)とも。現在のロシア・東欧・ドイツ北部を結ぶ大帝国を築き上げ、西方世界の大王を自称した。またローマ帝政末期に広がっていたキリスト教の信者からは「神の災い」「神の鞭」と恐れられた。

出自についてはフン族全体と同じく詳しくは分からないが、名前や風貌の伝承などからテュルクモンゴル系民族に属するモンゴロイド(黄色人種)だったのではないかと見られている。

434年に叔父である王ルーアの死後、兄ブレダとともにフン族の王となる。445年頃に共同統治者のブレダが死ぬと単独の王となった。アッティラはブルグンド族などのゲルマン系諸族を征服し、パンノニアに本拠を置いて東ローマ帝国への侵入を繰り返して、短期間でライン川ドナウ川カスピ海に渡る大帝国を築き上げた。451年西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の姉ホノリアからの求婚を口実にガリアへ侵入したがカタラウヌムで、ローマの将軍アエティウス指揮下の西ローマ西ゴート連合軍と戦い敗れて撤退した。翌452年イタリア半島へ侵攻して、ミラノアクイレイアなどの諸都市を陥れたが、教皇レオ1世の説得によって撤退したとされている。翌453年に死去した。自らの婚礼の酒宴の席で倒れてそのまま死亡したと伝えられる。アッティラの息子たちの間で後継争いが起き、フン帝国は崩壊した。

目次

[編集] 生涯

[編集] 出自

詳細は「フン族」を参照

アラン族と戦うフン族。ヨハン・ネポムク・ガイガー画(1873)

フン族ヴォルガ川以東から現れ、370年ヨーロッパへ移住して強大な帝国を建設したユーラシア遊牧民の集団である。彼らの主な軍事技術は騎馬弓射であった。彼らはおそらく300年前に中国の北方に居住していた匈奴の後裔であり[1]ユーラシア大陸で勢力を拡張した最初のテュルク人であろうと考えられている[2][3][4][5][6]。その出自とフン語については数世紀にわたり論争になっている。

フン族は強力な騎馬部隊を率いる蛮族としてその名を轟かせており、東進の過程でアラン族ゴート族の王国を滅ぼして住民を虐殺し、生き残った者たちも配下の兵士として従えるなど、多くの部族を従える立場にあった。4世紀末から度々東西ローマの領内に入り込んでは、撤退する代償として莫大な賠償金を獲得していた。410年頃にフン族はドナウ川中流域を制圧し、433年西ローマ帝国の将軍アエティウスとの取り引きによってパンノニアイリュリクムの一部の支配権を認められた。

アッティラは406年頃、フン族の王ルーアの弟ムンズク (ハンガリー語: Bendegúzトルコ語: Boncuk)の息子として生まれた。

[編集] 共同王位

中央アジアのステップから現代のドイツ、ドナウ川からバルト海にまで広がるフン帝国

434年、ルーア王が死去し、フン族全体を統べる者として甥のブレダとアッティラが残された。兄弟が即位するとフン族は逃亡者(主にローマ側に雇われていたフン族兵士[7])の送還について東ローマ帝国皇帝テオドシウス2世の使節と取り引きを行っている。翌年、アッティラとブレダ兄弟はマルゴス(現在のポジャレヴァツ)で帝国使節団とフン族の慣習に従って騎乗して会見し[8]、ローマ側は逃亡者たちを送還するだけでなく、ルーア王に納めていた貢税を倍額の金700ローマ・ポンド(250 kg)とし、市場のフン族商人への開放そしてローマ人捕虜一人当たり8ソリドゥス金貨の身代金の支払に同意する有利な条約を結んだ[9]。送還された逃亡者の中にいた2人の少年の王族は十字架にかけられて処刑された[10][11]。フン族は条約に満足して東ローマ領から立ち去り、おそらく自らの帝国を固め強化するために、ハンガリー平原へ戻った。テオドシウス帝はこの機会を利用してコンスタンティノープルの城壁の強化、最初の海上城壁の建設そしてドナウ川沿いの国境陣地を構築した。

436年にはブルグント王国に侵攻し、グンダハール率いるブルグント軍を壊滅に追い込んでいる[12]

女性や赤子を蹂躙するフン族騎兵。デ・ノイビル画、19世紀。

その後数年間、フン族がサーサーン朝へ侵略したために彼らはローマの視野の外にあった。アルメニアサーサーン朝に敗退したため、彼らは侵略を放棄して関心をヨーロッパへ戻した。440年、マルゴスの司教がフン族の王族の墓を暴いて財宝を奪ったとしてブレダとアッティラは罪人の引き渡しを求め[13]、これを口実にフン族は再びローマ国境に現れ、条約によってつくられたドナウ川北岸の市場の商人たちを攻撃した。彼らはドナウ川を渡って川沿いのイリュリア諸都市や砦を略奪し、モエシア(現代のセルビアブルガリアの領域)のウィミナキウム(現コシュトラッツ)は完全に破壊された[14]。フン族がマルゴスを攻めた時、侵攻の口実をつくり引き渡しを求められていた司教は密かにフン族から助命の約束を受けて城門を開き、町は陥落した[15]

フン族がドナウ川の防衛線を制圧した頃、ガイセリックに率いられたヴァンダル族が440年に西ローマ帝国アフリカ属州の首都カルタゴを占領しており、441年にはサーサーン朝のシャー・ヤズデギルド2世がアルメニアを侵略していた。ローマ帝国の最も豊かな州であり主要な食糧供給地であったアフリカ属州をヴァンダル族から奪い返すためにバルカン半島の軍隊は剥ぎ取られ、これによりアッティラとブレダにイリュリアを経てバルカンへ入る道が開かれ、441年に彼らは侵攻した。マルゴスとウィミナキウムを略奪したフン族はシンギドゥヌム(現ベオグラード)とシルミウムを奪取した。騒乱は442年にも続き、テオドシウス帝はシチリアから軍隊を呼び寄せ、フン族との戦争の財源として新貨幣を大規模に発行している。これらの準備を行った上で、彼はフン族の要求を拒否しても安全だと考えた。

ブレダとアッティラは443年の戦役でこれに応えた[16]。フン族はドナウ川沿いを攻撃してラチアリア(現アルカール)の軍事拠点を蹂躙し、破城槌と攻城塔を用いて(フン族にとっては最新の軍事技術だった)ナイスス(現ニシュ)の包囲を成功させた。それからニシャバ川沿いを進軍してセルディカ(現ソフィア)、フィリッポポリス(現プロヴディフ)そしてアルカディオポリスを占領した。フン族はコンスタンティノープル城外で東ローマ軍と遭遇してこれを撃破し、コンスタンティノープルの城壁の前でようやく止まった。別の東ローマ軍もカリポリス(現ゲリボル)で敗北し、もはや対処すべき軍隊を持たないテオドシウス帝は敗北を認め、廷臣アナトリウスを送り講和条件を交渉した。条件は以前の条約よりも厳しいものになり、皇帝は侵略時の条約不遵守の賠償として金6,000ローマ・ポンド(2000 kg) の支払いを認めた。貢税の年額は3倍にされ金2,100ローマ・ポンド(700 kg)とされた。更にローマ人捕虜の身代金は一人12ソリドゥス金貨に引き上げられた。

要求は当分の間満たされ、二人のフン王は彼らの帝国内へ引き上げた。歴史家ヨルダネスによるとフン族が東ローマ帝国から引き揚げた和平期間(445年頃)にブレダが死に(雷に打たれた[17]ともローマ側の史料[18]では弟が仕掛けた狩猟中の事故で殺されたとある)、アッティラがフン族の単独統治者となった[19]

[編集] 単独統治

プリスクスの記述の断片を元に描かれた『アッティラの饗宴』、タン・モル画

歴史家プリスクスによると、ある羊飼いが土中から剣を掘り出し、アッティラへ献上した。アッティラはこれを喜び、これを軍神マルスの剣であると信じ、自分は全世界の支配者になる運命であると自信を持ったという[20][21]

447年、アッティラは南下しモエシアを通って東ローマ帝国領へ再び侵攻した。ゴート族の軍司令官(マギステル・ミリトゥム)アレネギスクロスに率いられたローマ軍はウトゥスでアッティラと戦うが敗北した。フン族は抵抗を受けずにトラキアまでのバルカン半島を略奪した。コンスタンティノープルは総督フラウィオス・コンスタンティヌスによって城壁が再建されて(地震により損傷していた)、また幾つかの箇所で新たな防御線が築かれており助かった。この侵略の生き残りの記録は以下のように述べている。

トラキアにいる野蛮なフン族はとても強大になり、数百の都市が奪われ、コンスタンティノープルも危険になり多くの人々が逃げ出した…そしてたくさんの人々が殺され血が流されて、死者の数を数えることもできない。ああ、彼らは教会と修道院を奪い、大勢の修道士や修道女たちが虐殺された。(カリニコス著『聖ヒュパティオスの生涯』)

449年、東ローマ皇帝テオドシウス2世はアッティラの元へ使節を送り、その中に歴史家プリスクスがいた。プリスクスは使節をもてなす豪華な饗宴の中で、アッティラの食器だけが非常に質素で彼の振る舞いが清廉だったことを記録している[22]。テオドシウス帝は使節の中に刺客を潜ませていたが暗殺は失敗に終わった[23][24]。アッティラは東ローマの使節を罰することなく、丁重に送り返した[25]

450年7月、東ローマ皇帝テオドシウス2世が崩御し、マルキアヌスが後を継いだ。軍人出身の新帝は強硬策に出て貢税の支払いを停止した[26]

[編集] ガリア侵略とカタラウヌムの戦い

ガリア侵略におけるフン族の進撃路。

450年、アッティラはトゥールーズの強力な西ゴート王国を攻撃する意図を宣言し、その為に西ローマ帝国皇帝ウァレンティニアヌス3世と同盟を結んだ。彼は以前から西ローマ帝国及びその実質的支配者のフラウィウス・アエティウス将軍と良好な関係を持っていた。アエティウスは少年時代に人質としてフン族へ送られて、彼らの中で生活を送っており(少年時代のアッティラと親交があったとも[27]、親しい人物は先王のルーア[28]または別人でアッティラとは個人的な親交はなかったともされる[29])、フン族騎兵は西ローマ軍とゴート族やバガウダエ(ガリアの農民反乱軍[30])などとの戦いに参加してアエティウスを助けている[31][32]。西ゴートと敵対し脅威を感じているヴァンダル王ガイセリックの贈物と外交努力もまた、おそらくアッティラの計画に影響を与えた[33]

だが、アッティラに西ローマ帝国侵略の絶好の口実ができた。愛人の家令を殺され(愛人とともに謀反を企てていたとされる[34])、ローマ上院議員との強制的な婚約をさせられたウァレンティニアヌス帝の姉ホノリアがアッティラへ助けを求める書状に指輪を添えて送って来たのである。これが巷間言われるように求婚を意図していたか否かは諸説あるが、アッティラはこれを求婚と解釈することを選んだ。彼はこの「求婚」を受け入れ、西ローマ帝国の半分を持参金として要求した。ウァレンティニアヌス帝はこの企てを知ると、母のガッラ・プラキディアの説得でホノリアを殺さず幽閉させた[35][36]。彼はまたこの求婚の合法性を頑強に否定する書状をアッティラへ書き送った。アッティラはホノリアは無実であり、求婚は合法で自らのものを手にするために赴くであろうと宣言する使者をラヴェンナへ送った。

カタラウヌムの戦い。両軍の武装は中世のもので描かれている。

アッティラはフランク族長死後の後継者争いに介入した。アッティラは長男を支援し、一方、アエティウスは次男を支援していた[37][38]。アッティラは従属諸族であるゲピード族、東ゴート族、ルギイ族、スキール族、へルール族、テューリンゲン族、アラン族ブルグント族その他を集めて進軍を開始した。451年、アッティラは、歴史家ヨルダネスによる大げさな数字によれば、50万人を率いてガリア・ベルギカに侵入した。歴史家J・B.・ベリーはアッティラが西方へ進軍した時、既に大陸で最も強力な勢力であった彼の王国はガリアから大西洋にまで及んだと述べている[39]

4月7日、アッティラはメスを占領した。その他の町の状況は司教を称えた聖人伝によって知ることができる。ランス司教ニカシウスは教会の祭壇で虐殺された。セレヴァティウスはトンヘレンで信者とともに助かったと推測され、同様に聖女ジュヌヴィエーヴもパリで助かっている[40]トロワ司教ループスはアッティラと会見をして町を救ったと賞賛されている[41]。6月前半にアッティラはオルレアンを包囲した[42]

アエティウスはフランク族ブルグント族そしてケルト人からなる軍勢を集めてアッティラに対するべく動いた。元老院議員アウィトゥス (enからの使者が西ゴート王テオドリクス1世にローマとの同盟を説得した。6月14日、アッティラはオルレアンの包囲を解いて後退を開始した[43]。アエティウスのローマ=西ゴート連合軍がフン族を捕捉した場所は一般にカタラウヌム(シャロン=アン=シャンパーニュ)と推定される。6月20日カタラウヌムの戦いの結果はローマ=西ゴート連合のピュロスの勝利(損害の多い勝利)であった。アッティラは自殺を覚悟する程の敗北を喫して撤退したが[44][45]、ローマ=西ゴート連合もテオドリクスは戦死し、アエティウスには追撃する余力がなかった。歴史家エドワード・ギボンとエドワード・クリーシーによれば、アエティウスは西ゴートの大勝利となることを敗北するのと同じくらい恐れており、彼の立場からはテオドリクスが戦死し、アッティラは潰走して撤退しローマが勝利の利益を得ることが最良の結果だった。

[編集] 北イタリア侵攻と死

『ローマに迫るフン族』ウルピアノ・チェカ画、19世紀

452年、体勢を立て直し、皇女ホノリアとの結婚を改めて主張したアッティラは北イタリアに侵攻して道々で掠奪を行った。ヴェネツィア市はこれらの攻撃のために人々がヴェネタ潟の小さな島へ避難したことによりつくられた。アッティラの軍隊は数多くの都市を略奪し、アクイレイアは跡形もなく完全に破壊されてしまった。アッティラはアクイレイアの市街が燃える様を見るために丘の上に城を築き、これがウーディネの街の基になったという伝説があり、城跡は今なお見い出すことができる。ミラノには町を占領したアッティラが宮殿にあった皇帝が蛮族を踏みつける壁画を東西の皇帝がアッティラに黄金の袋をふりまく絵に描き変えさせたという伝説がある[46][47]

ガリアのアエティウスは来援せず、近衛司令官アエティウス(フラウィウス・アエティウスとは同名異人[48])が少ない兵力で繰り返し急襲をかけてなんとかアッティラの進軍を遅らせていた。アッティラは最終的にポー川で停止した。おそらく、この地点で疫病と飢餓がアッティラの陣営で発生し、これが侵攻を止めさせた[49][50][51]

レオ1世とアッティラの会見』、ラファエロ画。

ウァレンティニアヌス帝の望みにより、ローマ教皇レオ1世元執政官アヴィエヌス、地方総督トリゲティウスとともにマントヴァ近郊のミンチョ川沿いの陣営でアッティラと会見し、イタリアから退去して皇帝と和平を結ぶ約束をとりつけた[52]。アキテーヌのプロスペルがこの歴史的会見についての短く信頼できる描写を残している。後年の作者不明の記録[53]、敬虔な「ラファエロの筆やアルガルディの彫刻で表された寓話」(とキボンは述べる)、は聖ペトロ聖パウロの助けを受けた教皇が町から彼を引き返させたと述べている。中世ハンガリーの年代記によると、教皇はアッティラへ、もしも平和裏にローマから去るならば、彼の後継者の一人が聖なる王冠を受け取るであろうと約束している[54]410年にローマを略奪して程なく死んだアラリック1世の運命への迷信的な恐怖が彼を躊躇させた[55][56]と歴史家プリスクスは述べている。

イタリアを去った後、アッティラはドナウ川を越えて彼の宮殿へ帰り、再度のコンスタンティノープル攻撃を計画し、東ローマ皇帝マルキアヌスが止めた貢税を再び要求した。だが、アッティラは453年前半に死去してしまった。歴史家プリスクスによる同時代の記録によると美しく若いイルディコ(もしも発音が濁っていなければ、ゴート族出身を思わせる[57])との結婚式の宴会の最中にアッティラは大量の鼻血を出し、意識を失って窒息死したとある。他の見方として、彼は大量の飲酒か食道静脈瘤によって内出血を起こして倒れと考えられる[58]

Chronicon Pictumの会見の挿絵。1360年

事件の80年後の年代記編者カウント・マルケリヌスの記録によれば「フン族王であり、ヨーロッパ各地の破壊者であるアッティラは彼の妻によって刺殺された」とある[59]ヴォルスンガ・サガ古エッダもまた彼の妻グズルーンの手によって死んだと述べている[60]。多くの学者はこれらの記録を風評に過ぎないと否定し、アッティラと同時代の歴史家プリスクスの記録を採る。だが、プリスクスの記録は近年マイケル・A・バブコックによる新たな検証を受けている[61]。詳細な文献学的検証によって、バブコックはプリスクスによる自然死という記録は教会による「でっち上げ」であり、東ローマ皇帝マルキアヌスが彼の死の背後にあると結論付けている。

歴史家ヨルダネスは云う「最も偉大な戦士は女々しい哀歌や涙ではなく、男たちの血によって悼まれるべきである」。ヨルダネスやカッシオドルスによれば騎士たちがアッティラの眠るテントの周りを駆け回って「誰が一人も復讐を要求すると信じないとき、これを死とみなせようか?」と葬送歌を詠ったと云う。

それから彼らは盛大な宴会とともに彼の埋葬地で哀歌(strava)を詠った。伝説によれば、アッティラの遺体は征服で得た戦利品とともに金、銀、鉄の三重の棺に安置された。男たちが川の一部の流れを変えて棺を川底へ埋めて流れを元に戻し、そして彼らは埋葬地の正確な場所の秘密を守るために殺されたという[62][63]

アッティラの息子たちエラク、デンキジックそしてイルナックは遺産を巡って争った。その結果、彼らは分裂し、翌年、生前アッティラが最も重んじた族長アルダリック率いる東ゴート族とゲピート族にネダオ川の戦いで敗れて潰走した。

アッティラの死の翌454年、アエティウスは皇帝ウァレンティニアヌス3世に殺され、自ら帝国の支柱となる将軍を殺したウァレンティニアヌス3世自身もその翌年の455年にアエティウスの元部下によって暗殺されている[64][65]

アッティラの子や親族の名と何人かは動向も分かっているが、やがて確かな系譜は消え失せ、アッティラの子孫を辿る確証しうる手だてはない。このことは多くの系図学者たちが中世の統治者たちのために正統な系図を再現しようとする試みを止めることにはならなかった。最も有望な主張はブルガリア汗によるものである。最も有名な、だが最終的には確認されていない、試みはアッティラとカール大帝とを結びつけるものである。

[編集] 人物

[編集] 外見と性格

北方人種風に描かれたアッティラの想像図。19世紀、作者不明。

古代から中世の移り変わりの時期に猛威を振るった事、ゲルマンスラブの諸族を従えた事、そして何より東欧に一大帝国を形成した経緯などから、その出身民族人種がしばしば激しく論じられる。これは後世に描かれたアッティラの想像図を見ても明らかで、金髪の北方人種風に描かれる事もあれば、豊かな黒髪・茶髪を靡かせる東欧や南欧の人物の様に描かれもすれば、あからさまに東洋人(モンゴロイド)として描かれるケースもあるなど、全く一定していない。

アッティラの外見について、直接的な史料は残っていない。しかしながら、歴史家ヨルダネスによる間接的な史料によると、東ローマ帝国の使節の一員だったプリスクスはアッティラについて以下のように述べていたという。

背は低いが筋肉質で、頭が大きく、顔色はくすんだ黄色。両目とも斜視で、蓄えられた顎鬚には白髪が混じっている。髭はほとんど無い。低い鼻と浅黒い肌は、彼の出身を表しているように思える。[66]

エッダで描かれるアッティラの風貌を再現したもの。低い鼻に四角い顔を持つモンゴロイド風に描かれている。

アッティラは時には高貴な統治者、時には残忍な野蛮人と様々に描かれてきた。アッティラは西方の歴史と伝統では凶悪な「神の災い」(flagellum dei)として知られ、彼の名は残忍さと野蛮性の代名詞となった。これらの幾つかはおそらく彼とチンギス・カンティムールなど後の時代の草原の征服者との混同によるものであろう。これらの全てが、残忍で、賢明なそして血に飢えた戦闘と掠奪の愛好者として見なしている。これらの全ては主に彼の敵の記録によるものである。本当の性格はおそらくより複雑なものであろう。プリスクスはフン族の統治をローマよりも賞賛し、祖国へ帰ることを望んでいなかった東ローマ人の捕虜との出会い、そしてアッティラの謙虚さとその統治の明快さを叙述する東ローマ帝国の歴史家について詳しく述べている。

[編集] 評価

スラブ系ゲルマン系の諸民族を征服した際の容赦の無い略奪と殺戮(一勢力が跡形も無く根絶される事すらあり、フン族を恐れる諸民族の動きが民族大移動を引き起こしたとする説まである)から、西欧東欧ではヴァンダル族ガイセリックと並んで破壊者の象徴として語られる事も多い。後に同じく「東方からの侵略者」となったモンゴルティムールも(恐らくは同じくテュルク系に属した可能性がある為か)アッティラの再来として恐れられた。

しかし奇妙な事に北欧ではむしろ英雄視される傾向にあり、ヴァイキングノルマン人とも)のサーガにはアッティラが偉大なる王として登場するものが複数存在する。これにヴァイキングの東方起源説や東ヨーロッパ人種に東洋的な特徴が見られる事と結びつける意見も散見されるが、学術的にはフン族自体に不明瞭な部分が多く、定かではない。また文明の破壊者と批判されがちなアッティラではあるが、支配民族の在来文化や東西ローマのラテン文化・ギリシャ文化に対しては理解があり、ローマの外交官プリクスはフン族が自分達の言語以外にもラテン語ギリシャ語ゴート語などを用いていたと述べている。

[編集] エピソード

[編集] 脚注

  1. ^ De Guignes, Joseph (1756-1758), Histoire générale des Huns, des Turcs, des Mongols et des autres Tartares 
  2. ^ Transylvania through the age of migrations
  3. ^ Calise, J.M.P. (2002). 'Pictish Sourcebook: Documents of Medieval Legend and Dark Age History'. Westport, CT: Greenwood Press. p279, ISBN 0313322953
  4. ^ Peckham, D. Paulston, C. B. (1998). Linguistic Minorities in Central and Eastern Europe. Clevedon, UK : Multilingual Matters. p100, ISBN 1853594164
  5. ^ Canfield, R.L. (1991). Turko-Persia in Historical Perspective. Cambridge: Cambridge University Press. p49, ISBN 0521522919
  6. ^ Frazee, C.A. (2002). Two Thousand Years Ago: The World at the Time of Jesus. Wm. B. Eerdmans
  7. ^ 「アッチラとフン族」p81
  8. ^ Howarth, Patrick (1995). Attila, King of the Huns. New York: Barnes & Noble Publishing, 191-92. 
  9. ^ 「図説 蛮族の歴史」p85
  10. ^ 「図説 蛮族の歴史」p85
  11. ^ 「アッチラ王とフン族の秘密」p49
  12. ^ 「アッチラとフン族」p66
  13. ^ 「アッチラとフン族」p72
  14. ^ 「アッチラとフン族」p73
  15. ^ 「アッチラとフン族」p73
  16. ^ Cawthorne, Nigel (2004). Military Commanders. Enchanted Lion Books. 
  17. ^ 「ローマ人の物語15」p214
  18. ^ 「図説 蛮族の歴史」p55
  19. ^ Priscus of Panium: fragments from the Embassy to Attila
  20. ^ ヨルダネス著「ゴート史」[1]
  21. ^ 「図説 蛮族の歴史」p62-63
  22. ^ 「図説 蛮族の歴史」p60
  23. ^ 「アッチラとフン族」p83-84
  24. ^ 「アッチラ王とフン族の秘密」p104-120
  25. ^ 「図説 蛮族の歴史」p60-61
  26. ^ 「アッチラとフン族」p89
  27. ^ 「図説 蛮族の歴史」p63-64
  28. ^ 「アッチラとフン族」p55
  29. ^ 「ローマ人の物語15」215
  30. ^ 「アッチラとフン族」p65
  31. ^ 「アッチラとフン族」p67-68
  32. ^ 「ローマ人の物語15」p214-215
  33. ^ 「アッチラとフン族」p97-98
  34. ^ 「アッチラとフン族」p99
  35. ^ 「図説 蛮族の歴史」p56-57
  36. ^ 「アッチラとフン族」p100
  37. ^ 「アッチラとフン族」p101
  38. ^ 「ローマ人の物語15」p228
  39. ^ en:J.B. Bury, The Invasion of Europe by the Barbarians, lecture IX (e-text)
  40. ^ The vitae are summarized in Thomas Hodgkin, Italy and Her Invaders (New York: Russell & Russell, 1967 reprint of the original 1880–89 edition), volume II pp. 128ff.
  41. ^ St. Lupus – Saints & Angels – Catholic Online
  42. ^ 「アッチラ王とフン族の秘密」p154
  43. ^ 「アッチラとフン族」p112
  44. ^ 「フン族―謎の古代帝国の興亡史」p152-153
  45. ^ 「ローマ人の物語15」p232
  46. ^ 「図説 蛮族の歴史」p67
  47. ^ 「アッチラ王とフン族の秘密」p194-195
  48. ^ 「アッチラとフン族」p121
  49. ^ 「アッチラとフン族」p123-124
  50. ^ 「図説 蛮族の歴史」p67
  51. ^ 「フン族―謎の古代帝国の興亡史」p159
  52. ^ Pope St. Leo I (the Great)" in the 1913 Catholic Encyclopedia.
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  54. ^ en:Chronicon Pictum
  55. ^ 「アッチラとフン族」p124
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  57. ^ Thompson, The Huns, p. 164.
  58. ^ Man, Nigel (2006). Attila. Thomas Dunne Books. 
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  60. ^ Volsunga Saga, Chapter 39; Poetic Edda, Atlamol En Grönlenzku, The Greenland Ballad of Atli
  61. ^ Babcock, Michael A. The Night Attila Died: Solving the Murder of Attila the Hun, Berkley Books, 2005 ISBN 0-425-20272-0
  62. ^ 「アッチラとフン族」p126
  63. ^ 「図説 蛮族の歴史」p68
  64. ^ 「アッチラとフン族」p63-64
  65. ^ 「ローマ人の物語15」p240-242
  66. ^ The Goths by en:Jordanes. Translated by Charles Gaius Mierow. Chapter 35: Attila the Hun. http://www.romansonline.com/Src_Frame.asp?DocID=Gth_Goth_35

[編集] 参考文献

  • Priscus: Byzantine History, available in the original Greek in Ludwig Dindorf : Historici Graeci Minores (Leipzig, en:Teubner, 1870) and available online as a translation by en:J.B. Bury: [2]
  • Jordanes: The Origin and Deeds of the Goths
  • 「アッチラとフン族」(ルイ・アンビス著、安斎和雄訳、白水社、1973年)ISBN 978-4560055366
  • 「アッチラ王とフン族の秘密―古代社会の終焉」(ヘルマン・シュライバー著、金森誠也翻訳、佑学社、1977年)
  • 「フン族―謎の古代帝国の興亡史」(E・A・トンプソン著、木村伸義訳、法政大学出版局、1999年)ISBN 978-4588371080
  • 「図説 蛮族の歴史 ~世界史を変えた侵略者たち」(トマス・クローウェル著、 蔵持不三也訳、原書房、2009年)ISBN 978-4562042975
  • 「蛮族の侵入―ゲルマン大移動時代」(ピエール・リシェ著、久野浩訳、白水社、1974年)ISBN 978-4560055670
  • 「ローマ人の物語〈15〉ローマ世界の終焉」(塩野七生、新潮社、2006年)ISBN 978-4103096245

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最終更新 2009年11月24日 (火) 00:45 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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