アベル=フランソワ・ポワソン・ド・ヴァンディエール

アベル=フランソワ・ポワソン・ド・ヴァンディエールAbel-François Poisson de Vandières, 1727年[1] - 1781年)は、18世紀フランスで活動したブルジョワ階層出身の貴族。彼はポンパドゥール夫人の弟である。のちにマリニ侯爵 (marquis de Marigny ) 、またメナール侯爵 (marquis de Menars) となった。マリニ侯の表記が通例。マリニの領地ははじめ父に贈られ、それを相続したもの。

[編集] 概歴

アベル=フランソワはフランソワ・ポワソンとその妻ルイーズ=マドレーヌ・ド・ラ・モットの息子で、姉にジャンヌ=アントワネット、のちのポンパドゥール夫人がいた。父が疑獄事件に関わってフランスを追放されたあとはシャルル=フランソワ・ポール・ル・ノルマン・ド・トゥルネームの保護を受け、父が帰ってきた後もトゥルネームとは家族同様の付き合いがあった。

姉同様、彼は豊かなブルジョアの息子として優れた教育を受けていた。姉がルイ15世愛妾として国王の寵愛を受けるようになると、彼もその恩恵を受け、トゥルネームが王室造営物総監に任じられるのと同時に、いずれ彼がトゥルネームの後継者としてその職を引き継ぐと決められた。一方で彼は姉の夫シャルル=ギヨーム・ル・ノルマン・デティオールとも仲がよく、デティオールが姉と絶縁してからも関係は続き、姉の死後まで付き合いがあった。

1749年から2年間、彼は姉の後援を得てイタリア遊学 (いわゆるグランドツアー) に出た。この旅には建築家ジャック=ジェルマン・スフロー、銅版画家シャルル=ニコラ・コシャン、評論家アベ・ルブランらが同行した。これにより彼は、もともと備わっていた文化と芸術に対する教養をより深め、のちの業績に活かした。

1751年にトゥルネームが亡くなるとマリニは王室造営物総監の役職を継いだ。これは国王の指示した建造物の建設実行を計画、監督するというポストで、彼が実際に建設進行を監督したもののなかには、姉が国王に建てさせた城館も多く含まれていた。トゥネームがその職にあった間に、その組織や経理について改善を行っており、彼は恵まれた状態で仕事を行うことができた。彼の手がけた案件のうち、姉のために建てられた城館はたいていが革命時代に取り壊されてしまったが、それ以外では現在でも複数のすぐれた建物が残っている。また彼は同時に、姉の様々な調度品や美術品の収集、制作依頼にも関わり、優れた手腕を発揮した。

マリニは基本的に姉にとても従順であったが、二つのことでは姉の意見に逆らって自分の考えを通した。ひとつは、姉が弟を大臣のポストに就けようとしたことを拒否したことである。ポンパドゥール夫人はその愛妾としての後半期、政治全般にきわめて深く関わっており、信用できない今の大臣たちに代わって身内であるマリニを閣内に入れようとした。しかし彼は賢明にも自分に政治家としての力量がないことを自覚しており、また姉に対して、もし自分が大臣になって失敗したら政敵に恰好の攻撃材料をあたえることになるし、逆に、もし成功しても彼らは巧みにそのことを姉から切り離してしまうだろうから、姉にとってメリットにはならないと言ってこれを断った。

もうひとつはマリニの結婚問題で、ポンパドゥール夫人は弟に有力な家系の娘を娶らせることで自分の家を貴族として栄えさせることを望んでいた。しかし弟は結婚相手は自分で決めると言って、姉の提案した縁談をすべて拒否して姉をしばしば怒らせた。

1764年、姉のポンパドゥール夫人が死去したとき、マリニは宮廷を去ることにして、国王に辞職願を出した。しかし国王はマリニに引き続きその職に留まるよう命じたため、結局1773年まで在職し続けた。

姉の死去のため彼は複数の城館と実に大量の工芸品、美術品、家具その他の遺産を相続した。ある程度の数の品々はその後売却された。マリニはポンパドゥール夫人が晩年に建てさせたメナールの城館に住み、のちにマリニ侯爵ではなくメナール侯爵を称するようになった。1767年に彼は自分で見つけた相手と結婚したが、結局この結婚はうまくいかず、別居に至った。

1781年にマリニが死んだあと、財産はポワソン家の従兄弟に引き継がれたが、その際遺品の数々は売りに出されたから、最終的にポンパドゥール夫人のコレクションは散逸した。

[編集] 脚注

  1. ^ 1725年とする文献もある。

最終更新 2009年1月2日 (金) 17:21 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【アベル=フランソワ・ポワソン・ド・ヴァンディエール】変更履歴

ご利用上の注意