アラル海

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アラル海(2004年)。
黒線は1850年の湖岸線。
湖付近の白いものは塩。
旧湖中の三つの島は北から順に、クーガ・アラル(コカラル:グリーン島)、バルサキルメス("Land Of No Return" Island)、ヴォズロジェーニエ(旧名:ニコライ一世島)。
南西部の小さい湖はサリカミシュ湖。

アラル海(アラルかい、カザフ語: Арал Теңізі、ウズベク語: Orol dengizi: Аральское море: Aral Sea: 鹹海)はカザフスタンウズベキスタンにまたがる塩湖である。

アムダリヤ川シルダリヤ川が流れ込み、流出河川はない。人為的要因による湖の縮小により分断された北側を小アラル海、南側を大アラル海と呼ぶ。更にその大アラル海は東アラル海と西アラル海に分断され、東アラル海は水深も浅く消滅の危機に瀕している。

なお、この湖の北岸はインド・ヨーロッパ語族の発祥地と推測されている。

目次

[編集] 概要

海面の高度
m
海面面積
km²
水量
km³
塩分濃度
1960年 53.4 68,000
(100%)
1,090
(100%)
10
1971年 51.0 60,200
(89%)
925
(85%)
12
1976年 48.2 55,700
(82%)
763
(70%)
14
1987年 40.5 41,000
(60%)
374
(34%)
27
1989年 大アラル海と小アラル海に分断
2000年 34.0 22,400
(33%)
- 50
2005年 大アラル海が西アラル海と東アラル海に分断

内陸湖であり、流出河川は無く「尻無し湖」と呼ばれる。先史時代にはカスピ海黒海ともつながっていた古代湖でもある。ヘロドトスの記述によると、アムダルヤ河はカスピ海に注いでいたと記述されており、その記述が正しければ、当時のアラル海はシルダルヤ河末端の湖であったことが伺える。その後、地殻変動や流入河川の水路の変異によってカスピ海と再度つながったり、干上がりかけたりする時代を経て中世時代には安定期を迎え1960年頃までの塩分濃度海水の 1/10 程度であった。この塩分濃度の低さは、ロプ・ノールと同様に、発生と消滅を繰り返す不安定な湖の歴史の証明となっている。水源はパミール高原天山山脈の融雪水に由来し、年間降水量の多寡により水位変動が左右された。1960年頃まではクーガ・アラル半島も島であり、世界で4番目の面積を誇っていた。シルクロードオアシス地帯でソ連時代は保養地ともされ、ムイナクとモスクワには定期的な航空路線があった。湖の周辺は 200万 ha にも及ぶ樹木、灌木の林で果樹林もあったといわれる。ペリカンなど渡り鳥の飛来地で、トラなどの哺乳類も生息していた[1]。モイナクやヌクスの歴史博物館などではかつて生息していた動植物の標本や漁業の有様が展示されている。母船と小舟数隻で船団を組むなど大掛かりな漁業もなされ、漁獲高は年間 5、6万 t にも及んだ。[2]なお、現在も小アラル海では継続して漁業は行われている。冬期は湖面が凍結するため氷に穴を開けて釣るスタイルである。

1940年代よりスターリン - フルシチョフ時代の旧ソ連が「自然改造計画」(1918年発案)の一環として実施した綿花栽培のための灌漑やアムダリア川の上流部にカラクーム運河を建設したことにより、アラル海に流れ込むアムダリヤ川[3]シルダリヤ川の流量が激減。1960年代以降、面積が急激に縮小し、大アラル海消滅も目前に迫っている。

1989年頃には北側の小アラル海と南側の大アラル海に分断された。1960年に比べて水面が 15 m 以上低下し面積が 62 %、水量が 84 % も減少、塩分濃度が6倍以上になった。これにより、アラル海及びその周辺に生息していた生物の大半が死滅し漁業も壊滅し、名産であったキャビア缶詰毛皮などの周辺産業もほぼ全滅した。スラム化、ひいてはゴーストタウンと化した地域、更には砂嵐により砂に埋もれてしまった地域も少なくない。

2005年頃には大アラル海が東西に分断された。小アラル海はコカラル堤防の建設により回復しつつある。一方で国境問題[4]や経済的事情から広域的な協議はされておらず、他の対策はほとんど実行されていない。

2009年8月の衛星写真では、大アラル海の東側がほぼ干上がってしまったことが確認され、小アラル海の縮小を食い止めるため建設されたコカラル堤防の影響が指摘されている[5]

これら人的要因による湖の縮小とそれにともなう周辺環境の急変は、「20世紀最大の環境破壊」とも言われている。

[編集] 自然改造計画による環境破壊

[編集] 時代背景

帝政ロシア時代より中央アジア地域に運河を張り巡らせる構想は存在した。 19世紀末のグルコフスコイによる案などは、中央アジアで灌漑により綿花を栽培するというより、インドの綿花を輸送するための商業・貿易運河計画案であったといわれる。

また、南北戦争及びその後の奴隷制の廃止と共に、アメリカ産綿花の生産が落ち込み、綿花先物市場の世界的中心地であるリバプール市場で綿花の価格が高騰した。この時期、英国はインドのパンジャーブで灌漑を取り入れた綿花栽培をおこなった。一方、第一次産業革命の最中のロシアは、南北戦争時期の世界的な綿花供給の落ち込みに直面したばかりでなく、イランとインド亜大陸から中央アジアへ北進しようとする大英帝国の活発な活動にも直面した。このような背景のもと、帝政ロシアは中央アジアのアミール諸国との貿易を通じた綿花調達ではなく、すでにロシアへ恭順していたタタール系商人を通じて用意に統治できると考えられていた中央アジアの国々を保護国化して大英帝国からの影響と切り離しつつ、ロシアの産業を支える綿花原材料生産地たる役割を中央アジア地域に見出していった。このような視点はロシア革命後も形を変えて引き継がれた。

冷戦時代のソ連は社会主義陣営の盟主として陣営内の物流機能を西側に頼らずにまかなうこと、それも「社会主義的政策」により素晴らしい効果を挙げることが必要だった。その流れの中で1940年代より「自然改造計画」として運河・水路が建設されつつあったが、そうした当初は実務的であった計画がいつしか、マルクス・レーニン主義の唯物史観に基づいて、進化する人知と科学により自然を凌駕し、共産主義は遅れた社会体制に勝ることを示すためのイデオロギー闘争の象徴としても援用されることとなった。こうして中央アジアの潅木林やステップ地帯は、遊牧民社会を捨て去るべく草原が農業用地に変えられて、遊牧民の定住化政策が推進され労働者階級が創出された。また、ブルジョア階級とされた領主や地主、イスラム寺院の所有する農地が取り上げられ、遊牧していた家畜も畜舎での集団飼育が推し進められ、創出された労働者階級は集団化させられてコルホーズソフホーズを組織し、手作業を必要とする綿花栽培の労働力となった。第二次世界大戦後には、近代的医療の導入の結果、増大する人口を支えるために、や小麦の栽培が大規模区画の農地で大型農業機械を導入して行なわれるようになった。現在、CIS圏の中央アジア地域で生産されている米はジャポニカ種であり、第二次世界大戦中に極東から移住させられた朝鮮系民族が持ち込んだものである。インディカ米とも言われる中粒種や長粒種は、現在の中央アジアではトルクメニスタン南部やアフガニスタンでより南部で栽培されているようである。

灌漑のための取水量増加に伴い、綿花の生産は増大した。ウズベキスタンにおいて1940年に150万 t 弱だった綿花生産量は1970年に450万 t、1986年には500万 t に達した。こうした成果は西側に対する示威行為として「社会主義の勝利」と銘打って華々しく喧伝された。

[編集] 無謀な計画

1989年と2008年の比較写真

ところがこの計画は中央政府が発案のマイナス面に対する配慮を十分にはせぬままトップダウン式に命令を下し断行[6]したため、のち多くの問題をもたらしている。

シルダリヤ川流域は砂漠気候(BWk)であり、もともと大量の水を必要とする綿花科の栽培には向かない風土である。一方、アムダリヤ流域では、ケッペンの気候図によると、ややどちらかというと地中海性気候及びサバンナ気候に近く、冬季には雨量もある高緯度の太陸性乾燥気候という特殊な地域であり、河川に沿った地域はステップ気候帯の様相を見せている。高温が4ヶ月続く水の多い低地は稲作に適しており、また高温を必要とする綿花は乾燥と塩分土壌にも耐性がある。したがって、ベストではないものの、葉物野菜等が育て難いこと、湿地帯が多く、小麦生産に適さなかったことから、綿花や稲作が導入された。このことは、18世紀のホラズム・ハン国による入植による綿花栽培の導入や、旧ソ連資料中にあるように第二次世界大戦中には旧ソ連沿海州に在住する朝鮮系住民の中に日本人スパイが潜入することを防ぎ[要出典]かつ遊牧民地帯への農業労働力を確保することを目的として強制的に移住させられてきた朝鮮系住民による日本式の稲作の導入といった政策の中に見て取れる。これらの農業導入が、同地域での自然環境を森林・サバンナから綿花・稲作地帯へと激変させた。

この地域はもともと海底であったことから、土壌には塩分が多量に含まれている。毛細管現象は、水はけが良ければ発生しないが、アラル海の下流域では地下水位が高く、1mも掘れば塩分を含んだ地下水が湧き出し、しかもシルト・粘土土壌であるために、水分含有率が非常に高い。さらに、同地域では、重力灌漑という「水位の高い水路から、低地の農地に水を引いて灌漑する」という方式が取られている。つまり、煮えたぎる鍋に海水をどんどん注げば、やがて塩が析出する原理と、地表からの蒸発散作用で土壌表面近く50cm内に、カルシウム、カリウム、ナトリウム、マグネシウムといった塩基が析出し、やがて地表は雪で覆われたように真っ白になるほどの塩分集積が発生する。 従って最初は強制的な灌漑により耕作できた土地も塩害の進行とともに放棄せざるを得なくなった。

アムダリヤ・シルダリヤ両河川を水源として灌漑用水路を建設したがこれらは原始的な手掘りで河床対策が施行されなかったため、大半の水が無駄に砂漠に吸収され土壌の塩類集積、沼地化を促進させてしまう。

しかも、灌漑農地から染み出した排水、及びリーチングという地表の塩分を洗い流す作業により発生する排水は、灌漑用水の水質が低下しないように再び灌漑用水路に戻されることはなく、更に低地である砂漠に棄てられるか、排水路末端の池に注ぐことになる。したがって、アム河やシル河水域の水量が、再び河川に戻ることはない水使用がなされている。

このようなずさんな灌漑設備および灌漑・排水方式により流量の激減した両河川は、下流域のアラル海の水域を大きく減少させた。

ソ連の科学者のなかにはそのような事態を招くことをあらかじめ想定し反対を唱えた者もいないではなかったが「社会主義を妨害するもの」と見なされ、そのまま断行された。すなわち、「自然改造」の弊害は「自然改造」で克服するという考え方がより建設的であるとされ、それは日本の最高学府をはじめとする西側の学者からも「自然改造」は支持されていた時代である。

具体的には「主要トルクメン運河計画(ヌクス市郊外南西部のタヒア・ターシュ〜カスピ海沿岸付近)」及び「自然改造計画」によりあらかじめ懸念されていたアラル海及び、1940年代より深刻化していたカスピ海の縮小を補うためにオビエニセイ両河川よりアラル海を通じカスピ海に水を流すべく「シベリア河川流転計画(1986年中止)を併せて立案」という流れであったがスターリン死去後にフルシチョフにより「主要トルクメン運河計画」が1953年に中止。カラクーム運河延伸のみが決定された。つまり水を消費する運河だけが実際に建設され水を補完する運河は建設されなかった、ということになる。

中央政府は漁業利潤と灌漑利潤試算を盾に当時「アラル海で捕れるチョウザメキャビアがどれほどの利益になろうか。それが社会主義の勝利にどれほど貢献するというのか。それよりも砂漠の地を緑に変え、そこで栽培される綿花がどれだけの利益を生み出すだろう。なるほど、灌漑によってアラル海は干上がるかもしれない。しかし社会主義の勝利のためにはアラル海はむしろ美しく死ぬべきである」と説明した(Grigory Voropaevの発言とされる)していた[7][8]。 綿花栽培と紡績産業との連関から試算される国民総生産は、食料資源のための漁業に比べて格段に高かった。社会主義体制の下、マルクス経済学派は自然環境コストを経済活動の中に導入するという発展を見せなかったために、アラル海は犠牲となったのである。

今となっては時代がかったやや荒唐無稽な言い回しと受け止められているが、当時はエコロジーないしは環境保護的概念というものは希薄で就中公害問題が世界的に取りざたされるようになるのは1960年代に「沈黙の春」が出版されるなどの以降のことである。

[編集] 悲惨な結果

かつての湖底に放棄された船
2008年4月
2009年8月

計画推進の結果、1960年代には年平均 20 cm1970年代には年平均 60 cm ものハイスピードで水面が低下し、急激に縮小をはじめた。一晩で数十 m も海岸線が遠のいていくため、退避しそこなってその場に打ち捨てられた船の群れが後に「船の墓場」として有名になった。

アラル海は中央アジアの中のオアシス的存在であった。湖の存在により気温・湿度が一定の過ごしやすい環境に保たれ、動植物が多様に存在していた。しかし湖が干上がることにより雨は降らなくなり、気温も年較差が激しくなった。そのことにより周辺の緑が枯れ、風食作用により表層土も失われ、湖ともども砂漠化の進行を加速化している。

アラル海の塩分濃度は、ナトリウム以外の塩基成分であるカルシウムやマグネシウムなどの塩分等は湖底に沈殿し、カルシウムは貝類の貝殻に取り込まれる生態濃縮機能などによって数百年もの間、一定の濃度を保っていたが生態系の破壊によってその絶妙なバランスが機能しなくなった。

産業

沿岸住民は漁業、水運、交易を生業としていたが、その生活基盤の全てが破壊されゴーストタウンとなった地域も多い。一例として、アラル海南岸、モイナク港の缶詰工場では沿岸漁業が崩壊してからも他地域から魚を取り寄せ(鉄道が通るクングラードで一旦冷凍し、そこからモイナクまで陸送)操業していたが90年代にはついに閉鎖に追い込まれた。この工場の破綻の原因は、アラル海の環境破壊が大きな原因であることには間違いないであろうが、旧ソ連時代の官営工場が旧ソ連の崩壊とともに破綻していったのと同じように、マネージメントや資金調達などの運営方法に問題があったと想定されうることを無視することはできない。例えば、周辺に多く生息する淡水魚や雉などの生物の活用を見出せない硬直性が、社会主義的経営思考の限界としてあげられよう。

旧ソ連 - カザフスタン政府は魚類の養殖の研究を重ねた。しかし移植には問題が多く例えばカスピ海産チョウザメ(Acipenser Stellatus)を移植したところ寄生していた単生虫(Nitzschia Sturionis)がアラル海固有種のチョウザメ(Acipenser Nudiventris)にも寄生し大量死を引き起こすこともあった。海洋魚の移植も水質が合わず失敗。辛うじてカレイ類のカンバラ(プレイスPleuronectes platessaru:Камбала)だけが放流に成功し、コカラル堤防建設(後述)以前は主としてその一種のみが漁獲可能であった。

健康

砂漠化した大地からは塩分、化学物質を大量に含む砂嵐が頻発するようになった[9]。その結果、砂塵の影響で周辺住民の8割が腎臓呼吸器に疾患を持っている。

住民が腎臓に疾患を患っているのは、カルシウム、マグネシウム、ナトリウム、微細な砂を含む飲料水を生まれたときからずっと飲用していることが上げられるといわれる。実際、最近では、塩素消毒の効果が減少する恐れがあっても、「水道水は1晩置いて、不純物が沈殿した水を飲む」ことが腎臓疾患を防ぐために必要であると、地元では経験的に普及されている。呼吸器疾患に関しては、住民に極めて高い率で結核が蔓延している。

結核の治療薬が安定的に手に入らないことや、完治する前に投薬を中断してしまう人が多いために、治療薬に耐性のある結核の発生が憂慮されている。このように、結核が蔓延する背景には、極めて低い所得による栄養分の不足、単純な食生活習慣による栄養不足、運動不足などの原因があげられている。また、非常に乾燥した気候であるために、毎日大量の水を飲まないと喉を痛める。これらの原因が複合的に、腎臓や呼吸器の疾患をもたらしている。

飲料水を地下水に頼っていた地域では水に塩分濃度の上昇のみならず、アム河及びシル河の両河川流域での農業地帯で使用された農薬由来の化学物質、リン肥料由来の重金属類が混入し深刻な健康被害をももたらした。飲料・灌漑用に新たに井戸を掘る試みは重ねられたが、温泉を含む自噴式井戸の場合は地下深くに浸み込んだ水が噴出しているので塩分濃度そのものは低いが、旧ソ連時代に排水を目的に作られた浅井戸の場合は塩水ばかりがくみ上げられるため、農業に使用した場合には周囲一帯が塩水だらけになり、更にそれを止めるすべもないという事態も起きた。

旧ソ連はアラル海内の小島:ボズロジェーニエ島[10]細菌兵器を開発していた。しかし、連邦崩壊による混乱に伴い、その開発施設がきちんとした後始末もなされることなく打ち捨てられていた。ところが2000年代に入り南部沿岸と地続きになったため、残存する細菌の蔓延が危惧される事態となった。

アムダリア流域の灌漑後の排水が流れ込み増大し続けるサリカミシュ湖では殺虫剤、除草剤の混入レベルが高く商業的漁業は1987年に禁止された。しかし湖で獲れた魚は、ウズベキスタン国内で販売されており、商業的漁業の禁止は名目上のものである。

面積

2003年時点で大アラル海の面積は 14293 km²、小アラル海の面積は 2865 km² で、合計 17158 km² である。これは1960年時点の面積 67499 km² の 25 % にすぎない。かつては4位だった面積順位は大アラル海が18位、合計でも17位にまで落ちた。体積は 10 % にまで下がっている。特に大アラル海は面積で23%、体積で8%に減っており、塩分濃度の上昇が著しく 80(西アラル海) - 110(東アラル海)g/l と、1960年の 10 g/l を大きく超えている。その一方で小アラル海は面積で 47 %、体積で 28 % の縮小にとどまり、塩分濃度も 20 g/l と辛うじて従来棲んでいた生物の一部が生息可能である。

在アラリスクのアラル海救済NGO「アラル・テンジ」代表、マッハンベトバ氏によると、水量減少にはバイコヌール宇宙基地の存在も関与しているという推測もある[11]

80年代ソ連共産党の書記長になったゴルバチョフの新体制はグラスノスチペレストロイカを推進し、アラル海の惨状も知られるところとなった。ゴルバチョフ及びソ連当局は「アラル海は全ソ連の痛み」と表現し環境改善策を懸賞金を出して公募し、1990年には実施されるようにと声明を出した。アラル海の縮小に歯止めをかけるべく、オビ川・ボルガ川や北海から水を引いてくるというような計画も旧ソ連時代には検討され続けていたが、ペレストロイカ以降さすがにそれは無謀であるという意見が主流になり1986年ごろ却下された[12]

しかし、クーデターによって実質権力を喪失し、やがて連邦解体。中央アジアイスラム諸国は分離独立するが、これは旧ソ連の負の遺産の切り捨てという側面もあり、新生ロシアは主立った資料はクレムリンに引き揚げたともいわれる。

[編集] 再生への取り組み

コカラル堤防建設前(写真下)と後(写真上)での北部小アラル海の衛星写真比較

1994年1月、カザフスタンウズベキスタントルクメニスタンタジキスタンキルギスタンの各国はアラル海回復のため、国家予算の1%を供出する協定を結んだ。

小規模ながら運河改善など流量回復に努め現在でもシルダリヤ川からの流入がある小アラル海にはまだ回復の望みがあることから小アラル海のみを救済することを目的に大アラル海への水の流出・消失を防ぐため、1992年より堤防ダムに近い)が幾度も建設されて来た。しかし土砂を積んだだけの原始的なもので、嵐のたびに決壊を繰り返して来た。そこでカザフスタン政府は世界銀行から融資を受け、2003年10月に堤防建設計画を発表。2005年8月にコカラル堤防(w:Dike Kokaral)が完成した。

一方、大アラル海の縮小は依然として続いておりこちらの存続は絶望視されている。このままいくと2010年代には大アラル海が完全に消滅してしまうといわれている。最近の調査によると地下水脈が流れていることがわかっており、水位を回復させることはもちろん出来ないが完全に干上がる事はないようである、ともいわれる。ただし、地下水脈や埋蔵天然資源の状況は利害の絡む怖れのあることから公表は見送られている。さらに上流河川流域が複数の国にまたがっている[4]ため利害関係の調整なども難しい課題である。

草の根の活動としては水源の塩分濃度の低下を目指して湿原に葦原を構築することも行われている。また、干上がった湖底に植物を植えて塩分の飛散の緩和も試みられている。しかし植物が根付いても、漁業・農業が崩壊したために貧困に苦しむ住民が冬場の燃料として刈り取ってしまう事態も起きている[13]

これまで世界中から数多くの研究者がアラル海を訪れて対策を提言しており、その一部は実行されたにもかかわらず結果的にコカラル堤防を除いてほとんど効果がなかった。そのことを揶揄する現地のジョークに「これまでアラル海を訪れた研究者がバケツ1杯ずつ水を持参してきてくれていたら、今頃アラル海は元の姿に戻っていただろう」というものもある。[要出典]

[編集] コカラル堤防建設後

小アラル海

2005年、コカラル堤防が完成して以後は順調に水位が回復し、予想以上の早さでかつての環境に戻りつつある。夏期の暑さも冬期の寒さも緩和され年間を通して雨雲が発生するようになった。砂嵐の頻度も抑えられ、塩分濃度が堤防完成以前の1/4まで薄くなった[13]ため、かつての生態系もある程度復活し渡り鳥も戻って来た。漁業組合も再建され水産加工品は遠くロシアグルジアウクライナまで出荷されるようになった。チョウザメの再放流も検討されている。また、汚染されてない飲料水も供給されるようになり沿岸住民の健康状態も改善しつつある。

カザフスタン政府は湖を本来のアラリスク港に到達するレベル近くまで復元するため、2009年から新たな堤防を建設する予定である。

大アラル海

一方、大アラル海に関しては周辺諸国政府の対応は様々ではある。運河の改良等には莫大な経費がかかるが、主要産業の崩壊した各国[14](特にウズベキスタン)に経済的余力は乏しい。しかしながらウズベキスタンは天然資源に恵まれており、干上がった湖底から高利益になる原油がウズベク系資本により、隣のウスチユルト台地から天然ガス掘削がロシアの企業により開始され、近年では西洋諸国をはじめ中国、韓国資本なども参画を始めている。この収益を梃子にアラル海問題に打開策を見出そうというのがウズベク政府の見解であるが、アラル海が復活すると石油採掘が容易ではなくなるというジレンマを抱えている。また、アラル海周辺からの天然ガスはカザフスタン西部・カスピ海東北部の天然ガス・油田地帯にパイプラインを接続すれば市場に持ち出せるが、ウズベキスタン国内の天然ガス需要は高いため、天然ガスがアラル海問題を打開するほどの収益にはなりえない。しかし、天然ガスが豊富であることが、植林された木が燃料目的で伐採されることから守られている根拠となっている。一方で、ウズベキスタン国内のアラル海周辺には石油精製工場が存在せず、石油精製所まで車両で数百キロも運搬している現状では十分な採算が取れておらず、大規模油田が発見されない限り未来はない。

2004年以降、ウズベキスタン政府はアムダリア河口デルタ附近の干上がった地域にいくつもの人工湖を作り始めた。目的は、漁業を回復するためと、アムダリア川の河口デルタの灌漑農業や放牧地の開発ならびに突発的な洪水を阻止する遊水池的役割、そして湖底からの塩分飛散の軽減を目論んでるとみられる[15]。しかし、湖底は数万平方キロメートルにも及ぶため、塩分飛散の軽減に繋がっているとは言い難い。

水資源の豊富な上流諸国(キルギス、タジク)とエネルギー資源の豊富な下流諸国(カザフ、ウズベク)とでの、水とエネルギーとのバーター構想も存在し、現実に行われている。しかし、ダムの貯水量には限度があるため、上流諸国は闇雲に水を貯水しているわけではなく、夏季から秋にかけては冬季の水不足による電力不足に備えて、氷河からの融雪水を貯水している。問題なのは、下流平野部での灌漑水需要は耕運作業が始まり播種の行われる3月末から4月中旬にかけてが最大となるが、山岳地帯では4月中旬までは低温のために雪解け水が増えないためにダムの貯水量は増えず満足に水を放流できない。万が一、ダムの発電有効貯水水位以下になるまで放流してしまうと、ダムの水位が回復するまで長期間にわたり水力発電が不可能となるからである。このために、下流部が最も灌漑水を必要とする4月に水不足が発生し、もしも7-8月が冷夏となれば山岳地帯の氷河が融けないために同じく水不足が発生する。しかし、実際に水を大量且つ無駄に使用しているのは、水道設備が発達した都市部の住民が大量に安価な水を使用し、かつ田畑からの排水や余浄水を河川に戻していない下流諸国である。 

黒海に淡水化プラントを設置し、カスピ海を通じ淡水のパイプラインを導入する事も提案されている[16]

その一方でロシア主導によるオビ、ヴォルガ両河川から運河をつなぐ計画も新たに推進する勢力も存在する。50年前の自然改造計画の改良版で、環境保護論者をねじ伏せる論拠として両河川の水量過剰と、70年代以降の水位上昇に悩まされるカスピ海の救済との連携をあげており、ウズベキスタンもこれに同調している。[17] しかしながら、北極海に流れる淡水河川を中央アジアに転流させることは、北極海の海水中の塩分濃度を高めることにつながる恐れがあり、北極海の氷の厚さの減少をもたらし、結果的に海面水位の上昇を引き起こす可能性がある。また、北極海の海流に変化を起こし、太平洋や大西洋の海流への影響も懸念される。 カスピ海の水位上昇については、トルクメニスタン西部にあるぽっかりと砂漠地帯に入り込んでいるカラ・ボガス・ゴル湾を堰き止めてカスピ海と切断したためと考えられる。もともと、カスピ海の水は水位が上がるとトルクメニスタンの砂漠地帯に流れ込んでカラ・ボガス・ゴル湾を形成し、結果的にカスピ海の塩分濃度を一定に保つ働きをしてきたが、カスピ海の海水の無駄な損失を防ぐ目的で作られた堰によりカスピ海の水位は上昇している。したがって、たとえヴォルガ川の水が転流されてカスピ海の水位が下がったとしても、数百年後にはカスピ海の塩分濃度上昇などの影響が発生すると考えられる。

[編集] 脚注

  1. ^ 固有種はチョウザメ、アラル・タイガーなど。バルサキルメス島固有種の野生馬クラン(Onager: Equus Hemionus Kulan) は大陸と地続きになってから天敵オオカミの脅威にさらされ個体数が激減した。
  2. ^ 帝政ロシア〜ソ連邦時代には「アラル艦隊」が編成され、軍事展開もしていた。
  3. ^ アムダリヤ川は時代ごとに流れを変えていたが人為的要因で流量を減らしたのは今回が初めてのケースである。
  4. ^ a b アラル海はカザフスタンとウズベキスタンの国境に位置し、シルダリヤ川の流域にはカザフスタンキルギスウズベキスタンタジキスタンが、アムダリヤ川の流域にはウズベキスタン・トルクメニスタンアフガニスタン・タジキスタンがある。
  5. ^ アラル海:消えた南部 中央アジア 縮小する塩湖毎日jp(毎日新聞)2009年9月15日
  6. ^ 計画・立案は中央アカデミアが推進したが、実施・施行は自治共和国に丸投げされた。
  7. ^ 英国BBC>Dam project aims to save Aral Sea(英語)
  8. ^ рал умер. Да здравствует Арал!(ロシア語)
  9. ^ アラルの断末魔の叫びがきこえる:日本砂丘学会
  10. ^ かつてのアラル海、特にこの島の周りは海流の流れが激しく行ったら二度と戻って来られない絶海の孤島(現地では文字通り「バラサ・ケレメス島」)とも言われ、そのため秘密研究地に選定されたとされる。湖中のもう一つの島、Barsa-Kilmes Islandとは別の島である。
  11. ^ 旅の雑記帳アラル海と、NGOの彼女のこと
  12. ^ ペレストロイカの原段階におけるソ連の環境汚染と対策
  13. ^ a b テレビ朝日、素敵な宇宙船地球号 第484回「棄てられた海アラル海」2007年7月1日放送
  14. ^ 元来、中央アジア諸国は遊牧民が暮らしていた地域に加え旧ソ連時代には強制的に民族移動ならびに定住化政策が推し進められ、第一次産業のみを押し付けられていたため基幹産業がもとより発展しなかった。
  15. ^ 生態学的災害の震源地アラル海で暮らすロシア人50家族の生活
  16. ^ アラル海リフィル:海水輸入Macroproject
  17. ^ RELEASE THE RIVERS Let the Volga & Ob Refill the Aral Sea

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 外部リンク

pnb:بحیرہ ارال

最終更新 2009年9月16日 (水) 12:04 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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