アラン・プロスト

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アラン・プロスト
F1での経歴
国籍 フランス
所属チーム '80,'84-'89 マクラーレン,
'81-'83 ルノー,
'90-'91 フェラーリ,
'93 ウィリアムズ
活動時期 1980 - 1991 , 1993
出走回数 200
優勝回数 51
通算獲得ポイント 798.5
表彰台(3位以内)回数 106
ポールポジション 33
ファステストラップ 41
初戦 1980年アルゼンチンGP
初勝利 1981年フランスGP
最終勝利 1993年ドイツGP
最終戦 1993年オーストラリアGP
タイトル 4 (1985,1986,1989,1993)
  

アラン・マリー・パスカル・プロストAlain Marie Pascal Prost, 1955年2月24日 - )は、フランス人の元レーシングドライバー1985年1986年1989年1993年と4度のF1ドライバーズチャンピオンに輝いた。

1999年国際モータースポーツ殿堂The International Motorsports Hall of Fame)入り。レーシングドライバーのニコラス・プロストは長男。血液型AB型。

目次

[編集] 人物

F1において51勝をあげている。これは、1987年ジャッキー・スチュワートの27勝を更新してから、2001年ミハエル・シューマッハが更新するまで、最多勝記録であった。通算4度のドライバーズチャンピオン獲得は、シューマッハの7回、ファン・マヌエル・ファンジオの5回に次いで、歴代3位の記録である。2009年現在、フランス人で唯一のF1ドライバーズチャンピオンである。

現役時にはその走りから「プロフェッサー」の異名をもっていた(名前の“プロ”にもかけている)。

[編集] 初期の経歴

[編集] レーシングカート

1972年にヨーロッパ・ジュニア・カート選手権でチャンピオンに輝くなど、1974年までに、フランス及びヨーロッパの幾つかのジュニアカート選手権で優勝。1975年には、フランスのシニアカート選手権を制覇。

[編集] ジュニアフォーミュラ

1976年ジュニアフォーミュラに転向しフォーミュラ・ルノー・フランス選手権に参戦。全13戦中ガス欠でリタイアした最終戦を除き12勝、ポールポジション6回、ファステストラップ11回の成績でチャンピオン獲得。1977年、フォーミュラ・ルノー・ヨーロッパ選手権にステップアップし、6勝、3ポールポジション、7ファステストラップでチャンピオン。またこの年はノガロとエストリルF2にもスポット参戦し、それぞれ10位、リタイアという結果を残している。

[編集] F3

1978年、ヨーロッパF3選手権にマルティニMk21B・ルノーで参戦したが、全11戦中1勝、1ポールポジション、1ファステストラップ、3リタイア(原因は全てエンジントラブル)と振るわず、ポーで行われたF2にもシェブロンB40・ハートで出走したが、こちらもエンジントラブルでリタイアであった。この年はフランスF3選手権にも参戦し、こちらではチャンピオンを獲得している。1979年、前年に引き続きヨーロッパF3にマルティニMk27・ルノーで参戦。全13戦中9勝、4ポールポジション、8ファステストラップでチャンピオンを獲得した。この年にもフランスF3選手権に参戦し、これを連覇している。

翌年からマクラーレンでのF1参戦が決まった。

フォーミュラクラスへ転向後、F3までのレースにおいてドライビングミスや他車との接触によるリタイアは2回しかない。

[編集] F1における経歴

[編集] マクラーレン時代(第1期)

[編集] 1980年

1980年の初戦アルゼンチンGPでF1にデビューし、そのレースで6位に入賞した。続く第2戦ブラジルGPでも5位入り連続入賞したが、その後は第8戦イギリスGPと第11戦オランダGPで6位入賞したのみで、結果的にブラジルGPでの5位がこの年の最高位であった。その他のレースは7位2回、11位1回、リタイア5回、予選での事故による怪我などで決勝への不出走が2回あった。チームメイトのジョン・ワトソンに対し、予選では13勝1敗と大きく勝ち越している。車体は信頼性不足に悩まされ、事故を数回経験した。その間にルノーからオファーを受ける。マクラーレンとは複数年契約していたがロン・デニスによる組織改革が進められている状況だったことから「これまでのチーム・マクラーレンとデニスによるマクラーレン・インターナショナルは別組織である」という論理で契約を破棄し、移籍した。

[編集] ルノー時代

ルノーRE40(1983年)

[編集] 1981年

1981年ルノーに移籍し、開幕から2戦連続で他車と接触してリタイア。第3戦アルゼンチンGPでは初の表彰台を獲得する活躍を見せるが、マシンの信頼性不足にも悩まされ、第7戦イギリスGPまでにリタイアは6回を数えた。しかし、第8戦の母国フランスGPで初優勝を遂げると、第12戦オランダGPと第13戦イタリアGPを連勝した。この年3勝を上げ、完走した6レースでは全て表彰台を獲得している。

[編集] 1982年

1982年には開幕から2連勝をあげタイトル争いで先行したが、マシンの信頼性不足や自身のミスにより、以降の7戦では5回のリタイアなど入賞すらできないレースが続く。予選では5回のポールポジションを含め、フロントローを9回獲得する速さを見せたが、結局優勝は序盤の2回にとどまった。

また、チームメイトのルネ・アルヌーとの確執が噂され、この年の第11戦フランスGPでは、タイトルの可能性のあったプロストを先行させるようチームオーダーが出ていたが、アルヌーはこれを無視して優勝してしまった。

[編集] 1983年

ルノー在籍最後の年となった1983年。開幕から2戦は入賞すらできなかったが、第3戦の母国フランスGPハットトリックを達成すると、第6戦ベルギーGPポールトゥウィンを飾るなど、ここまで4戦連続で表彰台を獲得し、タイトル争いをリードする。以降、第9戦イギリスGPと第11戦オーストリアGPで優勝したものの、残り4戦中3回のリタイアを喫したことにより、ネルソン・ピケに逆転され、僅か2点差でチャンピオンを奪われてしまった。

翌年から、ルノーを離れマクラーレンへ戻ることとなった。

[編集] マクラーレン時代(第2期)

[編集] 1984年

1984年は既に2度のドライバーズチャンピオンを獲得していたニキ・ラウダがチームメイトとなり、この年は完全にマクラーレンによって支配されるシーズンとなった。予選では16戦中15戦でラウダを上回り圧倒したが、タイトル争いは、プロストが勝てば次はラウダ、ラウダが勝てば次はプロストと常に一進一退の緊迫した展開となった。最終的にシーズン7勝という当時歴代1位タイの記録をあげながらも、5勝のラウダに0.5ポイント差という、史上最小得点差でチャンピオンを逃した。リタイアはお互いに5回を数えたものの、それ以外のレースでも確実に入賞しポイントを獲得したラウダの方が勝利したことが教訓となり、後のプロストのドライビングスタイルに大きく影響したシーズンとなった。

余談であるが、第5戦モナコGPで優勝した際、激しい雨により危険なコンディションであるとしてレースが短縮されたことにより、入賞者へ与えられるポイントが半分となり、優勝したプロストには4.5ポイントが与えられた(正規は9ポイント)。このレースではアイルトン・セナステファン・ベロフの追い上げを許しており、最大で30秒以上あった2位セナとの差が、赤旗中止となったレース最終周では7秒差にまで縮まっていた。もしレースが続行され正規のポイントが与えられていたと仮定すると、ゴールまでにセナベロフ、あるいはその両人に抜かれていたとしても[1]、2位で6ポイント(ベロフはこの年、所属していたティレルがいわゆる『水タンク事件』を起こして、後にポイントを剥奪されてしまう。その為、プロストは仮にセナとベロフの後ろの3位でフィニッシュしたとしても、繰上げで2位・6ポイントを獲得することができた)を獲得することになり、ラウダは無得点であったため、その場合にはプロストがチャンピオンを獲得していたことになる。危険なコンディションであるためにレースの早期終了を自ら促し、レースを短縮させたことが、プロスト自身のチャンピオン争いに影響を与えることとなった。

[編集] 1985年

マクラーレン時代(1985年)

1985年ミケーレ・アルボレートを破り初のチャンピオンとなる。アルボレートは、第10戦オーストリアGPまでに2勝を含め8回の表彰台を獲得するなど、タイトル争いをリードするが後半はリタイアが続いた。対するプロストは、5勝を含め11回の表彰台を獲得し、特に中盤から後半戦で着実にポイントを重ねたことが、逆転へと繋がった。

[編集] 1986年

1986年ウィリアムズホンダ勢のマンセルピケが、16戦中9勝をあげて席巻したシーズンとなった。

第3戦サンマリノGPと第4戦モナコGPで連勝してタイトル争いに加わると、第6戦カナダGPから第9戦イギリスGPまで4戦連続で表彰台を獲得し、確実にポイントをあげていく。ウィリアムズ勢が共にリタイアとなった第12戦オーストリアGPでは、少ないチャンスを確実に生かして優勝を飾った。

タイトル争いは最終戦オーストラリアGPまでもつれ込んだ。プロストがタイトルを獲得するには優勝が最低条件であり、尚且つマンセルが4位以下でなければならないという圧倒的に不利な状況で望んだ最終戦。ゲルハルト・ベルガーと接触し32周目に予定外のピットインを強いられた。この際、プロストのタイヤの摩耗が予想を下回っていたため、グッドイヤーのタイヤエンジニアが他チームに「タイヤ交換の必要なし」という判断を伝えた。ところが最も王座に近い3位のマンセルは64周目で左リアタイヤをバーストさせリタイヤした。この時点では首位に立ったピケがタイトル獲得に最も近い位置にいたが、そのピケも65周目に急遽タイヤ交換を行った。このピットインでプロストが首位に立ち、ピケは最終ラップの82周目にファステストラップを記録して追い上げたが届かず、プロストは6ポイント差を逆転してチャンピオンとなった。2年連続王座は1959年と1960年のジャック・ブラバム以来26年ぶりの快挙だった。

なお、レース中燃費計は終始マイナスを指していた。終盤、猛追するピケを背後に感じながらも燃料をセーブすべくペースを極端に落としたが、チェッカーを受けた段階でも燃費計はマイナスを指していた。マシンを停めたプロストは「多分、コンピュータが壊れていたんだと思うけど」とチームに報告した。

[編集] 1987年

1987年ウィリアムズホンダ勢が前年と同じく16戦中9勝をあげてシーズンを支配した。ピケ、マンセルに対し、マシン戦闘力の差から苦戦を強いられ、年間3勝を上げたものの、ランキングは4位に留まった。しかし、第12戦ポルトガルGPでのシーズン3勝目は、自身通算28度目の勝利となり、ジャッキー・スチュワートの持つ最多優勝記録を破るものとなった。また、堅実にポイントを稼ぐことでシーズン終盤、第14戦メキシコGPまでタイトルの可能性を残していた。第15戦日本GPでは、序盤のタイヤバーストで一旦は最後尾(26位)まで順位を落としながらも猛追して7位まで挽回。このレース中にプロストが記録したベストタイムは、優勝したフェラーリのベルガーよりも1.7秒速いものだった。

[編集] 1988年

1988年マクラーレンはホンダと提携し、V6ターボに合わせて開発したニューマシンMP4/4を投入。チームメイトにはアイルトン・セナを迎え、セナと共にシーズンを完全に席巻した。

開幕戦ブラジルGPを優勝で飾ると、第7戦フランスGPまでに4勝をあげ、それ以外の3戦でも2位表彰台を獲得し、ここまで3勝ながら2戦でノーポイントのセナに対して一歩リードする。しかし、第8戦イギリスGPからセナが4連勝して逆転をされた。プロストは勝てないレースでも2位を確保しながら、第13戦ポルトガルGPと第14戦スペインGPを連勝し、タイトル争いは終盤までもつれ込み、最終的には第15戦日本GPでセナのタイトル獲得が決定した。

この年、プロストは7勝をあげたものの、8勝したセナの前に王座を逃した。また、開幕からの11連勝をはじめ、ふたりで全16戦中15勝をあげた。

第13戦ポルトガルGPでは、赤旗再スタートの直後にプロストがセナに幅寄せを行い、1周目終了のメインストレートではセナが報復するかのように幅寄せを行った。これを機に、それまで良好な関係を築いていたセナとの関係が変わっていく。

[編集] 1989年

1989年、セナとの確執は、第2戦サンマリノGPに決定的となる。『1周目の1コーナーを先に通過した者を追い越さない』という「紳士協定」をセナが反故にしたとして怒ったプロストは3位までの入賞者に義務づけられている記者会見をボイコットして自家用ヘリで退去。後日罰金を科せられている。問題の発端は双方の「1コーナー」の解釈の違いにあった。プロストはタンブレロ・コーナー、セナは最初のブレーキングポイントであるトサ・コーナーと解釈していたため、セナは前を走る権利を得るためにトサでプロストを抜いているが、プロストはタンブレロをトップで通過していため、セナが協定を破ったと主張した。後にセナが非を認め謝罪した。

その後、ロン・デニスの懸命の説得にもかかわらず、プロストはシーズン中盤の地元フランスGPを前にマクラーレン離脱を発表し、決勝レースでは一度もトップを譲らず完勝する。ルノーエンジンを擁するウィリアムズから巨額の契約金をオファーされるが、最終的にフェラーリへの移籍を決断。フェラーリの地元イタリアGPを前にこれを発表して、そのレースでも優勝を飾る。なお、表彰式の時に本来はチームの所有物である優勝トロフィーを地元のファンに投げ与えてしまい、ロン・デニスが不快感を示した。後日プロストは、トロフィーをレプリカで「弁償」した。

日本GPの予選では、セナに1秒以上の差をつけられ2位になる。プロストはウィングを若干寝かせストレートでのスピードを伸ばすセッティング変更を、ダミーグリッド上で決断する。 決勝レースでは、スタートでセナの前に出たプロストは、セナがコーナーで接近しても直線で引き離す、という展開が続く。このような状態が47周目まで続いたが、この周回の最終コーナー手前のシケイン、イン側に寄せて追い抜こうとしたセナと、アウトからコーナーにアプローチしたプロストが接触。両者は並んでコース上に停止した。即座に車を降りたプロストは、コントロールタワーへ向かい、接触の原因はセナの無謀な追い越しにあると非難した。一方コースに復帰しトップでチェッカーを受けたセナは、レース後の再裁定でコース復帰時のシケイン不通過を理由に失格となった。

なお、多くのドライバーから「シケインを通過できなかったとき、マシンをUターンさせコースに戻るのは危険であり、エスケープから安全にコースに復帰したセナの行為を危険と見なすのはおかしい。」という抗議がなされたため、セナの失格の理由は「押しがけ」に変更された。

この接触は、セナの無理な突っ込みが原因との見解があるが、接触直前のプロストの車載映像ではシケインをショートカットするラインでステアリングをセナの方向に切っているように見え、原因はセナのオーバーテイクをプロストが巧みに利用した接触劇ではないか、という見解もある。この接触によりチャンピオンが決定したこともあり、プロストとセナのどちらが悪いかでメディアやファンの議論が続いた。FIAのF1公式サイトでは、プロストの故意によるものだと断定されている[2]

プロストは最終戦オーストラリアGPの決勝を「豪雨のため危険」だとして走らなかったが、タイトルを争うセナがリタイアしノーポイントに終わったため、日本GPでのセナの失格裁定の行方に関わらず、3度目の世界王座を確定した。

[編集] フェラーリ時代

[編集] 1990年

1990年、プロストはチャンピオンに与えられるカーナンバー"1"を手土産にフェラーリに加入し、マクラーレンに残ったセナとチャンピオン争いを繰り広げることとなる。

ニューマシンフェラーリ641で迎えた開幕戦アメリカGPは散々な結果だったものの、続く第2戦ブラジルGPでは、セナと中嶋悟の接触事故の後に首位にたち、移籍後初勝利をあげる。第6戦メキシコGPでは13位スタートながら、タイヤ交換をしない作戦で順位を上げ、逆転優勝した。その後3連勝をして、シーズン5勝を挙げる。このうち、第7戦フランスGPでの母国優勝は、フェラーリにとっても、F1通算100勝目であった。

だがセナが9ポイントをリードして迎えた第15戦日本GP。スタート直後の第1コーナーへ進入する際に、アウト側のプロストとイン側のセナが接触してリタイア。その結果チャンピオンを逃すこととなった。同じサーキットで同じドライバー同士が2年連続で接触してのチャンピオン決定となった。後にセナは「故意にぶつけた」ことを認めている。

[編集] 1991年

フェラーリ時代(1991年)

1991年はフェラーリがレギュレーション改正に対応したマシン製作に失敗したことから低迷してゆくことになる。チームは前年のマシン641/2レギュレーションに合わせて642として改良した。テストで好調であったため、開幕戦から実践投入した。641/2はベストハンドリングマシンと言われたが、642ではウイング幅の縮小や、ディフューザーの縮小などでダウンフォースが減少しため、持ち味のハンドリングのよさが失われてしまい、戦闘力を欠くこととなった。エンジンが重く馬力が劣ることも不利に働いた。慌てたチームは第7戦フランスGPより、アップデートマシンの643を投入したが根本的な解決にはならなかった。

第3戦サンマリノGPでは、濡れた路面でフォーメーションラップ中にスピンしてコースアウト。復帰できず、そのままリタイアとなった。

更に、度重なるチーム批判で、チェーザレ・フィオリオ監督やチーム首脳陣との関係が険悪になっていく。第4戦モナコGP後にプロストはフィオリオを解雇に追い込んだが、その後も首脳陣との関係は悪化。「今のフェラーリは赤いカミオン(大型トラック)だ」と発言したことで、最終戦を残してチームを解雇される結果となった。

終わってみれば「デビューイヤー以来11年ぶりのシーズン未勝利」という不本意な成績で、フランスGPでマンセルと争った以外、優勝争いに絡むことすら出来なかった。

[編集] 休養

[編集] 1992年

1992年のシーズン開幕前には、ジョン・バーナードと共にトムスを母体としたF1チームの設立を試みたり、オールフランスチームの夢をかけて開幕前にリジェチームのマシンのテストを実施するなどの動きを見せたが、パフォーマンス等に納得するものがなく、結局1年間の休養を表明。地元フランスのテレビ局で解説者として過ごした。その間に1993年からのウィリアムズ・ルノーのシートを獲得し、F1ドライバーに復帰を発表。周囲には「最強マシンを得て快進撃するのではないか」という意見と、「さすがのプロストも1年もの休養を取った後、すぐ活躍するのは難しいのではないか」という意見があった。

[編集] ウィリアムズ時代

[編集] 1993年

1993年はプロストにとって決して楽な展開にはならなかった。セナは、ウィリアムズと比べると見劣りするマクラーレンフォード(ホンダエンジンを失いフォードのカスタマー仕様エンジンに変更)で、予想以上の健闘を見せる。さらにプロストの同僚のデイモン・ヒルが成長し、3シーズン目のミハエル・シューマッハも活躍したためである。プロスト最後の勝利となったドイツGPも、ヒルが終盤でタイヤバーストによりリタイヤしたことで1位に繰り上がった結果である。年間タイトルを目標とするために個々のレースでは保守的な戦略を取ることもあったが、母国フランスGPやフランス語圏であるカナダGPでは縁石に大きく乗り上げるような攻撃的な走りを見せた。

プロストの独走とならなかった要因としては、初めて経験するアクティブサスペンションの挙動に慣れるのに時間を要したことや、ウィリアムズが1993年用に用意したFW15Cは実は1年落ちの設計(暫定マシンだった前年のFW14Bが独走したため、FW15の投入を1年延ばした)であったためである。

そんな中、所属するウィリアムズに翌年からセナが移籍することが確実になった事や、自らのモチベーションの低下を悟った事などから、第14戦ポルトガルGPで、当季限りでの引退を発表。レースでは2位に入賞し、4回目の世界チャンピオンの座を獲得した。プロストの現役引退時点ではファンジオの5回に次ぐ歴代2位の記録だった。チェッカーを受けた後、コース上にやって来たファンから手渡されたフランス国旗を掲げて走行した。

その後の第15戦日本GPと最終戦オーストラリアGPでは共に2位で終わった。オーストラリアGPでの表彰台ではセナと握手をしてみせた。1988年からの確執を知る関係者およびファンにとっては一つの時代の終幕を物語る光景となった。この表彰式直前、パルクフェルメ内ではデニスを含めた3人で握手をしていた。

[編集] F1ドライバー引退後

1994年はTF1のテレビ解説者としてサーキットに帯同。サンマリノグランプリでは、フリー走行中のセナに無線でインタビューしている。セナの死後にプロスト復帰説が流れた事もあったが、プロストは『絶対にない』と否定した。

ドライバー引退後、ルノーのアドバイザーとして働いていた。この頃、プロストはルノー親善大使を拝命。自身が出演したルノー・ルーテシアのテレビCMが日本でも放映されていた。すれ違いできないような細く曲がりくねった一方通行の道を間違って対向してきた女性ドライバーのために、プロスト(もルーテシアに乗っていた)がその女性ドライバーのルーテシアを猛スピードでバックさせてあげるという内容のCMだった。

ルノーとの契約を1995年半ばで打ち切り、プロストは同年のイタリアGP終了後、マクラーレンのテストドライブに参加する。“現役復帰か!?”と騒がれるが、結局テクニカル・アドバイザー兼テストドライバーとしてチームに加入した。1996年には新車MP4/11シェイクダウンや同シーズンのテストを担当し、チームに貢献した。

一方、1995年末には、フェラーリの監督で、以前より親交のあったジャン・トッドから、ミハエル・シューマッハのサポート役として現役復帰を持ちかけられていたが、辞退したことが最近になって本人の口から明かされている。

[編集] F1チーム設立

プロスト・無限ホンダJS45(1997年)

1997年にリジェを買収しF1チームのオーナーとなり、プロスト・グランプリと改名しグランプリに参戦した。参戦2戦目で表彰台を獲得し、翌3戦目には予選3位を獲得するなど、デビューイヤーとしては一定の活躍を見せた。1998年にはプジョーと手を組んでオールフレンチチームの実現を目指したが成績は振るわず、スポンサー不足もあり2002年初めにチームは破産。ドライバー時代の輝かしい経歴とは対照的な結果となり、「一流のドライバーが、一流のオーナーになれるとは限らない」実例に挙げられてしまうことにもなった。

この頃、Number誌によるインタビューの「ドライバーとしてのプロストは、チーム監督としてのプロストから見てどうか?今になって欠点はあるか?」の問いに対し「ない。彼はすばらしいドライバーだ、すぐにでも雇いたい。」と答えている。

F1ドライバーでプロスト・グランプリにも所属していた中野信治は、チーム監督としてのプロストの姿勢を批判していた。同時期にチームメイトであったオリビエ・パニスは、中野に対するあまりの冷遇に耐えかね、待遇を改善するよう進言していたというが、結局最後まで待遇を改善する事はなかった。

[編集] F1撤退後から現在

2003年からはフランスの氷上レース、アンドロス・トロフィーにオペル・アストラで参戦。2004年はフランストヨタの支援を得て、トヨタ・カローラで参戦している。トヨタとの関係が出来たことから、トヨタF1チームのアドバイザー就任が囁かれたこともあったが、実現はしていない。

2005年、プレゼンターとしてフランスGPを訪問。久々にF1の舞台に姿を現し、優勝したルノーフェルナンド・アロンソにトロフィーを手渡した。アロンソはこの年、プロストが果たせなかった「ルノーのコンストラクターチャンピオン獲得」に貢献している。

またこの年は「Exagonエンジニアリング」よりクライスラーバイパーGTS-Rで、ジャン・ピエール・ジャブイーユをパートナーとしてフランスGT選手権に参戦。9月のル・マンと10月のマニ=クールでは、ジャブイーユに代わり実子のニコラス・プロストをパートナーとしている。

2006年には、ルノーF1日産ブランドへの変更とは別の話として、日産とプロストが組んでF1に参戦するのではないかと噂された[3]

2007年には、マクラーレン・チームのドライバー間の対立(ロン・デニスがチャンピオンのフェルナンド・アロンソを差し置いて、ルーキーでデニスと同じイギリス人のルイス・ハミルトンに肩入れしているとされた問題)に関し、「以前にもデニスは自分を差し置いてセナを依怙贔屓していた」と、自らの経験に基づいた発言が幾度かメディアに流れた。

[編集] ドライビングスタイル

1984年迄は、予選グリッドを重視した走りであったが、ニキ・ラウダとチームメイトになり、1985年以降から、スムーズな加減速と追い抜きを武器にポイントを重ねるレース戦略を採るようになった。ライバルの動向も含めたレース展開を考慮し、安全マージンを取りつつも、必要に応じてペースを上げるようなレース展開から、「プロフェッサー」と呼ばれるほどになった。この頃よりファステストラップも多く獲得するようになった。

その一方で後藤治はプロストについて、「“プロフェッサー(教授)”と呼ばれていましたが、あれほど実像からかけ離れたニックネームも珍しいですよ。プロストは若い時からいいクルマに乗り続け、いい体験をいっぱいしてきたから、どういう方向にセットアップすればいいかが経験的にわかっている。それがプロストの財産でね。1989年にプロストは加速でセナに負けたから、ホンダを“エンジン操作している”と批判してきた。でも、データを見るとセナが高回転まで使っているのに対してプロストは使っていない。この時はもうNAになっていて、燃費は関係ないから回転を抑えて走っても全く意味がない。でもプロストは理屈を分からずに走っているから、ターボ時代同様に回転を抑えて走っていた。ホンダが技術的なことを説明しようとしても聞こうとしないし、興味がない。我々も困って、あの当時はまだアナログタコメーターでしたから、“この回転数まで必ず引っ張るように”という目盛り代わりのステッカーを貼ってあげたんです。もちろん、非常に速いドライバーですよ。タイヤの使い方も抜群だし。でも、今の時代ならチャンピオンになれないでしょうね[4]」と評している。

ニュートラルステアのセッティングを好み、少ない操作でタイヤを傷めにくい走りを身につけていた。そのタイヤを労わって走る技術を生かし、1987年と1988年のブラジル・グランプリでは猛暑の中、ライバルよりも1回少ないタイヤ交換で優勝している。1989年の同グランプリでは、予定されていた2回目のタイヤ交換が出来ず(クラッチトラブルの影響)、序盤に交換したタイヤで最後まで走り切り、2位を獲得した。このレースについてプロストは「優勝より嬉しい2位」と語っている。

かつてのチームメイト、ケケ・ロズベルグの解説によれば、傍目にはスムーズに見えるプロストのコーナリングは、ブレーキをかけないまま曲がっていき、曲がりながらロック寸前までブレーキをかけ一気に転回し、そこから全開で加速するという独特なもので、ロズベルグ自身も真似しようとしたがどうしても出来なかったという。

プロストは「チームメイトがセットアップしたマシンでそのまま走れたのはセナとラウダだけだった」と発言しており、マシンの最大の性能を引き出すセッティングは3人同じであった。デイモン・ヒルは、同じセッティングで走っていたプロストのハンドル操作が極めて少ないことをデータから知り、プロストの走法を学ぶようになった。

[編集] 雨嫌い

プロストは雨を極端に苦手としている、と評されることが多い。雨の路面を嫌う意識からか、雨の降り始めに真っ先に雨用のレインタイヤへ交換してしまうため、すぐに天候が回復してレースを失うことも多かった。1989年のオーストラリアGPでは豪雨だということで、他のドライバーに出走を取りやめるよう働きかけを行い、1991年サンマリノGPや1993年ブラジルGP、ヨーロッパGPで勝利を逃している。

1982年のドイツグランプリの予選は視界が極端に悪い霧雨の中で行われたが、スローダウンした前車をプロストが追い抜いたところ、後ろからアタック中だったディディエ・ピローニがこれを視認できず、ピローニ車の前輪がプロスト車の後輪に乗り上げる事故が発生。ピローニ車はプロスト車を飛び越えて前方の路面に叩きつけられ、ピローニが両足を複雑骨折しレース生命を絶たれるという惨事に発展してしまう。プロストに過失は一切なかった。


[編集] エピソード

  • 父は家具職人で裕福ではなかった。そのためレース人生で自費で出走したのは「初めて参戦するレースに必要な中古のカートを、アルバイトをして貯めた800フランで買った時だけだ」という。
  • 鼻が曲がっている(そのために少々ぼそぼそとした鼻声)。これは、小学生の頃サッカーの試合中に怪我をしたことが原因だという。
  • 子どもの頃はサッカー選手になりたかった。サッカーファンはその後も続き、98年W杯仏大会の折にはプロストGPのピットに大型モニターを持ち込んで観戦した。他所のチーム関係者も詰めかけて大盛況となった。
  • 爪を噛むクセがある。眉間にシワを寄せ、タイミングモニターを見つめながら爪を噛んでいる姿がしばしば捉えられた。
  • 自転車の愛好家であり、ツール・ド・フランスの1stステージを走る市民参加レース「エタップ・デュ・ツール」や、フランスの自転車ロードレーサーでツール・ド・フランスにおいて7度の山岳賞(史上最多)に輝いたリシャール・ヴィランクの引退レース等を走っている。
  • 出走回数の199は最も多く流布している数字であるが、予選を通過し決勝に進出したレースは201であり、ここから「豪雨のため出走を拒否した」1989年オーストラリアGPと「フォーメーションラップ中のスピン」でリタイアした1991年サンマリノGPを引いた数字である。現在はマシントラブル等でフォーメーションラップに出られなかったり、フォーメーションラップ中にストップした場合でも、出走回数としてカウントすることが記録史家の間では一般的である。このため、史家の中にはプロストの出走回数を200あるいは201と記録する者もいる。FIAの公式データでは、200である。
  • 1982年のフランス・グランプリでアルヌーに優勝をさらわれたプロストがレース後自宅へ帰る途中にガソリンスタンドに立ち寄ると、店員が彼をアルヌーと勘違いして勝利を祝福し、「よくやりましたね、アルヌーさん。あの何とかプロストってチビにもいい薬になりますね」とウィンクした。クレジット・カードで支払いをしようと思っていた彼は、現金で支払うことで真相が露呈するのを避けた。
  • フランスの高速道路でねずみ捕りにひっかかったプロストは、追いかけてきたパトカーに制止され、警察官に「お前は自分をアラン・プロストだとでも思っているのか?」と言われた。
  • 1983年、ルノーとの契約で、同社の小型車に乗ることを義務づけられていたプロストは、その年の暮れに解雇されるやメルセデス・ベンツ560SECを注文した。12年後の1995年、ルノー親善大使の契約を打ち切ったプロストがドライブしたのはメルセデス・エンジンを搭載したマクラーレンMP4/10であった。
  • マクラーレン・ホンダの頃はホンダ・レジェンドを所有し、それでグランプリに乗り付ける事もあったと言われる。
  • 1987年、マクラーレンのデザイナーだったゴードン・マレーと共に初めてホンダの施設を訪問した際に、行く先々でエンジニアたちが2人をジロジロと見るので、「お前みたいな大男は日本にいないからだ」「いや、お前みたいに鼻の曲がった奴は日本にいないからだ」と互いにからかいあったという。
  • 1993年の日本グランプリの後、東京で立ち寄った吉野家牛丼を気に入ってしまい、「オレンジ色の看板のレストランでライスの上にビーフの乗ったものを食べた。生卵がまた良かった」などと発言した。
  • 1993年末にパリで開催されたチャリティ・カート大会では、他のドライバーが派手なドリフトでコーナーを曲がっているのにプロストは一切テールスライドをしないスムーズな走りを披露した。それを見たセナが、「どうしてあの走りであのタイムが出るんだ!」と驚愕した。プロストとセナは熾烈なトップ争いを展開。最後の対決に会場は大いに沸いた。結果は、エンジントラブルからスローダウンしたセナを、後ろからぴったりつけていたプロストがかわして優勝という、最後までプロストスタイルでの完勝であった。
  • 1993年を限りに引退を表明していたが、シーズンオフにマクラーレンの要請に応える形でプジョー・エンジンを搭載したMP4/9をテストドライブした。このことにルノー首脳陣は激怒し、後にプロスト自身がチームを所有した際にエンジン供給を拒否したと言われている。
  • プロストがテレビ解説を務めていた1994年ドイツ・グランプリで、リジェの2台が表彰台を獲得したが、リジェのマネージャーは、フェラーリ時代に反目したチェーザレ・フィオリオだった。マイクのスイッチが入っていないと思っていたプロストは「あのクソ野郎、ついてやがるぜ」と呟き、そのまま生放送されてしまった。しかしその後自身のチームプロストGPではそのフィオリオを招聘している。
  • ジャン・アレジとは、フェラーリ時代チームメイトであったり結婚式の立会人を務めるなど公私共に友人であったが、現役中は不思議なことに一度も表彰台で一緒に立つことはなかった。

[編集] F1での年度別成績

所属チーム 獲得ポイント ランキング 決勝最高位・回数 表彰台回数 *予選最高位・回数
1980年 マクラーレン 5 15位 5位・1回 1回 7位・2回
1981年 ルノー 43 5位 1位・3回 6回 1位・2回
1982年 34 4位 1位・2回 4回 1位・5回
1983年 57 2位 1位・4回 7回 1位・3回
1984年 マクラーレン 71.5 2位 1位・7回 9回 1位・3回
1985年 73 1位 1位・5回 11回 1位・2回
1986年 72 1位 1位・4回 11回 1位・1回
1987年 46 4位 1位・3回 7回 2位・3回
1988年 87 2位 1位・7回 14回 1位・2回
1989年 76 1位 1位・4回 11回 1位・2回
1990年 フェラーリ 71 2位 1位・5回 9回 2位・5回
1991年 34 5位 2位・3回 5回 2位・3回
1993年 ウィリアムズ 99 1位 1位・7回 12回 1位・13回

*予選順位はペナルティなどを反映した決勝グリッド

[編集] 脚注

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  1. ^ ベロフは後に水タンク事件で年間のリザルトを剥奪されたため。
  2. ^ The Officila Formula 1 Website - HALL OF FAME
  3. ^ Nissanとプロスト、F1参戦を考慮(F1.-live.com 2006年10月3日記事)
  4. ^ 柴田久仁夫 「究極のドライバー比較論-元ホンダF1プロジェクトリーダー後藤治が10年たった今、語る」『AUTO SPORT-アイルトンセナ没後10年特別企画』 三栄書房、50頁-55頁、2004年。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ
先代:
ニキ・ラウダ
アイルトン・セナ
ナイジェル・マンセル
F1ドライバーズチャンピオン
1985年-1986年
1989年
1993年
次代:
ネルソン・ピケ
アイルトン・セナ
ミハエル・シューマッハ


最終更新 2009年9月15日 (火) 17:31 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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