アルテ高崎
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| アルテ高崎 | |
|---|---|
| 原語表記 | アルテ高崎 |
| 愛称 | アルテ |
| クラブカラー | 黒と赤 |
| 創設年 | 1996年 |
| 所属リーグ | 日本フットボールリーグ |
| ホームタウン | 高崎市 |
| ホームスタジアム | 高崎市浜川陸上競技場 等 |
| 収容人数 | 2320 |
| 代表者 | 堀越大哲 |
| 監督 | 後藤義一 |
| 公式サイト | 公式サイト |
アルテ高崎(アルテたかさき、Arte Takasaki 旧チーム名:(群馬)FCホリコシ)は群馬県高崎市にあるサッカークラブである。
目次 |
[編集] クラブの概要
クラブは群馬県の学校法人堀越学園(東京都にある堀越高等学校とは別の法人)が運営する社会人サッカークラブ。選手は全員、専修学校の「全日本サッカー学院」に所属している。
2006年に公募で決まった愛称の「アルテ」は、観ている人々に感動と喜びを与えるような芸術的(ポルトガル語だとARTE)なサッカーを目指すという意味と、高崎が群馬交響楽団の本拠地でもある芸術(ART)の街でもあることに由来する。またギリシャ神話の狩猟の女神であるアルテミスのように、狙った獲物は確実にしとめ、試合に確実に勝利できるようにという願いも込められたものである。
ホームタウンは群馬県高崎市。ホームスタジアムは同市の浜川陸上競技場のほか、前橋市の敷島公園球技場(群馬県サッカー・ラグビー場)を使用している。
将来は同市にある高崎競馬場敷地(競馬場は2004年12月で廃止)を改修して球技専用スタジアムを建設するように署名活動などの運動が行われているが、敷地は県有地・市有地・私有地が混在し権利が複雑なため活用のめどは立っておらず、実際にサッカー場を建設できるかは不透明である。
また2004年4月に開校した堀越学園グループの創造学園大学サッカー部と連携し、同チームに指導者を派遣して選手育成するなど、人材交流を展開している。
[編集] クラブの歴史
母体チームは1996年に結成された「マッキーFC」。FCホリコシとして再結成された2000年[1]に群馬県リーグ2部で全勝、翌年も同1部で全勝優勝して関東社会人サッカーリーグに昇格。2003年、同リーグ1部で優勝し当時日本フットボールリーグ (JFL) 所属のFC京都BAMB1993との入れ替え戦を制して、翌2004年度のJFL参戦を果たした。
2004年11月13日の天皇杯4回戦では柏レイソルを1-0で下す快挙を成し遂げた。
2005年1月、チーム名から「群馬」を削って「FCホリコシ」に改めることになった。これは高崎市の市民チームとして定着させることを念頭においた暫定的なものと考えられている。なお日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)への参入にあたって、当初2005年度からの参入を目指したが準備が間に合わず2006年度からの参入に方針を転換、2005年9月に加盟申請書をJリーグに提出し本拠地を敷島公園陸上競技場にするなど具体案を示した。しかし必要書類が不十分として参入は見送られ、その後に導入されたJリーグ準加盟制度への加入申請も行わず、チームのJリーグ参加実現は完全に暗礁へ乗り上げている。
2005年12月、FCホリコシは高崎を必ず名前に入れることを条件にチーム名を公募、2006年1月にチーム名を「アルテ高崎」とすることを発表した。
2006年はシーズン中及びシーズン終了後に資金難を理由に監督兼任だったアマラオはじめ、主力選手が大量退団した。
2007年は開幕戦に勝ったが、選手層の薄さもあって以後の33試合で勝利を挙げられず、ピボ監督が辞任、勝ち点はJFLワースト記録の7に留まり年間最下位となった。 本来なら全国地域リーグ決勝大会の上位チームと入替戦を行い、それに敗れると地域リーグに降格する可能性があったが、この年はロッソ熊本・FC岐阜のJ2参入とアローズ北陸とYKK APサッカー部の統合によるJFLのチーム数減少のため入替戦は行われず、かろうじてJFL残留が決まった。なおFC岐阜はリーグ最終節の対戦相手だったが、この試合で岐阜が引き分け以下だった場合最終順位は5位で昇格を逃し入替戦が実施されていた可能性が高く、そのため皮肉にも「負けて残留を決める」という形になってしまった。
2008年も開幕から勝利をあげることができず、このため渡辺克之監督が前期第12節で辞任し新たに幸谷秀巳を監督に迎えることとなった。そして、前期第14節(2008年6月1日)にソニー仙台FC戦で約1年2ヶ月ぶりに勝利をあげた。ちなみに、2007年前期第2節から2008年前期第13節までのリーグ戦46試合連続未勝利記録はJFLのワースト記録となった(この記録は他のサッカーリーグでも例がなく、ごく稀な記録である)。また、最終節(2008年11月30日)のHONDA FC戦では一試合11失点のJFLワーストタイ記録となってしまった(アルテ高崎も1得点しており一試合で合計12得点はJFL記録となった)。また、リーグ年間の失点数が107となり、これもJFLリーグワースト記録となってしまった。それでも、栃木SC、カターレ富山、ファジアーノ岡山の3チームがJリーグに昇格したため、JFLに残留することになった。
2009年は幸谷に代わって横浜FCユース監督の後藤義一を新監督に招聘、出直しのシーズンとなる。開幕後から無敗の快進撃でシーズン序盤ではあるが、後期第9節終了時点で11位の好位置につけている。
[編集] チーム成績・歴代監督
| 年度 | 所属 | 順位 | 勝点 | 試合 | 勝 | 分 | 敗 | 得点 | 失点 | 得失差 | 天皇杯 | 監督 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1996年 | 群馬県2部A | 優勝 | 県予選3位 | |||||||||
| 1997年 | 群馬県1部 | 7位 | ||||||||||
| 1998年 | 群馬県2部A | 11 | ||||||||||
| 1999年 | 群馬県2部A | 2位 | 11 | |||||||||
| 2000年 | 群馬県2部A | 優勝 | 0 | 0 | 1回戦 | 鈴木隣 | ||||||
| 2001年 | 群馬県1部 | 優勝 | 36 | 12 | 12 | 0 | 0 | 2回戦 | 山出邦男 | |||
| 2002年 | 関東 | 2位 | 22 | 9 | 6(1) | - | 3(0) | 20 | 16 | +4 | 2回戦 | 山出邦男 |
| 2003年 | 関東1部 | 優勝 | 35 | 14 | 11 | 2 | 1 | 49 | 13 | +36 | 県予選準優勝 | 池田司信 |
| 2004年 | JFL | 8位 | 41 | 30 | 11 | 8 | 11 | 48 | 47 | +1 | 5回戦 | 池田司信 |
| 2005年 | 8位 | 48 | 30 | 15 | 3 | 12 | 53 | 40 | +13 | 3回戦 | 三輪和幸/小見幸隆 | |
| 2006年 | 10位 | 37 | 34 | 10 | 7 | 17 | 36 | 62 | -26 | 2回戦 | 金光浩/浜口和義/アマラオ(選手兼任) | |
| 2007年 | 18位 | 7 | 34 | 1 | 4 | 29 | 17 | 71 | -54 | 県予選準優勝 | ピポ/渡辺克之 | |
| 2008年 | 17位 | 20 | 34 | 5 | 5 | 24 | 40 | 107 | -67 | 1回戦 | 渡辺克之/幸谷秀巳 | |
| 2009年 | 34 | 後藤義一 |
- ( )内の数字は、PK戦
[編集] 永久欠番
- 30 加藤康祐 - 2005年2月、練習中の心臓麻痺により急死。チームへの功績を称えて2005年、永久欠番に指定。
[編集] ユニフォーム
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[編集] ユニフォームサプライヤー
- LOHAS
- *2008年にA-LINEとの契約を打ち切られ、2009年より新しく謎のブランド「LOHAS」と契約した。
しかしこれらは全て選手の買い取りである為、お金のない選手はA-LINEのトレーニングウェアを未だに着用している。
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- 創造学園大学(胸)
[編集] チーム名変遷
[編集] 脚注
- ^ 当初は群馬FCフォルトナだったが、商標上の問題で同年途中から変更された。
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年9月26日 (土) 14:54 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【アルテ高崎】変更履歴








