アルトゥーロ・トスカニーニ

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アルトゥーロ・トスカニーニ
基本情報
出生 1867年3月25日
出身地 イタリア王国 パルマ
死没 1957年1月16日(満89歳没)
アメリカ合衆国 ニューヨーク
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者・チェロ奏者
担当楽器 指揮・チェロ
活動期間 1886 - 1954
レーベル RCA
  

アルトゥーロ・トスカニーニArturo Toscanini, 1867年3月25日 - 1957年1月16日)は、イタリア出身の指揮者

目次

[編集] 略歴

[編集] 人物

スカラ座やメトロポリタン等の音楽監督を歴任し、20世紀前半を代表する指揮者とされている。ロマン主義のスタイルを脱却した演奏法は音楽演奏における新即物主義に分類され、ライヴァルのフルトヴェングラーと対極をなした。速く正確なテンポ、統一したアンサンブル等は戦後の演奏法の規範となった。徹底した楽譜至上主義ともいわれているが、しばしば部分的にオーケストレーションを改編することもあった。レパートリーは膨大で、イタリア・オペラやレスピーギなどのイタリアの管弦楽作品のみならず、バイロイト音楽祭においてワーグナーを振り、ベートーヴェンブラームスといったドイツ音楽やチャイコフスキーなども得意とした。

『ワリー』や『トゥーランドット』等の重要なイタリア・オペラを初演している。戦後はNBC交響楽団を起用し数多くのレコーディングを行った。また、リハーサルの厳しいことで知られ、駄目出しの多さからトスカノーノとあだ名された(後述)。

トスカニーニは極度の近視であり、本番もリハーサルも暗譜で指揮するのが常であった。しかし、1954年4月4日の演奏会(オール・ワーグナー・プログラム・コンサート。曲目は「タンホイザー」序曲とバッカナーレ)での記憶障害により指揮を止めてしまった。そしてこの演奏会の直後にトスカニーニの引退が発表された(引退は演奏会の前に計画されていたとされる)。引退に際し公開した声明は、以下の通り極めて簡潔なものである。

 "The sad time has come when I must reluctantly lay aside my baton and say good-bye to my orchestra."

 「我が指揮棒を不本意ながら置き、なおかつ我がオーケストラに別れを告げねばならぬ悲しい時が来てしまった。」

[編集] 逸話

  • プッチーニの遺作オペラ『トゥーランドット』の初演に際し、別な作曲家が補作したフィナーレの直前で演奏を止め「巨匠は、ここで筆を絶ちました」と言って指揮台を降り、公演はそこで終了した。トスカニーニが公演中に声を発したのは、この時のみである。なお、台詞について異説があり、英語版Wikipediaでは「ここで死が芸術を打ち負かしました」とされている。トスカニーニはオペラピットを去り、場内の照明が灯り、聴衆も静かに帰ったという。
  • トスカニーニはオーケストラをリハーサルで徹底的に鍛え、妥協を許さない専制的な指揮者であった。こうした態度はオーケストラのみならずオペラ歌手にまで及んだ。あるとき著名なプリマドンナが「マエストロ、私はスターですよ!」と反論すると、トスカニーニは平然と「マダム、あなたは間違っている。スターは空にあるものですよ。」と答えたといわれる。
  • トスカニーニの暗譜能力は驚異的であり、合奏曲約250曲の全パート、オペラ約100曲の譜面と歌詞、更に多くの小品を完璧に覚えていたという。あるとき、バスーン奏者が演奏会の前に自分の楽器のキーを一つ壊してしまい、トスカニーニに相談した。トスカニーニは暫く考えてから、「今夜の曲ではその音は使われないから、心配しないで良い」と答えた[1]
  • 元来トスカニーニはパルマ音楽院では作曲科の学生であった。ところが学生のときワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を観覧し作曲家になることを断念、そのままチェロ科に移ってしまった。なお彼が作曲したピアノ曲「子守歌」は、白石光隆により録音されている(フルトヴェングラー、セルらの曲と共に『大指揮者のピアノ曲』としてキングレコードから発売。)。
  • ラヴェルの「ボレロ」を指揮した際、興奮した会場の聴衆の拍手に、作曲者同席の慣例に従ってトスカニーニはラヴェルを立たせて巻き起こる拍手を作曲者に向けようとしが、テンポの解釈の違いからラヴェルは自分の席に座ったままで、聴衆の拍手には応えようとしなかったという。この行動はすぐに新聞紙上で騒がれるなど一時は音楽界格好の話題となったが、後にラヴェルはトスカニーニへの手紙の中で、この事件が実は誤解に基づくものであることを説明している。
  • トスカニーニは非常に短気であり、オーケストラのリハーサルの際には怒鳴り声を発することは頻繁にあった。戦前に出演したバイロイト音楽祭では、オーケストラが一音出すたびに「ノー、ノー!」と怒鳴るので「トスカノーノ」というあだ名を付けられていた。しかし当時のオーケストラ団員は仕事に対するモラルが低く、各々が好き勝手な譜読みをしたり、リハーサルを勝手に休み他所でアルバイトをするような者もいた。指揮者が理想どおりの音楽を表現しようとするためには厳しい姿勢を示す必要があった。
  • トスカニーニがリハーサル中に激怒すると、指揮棒を折る、スコアを破く、インク瓶や懐中時計を地面に投げつける、譜面台を壊したりするということもよくあり、コンサートマスターの指を指揮棒で刺してしまい、裁判沙汰になったこともあった。しかし一通り暴れ終わった後は平然とした顔で「それではリハーサルを始めましょう」と何食わぬ顔でリハーサルを始めた。また、いかにもイタリア人らしく激しく怒っても翌日には忘れてしまい、まったく後に引くということがなかった。翌日も怒りが残るジョージ・セルとは対極をなし、オーケストラの団員から憎まれるようなことはなかったという。
  • トスカニーニはオーケストラ団員から非常に恐れられていたが、ウィーン・フィルは別であった。ある時トスカニーニがウィーン・フィルとのリハーサル中に激しく怒り、スコアを両手で持って地面に叩きつけると、高名なチェロ奏者フリードリッヒ・ブックスバウム(ロゼー弦楽四重奏団のメンバー)は自分のパート譜をそっとスコアの隣に置いたという。しかし、トスカニーニはこの優れたオーケストラに一目置き、リハーサルで憤激することも非常に稀になり良好な関係を保っていた。ある時ムソルグスキーの『展覧会の絵』を指揮した時、トスカニーニが「絵」を一つ飛ばしてしまい力強く指揮棒を振り下ろすと誰も反応せず、びっくりしたトスカニーニが気がついて今度は静かに合図するとオーケストラは鳴り出した。後にトスカニーニは「彼らは私の間違いに気付いてくれた」とウィーン・フィルを賞賛したという。
  • あるとき、ニューヨークの演奏会で、聴衆が数人遅刻してくると、トスカニーニはナポレオン風に腕を組み、「遅れてはいかん!」と叱り、呆然としたオーケストラに対し、目の前のチェロの譜面台をわざとらしく叩き、演奏を始めたという。
  • トスカニーニは指揮者・レオポルド・ストコフスキーとは犬猿の仲であった。ストコフスキーのスコア改変に対して「あいつは作曲者に対する殺人者だ」と罵り、一方ストコフスキーも「怒鳴れば何でも思い通りになると思っているイタリア人」と皮肉を言っている。しかし、もともとは関係は良好だったらしく、自らの演奏会に賓客としてストコフスキーを招き、その演奏を聴いた彼は「これほど多くのことを学ばせてもらった演奏に対して、料金を払わないわけにはいかない」と、チケットの代金を払ったという逸話もある。また、「あいつが振れば、どんな指揮者より良い音が鳴る」と、改変に対しては嫌悪感を抱きつつも、指揮自体の手腕は高く評価していたようである。
  • トスカニーニの末娘であるワンダは、ピアニストのウラジミール・ホロヴィッツと結婚した。トスカニーニはホロヴィッツと共演したこともあるが、大ピアニストであるホロヴィッツに対して「でくのぼう」呼ばわりしたこともあったという。
  • トスカニーニは大変な好色家で、共演者の歌手との浮名を流すこともしばしばであった。それについて妻は常に悩んでいたという。しかし家族愛は強く家族の人数分のハートを彫刻した腕輪をはめていたり、孫(ホロヴィッツとワンダの娘)ソニアを溺愛し、結果的に断られたものの一時は養子にしてくれるように頼んだことも知られている。臨終の際、ソニアが見舞いに来たときトスカニーニは、「おお、ソニア、ソニア。来てくれたのか。おじいちゃん、もうすぐ死ぬからな」と言ったという。
  • ジークフリート・ワーグナーの死後、相性が合わなかった未亡人のヴィニフレートナチスに接近すると、トスカニーニは「全てが変わらん限り私は帰らない!」と叫んでバイロイト音楽祭から身を引いた。さらに1937年ザルツブルクの路上でフルトヴェングラーと会い口論となった。両者は前年のニューヨーク・フィルの引き継ぎをめぐって感情のしこりがあったが、フルトヴェングラーがドイツに留まっていることに対し、トスカニーニは彼がヒトラーの言いなりであると解釈しており、双方は険悪な関係となっていた。「あなたはナチだから出ていけ!自由な国と奴隷化された国の双方では指揮する資格はない」、「あなたにまかせるなら出て行きます。でも音楽家にとって自由な国も奴隷化された国もない。演奏するのがたまたまヒトラーの国といって、ヒトラーの部下とは限らない。偉大な音楽こそナチスの敵ではないですか!」、「第三帝国で指揮する者は全てナチスだ!」といった内容で喧嘩別れした。以後、二人が会うことはなかったといわれる。

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ Kim Stanley Robinson Blue Mars, Bantam, p.671. ISBN 0-553-57335-7

最終更新 2009年8月15日 (土) 17:03 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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