アルブレヒト・デューラー

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自画像
メランコリア I(銅版画)
A Young Hare, 1502, Watercolor

アルブレヒト・デューラーAlbrecht Dürer, 1471年5月21日 - 1528年4月6日)は、ドイツルネサンス期の画家。数学者。同名の父・アルブレヒトは、ハンガリーからニュルンベルクに移住してきた金銀細工師。

目次

[編集] 出生

[編集] 若年時代(1471 - 1490)

 デューラーは1471年5月21日に、第三子(次男)としてニュルンベルクに生まれた。14-18人兄弟であった。父アルブレヒト・デューラーは金細工職人として成功を修めていた。彼はジュラ Gyula の隣村アイトーシュ Ajtós(現在アイトーシュファルヴァ Ajtósfalva、「村」の意味)の出身で、Ajtósiと名乗っていた。ハンガリーではアイトーシ・デュレル Ajtósi Dürer とも呼ばれる。彼は1455年にニュルンベルクに移って来た。ドイツ名の"Dürer"は、ハンガリーの"Ajtósi"に由来して、大元はドア職人の"Thürer"(ハンガリー語で"ajtó"はドアの意味)である。ドアは家族が手に入れる家紋で特徴づけられる。アルブレヒトは自分が親方となった1467年に、彼の親方の娘であるBarbara Holperと結婚した。 デューラーの後見人はAnton Kobergerで、デューラーの生まれた年に印刷家、出版家になるために金細工職人を辞めた。ほどなく彼はドイツで最も成功した出版家となり、最終的に24の出版物と、ドイツ国内に数多くの事務所を所有した。彼の最も有名な出版物は、1493年にドイツ語とラテン語版が出版された『ニュルンベルク年代記』である。そこにはミヒャエル・ヴォルゲムートによる、前例のない1809の木版のイラストが含まれていた。この計画が始まった時、デューラーはヴォルゲムートと共に、これらを手伝った。

 幸運にもデューラーは自画像を多く残していて、20代中頃には大変有名になっていた。このため彼の生涯は、多くの情報源により文書化されている。2,3年学校に通った後、ディーラーは父親から金細工と描写の基礎を学び始めた。父親は彼に金細工のトレーニングを続けさせたかったが、彼はヴォルゲムートの見習い時、1484年に15歳で始めた描画において、早熟な才能の片鱗をみせていた。銀筆素描で描かれた自画像は、彼が後に「子供時代」と記した1484年の作である。ヴォルゲムートは当時ニュルンベルクにおいて、様々な芸術作品を製作する巨大な作用場を有し、最先端を行く芸術家であった。ニュルンベルクは出版や高級品の貿易拠点として、重要な繁栄した都市であった。街はアルプスを縦断して比較的距離の近いイタリア、特にベネチアと大きなパイプがあった。

[編集] 遍歴時代と結婚(1490-1494)

 見習い期間を終了すると、ディーラーは一般的なドイツの習慣であった、ギャップ・イヤー中に見習い人が他の地域で芸術家から技術を学ぶに遍歴の旅に出た。ディーラーは遍歴で約4年間を過ごした。彼は1490年に、北ヨーロッパの先進的な彫刻家のMartin Schongauerの下で働こうと旅立ったが、1492年に彼がコルマールに到着する直前にSchongauerは亡くなってしまった。1490年に旅立ってから1492年にコルマール到着するまで、デューラーがどこを彷徨っていたのかは不明であるが、フランクフルトオランダにいたと思われる。コルマールで彼はMartin Schongauerの兄弟である金細工師のカスパーとパウル、画家であるルードビッヒに歓迎された。1493年デューラーはストラスブールに出かけ、Nikolaus Gerhaertの彫刻と出会った。彼の最初の自画像はこのときに描かれた。おそらくニュルンベルクの彼の婚約者に送られた。

 1492年初頭にデューラーはバーゼルに赴き、Martin Schongauerの他の兄弟である金細工師ゲオルクと共に住んだ。23歳になった彼は、1494年7月7日にニュルンベルクに戻るとすぐにアグネス・フライと結婚した。結婚は彼が不在の時に用意されていた。アグネスはこの街の優秀な真鍮職人の娘であった。彼女の父はアマチュアのハープ奏者でもあった。しかし、結婚後も子供はできなかった。

[編集] 初めてのイタリア旅行(1494-1495)

 ニュルンベルクに戻ってからわずか3ヶ月以内に、デューラーは単身でイタリアに旅立った。おそらくニュルンベルクでのペストの流行が影響したのだろう。彼はアルプスを越える際に、水彩画のスケッチをしている。現存しているものもあり、例えば"engraving Nemesis"のように、後の彼の作品における実存する場所での正確な風景によって推定されるものもある。これらは西洋美術で知られている最初の純粋な風景観察である。

 彼は更に進んだ芸術世界の勉強をするためにイタリアのベネチアに赴いた。Wolgemutの保護もあり、彼はドライポイントによる印刷の方法や、Martin Schongauerの作品やMaster of the Housebookがその基本となっているドイツ様式の木版の設計方法を学んだ。彼はドイツにおいてもイタリアの作品に接していたが、イタリアでの2つの訪問が彼に多大な影響を与えることとなった。彼はジョヴァンニ・ベリーニは最も歳をとっているが、未だにベネチアで最もすばらしい芸術家であると記述している。デューラーの描画や彫刻は他の芸術家の影響も受けている。作品に描かれている体の比率に興味があったアントニオ・デル・ポッライオーロアンドレア・マンテーニャロレンツォ・ディ・クレディなどである。彼はパドヴァマントヴァも旅行中に訪れている。

[編集] ニュルンベルクへの帰郷(1495-1505)

 1495年にニュルンベルクに戻ったデューラーは、自身の作業場を持った。(結婚をしたのは作業場が必要であったからであった。)帰郷後5年間で、彼の創作様式は潜在する北部様式にイタリアで得たものを統合した。後の10年間にデューラーは両親を共に失っている。父は1502年に、母は1513年に亡くなった。作業場での彼の初期の優れた作品は木版印刷で、特に宗教的なものであった。しかし1496年頃描かれた"The Mens' Bath-house"のような平信徒の描写も含んでいた。これらはそれまでのドイツ木版画の大多数よりも大きく、より複雑で比率のバランスが取れていた。

 デューラー自身がすべての木版を切断したとは考えづらい。この作業は専門の職人が行ったものであろう。しかし、彼はWolgemutのアトリエでの修行時に、多くの祭壇彫刻や祭壇画を造り、木版用の設計と木材の切断の両方を行い、創作に必要な技術が何であるかと、木材彫刻士との作業の仕方を理解した。デューラーは木材に直接設計を描くか、紙に書いたものを木材に接着させた。どちらにしても、木材を切断するときに、設計図は壊された。

 彼の有名な"Apocalypse"の16の設計シリーズは1498年のものである。彼は"Great Passion"の最初の7つの場面も同年に製作した。少し後に、聖家族と聖人 (The Holy Family and saints) に関する11のシリーズを製作した。1503-05年頃、彼はLife of the Virginの挿絵セットの最初の17枚を製作したが、すべての製作が終わるまでに数年間を要した。これらの作品も、作品"Great Passion"も何年もの間出版されなかったが、印刷物はかなりの数が個人的に売られた。

 これと同時期に彼はエングレービングを製作するために、Burinを使用する今までとは異なる技術を特訓した。基本的な技術は金細工とほぼ同じなので、彼は幼少の頃、父親から技術を学ぶことが可能であった。習い始めはあまり熱心ではなかったが、1496年頃から傑作を産み出すようになった。"The Prodigal Son"は、数十年後にジョルジョ・ヴァザーリに絶賛された。すぐに彼はいくつかの超大作と原画を残した。特に1502年作の"Nemesis"、1498年作の"The Sea Monster"と1501年頃製作された"Saint Eustace"は、きめ細かい背景と美しい動物が描かれていた。彼は数多く聖母マリアの宗教的な単身像や喜劇的な農民の姿の小風景の作品を造った。印刷物なので持ち運びができ、これらの創作によって数年以内にヨーロッパの主要な芸術の中心地で、デューラーは有名になった。

 かつてベネチアで出会った画家Jacopo de' Barbariが1500年にニュルンベルクを訪れた。デューラーは遠近法解剖学比率を彼から学んだと述べている。Barbariは知っていることすべてを語りたがらなかったので、デューラーは自身で調査を開始した。それは彼の生涯にわたる関心事であった。人体の比率を描く実験が、デューラーの現存している一連の絵画で見ることができる。1504年に製作された有名なアダムとイヴのエングレービングは、Burinを使用し、肉体の表面に質感を持たせている。この作品がデューラーのフルネームが署名された唯一のエングレービング作品である。

 デューラーは特に絵画やエングレービングによる銅版画の下書きを数多く残している。最も有名なものは1508年に作成され、現在はウィーンのアルベルティーナ美術館に所蔵されている"Praying Hands"である。それはHellerの祭壇画の十二使徒を調査したものである。彼は水彩ガッシュの絵も作り続けていた。それらは1502年作の"野うさぎ (Hare)"や1503年作の"Great Piece of Turf"などに代表され、数多くの牧草地での優雅な静物や動物画を含んでいた。

1498年木版画集「黙示録」にて成功をおさめた。

[編集] 二度目のイタリア旅行(1505-1507)

 彼は絵を描くためにイタリアに戻り、最初にリンネルテンペラ技法によって描く一連の作品を製作した。作品には自画像や祭壇画が含まれていた。パウムガルトナーの祭壇画やAdoration of the Magiなどがあった。1506年初期、彼はベネチアに戻り、1507年春までそこに滞在した。この時すでにデューラーのエングレービングは人気を得ていて、コピーが作成されていた。滞在中に、ジョヴァンニ・ベリーニと親交を結んでいた。

 ベネチアで彼はドイツ移民の共同体から、San Bartolomeo, Venice教会の祭壇画の業務委託を受けた。これは"Adoration of the Virgin"あるいは"Feast of Rose Garlands"として知られている。委託にはベネチアのドイツ移民共同体メンバーの肖像画が含まれていたが、その作風はイタリアの影響を受けていた。その後、作品はルドルフ2世の手に渡り、プラハに移された。デューラーがベネチアで製作した他の絵画には、"The Virgin and Child with the Goldfinch"や"Christ disputing with the Doctors"などがある。

[編集] ニュルンベルクと傑作(1507-1520)とその後

 ベネチア人に敬意を持たれていたにも関わらず、1507年の中頃までにデューラーはニュルンベルクに戻り、1520年までドイツ国内で暮らした。彼の評判はヨーロッパ中に知れ渡り、彼はラファエロ・サンティジョヴァンニ・ベリーニレオナルド・ダ・ヴィンチロレンツォ・ディ・クレディを介して)を含む有名な芸術家と親睦を図ったり、連絡を取り合っていた。

 1507年から1511年の間、彼は最もよく知られた絵画を残した。1507年の「アダムとイヴ」、フリードリヒ3世のために描かれた1508年の"The Martyrdom of the Ten Thousand"、同じく1508年の"Virgin with the Iris"、フランクフルト・アム・マインのJacob Hellerのために描かれた1509年の"Assumption of the Virgin "、Matthaeus Landauerのために描かれた1511年の"Adoration of the Trinity"などである。同時期に彼は、"Great Passion"と"Life of the Virgin"の2つの木版シリーズを完成させ、両作品とも1511年に、Apocalypseシリーズの第二版と共に出版された。ベネチアから帰国後の木版画は、デューラーのキアロスクーロモデル効果の発展を示している。出版物のいたるところに、明暗が対称的な中間の色調が見られる。

 1513年には「騎士と死と悪魔」などの銅版画を発表。また、1520年1521年にはネーデルラントにも滞在している。

[編集] 日本語訳著作 

  • 『「測定法教則」注解』 下村耕史編訳、中央公論美術出版 2008年 大著
  • 『「絵画論」注解』 下村耕史編訳、中央公論美術出版 2001年 大著
  • 『「人体均衡論四書」注解』 前川誠郎監修・下村耕史訳注、中央公論美術出版 1995年 大著
  • 『デューラー ネーデルラント旅日記 1520-1521』 前川誠郎訳注、朝日新聞出版 1996年、岩波文庫 2007年
  • 『デューラーの手紙』 前川誠郎訳注  中央公論美術出版 1999年 
  • 『デューラー 自伝と書簡』 前川誠郎訳注  岩波文庫 2009年

[編集] 作品に関するエピソード

  • ヴォルゲムートの肖像
    1516年、当時すでに大画家としての名声を得ていたデューラーは、修業時代に世話になった恩師ミヒャエル・ヴォルゲムートの肖像を描いている。年老いた師匠を美化せずに描いたこの肖像画には「1516年、師ヴォルゲムートを前にしてこれを描いた。彼(ヴェルゲムート)は当時82歳で、1519年まで生きた」という趣旨の銘文がある。絵の完成から3年後の1519年、恩師の死を悼んでこの言葉を画中に書き記したものと思われる。
  • 四人の使徒
    代表作『四人の使徒』は、晩年の画家が、故郷のニュルンベルク市に寄贈したものである。当時のドイツはマルティン・ルターらによる宗教改革の時期であった。自身ルターに共鳴していたデューラーは、ニュルンベルク市が新教側に付くことを知り、この絵を市に寄贈したものである。絵の最下部には、ルター訳による聖書の引用のほか、「世の支配者たちよ。人間たちの言葉を神の御言葉と取り違えてはならぬ」という趣旨の戒めの文句が描かれている。
  • デューラーの木版画作品「犀」はリスボン港でのサイの評判を現地にいた友人から伝え聞いた情報によって描かれたもので、デューラー自身はサイを目にしていない。そのため、背中に本来存在しない「2本目の角」があるなど、実際の犀とは異なる。このサイ自体はリスボンから教皇庁へ向かう際にに出会い、の藻屑と消えてしまったが、デューラーの想像によって描かれた「犀」はオランダの動物学者ヨンストンが手がけた「動物図鑑」(1660年)に登場し、当時江戸時代日本にもその絵がたどり着いている。このデューラーの「犀の絵柄」は非常に有名になり、1741年にオランダ人のヴァン・デル・メールがインド犀「クララ」をヨーロッパに持ち込んで20年近くヨーロッパ各地を巡業し、「実際の犀の姿」が広く知られるまでの間、様々な媒体に繰り返し描かれ続けた[1]

[編集] 代表作

[編集] 脚注

  1. ^ グリニス・リドリー『サイのクララの大旅行』東洋書林

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ


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最終更新 2009年11月24日 (火) 00:06 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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