アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン
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エルンスト・アレクサンダー・アルフレート・ヘルマン・フライヘア(男爵)・フォン・ファルケンハウゼン(Ernst Alexander Alfred Herrmann Freiherr von Falkenhausen, 1878年10月29日 - 1966年7月31日)は、第二次世界大戦中のドイツの軍人。最終階級は中将。第二次上海事変及び日中戦争の初期において中華民国の蒋介石の軍事顧問を務め、第二次世界大戦中はベルギーの占領軍政長官を務めた。
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[編集] 経歴
[編集] 生い立ちから第一次世界大戦まで
男爵を意味する「フライヘア」の苗字が示すように、元貴族の家にシレジア地方の荘園グート・ブルーメンタールに生まれる。少年時代は探検家を夢見たが、ブレスラウのギムナジウムを放校され陸軍幼年学校に入学、12歳で軍人への道を歩み始める。
オルデンブルクの第91歩兵連隊に配属されるが、軍隊生活に飽きて当時行われていた米西戦争でアメリカ軍に投じることを考える。しかし折しも義和団の乱が発生し、彼は中国に派遣された。中国からの帰還後オルデンブルクの名家の娘と結婚し、次いでベルリンの参謀本部に異動となる。そこで日本語を習い、東アジアにおける日本の勢力伸長を研究する。次いで二年間日本軍について研究し、1914年の第一次世界大戦勃発まで東京のドイツ大使館で駐在武官を務めた。
第一次世界大戦中は西部戦線や東部戦線でさまざまな部隊の参謀を務め、ヴェルダンの戦いでは兵站を担当。次いでトルコに異動となり、カフカス戦線で戦うトルコ第2軍兵站部長、トルコ第7軍参謀長を務める。また当時オスマン帝国の支配下にあったパレスチナ戦線ではプール・ル・メリット勲章を受章した。トルコではハンス・フォン・ゼークトやトルコ第6軍参謀長だったフランツ・フォン・パーペンなどの知遇を得た。
[編集] 戦間期
ファルケンハウゼンは、ヴェルサイユ条約で兵力10万人に制限されたヴァイマル共和国の陸軍に選抜された。彼は、ポーランドとの東部国境画定交渉、右翼義勇軍「エアハルト旅団」の解散などに従事。ドレスデンの歩兵学校長を1930年まで務める。しかしその年ナチスとの関係を疑われ、退役に追い込まれた。右翼組織「鉄兜団」に加入しようとするが、この組織がナチス突撃隊に編入されることに反対し、1934年に蒋介石の軍事顧問として中華民国に渡ることを決意する。前任者はトルコ時代からの知人ゼークトで、その紹介によるものだった。
ドイツ軍事顧問団団長として、内戦で混乱する中国軍の育成や軍需生産の基礎作りに従事。1937年の第二次上海事変の作戦計画を作成し、日本軍を相手に第一次世界大戦の塹壕戦を教訓とした「ゼークト・ライン」と呼ばれる防御陣地で対抗しようとしたが突破された。
日独伊防共協定が1937年に締結されていたにもかかわらず(日本とドイツの2国は1936年に締結)ナチス政権下のドイツの極東政策は、日本と中国との間で大きく揺れており、外務省では中国派が優勢だったが、1938年に外相に就任したヨアヒム・フォン・リッベントロップは日本との同盟関係構築を重視、軍事顧問団を撤収させた。帰国したファルケンハウゼンはナチスに否定的なフランツ・ハルダーらに近づいた。
[編集] 第二次世界大戦
第二次世界大戦勃発と同時に軍に復帰し、ドレスデン軍管区司令官に任命された。1940年からはドイツ軍占領下にあるベルギーの軍政長官を務め、一時北フランス、オランダ、ルクセンブルクも兼轄した。この職責において、以前はユダヤ人迫害に反対していたにもかかわらず、担当地域のユダヤ人の強制収容所への移送に従事し、捕虜やレジスタンスの処刑にも関わった。ただしユダヤ人移送を妨害あるいは遅延させようと試みた。
またフォン・ファルケンハウゼンはヒトラーに反対するグループと親しくした。ヒトラー暗殺計画に参加、計画実行の数日前に西方軍総司令官ギュンター・フォン・クルーゲに電話して、連合軍と停戦して戦争を終わらせるよう主張したが、クルーゲは「ヒトラーが死ぬまでは無理だ」と拒否した。こうして計画は失敗に終わり、ファルケンハウゼンはブーヘンヴァルト強制収容所、ついでダッハウ強制収容所に送られた。クーデター計画に加担していた証拠が得られなかったため、起訴はされなかった。
収容所が連合軍により解放された後、ファルケンハウゼンは連合軍に逮捕された。戦時中の行為によりベルギーの裁判所に起訴され、労働刑12年の判決を受けた。しかし3週間後にユダヤ人を救おうとしていたことが証明され、ドイツに移送された。
[編集] 晩年
フォン・ファルケンハウゼンは逮捕中に知り合ったベルギーの反ナチス活動家の未亡人と再婚し、東ドイツと西ドイツの境界近くで旧友パーペンの家の近くで暮らしていたが、東ドイツのエージェントに誘拐されることを恐れてラインラント=プファルツ州ナッサウに移住、そこで死去した。
[編集] 外部リンク
- belgien-info-de.keymachine.de - ベルギー軍政長官時代のファルケンハウゼンに関する記事(ドイツ語、pdfファイル)
最終更新 2009年9月8日 (火) 00:58 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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