アレクサンドリアの大灯台

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座標: 北緯31度12分51秒 東経29度53分06秒 / 北緯31.21417度 東経29.885度 / 31.21417; 29.885

アレクサンドリアの大灯台の想像図

アレクサンドリアの大灯台(アレクサンドリアのだいとうだい、Lighthouse of Alexandria)は、紀元前3世紀頃にエジプトアレクサンドリア湾岸のファロス島に建造された灯台アレクサンドリアのファロス、あるいはファロス島の大灯台とも呼ばれる。

ファロス島は、アドリア海に同名の島があるが、それとは別で、アレクサンドリア港の一方の端に人工の埋め立てにより出来上がった半島の突端にあった小さな島である。世界の七不思議のひとつ。ただし、ビザンチウムのフィロンの選出した七不思議には含まれていない。14世紀の二度の地震によって全壊したが、七不思議の中ではギザの大ピラミッドに次ぐ長命な建造物だった。

目次

[編集] 建造に至る経緯

紀元前332年アレクサンドロス3世によってナイル河口にアレクサンドリアが建造された。アレクサンドロスの死後、エジプトは彼の部下であるプトレマイオス1世の統治下に置かれ、ここにプトレマイオス朝が開かれた。プトレマイオス朝はアレクサンドリアを首都としたが、この都市の周辺は平坦な土地が広がっており、沿岸航行や入港の際に陸標となるものが何もなかった。そのためプトレマイオス1世は陸標となる灯台の建造を決定した。

建造の指揮はクニドスのソストラトスに任せられた。建造地にはアレクサンドリア湾岸のファロス島が選ばれた。島とアレクサンドリア港との間は人工的な通路で結ばれた。紀元前305年から工事を開始し、完成したのはプトレマイオス2世の代だった。

[編集] 構造

ローマ時代のコイン

灯台の全高は約134メートル(約440フィート)。建造当時は地球上で最も高い人工物の一つだった。建材には大理石が用いられ、ブロック状に切り出したものを積み上げていった。形状の異なる三つのセクションで構成されており、方形の基層部の中央に塔があり、下層部は四角柱、中層部はひとまわり細い八角柱、上層部はさらに細い円柱形だった。頂点にはが置かれ、日中はこれに陽光を反射させ、夜間は炎を燃やして反射させていた。その様子はアレクサンドリアの鋳造所で作られたローマ時代のコインに見ることができる。灯台の四つ角には、角笛を吹く海神トリトンの彫像が置かれていた。また、ローマ時代には頂点にも彫像が置かれていた。

内部には、螺旋状の通路が設けられ、そこをロバを使い薪を運んでいたと考えられている。

[編集] 顛末

796年の地震で大灯台は半壊し、その後の1303年1323年の地震で完全に崩壊した。14世紀の旅行家イブン・バットゥータは、崩壊のために中に入ることもできないと記している。1480年頃、跡地に灯台の残骸を利用してカーイト・ベイの要塞が建造され、大灯台は完全に消滅した。しかし、アレクサンドリアの大灯台は、七不思議の中では現在残るギザの大ピラミッドに次いで存続した建造物である。

1994年にダイバーによって遺構が発見され、衛星調査によってさらに詳細の解明が進んだ。

[編集] 伝説と影響

中国のテーマパーク、長沙世界之窓に縮尺再現された大灯台

伝説によれば、戦時には鏡の反射光を敵の船めがけて照射して、船が海岸に到達する前に燃やすことができたという。しかしながら、灯台が存在した当時の光学技術、光反射技術の水準では、船を燃やすのはまず不可能である。一方、灯台の光は約56キロメートル(約35マイル)離れた海岸からも見ることができたという伝説もあり、こちらはおそらく可能だろうと考えられている。

この大灯台のために、古希: Φάρος: Pharos ファロス) はロマンス諸語において「灯台」を表す語の語源となった。フランス語: phareイタリア語: faroポルトガル語: farolスペイン語: faroなどがそれにあたる。

また、イスラム教のモスクに付随するミナレットの形状は、大灯台と同じ三層構造であり、影響が指摘されている。

なお、アル・マスウーディーのMurūj al-Dhahab wa Ma'ādin al-Jawāhir(ムルージュ・アッ=ザハブ・ワ・マアーディン・アル=ジャワーヒル 『黄金の牧場と宝石の鉱山』947年頃)の伝説では塔を半分とその鏡を破壊し闘争したのは東ローマ帝国の宣教師とされ[1]、また中国まで伝わり、南宋泉州提挙市舶司であった趙汝适zh:赵汝适 ちょう・じょかつ(Zhào Rǔkuò); 趙汝適に非ず)による『諸蕃志』[2](1225年)に次のとおり記述される。

  遏根陀國
遏根陀國 勿斯里之屬也 相傳古人異人徂葛尼 於
瀕海建大塔 下鑿地為兩屋 塼結甚密 一窖糧食 一
儲器械 塔高二百丈 可通四馬齊驅而上 至三分之
二 塔心開大井 結渠透大江以防他國兵侵 則舉國
據塔以拒敵 上下可容二萬人 內居守而外出戰 其
頂上有鏡極大 他國或有兵船侵犯 鏡先照見 卽預
備守禦之計 近年爲外國人投塔下 執役掃洒數年
人不疑之 忽一日得便 盜鏡抛沉海中而去

『諸蕃志』卷上[3]

その内容は、勿斯里(ミスル エジプトのこと)の遏根陀國(アレキサンドリア)の徂葛尼(ズルカルナイン(双角王))による大塔とその鏡が外国人によって捨てられたというものである。

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 参考文献・脚注

  1. ^ 『アレキサンダー大王99の謎』18いつどのようにアレクサンドリアの灯台物語は中国に伝わったか54-55ページ1978年(昭和53年)
  2. ^ 諸蕃志卷上
  3. ^ 以上は『アレキサンダー大王99の謎』15図説-世界にみるアレクサンダーの痕跡49ページ古刊本写真1978年(昭和53年)から翻刻


最終更新 2009年9月24日 (木) 08:07 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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