アヴァール人
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アヴァール (Avars)とは 5~9世紀に中央アジアおよび中央・東ヨーロッパに活躍した遊牧民族。支配者は遊牧国家の君主号であるカガン(可汗)を称したため、その国家はアヴァール可汗国とも呼ばれる。ルーシの史料ではオーブル人(Obrs) とも呼ばれる。
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[編集] 概要
テュルクあるいはモンゴル系という。突厥に服属したが、後その一部が西へ追われて移動しキプチャク草原に侵入した。東ローマ帝国の資料によるとアヴァールはユスティニアヌス1世の末年、557年頃にカスピ海・黒海北岸に居住するアラン人のもとにあらわれたといわれる。アヴァールは558年にアラン人の仲介で東ローマ帝国に使者を派遣し、東ローマ帝国が毎年貢納を払うことでアヴァールが国境地域の防衛を行うという同盟関係を結んだ。当初アヴァールは東ローマ帝国の期待に応え黒海北岸からドナウ川下流域にいたウティグノール、クトリグール、サビル、アントといった諸族を征服した。ところがアヴァールはパンノニア平原(ハンガリー)を根拠地にさらに西進し、562年チューリンゲンの戦いでフランクに敗れたものの大きく領土を広げ、現地のスラブ諸族、ゲルマン系諸族を従え、大勢力に成長した。東ローマ帝国でユスティヌス2世が即位すると、これに対し強硬姿勢で臨みアヴァールに対し貢納を拒否したもののバヤン可汗がバルカン半島進出の構えを見せると動揺し、574年には貢納を再開し、同盟関係を結んだ。しかし、当時東ローマ帝国はササン朝との抗争に全力を注いでおり北辺の守りは手薄だったため、アヴァールはしばしば配下のスラブ諸族とともに東ローマ帝国に侵入し、各地を略奪した。626年〜627年アヴァールはササン朝と同盟を組み、コンスタンティノープルを包囲したがこれは失敗に終わった。以降は東ローマ帝国の攻撃とブルガールの侵入などで徐々に衰退し795年にはカール大帝(シャルルマーニュ)に破られ、アヴァール辺境領がおかれた。その後、アヴァールの旧領は第一次ブルガリア帝国の支配を受け、その過程でアヴァール人はスラブ民族と同化していった。
[編集] アヴァールの国家組織
アヴァール可汗国は強力な軍事力と発達した政治機構を持つ遊牧国家であり、支配者は遊牧国家の君主号であるカガン(可汗)を称した。カガンを中心として「イウグル」と「トゥドゥン」と呼ばれる二人の高官が補佐する体制であったとされる。またパンノニアで発見されたアヴァールが残したと考えられる鐙・火打ち金などの出土品は東アジア、または北アジアに起源を求められ、アヴァールが鐙を西欧に伝えたことで西欧の戦闘法に大きな影響を与えたとする説もある。一方で、アヴァール人の進出によってカルパチア盆地やドナウ川上流域に残るローマ帝国の統治組織は完全に消滅し、キリスト教の信仰も全くなくなったわけではないがテウルニア、ウィルーヌムといった司教区は消滅した。
[編集] 柔然=アヴァール説
詳細は「柔然」を参照
東ローマ帝国は568年から突厥と交渉を持ち始めたが、その際自分たちが打ち破ったアヴァールと同盟関係を結んでいたことに突厥が不快感を示したと言われる。突厥が打ち破った国のうち、最大の敵は柔然、次がエフタルであるためこの説が生まれた。また、中央アジアにいたものを真アヴァール、西に移動したものを偽アヴァールというため、真アヴァールは柔然であるとも言われるが確証はない。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
最終更新 2009年8月2日 (日) 00:40 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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