アーセン・ベンゲル
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| アーセン・ベンゲル | ||
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| 名前 | ||
| ラテン文字 | Arsène Wenger | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1949年10月22日(60歳) | |
| 出身地 | ストラスブール | |
| 身長 | 194cm | |
| 選手情報 | ||
| ポジション | MF | |
| ■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||
アーセン・ベンゲル(Arsène Wenger、1949年10月22日 - )は、ドイツ(アルザス)系フランス人のサッカー指導者。現在、イングランド・FAプレミアリーグのアーセナルFC監督。ポゼッション志向が強い攻撃的なサッカーが身上。
2002年、フランス政府よりレジオン・ド=ヌール勲章を受勲。2003年、イギリスサッカーに対する功績により、大英帝国勲章を受勲。フランス語、アルザス語、ドイツ語、英語に堪能で、イタリア語、スペイン語、日本語もある程度解す。ストラスブール大学卒業(工学士、経済学修士)。
日本では、低迷していた名古屋グランパスエイトを率いて、1995年の天皇杯を獲得した。
「アーセン」はアルザス語で、フランス語の「アルセーヌ」にあたる。英語風に発音すれば、「アーセン・ウェンガー」となる。
目次 |
[編集] 経歴
- 家族
アルフォンスとルイーズのベンゲル夫妻の三人目の子ども(姉ひとりと兄ひとりがいる)としてストラスブールに生まれ、近くのDuttlenheim村で育った。 両親はストラスブールで自動車部品会社を経営しており、そのほかにDuttlenheim村のLa Croix d'Orというビストロ(大衆食堂)も手がけていた。
元バスケットボール選手のAnnie Brosterhousと結婚し、娘がひとりいる。現在はロンドンのトッテリッジで暮らしている。
- 選手時代
地元のFC Duttlenheimで16歳の時にデビューし、その後マックス・ヒルド監督が指揮を執るディビジョン3(3部)のASミューティグに移籍した。ヒルドは優れた指導者であり、ASミューティングはフランス最高のアマチュアチームと呼ばれた。ベンゲルはディフェンダーとしてプレーしていたが、同時にストラスブールにあるロベール・シューマン大学(現在の名称はストラスブール大学)のInstitut Européen d'Etudes Commerciales Supérieures de Strasbourgで学び、1971年には修士号を取得した。
1978年、ディビジョン・アン(1部)のRCストラスブールに移籍してプロ選手となり、ASモナコ戦でデビューした。1978-79シーズンは12試合にしか出場しなかったが、リーグタイトルを獲得した。UEFAカップでは1試合に出場した。
- フランスでの指導者時代
1981年、RCストラスブールのユースチームの指導者になり、1983年にはASカンヌのアシスタントコーチに就任した。監督としての最初のクラブはASナンシーで、1984年に就任した。2シーズン目までは12位、18位で残留を決めたが、1985-86シーズンには19位でディヴィジョン・ドゥ(2部)に降格した。1987年にASモナコ監督に就任し、初年度の1987-88シーズンにディヴィジョン・アン(1部)優勝を果たした。イングランド代表のグレン・ホドル、リベリア代表のジョージ・ウェアなど質の高い選手を擁し、1991年にクープ・ドゥ・フランスを制した。1990年にはRCストラスブールから23歳のユーリ・ジョルカエフを獲得し、1992年にはドイツ代表のユルゲン・クリンスマンを獲得した。のちにフランスワールドカップで優勝することになるジョルカエフは、ベンゲルのASモナコでの最終シーズンとなる1993-94シーズンにディヴィジョン・アン得点王のタイトルを獲得している。ASモナコでは1987年から1994年まで、実に7年間もの長期政権を築き、1994年にはバイエルン・ミュンヘン監督の候補に挙がったが、ASモナコのフロントがベンゲルとバイエルン・ミュンヘンの接触を拒否した。その数週間後、ASモナコはジャン・ティガナをベンゲルの後任に迎え、ASモナコでの監督生活に区切りがついた。
- 名古屋グランパスの監督時代
その後契約したJリーグの名古屋グランパスエイトではチーム構成に関する全権を委ねられ、ヴァランシエンヌFCで監督をしていたボロ・プリモラツをヘッドコーチとして迎えるなど、それを余すところ無く活用した。ドラガン・ストイコビッチ、小倉隆史、浅野哲也など代表級の選手を抱えながら最下位争いを続け自信を失っていたチームに対し、ベンゲルは「常に長所だけを生かすようにする」という勝者の精神を植えつけ、1年で天皇杯優勝に導いた[1]。1995年にはJリーグ最優秀監督賞を受賞した。
1997年9月、ベンゲルの指導者としての哲学、理想のサッカー観、日本サッカーについて感じたことなどが書かれた「勝者のエスプリ」という書籍が日本のNHK出版によって刊行された。
- アーセナルFCの監督時代
日本に10年留まるかヨーロッパに戻るかを選択肢として持っていたが、欧州のクラブからのオファー内容が、ヨーロッパでの実績のみを基にしたものであったことから、日本でのキャリアに限界を感じていた。1996年10月1日、プレミアリーグの名門アーセナルFC監督に就任することが正式に発表された。なお名古屋時代の右腕ボロ・プリモラツをアーセナルでもヘッドコーチとして起用している。
アーセナルFCがイギリス国外から監督を迎えるのはクラブ創設以来初めてのことだった。当時、イングランドではベンゲルはほとんど知られておらず、ロンドン・イブニング・スタンダード紙は、「どのアーセンだ?」(Arsène Who?)という見出しでこの無名のフランス人監督を表現した[2]。
就任1か月前、ベンゲルはクラブに19歳のパトリック・ヴィエラとベテランのレミ・ガルデを獲得するように提案した。初采配は1996年10月12日のブラックバーン・ローヴァーズFC戦で、このアウェーゲームに2-0で勝利した。初年度の1996-97シーズンを3位で終えたが、3位という成績は過去6シーズンで最高の順位だった。同勝ち点で2位の座をニューカッスル・ユナイテッドFCに譲り、UEFAチャンピオンズリーグ出場権は逃した。
1997-98シーズン、最後の3か月に怒涛の追い上げを見せ、最大で勝ち点差11まで開いていたマンチェスター・ユナイテッドFCを逆転した。鍵となったのはトニー・アダムス、スティーブ・ボールド、ナイジェル・ウィンターバーン、リー・ディクソン、マーティン・キーオンらのベンゲル就任以前から所属していたディフェンス陣であり、エマニュエル・プティ、パトリック・ヴィエラ、まだ10代であったニコラ・アネルカなど新規に獲得した選手が上手く融合して優勝を果たした。イギリス国外の監督として初めてのプレミアリーグ優勝だった。プレミアリーグとFAカップの2冠を達成したが、これはクラブ史上2度目の2冠獲得だった。
1998-99シーズン、最終節でリーズ・ユナイテッドFCに0-1で負け、マンチェスター・ユナイテッドFCに勝ち点1差で2連覇を逃した。マンチェスター・ユナイテッドFCと対戦したFAカップ準決勝ではロスタイムの失点により敗退した。
1999-2000シーズン、UEFAカップ決勝でガラタサライにPK戦の末に敗れた。2000-01シーズンのFAカップでは決勝でリヴァプールFCに1-2で敗れた。これらを機にベンゲルは新たに選手を獲得することを決意し、ライバルクラブのトッテナム・ホットスパーFCの前キャプテンであるソル・キャンベルを獲得して議論を醸した。そのほかにスウェーデンからフレドリック・ユングベリ、ユヴェントスで燻っていたティエリ・アンリ、前年のUEFA欧州選手権で活躍したロベール・ピレスを獲得した。
これらの結果、2001-02シーズンに再び2冠を達成した。リーグ戦はアウェー無敗(ホームでは3敗)で、38戦すべてで得点するという素晴らしい成績を残し、2位のリヴァプールFCに勝ち点8差をつけた。FAカップでは決勝でレイ・パーラーとフレドリック・ユングベリの得点によりチェルシーFCを破った。
2002-03シーズンはクラブ史上初のプレミアリーグ連覇に向けて好スタートを切ったが、シーズン終盤になると調子を落とし、マンチェスター・ユナイテッドFCに逆転された。しかしFAカップでは6回戦で再試合の末にチェルシーFCを破り、決勝ではサウサンプトンFCを破って優勝した。
2003-04シーズンは26勝12分0敗でシーズン無敗優勝を達成した歴史的なシーズンになった。これは1988-89シーズンにプレストン・ノースエンドFCが18勝4分0敗で無敗優勝を達成して以来のことで、欧州のトップリーグではACミランとアヤックス・アムステルダムしか成し遂げていない偉業である。しかし、2004年初めに「シーズン無敗優勝は可能だ」という意見が出た時にベンゲルはこの意見を嘲笑っており、達成できるとは思っていなかったようである。
2004年10月、マンチェスター・ユナイテッドFCに敗れるまでリーグ戦49試合を負けなしで走り続けた。2004-05シーズンはチェルシーFCに優勝をさらわれたが、同シーズンのFAカップ決勝ではPK戦の末にマンチェスター・ユナイテッドFCを破った。
2005-06シーズンはリーグ戦こそ4位だったが、UEFAチャンピオンズリーグではレアル・マドリードやユヴェントス、ビジャレアルCFを倒して決勝に進出した。クラブ史上初めての決勝はFCバルセロナに1-2で敗れたが、大きな称賛を得た。2006-07シーズンは2シーズン続けての4位と苦難のシーズンになったが、2007-08シーズンは息を吹き返し、シーズンの大半を首位で過ごした。しかし、2008年2月にエドゥアルド・ダ・シルヴァが相手DFからタックルを受けて全治10ヶ月ほどの重傷を負うと、チーム全体に積極性が見られなくなって成績を落とし、マンチェスター・ユナイテッドFCとチェルシーFCに次ぐ3位でシーズンを終えた。
2009年10月、1934年から1947年まで指揮を執ったジョージ・アリソン監督の在職期間4748日を抜き、アーセナルFCで最も長く監督の座にあった指揮官となった[3]。
[編集] 采配
「スペクタクル」なフットボールが身上。堅守が売りで、カウンター頼みの退屈なサッカーと批判のあったアーセナルのスタイルを一転させ、ショートパスを多用し、流れるようなパスワークを展開しゴールを量産するスタイルを確立した手腕を称える声は多い。中盤をフラットにしたベーシックな4-4-2のフォーメーションを好むが、2000年代後半になってからは、特にUEFAチャンピオンズリーグにおいて、4-5-1をしばしば用いている。
若手や他クラブで燻っている選手の長所を見抜き、時に大胆なコンバートをさせて、選手を一流に育て上げる点も高く評価されている。代表例としてティエリ・アンリやパトリック・ヴィエラなど、枚挙にいとまない。チームの財政事情もあり、ビッグネームではなく若く有望な選手を獲得するアーセナルの方針に最適な監督であるともいえる。
[編集] 人物
マルセイユ八百長事件の際は、様々なしがらみの中、告発するかどうか悩んでいたボスニア・ヘルツェゴビナ人監督のボロ・プリモラツの相談を受け、強く後押しした。
日本・イギリス両国内で、日本代表監督就任の噂が立っては消える中、それを否定する記者会見で日本サッカーへの豊富な知識を披露したことで逆に騒がれてしまったり、アーセナル就任早々根拠の無いゲイ疑惑が持ち上がったりと、イギリスのメディアには苦労させられている。また自分のチームの選手に対するラフプレーなどの危険なプレーや自分のチームに対する不利な判定に対して過剰な反応を示し、相手チームの監督や選手、審判なども巻き込んだ論争を呼ぶ事も彼の特徴の一つ。逆に自チームの選手が犯した微妙なプレーや相手を怪我させるほどの危険なプレーには何も見ていないと黙認する姿勢が他チームのコーチから批判されている。特に、マンチェスター・ユナイテッドFCの監督アレックス・ファーガソンやチェルシーFCの監督ジョゼ・モウリーニョと始終舌戦を繰り広げていた[4] [5] [6]。
しかし2000年代後半以降、ファーガソン監督との間では互いのチーム、手腕に対する尊敬や賞賛の言葉をかわすことが多い[7]。ベンゲル自身は「アーセナルとユナイテッドだけが争っていた時期と異なり、現在はチェルシーとリヴァプールFCも優勝に絡んできたこと」が影響していると述べている。また、いわゆるビッグ4のなかでこの2チームがもっとも攻撃的で、魅力的なサッカーを展開していることもその要因とされている。2008年11月8日にアーセナルに敗北を喫した際、ファーガソン監督は「どうせ敗れるなら、優れたサッカーをするチームに負けた方がよい」と述べている。また、選手時代はユナイテッドに所属し、アーセナルと激しい対立を見せていたサンダーランド監督のロイ・キーンは「ベンゲルのサッカーに対する功績は25年後、50年後、100年後になっても忘れられることはないだろう」と賞賛している。
ベンゲルがフィリップ・トルシエを日本代表監督へ推薦したといわれることがあるが、トルシエを日本サッカー協会へ推薦・紹介したのは当時のフランスサッカー協会副会長であり、ベンゲルは直接には関与していない。ただしベンゲルはトルシエと知り合いであったことから、その人物・性格などに関する情報を日本協会へ与えたとも言われる。
[編集] 所属クラブ
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| フランス | リーグ戦 | リーグ杯 | フランス杯 | 期間通算 | |||||||
| 1973-74 | ミュルーズ | ディヴィジョン・ドゥ | |||||||||
| 1974-75 | ミュルーズ | ディヴィジョン・ドゥ | |||||||||
| 1975-76 | ASPVストラスブール | ||||||||||
| 1976-77 | ASPVストラスブール | ||||||||||
| 1977-78 | ASPVストラスブール | ||||||||||
| 1978-79 | RCストラスブール | ディヴィジョン・アン | |||||||||
| 1979-80 | RCストラスブール | ディヴィジョン・アン | |||||||||
| 1980-81 | RCストラスブール | ディヴィジョン・アン | |||||||||
| 通算 | フランス | ディヴィジョン・アン | 12 | 0 | |||||||
| フランス | ディヴィジョン・ドゥ | ||||||||||
| フランス | |||||||||||
| 総通算 | |||||||||||
[編集] 指導歴
- 1981年-1983年
RCストラスブール・ユース監督
- 1983年-1985年
ASカンヌ・アシスタントコーチ
- 1985年-1987年
ASナンシー・監督
- 1987年-1994年
ASモナコ・監督
- 1995年-1996年
名古屋グランパスエイト・監督
- 1996年-現在
アーセナル・監督
[編集] タイトル
[編集] 著書
- 『勝者のエスプリ』日本放送出版協会(1997年)ISBN 4140803215
- 『勝者のヴィジョン』日本放送出版協会(1999年)ISBN 4140804335
[編集] 脚注
- ^ アーセン・ベンゲル『勝者のエスプリ』日本放送協会出版、1997年、110頁
- ^ uefa.com (2009.10.2). "ベンゲル監督、アーセナル最長在任監督に". 2009.10.3 閲覧。
- ^ uefa.com (2009.10.2). "ベンゲル監督、アーセナル最長在任監督に". 2009.10.3 閲覧。
- ^ livedoorスポーツ (2007.11.9). "ベンゲル、宿敵ファーガソンとの舌戦は「エンターテインメント」". 2009.10.3 閲覧。
- ^ livedoorスポーツ (2007.2.26). "ベンゲルvsモウリーニョ、タイトル賭けた白熱の場外戦". 2009.10.3 閲覧。
- ^ livedoorスポーツ (2005.11.1). "モウリーニョがベンゲルを「覗き魔」呼ばわり!!". 2009.10.3 閲覧。
- ^ livedoorスポーツ (2006.11.1). "ベンゲルが楽しむ宿敵ファーガソンとの“舌戦”". 2009.10.3 閲覧。
| アーセナルFC - 現所属メンバー |
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1 アルムニア | 2 ディアビ | 3 サニャ | 4 ファブレガス | 5 フェルメーレン | 6 センデロス | 7 ロシツキー | 8 ナスリ | 9 エドゥアルド | 10 ギャラス | 11 ファン・ペルシ | 12 ベラ | 14 ウォルコット | 15 デニウソン | 16 ラムジー | 17 ソング | 18 シルヴェストル | 19 ウィルシャー | 20 ジュルー | 21 ファビアンスキ | 22 クリシー | 23 アルシャヴィン | 24 マンノーネ | 27 エブエ | 28 ギブス | 30 トラオレ | 32 メリダ | 52 ベントナー | 53 シュチェスニー 監督: ベンゲル |
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最終更新 2009年11月18日 (水) 09:24 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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