イエス (バンド)

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イエス
Yes
イエス (インディアナポリス、1977年8月30日)
基本情報
出身地 イングランドの旗 イングランド ロンドン
ジャンル プログレッシヴ・ロック
シンフォニック・ロック
ポップ・ロック
アート・ロック
活動期間 1968年 - 1981年
1983年 - 現在(On Hiatus)
レーベル アトランティック・レコード
アトコ・レコード
アリスタ・レコード
ビクターエンタテインメント
サンクチュアリ・レコード
Eagle Records
共同作業者 アンダーソン・ブラッフォード・ウェイクマン・ハウ
エイジア
Cinema
XYZ
Circa:
バグルス
公式サイト YesWorld.com
メンバー
ジョン・アンダーソン
スティーヴ・ハウ
リック・ウェイクマン
クリス・スクワイア
アラン・ホワイト
旧メンバー
ビル・ブラッフォード
トニー・ケイ
トレヴァー・ラビン
ピーター・バンクス
パトリック・モラーツ
トレヴァー・ホーン
ジェフ・ダウンズ
イゴール・コロシェフ
ビリー・シャーウッド
  

イエス (Yes) は、イギリス出身のプログレッシヴ・ロックバンド。

1969年にデビュー作「イエス・ファースト・アルバム - Yes」を発表、その年のブライテストホープとなり注目された。代表作は「こわれもの - Fragile (1971年)」「危機 - Close to the Edge (1972年)」、ポップ作品として成功した「ロンリー・ハート - 90125(1983年)」などが挙げられる。

目次

[編集] バンドの傾向

リード・ヴォーカルで創作面のリーダーでもあるジョン・アンダーソンの哲学・世界観がその音楽に大きく影響し、このアンダーソンのヴィジョンに同調できるか出来ないか、という選択がバンド在籍の可否に大きく影響を及ぼしていると言われている。その為、優れた技術・センスを持ちながらもイエスにはフィットしないという理由でミュージシャンが加入/脱退/再加入する事が多く、不安定な活動が長年続いた。

その一方で、組織面でのリーダーであるクリス・スクワイアは結成当初よりグループを仕切り、アンダーソンが不在の時期もイエスを守ってきた。ギターのスティーヴ・ハウは途中数年のブランクはあるものの、代表曲の殆どをアンダーソンと共作しており、イエスを語る上で欠かせない人物といわれている。

また、アルバム「ドラマ - Drama (1980年)」でヴォーカリストとして参加し、1983年にロンリー・ハートで再結成した時にはプロデューサーとして商業上の成功に大きく貢献したトレヴァー・ホーンと、そのロンリー・ハートの作曲者で1980年代に音楽的イニシアティヴを握ったトレヴァー・ラビンの存在も、賛否両論ながらも評価に値するとされている。

1980年代末期から1990年代にかけて旧メンバーをも巻き込んでの分裂、融合、再編成など迷走が続いたが、現在は1970年代中〜後期のメンバーで落ち着き、穏やかに活動を続けている。

また、視覚面での貢献としてイラストレーターのロジャー・ディーンの存在は、ファンの間でも高い評価を得ている。幻想的な作風のアルバム・ジャケットやバンド・ロゴ、ステージ・デザインなど多くを手がけ、それらの作品とイエスの音楽は切り離せない、と言われるほど密接な関係にあるとされている。

[編集] 音楽性と活動の変遷

[編集] 黎明期

ジョン・アンダーソンがウォリアーズというバンド(米のバンドであるThe Warriorsとは別のバンド)から脱退し、メイベル・グリアーズ・トイショップ - Mabel Greer's Toyshopというバンドを結成したばかりのクリス・スクワイアクライヴ・ベイリーと合流したのが1967年の12月である[1]。 ちなみに、ウォリアーズには後にキング・クリムゾンにドラマーとして加入するイアン・ウォーレスも在籍していた。

閃光」に付属しているイエス人脈図によると、1968年1月から6月までは、ジョン・アンダーソンはメイベル・グリアーズ・トイショップの一員として活動しており、6月からメンバー・チェンジの上、イエスというバンド名になったとされている[2]

同年8月にはプロを目指すバンドの登竜門として認知されていたマーキー・クラブ (Marquee Club)に出演する様になる。9月にはイギリス・ツアーをキャンセルしたスライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンの代役としてイギリスの各クラブに出演して好評をはくし、11月26日に行われたクリームのフェアウェル・コンサートでは前座を担当した。この頃からメロディー・メーカー (Melody Maker) を初め各音楽マスコミでの露出も多くなり、翌1969年2月にはアメリカのアトランティック・レコードと契約した。なお、アメリカのアトランティック・レコードと直接契約を交わした最初のイギリスのバンドがイエスである。

[編集] 創設期

上のメンバーの序列は、加入した(とされている)順。

イエス・ファースト・アルバム - Yes(1969年)」と「時間と言葉 - Time and a Word(1970年)」を制作した時期を指す。両者は映画音楽のフレーズを引用したり、カヴァー曲でインストゥルメンタル・パートを拡大して即興を取り入れたりするなどの実験的要素を導入しているが、いわゆるプログレと言われるような音では無く、結成当初に目指していた(または影響を受けた)ビートルズザ・フーバーズクリームヴァニラ・ファッジなどのアート・ロックサイケデリック・ロックとして分類される[3]

時間と言葉」ではオーケストラと共演してシンフォニック・ロックを実現しているが、当時ムーディー・ブルースナイス、或いはディープ・パープルといったバンドが同様の企画を実行しており、一種の流行として捉えられている。[4]

ライヴ活動も次第に拡大/充実していった。1969年4月にはジャニス・ジョプリンの前座を務めたのを初め様々なコンサートのサポートやロック・フェスティバルの出演を続け、8月にはヨーロッパ各地でプロモーション・ツアーが行われた。1970年の2月にはロンドンでナイスとのジョイント・コンサートが開催されたが、2回分の公演のチケットが即日完売となり、追加/再追加公演が行われた記録が残されている。3月にはイエス初のソロ・コンサートがロンドンで開催された。

[編集] 成長期

サード・アルバム - The Yes Album(1971年)」の発売の時期を指す。シンフォニック・サウンドの導入に否定的だった(と言われている)ピーター・バンクスが脱退し、スティーヴ・ハウが加わった。

ロック・ギターを演奏形態の主軸とするピーター・バンクスに対して、スティーヴ・ハウは多種多様なジャンルのギター演奏が可能である為、結果としてイエスの表現領域は拡大したといわれている。

サード・アルバム 」は、前2作での緩やかな変化とは明らかに違う急速な進歩が一聴して分かる。全てがオリジナル曲、10分近い大作、組曲形式。変拍子や対位法も盛り込まれ、プログレッシヴと呼ばれる要素が詰まっている。しかし決して難解ではなく、ポップでダイナミック、そして分かりやすいと言われている。

また、前作「時間と言葉」でエンジニアとして関わり、後々までイエスのスタジオ・ワークおよびステージの音響でも重要な働きをする事になるエディ・オフォードが、バンドとの共同プロデューサーとして参加したのも、変化をもたらした大きな要素の一つと考えられる。

1970年7月から、このメンバー編成によるコンサートが開始され、ヨーロッパ各地を含む数々のライヴを務めた。翌1971年3月からは全16回という初の本格的なイギリス・ツアーが開催された。さらに6月頃には初めてアメリカでコンサート・ツアーを行っている[5]

1971年7月31日のライヴ演奏を最後にトニー・ケイが脱退し、このメンバー編成は終結した。

[編集] 飛躍期

B. - クリス・スクワイア V. - ジョン・アンダーソン D. - ビル・ブラッフォード G. - スティーヴ・ハウ K. - リック・ウェイクマン

リック・ウェイクマンが加わった「こわれもの - Fragile(1971年)」、続く「危機 - Close to the Edge(1972年)」が、イエスの最初のピークと言われている。

結成当初にアンダーソンとスクワイアが唱えていた「強力なヴォーカルとインストゥルメンタルの融合」で、未完の部分だった演奏面の強化は、2回のメンバー・チェンジによって遂行された。ハウはジャズ、クラシック、カントリーなど多彩なスタイルを器用にこなす一方でロックの定番フレーズを殆ど弾かないという独特のギター・プレイと優れた作曲能力を提供し、リック・ウェイクマンは西洋古典音楽のアカデミックな音楽教育に根ざした理論と数多のセッションで培った確かな技術、最新のテクノロジー、それに派手なプレイと振る舞いでエンターテインメント性をバンドにもたらした。

また、トニー・ケイが出来なかった(或いは拒否した)リック・ウェイクマンによる「マルチ・キーボード」という方法論は、イエスの音楽表現に明確な変化をもたらした。オーケストラ演奏の様に、曲が進行するに連れて使用する楽器が次々に切り替わっていき、ひとつの曲の中で曲想が次々に変化する事によって、長い曲でも聴き手が飽きない様に工夫する事が容易になり、「危機」の様な20分近い楽曲が実現したと言える。

こわれもの」はいくつかの優れたアンサンブルとメンバーのソロ小品で構成され、メンバー個々の多彩な音楽性と、それが融合した時の状況を確認できる。バンド演奏はより複雑な技法が導入され、緩急織り交ぜたコントラスト、綿密に練られたアレンジ、新メンバー2人が奏でる印象的な旋律、より強力になったコーラスなど、多くの聴き所があるとされている。また、アート・ワークに初めてロジャー・ディーンが起用された作品でもある。

危機」は全3曲というトータル・コンセプト・アルバムで、「イエスの楽曲の中でも極めて高い完成度と緊張感に満ちた演奏を堪能出来る名盤」といわれている。曲作りの主導権はアンダーソン / ハウだが、他のメンバーも全員、作詞 / 曲 / アレンジに関与している。また、エディ・オフォードのテープ編集技術が多大な貢献をしているのも明確に把握出来る。

こわれもの」「危機」の2作はイエスの最高傑作と評されることが多い。この時期のメンバー、アンダーソン、スクワイア、ブラッフォード、ハウ、ウェイクマンの5人は30余年に及ぶイエスの歴史の中でも「最強のラインナップ」と見る向きもある。ただし、旧メンバーが再加入する事が多々ある現在までの活動の中でも、この5人のみで再集結した事は一度もない。

1971年9月にはリック・ウェイクマン加入後初のライブが開催され、同月には2回目のイギリスツアー、11月には2回目のアメリカ・ツアーが催された。このツアーが終了する前に3回目のアメリカ・ツアーが決定しているが、1972年2月~3月、その3回目のツアーが催行された時点で「サード・アルバム」と「こわれもの」がアメリカでゴールド・ディスクを獲得している。

だが、このツアーを終えた時点で、ビル・ブラッフォードは脱退し、キング・クリムゾンに移籍した。そのため、ジョン・レノンのプラスティック・オノ・バンドなどのセッションで活躍していたアラン・ホワイトが加入する。7月から始まった4回目のアメリカ・ツアーからアラン・ホワイトが加わり、翌1973年にリリースされた3枚組ライヴ盤「イエスソングス - Yessongs」では、ドラムスの殆どをアラン・ホワイトが担当したテイクで構成された。ただし、ドラム・ソロが含まれた「パーペチュアル・チェンジ」や、同じリズム・セクションであるクリス・スクワイアのソロが含まれた「遥かなる思い出~ザ・フィッシュ」は、ビル・ブラッフォードのドラムスによる演奏が使用されている。

[編集] 熟成期

海洋地形学の物語 - Tales from Topographic Oceans(1973年)」をリリースした時期。

イエス単体で見た場合にはライヴ動員数も膨れ上がり、音楽スタイルも自由に追求できた興味深い時期だが、「ロック史」[6]に於ける重要度という点では軽んじられることも多い。それは、ブリティッシュ・プログレッシヴ・ロックというカテゴリー全体が衰退していった時期ともシンクロする。この頃の作品は飛躍期のそれと同等に、またはそれ以上に評価する声もあるが、金字塔として不動の評価を得ている「危機」などと違い、絶賛一色というわけにはいかない時期でもある。

海洋地形学の物語 」は、1973年の初来日公演中に読んでいたヒンドゥー教僧侶の著書からインスパイアされたアンダーソンが、そのアイデアに賛同したハウと創り上げた叙情詩である。大作指向はエスカレートし、2枚組で全4曲という構成だ。良いメロディが多くちりばめられ、各楽器のソロパートも充実してはいるが、「忍耐を要する」「散漫」という批評もある。

この作品のコンセプトや出来そのものに不満を感じたウェイクマンは、他メンバーとのライフ・スタイルの違いからくるストレスや、自身のソロ活動の成功もあって、バンドを脱退してしまう。

[編集] 転換期

イエスは「海洋地形学の物語」で、よくも悪くもシンフォニック・サウンドを極めてしまったという見方がある。これに対して「リレイヤー - Relayer(1974年)」は、「戦争と平和」(トルストイの著書とは無関係)という現実的なテーマを採り、アルバム構成も「危機」のスタイルに戻して、非常にテンションの高い演奏を繰り広げている。曲想も幻想的なひろがりが後退し、無調の構造が前面に押し出されていると感じられる。

新たに加わったスイス人キーボーディスト、パトリック・モラーツは、ジャズフュージョンラテン音楽の要素を多く持ち込み、ウェイクマン在籍時とはかなり趣の異なる音楽性を導き出した。

この時期は1976年まで続く精力的な公演、メンバー全員のソロ・アルバム発表、最初期の音楽性を知らしめるベスト・アルバム「イエスタデイズ - Yesterdays(1975年)」発表と、かなり多岐にわたる活動を見せている。

なお、モラーツの参加前、映画音楽家としても大成するギリシャ人のヴァンゲリスがウェイクマンの後任候補として挙っていたが、英国のアーティスト・ユニオンの問題などで実現しなかった。この時の接触はアンダーソンとのコラボレート「ジョン・アンド・ヴァンゲリス」として、後に実を結ぶ事となる。

[編集] 変革期

究極トーマトをリリースした時期。

パンクニュー・ウェイヴが台頭した1970年代後半は、それまで主流を占めていたバンドには厳しい時代となった。イエスも例外ではなく、変化への意欲、試行錯誤が見て取れるのが'77年以降の活動である。ジャケット・アートを幻想絵画ロジャー・ディーンから、シュールフォトコラージュヒプノシスへ切り替えたところにも、彼らの意志が現れている。プロデュースもエディ・オフォードの手を放れ、バンド自身のみで行うようになった。

究極 - Going for the One(1977年)」は、イエスのスタイルでもタイトでストレートなロックは出来ると証明するかのような部分、本来のイエスらしさを良い形で凝縮した部分がバランスよく配置された、この時期を代表する名盤とする意見が多い。アンダーソンがイエスの最高傑作と言って憚らず、ファンの中でも非常に人気がある大曲「悟りの境地Awaken」、トップ10ヒットとなった「不思議なお話をWonderous Stories」など、どの作品もクオリティが高い。アンダーソン/ハウ色が濃い楽曲群の中で、スクワイア1人のペンによる「パラレルは宝Parallels」は、彼が最初期から作曲家としても大きく貢献してきた事を再認識させるような力強さがある。

当初は「リレイヤー」のラインナップで、モラーツの故郷スイスで始められたアルバム制作のリハーサルだが、音楽性の相違や諸々の問題が表面化してモラーツが脱退、旧友のウェイクマンがセッション・マンとして招かれた。ただの助っ人とは思えない存在感溢れる演奏を披露したウェイクマンは、結局正式メンバーとして復帰し、レコーディングもそのままスイスで遂行された。教会のパイプ・オルガンのウェイクマンと、スタジオのメンバー達とを電話回線で同期しレコーディング、という試みも行われた。

トーマト - Tormato(1978年)」は、楽曲のコンパクト化をより推し進め、歌詞のテーマも身近で手軽なものを多く取り上げた作品となった。 ただ、前回はうまくいったセルフ・プロデュースが今回は裏目に出て、アレンジやミキシングでメンバー同士が相当に揉めたとも言われる。ただ、個々の楽曲の質は決して低くない。

'78年はイエス結成10周年でもあり、回転する円形ステージのライヴもこの頃に開始されている。

[編集] 衰退期

ツアー終了後にパリで始めた新作のリハーサルが結果を残せぬまま頓挫してしまい、バンドの結束はかつてないほど弱まってしまった。結果として中心人物のアンダーソンとウェイクマンが脱退し、ヴォーカルとキーボードを失ったイエスは、同じマネージメントに所属していたエレクトロ・ポップ・デュオ、バグルスをまるごと吸収する事で体制を整え、活動を再開した。この時のバグルスは、デビュー作「ラジオ・スターの悲劇 - The Age of Plastic(1979年)」を大ヒットさせて間もない頃で、その合体劇はプログレッシヴ・ロックのファンのみならずポップスのファンにも衝撃的だったと言われている。

新たな時代を生き抜くために、ニュー・ウェイヴそのものを呑み込んで完成させたアルバム「ドラマ - Drama(1980年)」だったが、リリース当時は、その出来とは別な理由で問題視されていた。現在でこそ、ハウ、スクワイア、ホワイトの演奏技術やトレヴァー・ホーンジェフ・ダウンズの才能などが存分に発揮されている作品…としてまずまずの評価を得ているが、発表当時から長年の間、イエスの象徴と言えるアンダーソンや人気者であるウェイクマンの不在が大きなダメージとなって、あまり見向きはされていなかった。

アメリカでは好評を博した新ラインナップでのツアーも、ヨーロッパに戻ってくると、上記と同じ理由で評価も観客動員も良い結果を残せなかったと伝えられている。総じてアメリカよりも保守的な気質のファンが多いヨーロッパでは、演奏の質云々ではなく、変化を受け入れられなかったファンが非常に多かったという事が大きな問題となってしまったようである。こうして、このメンバー編成でのツアーを終えたイエスは活動を停止した。

[編集] 停滞期(解散時)

1980年から1983年にかけての、具体的な活動が無かった時期を指す。なお、便宜上は「解散」という言葉を使っているが、アラン・ホワイトはそれを否定しており、メンバーが集まらなかったので活動を停止していただけ、と主張している。

この時期の推移については諸説ささやかれている。

ハウによると、スクワイアとホワイトはジミー・ペイジとセッションを始め(XYZ = ex Yes Zeppelin : 元イエスと元レッド・ツェッペリンの意)、ホーンはバグルズの新作とプロデュース業に戻り、最後に残ったのは彼とダウンズだけだったのだという。ハウはイエスの再編も考えたが、当時のマネージャー、ブライアン・レーンの助言もあってイエスを諦め、新バンド、エイジア結成へシフトしたとされる。スクワイア、ホワイトの見方はこれとは全く逆で、ハウは自分達を置いてエイジアに行ってしまった、という意味あいの発言をしている。[7]

なお、アンダーソン脱退時のバグルス吸収、エイジアの結成、トレヴァー・ラビンの紹介(1970年代末だったとされる)など、この時期のイエスの動向を大きく左右したのはブライアン・レーンであったが、彼はイエスの面々にとっては混乱の種のようでいて、しかし結果的には更なる成功へと導いた立役者、と言えるのかもしれない。

なお、最後のメンバー達の解散後の動きは、以下の様なものである。

トレヴァー・ホーンバグルスの2作目「モダン・レコーディングの冒険 - Adventures in Modern Recording(1981年)」に着手した。この作品にはクリス・スクワイアがサウンド・エフェクトなるクレジットで1曲にゲスト参加している。また「ドラマ」に提供した「レンズの中へ」を、バグルズ版にリ・アレンジした「アイ・アム・ア・カメラ」も収録されている。[8]

クリス・スクワイア / アラン・ホワイトは、2人の名義でクリスマス・ソング「ラン・ウィズ・ザ・フォックス(1981年)」をリリースしている。スクワイアがリード・ヴォーカルを担当している同曲はピート・シンフィールドとの共作である。

新プロジェクトをいち早く商業的に成功させていたのはスティーヴ・ハウジェフリー・ダウンズエイジアである。ジョン・ウェットン(元キング・クリムゾンU.K.他)、カール・パーマー(元EL&P)という陣容でブライアン・レーンのマネージメントの元に結成され、デビュー作『詠時感〜時へのロマン』(1982年)が、かつてのイエスの成功を遥かに上回る「全米8週連続1位、全世界で1500万枚」を売り上げる空前のヒットとなった。[9]

[編集] 再結成

マネージメントの問題でジミー・ペイジとのXYZが暗礁に乗り上げたクリス・スクワイアアラン・ホワイトは、「シネマ」と仮称された新らしいバンドを結成する為のメンバーとして、南アフリカ出身のマルチ・プレイヤー、トレヴァー・ラビンと合流した。ここに至るまでに、ラビンはデモ・テープを様々なレコード会社に送りつけており、一時はエイジアに参加する可能性もあったという。

さらにスクワイアはオリジナル・メンバーのトニー・ケイをシネマに参加させたが、ケイは相変わらず新しいテクノロジーに関心が薄く、またラビンがキーボード類にも明るかった事や、プロデュースに回ったトレヴァー・ホーンサンプラーなどの最新技術をふんだんに取り入れていた事もあって不満を抱き、一時は脱退してしまう。そのような経緯でエディー・ジョブソンが短期間参加というエピソードも残っている[10]

約9か月かけて、シネマとしてのデビュー作が完成したところで、ホーンやレーベル関係者の助言があり、スクワイアはジョン・アンダーソンに参加を要請、トニー・ケイも結局復帰し、1983年、シネマは改めてイエスと名乗り、活動を開始した。

こうして完成した「ロンリー・ハート - 90125(1983年)」を、ホーンとラビンの作品と見る意見もある。しかし、ハード・ロックの要素を大胆に採り入れたこのアルバムにおいても、スクワイアの強烈なベースと印象的なバック・コーラス、そしてアンダーソンのヴォーカルが、サウンドをイエスならではのものにしている。ただ、途中まで別のバンド「シネマ」の作品として制作されたため、ラビンがリード・ヴォーカルを取るパートも多い。

このアルバムからシングル・カットされた「Owner Of A Lonely Heart」はアメリカをはじめ多くの国で1位を獲得し、イエスは再結成によって最大の成功を手にした。

ロンリー・ハートから3年強のブランクを経て、イエスは「ビッグ・ジェネレイター - Big Generator(1987年)」をリリースした。レコーディングは難航し、イタリアアメリカなどのスタジオを転々としてようやく完成したアルバムであるが、制作途中でホーンはプロデュースを降り、ラビンがその後を担った。このアルバムはクオリティは決して低くないものの、セールスは振るわなかった。クリスはこの件に関して、ドキュメンタリービデオ『イエス・イヤーズ』の中で、「もう少し早く、良いタイミングで出すことが出来た」と発言している。

ちなみにこの時期にバンドが本拠地を置いていたのはロサンゼルスである。発表作品は2枚のみであり実質活動期間も長くはないが、イエスとしては珍しく5年もの間メンバー・チェンジが発生しなかった。これについては、メンバーの結びつきがビジネス・ライクに徹した期間だったからであり、特にジョン・アンダーソンにとっては、イエスよりもヴァンゲリスとの絆の方が強かったのではないかと見る意見もある。

[編集] ABWH

1988年、日本公演を含むビッグ・ジェネレイター・ツアーが終了した時点でジョン・アンダーソンは再びバンドを脱退する。そして彼はスティーヴ・ハウビル・ブラッフォードリック・ウェイクマンとともに「アンダーソン・ブラッフォード・ウェイクマン・ハウ(以下ABWH)」を結成するに至る[11]。アンダーソンがこうした活動に出た裏には、トレヴァー・ラビンが主導するバンドに不満を抱いていたということがあるとされる。アンダーソンの新しい活動は「イエス」という名称を巡り、この後ついに訴訟沙汰にまでなっている。

紆余曲折を経て完成した「閃光 - Anderson Bruford Wakeman Howe(1989年)」は、大きな話題を呼んだ。ABWHはツアー・タイトルを「イエス・ミュージックの夜 - An Evening of Yes Music Plus」と銘打ち、'70年代のイエスの楽曲を数多く演奏した。このラインナップでの再集結は、リアルタイムで体験できなかった新しいファンにも大いに喜ばれた。

特にビル・ブラッフォードの参加は、様々な意味で歓迎された。彼が在籍していた時期のライブの演奏が殆ど残っておらず[12]、さらに彼がイエスを脱退したのは「危機」レコーディング直後だったため、彼のドラムで「危機」の曲目がライヴ演奏されたのはこれが初めてだった。更には、ブラッフォードがベーシストにトニー・レヴィンを連れてきたので[13]、結果として「キング・クリムゾンのリズム・セクションで聴けるイエス」となっており「両バンドが好きなファンにとっては願っても無い編成」になっている。エレクトロニック・ドラムで多様な音色を縦横無尽に操るブラッフォードと、スティック・ベースを駆使するレヴィンが繰り出す演奏は、往年の名曲に新たな解釈を与えたとされ、単なる懐メロとは異なる内容に昇華されたという意見も多い。

このトニー・レヴィンも含め、マット・クリフォード(key) 、ミルトン・マクドナルト(g) といったサポートメンバーがいた。それに加え、アンダーソンはヴァンゲリスと、ハウはジェフ・ダウンズ、マックス・ベーコンと(エイジア、GTR時代に)共作したマテリアルを持ち寄り新曲として仕上げている…といった点を考慮しても、ABWHとイエスを同一視することは難しいと思われる。

余談だが、ABWHのライヴ作品「イエス・ミュージックの夜」は、CD / 映像ともに、(公式には)体調を崩したレヴィンの代役として、ビル・ブラッフォードのソロ時代の仲間であるジェフ・バーリンが参加した時のものが使われている。

一方、本家イエスの方はワールド・トレイドのビリー・シャーウッドを加えて新たな活動を模索していた。ただ、その成果は4枚組ボックス「イエス・イヤーズ - Yesyears(1991年)に収録された「ラヴ・コンクァーズ・オール - Love Conquers All」1曲のみで、シャーウッドは1997年の「オープン・ユア・アイズ - Open Your Eyes」で正式参加するまで、自身のバンドとイエスのサポートを並行させた。

[編集] 統合〜収束

アルバム / シングルのヒットと、ツアーの好評を受けて、ABWHはセカンド・アルバム「ダイアログ - Dialogue(未発表)」のレコーディングに入った。しかし、楽曲の数が不足していたため、ジョン・アンダーソントレヴァー・ラビンに楽曲の提供を依頼。ラビンもこの依頼に応えて楽曲を提供することになった[14]。この流れでスクワイアがコーラスとしてABWHの曲に参加。結局、二つのバンドは合流してイエスとなる。こうして完成「結晶 - Union(1991年)」は正式メンバー8名+トニーレヴィン、ビリー・シャーウッドら多数のサポート・メンバーによって制作されたアルバムであった。[15]

このアルバムに伴うツアーはジュール・ベルヌの小説「80日間世界一周」をモチーフにしたもので、8人の正式メンバーで敢行され、世界各地で大いに盛り上がった。なお、来日公演直前にビル・ブラッフォード脱退という報道がなされ、宣伝写真から彼の姿が消えた事もあったが、なんとかその危機も乗り越え1人の欠員もなくツアーを終えた。

ツアーが終了すると再びイエスは離合集散を繰り返し、ハウやブラッフォード、ウェイクマンはバンドを離れていった。その後、「90125」のメンバーを中心に制作されたアルバム「トーク - (1994年)」を最後にラビンはイエスを脱退。映画音楽の世界に転身する。またオリジナル・メンバーの一人トニー・ケイも脱退し、音楽活動から引退して側面からイエスをサポートしていくと表明した[16]

[編集] 現在

「トーク」のメンバー構成(アンダーソン、スクワイア、ケイ、ホワイト、ラビン)を提案したのは新たに所属したヴィクトリー・レーベルのフィル・カーソン(彼は以前アトランティック・レコードに所属し、イエスを初期からサポートしていた)であったが、バンドはその後ヴィクトリーを離れ、スティーヴ・ハウリック・ウェイクマンが復帰する。

そのようにして発表されたアルバム「キーズ・トゥ・アセンション1996年)」、「キーズ・トゥ・アセンション21997年)」は、ライヴとスタジオ作品を混在させたプロジェクトであった。アルバム発表の後にはツアーが予定されていたが、マネージメントの変更を検討していためスケジュールがなかなか決まらず、当時マン島に在住していたウェイクマンがスケジュールを知ったのは、既にソロ活動のスケジュールがブッキングされた後であった。こうしたトラブルからウェイクマンは何度目かのバンド脱退へと向かう。1997年5月にはウェイクマン脱退が正式に発表され、ツアーはキャンセルとなった。

後釜のキーボード・プレイヤーを探していたイエスは、自ら売り込みにやって来たロシア出身のイゴール・コロシェフを加入させる。また、1997年10月から組まれていたツアーに合わせ、クリス・スクワイアのソロ・プロジェクトが急遽イエスとしての作品に昇格して制作される事となり、正式メンバーとなったビリー・シャーウッドが最終ミックスダウンを行った「オープン・ユア・アイズ(1997年)」を完成させた。

1999年、バンドは名プロデューサーとして知られたブルース・フェアバーンを迎えてアルバム「ラダー1999年)」を発表する。その後ビリー・シャーウッドが自分の活動に専念するため脱退。イゴール・コロシェフの脱退については、ツアー中に二名の女性警備員へ暴行事件(実際にはキスを迫ったり、首筋を噛んだりといったセクハラ的行為)を起こしたことによる解雇であると噂されているが、真相は不明である。

キーボード不在を逆に好機と捉えたイエスは、以前から暖めていた企画であるオーケストラとの競演を柱とした作品「マグニフィケイション2001年)」を発表する。オーケストラ・サウンドのミックスと味付けはゴージャスだが、基本的にはわかり易い作品で、アンダーソンとスクワイアの音楽的嗜好のルーツであるアメリカンポップスやビートルズの曲想を感じさせる好作に仕上がっている。

マグニフィケイション・ツアーを終えたイエスは、ウェイクマンの復帰(4回目)を発表した(真偽は不明だが一説によると、曲作りには参加しないツアーのみの契約であるといわれている)。その後イエスは、2002年のクラシック・ツアー、2003年のフルサークル・ツアー、2004年の35周年記念ツアーと大規模なツアーを行ったものの、スタジオ・レコーディングの新作を出していない。

2005年「今年はツアーをやりたくない」というアンダーソンの意向を受けて、イエスはグループとしての活動を停止し、メンバーはソロ活動に入った。また、リック・ウェイクマンが、公式に次のイエスの活動には参加しないことを表明した。

2008年、ジョン・アンダーソン、スティーヴ・ハウ、クリス・スクワイア、アラン・ホワイト、オリヴァー・ウェイクマン(リック・ウェイクマンの息子。心臓病を抱えたリック・ウェイクマンは医師の助言により参加せず、代わりに息子を推薦したとのことである)というラインナップでバンド結成40周年をふまえた世界ツアーを行うことが公式サイトにて発表された。だが、ジョン・アンダーソンの病気によりキャンセルとなった。 同年9月、カナダ人シンガーのベノワ・デヴィッドをアンダーソンの代理として起用、11月から12月にかけて、北米中心のイン・ザ・プレゼント・ツアーを敢行した。

[編集] 歴代メンバー

[編集] ディスコグラフィ

詳細は「イエスの作品」を参照

[編集] スタジオ・アルバム

発表年 タイトル (邦題) タイトル (原題) 最高順位(UK) 最高順位(US)
1969年 イエス・ファースト・アルバム Yes - -
1970年 時間と言葉 Time And Word 45 -
1971年 サード・アルバム The Yes Album 7 40
1971年 こわれもの Fragile 7 4
1972年 危機 Close To The Edge 4 3
1973年 海洋地形学の物語 Tales From Topographic Oceans 1 6
1974年 リレイヤー Relayer 4 5
1977年 究極 Going For The One 1 8
1978年 トーマト Tormato 8 10
1980年 ドラマ Drama 2 18
1983年 ロンリー・ハート 90125 16 5
1987年 ビッグ・ジェネレイター Big Generator 17 15
1991年 結晶 Union 7 15
1994年 トーク Talk 20 33
1996年 キーズ・トゥ・アセンション Keys To Ascention 48 99
1997年 キーズ・トゥ・アセンション2 Keys To Ascention 2 62 -
1997年 オープン・ユア・アイズ Open Your Eyes - 151
1999年 ラダー The Ladder 36 99
2001年 マグニフィケイション Magnification 71 186

[編集] ライヴ・アルバム

発表年 タイトル(邦題) タイトル(原題) 最高順位(UK) 最高順位(US)
1973年 イエスソングス Yessongs 7 12
1980年 イエスショウズ Yesshows 22 43
1985年 9012ライブ 9012 Live : The Solos 44 81
1993年 イエス・ミュージックの夜 An Evening Of Yes Music Plus - -
1997年 BBCセッション1969-1970 サムシングズ・カミング Yes BBC Sessions 1969-1970 Something's Coming - -
2000年 ハウス・オブ・イエス House Of Yes 36 99
2005年 ライヴ・イヤーズ The Word Is Live - -

[編集] コンピレーション

発表年 タイトル(邦題) タイトル(原題) 最高順位(UK) 最高順位(US)
1975年 イエスタデイズ Yesterdays 27 17
1981年 クラシック・イエス Classic Yes - 142
1991年 イエス・イヤーズ Yesyears - -
1992年 イエス・ストーリー Yesstory - -
1993年 ベリー・ベスト・オブ・イエス The Very Best Of Yes - -
2002年 ヒストリー・ボックス In A Word - -
2003年 アルティメット・イエス The Ultimate Yes 10 131
2004年 (Re)Union (Re)Union - -

[編集] その他

  • 1993 シンフォニック・イエス - Symphonic Music of Yes(Prd.アラン・パーソンズ/演奏.ロンドン・フィル、アンダーソン、ハウ、ブラッフォード)
  • 1995 テイルズ・フロム・イエスタデイ - V.A./Tales from Yesterday(バンクス、ハウ、モラーツ、シャーウッド参加)
  • 1998 イエス・フレンズ&レラティヴズ - Yes,Friends & Relatives
  • 2001 イエス・フレンズ&レラティヴズ2 - Yes,Friends & Relatives Vol.2
  • 2003 イエス・リミックス - Yes Remixes(リミックス/ザ・ヴァージ)

[編集] ビデオソフト

ソフトの発売時期によって、テープ/LDDVD等、収録メディアに差異がある。

[編集] 関連アーティスト/バンド

  • GTR (エイジアの後、スティーヴ・ハウが結成に参加)
  • U.K. (ビル・ブラッフォードが結成に参加)
  • XYZ、シネマ(80'sイエスの前身)
  • アンダーソン・ブラッフォード・ウェイクマン・ハウ (イエスの別動バンド)
  • ヴァンゲリス(ジョン・アンダーソンが「天国と地獄」にゲスト参加)
  • エイジア (スティーヴ・ハウとジェフ・ダウンズが結成に参加)
  • キング・クリムゾン (ジョン・アンダーソンが「リザード」にゲスト参加/ビル・ブラッフォードが移籍)
  • グラス・ハマー (ジョン・アンダーソンが2007年のアルバム「Culture Of Ascent」にゲスト参加)
  • ジョン・アンド・ヴァンゲリス(1979年以降のジョン・アンダーソン参加ユニット)
  • スターキャッスル (オリヴァー・ウェイクマンが2007年の再結成時に参加)
  • ストロウブス (リック・ウェイクマンの移籍元)
  • デヴィッド・ボウイ (大学時代のリック・ウェイクマンがセッション参加)
  • バグルズ (トレヴァー・ホーンとジェフ・ダウンズの移籍元)
  • バジャー - Badger (トニー・ケイが最初に脱退した直後に結成したバンド)
  • プラスティック・オノ・バンド (セッション・マン時代のアラン・ホワイトがツアーに参加)
  • フラッシュ (脱退後のピーター・バンクスが結成したバンド。トニー・ケイもゲスト参加)
  • T・レックス (大学時代のリック・ウェイクマンがセッション参加)
  • ムーディー・ブルース (脱退後のパトリック・モラーツが一時在籍)
  • ラビット (トレヴァー・ラビンが地元の南アフリカで在籍)
  • レフュジー (パトリック・モラーツの移籍元)
  • ワールド・トレイド (ビリー・シャーウッドが元在籍)
  • 喜多郎 (『十五少女漂流記』のサウンドトラックに、ジョン・アンダーソンがゲスト参加)

[編集] 参考書籍

  • ティム・モーズ著「イエス・ストーリー 〜 形而上学の物語(原題:YesStories)」
  • クリス・ウェルチ著「ザ・ストーリー・オブ・イエス (原題:Close to the Edge〜The Story of Yes)」
  • 監修:片山 伸「イエス・ファイル」
  • 「ストレンジ・デイズ」2005年8月号
  • 黒田史朗著「イエス」(音楽之友社刊)

[編集] 脚注

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  1. ^ 黒田史朗著「イエス」より。以降、特に表記が無い限り、時期や場所の記述は参考書籍に列記された資料やアルバムのライナーノーツ等に基づいている。
  2. ^ ただし、この人脈図は、ビル・ブラッフォードの参加時期など、インタビューにおける本人のコメントと整合していない記述もあり、資料価値としての疑問を呈する意見もある。
  3. ^ クリス・スクワイアピーター・バンクスがファンだと公言していたザ・フーの影響が、分かりやすい形で音に現れている、という意見もある。更にビル・ブラッフォードを筆頭に、トニー・ケイ、バンクスが傾倒していたジャズの要素も少なくない。また、当時ジョン・アンダーソンが気に入っていたコーラス・グループのフィフス・ディメンション、スクワイアが少年時代に参加していた聖歌隊、そして2人が共にファンだったというサイモン&ガーファンクルという趣向 / 経験で意見が合致した「強力なコーラス・ワーク」は、結成当初から現在に至るまで一貫してイエスのサウンドに取り入れられ、この時期、既にその片鱗が現われているといわれている。
  4. ^ イエスの場合は「バンド演奏とのバランスがあまり良くなく、成功とは言い難い」という見解もある。シンフォニック・サウンドの導入には困難が伴う事が判明し、それが後にシンフォニック・サウンドの構築を得意とするリック・ウェイクマンの加入に繋がったのではないか、という意見がある。また、この事によって各メンバーの音楽指向の違いが浮き彫りになり、この時点でのピーター・バンクスの脱退と、後のトニー・ケイの脱退が具現化したとされている
  5. ^ ただし、大部分が他のバンドの前座だったため、詳細は伝わっていない。
  6. ^ そのようなものが誰にとっても有効な概念として存在したら、の話であるが。
  7. ^ XYZのセッションがかなり具体的なものであった事は、当時の音楽マスコミも重ねて伝えており、ジョン・ボーナムを失ったばかりのレッド・ツェッペリンが、その活動を続けるため、キーボードもこなすベーシストのジョン・ポール・ジョーンズをキーボード専任にシフトし、開いたリズム・セクションを埋める為、クリス・スクワイアとアラン・ホワイトを加入させる、という噂まで飛び出した。事実、そういう形のセッションも実験的に行われたと伝えられているが、結局はXYZもスクワイアとホワイトの移籍も実現せず、二人はシネマ (Cinema) の結成に向けて活動を開始する。
  8. ^ ホーンのソロ・プロジェクト色が強い作品だが、ジェフ・ダウンズエイジアに参加するまでの短期間ながら、制作に携わっている。商業的成功は前作に全く及ばず、日本では当時リリースすらされなかった。ただし、クオリティは格段に上がっており、以後プロデューサーとして名声を得るホーンが、ミュージシャン/アーティストとして活動した最後の作品という意味でも重要な1枚であるという意見がある。なお、アート・オブ・ノイズも彼のユニットとして見る事ができる。
  9. ^ ロジャー・ディーンにジャケットを描かせたところから、(少なくともレーンとハウは)このプロジェクトをイエスを継承するものと位置づけていたのだろうと考えられる。
  10. ^ 再結成第1弾シングル「ロンリー・ハート - Owner of a Lonely Heart」のプロモーション・ビデオでジョブソンの姿を確認できる。
  11. ^ ちなみにこのプロジェクトは、当初、アンダーソン以外のメンバーはソロ・アルバムを手伝う程度の気軽さであったと言われている。
  12. ^ 当時はイエスソングスに収録されている3曲のみだった。
  13. ^ スタジオ作品にも全面参加している。
  14. ^ ちなみにこの経緯については、「ABWHは実際には曲作りに困っていた事もなく、アンダーソンが抱いていた「よりイエスらしい自分たちがイエスと名乗れないフラストレーション」の為にラビンに接触した、というのが実情」と見る向きもある。
  15. ^ このアルバムについては「ABWHのアルバムにイエスの曲を付け足しただけ」と酷評する意見もあり、また「メンバーの大半が嫌っているアルバム」とする説もある。ただ、内容的には1970年代、1980年代のイエスの音楽の総決算とも言えるような多彩なもので、このアルバムを高く評価するファンももちろん存在している。
  16. ^ 彼は現在はセッション・ミュージシャンの仕事をたまに受ける程度で、ロック・ミュージシャンの生活からは実際に引退してしまったようである。

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年8月26日 (水) 01:31 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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