イングランド内戦

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イングランド内戦(English Civil War)は、清教徒革命においてイングランドで行われた、国王派と議会派の軍事衝突である。1642年に始まった国王軍と議会軍の内戦は、当初国王軍に有利に推移した。しかし議会派の組織改革などによって議会軍が勝利し、つづいて勝利した議会派内でも深刻な対立を招いた。議会での長老派対独立派の争いは、次第に議会対軍・民衆という構図にかわってゆき、1649年に国王の処刑と共和政の樹立という帰結にいたった。

目次

[編集] 国王軍の優勢

内戦勢力図。黄色は議会派、赤は王党派。
左上:1642年、右上:1643年、左下:1644年、右下:1645年。

1642年10月23日エッジヒルの戦いで国王軍・議会軍の最初の干戈が交えられた。この戦いはほぼ引き分けに終わり[1]オックスフォードに本拠をかまえた国王軍は北部・西部を抑え、議会軍はロンドンを拠点に南部・東部を支持基盤とした。その後ヨークシァやニューベリーなどで中小規模の戦いが続いたが、1643年の間は大勢としては国王軍有利に進み、国王軍は何度もロンドンを窺う情勢にあった。

議会軍が劣勢だった理由は、その編成にあったといわれる。国王軍は正式に令状が出されて集められ、訓練・戦闘経験を積んだ者も多かったいっぽう、議会軍は民兵[2]を主力とする混成部隊だったからである。はかばかしくない戦況に議会派は軍の再編を急いで進めた。東部の諸州が連合してつくられた東部連合軍をはじめ、西部連合軍なども編成され、議会軍の組織化が進んだ[3]クロムウェルは当時、東部連合軍の騎兵隊長であった。

[編集] 財政危機と転換点

両軍は戦闘の長期化に伴い、財政危機を迎えはじめていた。国王軍はアイルランド・カトリック同盟と、議会軍はスコットランド盟約派と交渉を始め、それぞれから一定の支持をとりつけたが、その影響が戦局を左右する一因ともなった。

国王軍がアイルランドのカトリック同盟から得た資金提供はわずかであり、アイルランド軍の派遣は拒否された。引き返すことができた国王軍の反乱鎮圧部隊もナントウィッチで撃破されてしまい、カトリック同盟との講和が国王軍にもたらした利益は微々たるものとなった。さらにカトリック勢力と結んだことによって、王への不信感を醸成させるという結果も招いた。

いっぽう議会軍は、劣勢な戦況や進まない軍の再編という状況から、なんとしてもスコットランド盟約派の援助をとりつける必要にかられていた。イングランドの長老制導入を主張した盟約派に対して、あいまいな表現の声明文[4]1643年9月2日、どうにか合意をとりつけた。盟約派は約束通り1644年1月9日援軍を派遣し、国王派ニューカッスル公の軍をおびやかした。さらに東部連合軍と合流し、7月2日マーストン・ムーアの戦いで議会軍に圧倒的勝利をもたらした。この戦いを勝利に導いたクロムウェルが一躍、議会軍の中で注目されるようになった。

[編集] 軍・議会の再編と膠着からの脱却

クロムウェルの騎兵隊はこの時すでに鉄騎隊とよばれ勇名を馳せていたが、それだけでは国王軍を撃破することはできなかった。各地方ではいぜん国王派が優勢であり、再編されたはずの議会軍もばらばらの行動をとり続けていたのである。さらに議会内でも、和平派(長老派)と改革派(独立派)の対立が激化し、悲観的な雰囲気さえ流れ始めていた[5]。政治的にも軍事的にもなお議会派は「烏合の衆」であり、結束を強化する必要に駆られていた。この動きが出始めたのは、軍の指揮官たちからであった。

このとき議会派のなかでも長老派[6]とよばれる議会内の和平推進派が王党派との交渉が行われていたが、この交渉が不調に終わると主戦派(独立派)が議会内でも勢いを一時的に得て、鉄騎隊の組織機構を軍全体に広げて団結を強める「ニューモデル条例」、無能な指揮官(議員を兼職する指揮官)を軍から排除する「辞退条例」が成立した。

こうして誕生したニューモデル軍は統一的行動がとれるようになり、ようやく戦況を有利に展開させられるようになった。そしてネイズビーの戦い(1645年6月14日)で国王軍主力を叩き潰すにいたった。以降1年をかけて議会軍は各地を平定し、国王は自らの負けを悟って再度の和平交渉を持ちかけた。このとき議会の主導権を握っていた独立派は和平の提案を一蹴し、チャールズは独立派と疎遠になりつつあったスコットランドに逃亡した。しかし結局国王の身柄はイングランドに引き渡され、核を失った国王軍は議会軍に投降し、1647年1月に内戦はひとまず幕を迎えた。

[編集] 内部対立

軍事的対立が一段落すると、議会内で主導権を取り返した「長老派」と「独立派」の対立が再燃した。この対立は次第に議会と軍の対立へと構図を変えていき、議会内のみならず、言論界でも巻き起こった。長老制教会体制と教会の秩序維持を支持する長老派と、信仰は個人の自主性が尊重されるべきであるとする分離派のパンフレット合戦が起こった。独立派は、政治的には長老派と対立していたものの、宗教観としては分離派と長老派の中間に立っていた。形だけの長老制樹立法案が通過し、さらに議会が軍を解散させようとしたことなど[7]が重なり、兵士たちは信仰の自由と民主主義を唱えて猛然と反発した。このころから市民・兵士の間で平等派が力を増していった。

チャールズ1世の処刑

[編集] プライドのパージと共和政成立

こうした内部対立を奇貨とした王と国王派は、長老制を徹底しないことに不満を持っていたスコットランドと結託して再度戦いを挑んだ。1648年3月に始まった第2次内戦は半年であっけなく鎮圧され、国王との和解が不可能であることが平等派だけでなく独立派にも認識されるようになった。いまだ国王との和解を諦めていない長老派を主流とする議会にクロムウェルもようやく見切りをつけ、1648年12月6日、部下のプライド大佐に命じて長老派議員を議会から締め出した。これが「プライドのパージ」とよばれる軍事クーデターであり、残った五十数名の議員のみからなる下院(ランプ議会)を承認した。ランプ議会は翌1649年1月から国王チャールズの裁判を開始し、27日に死刑の判決が下った。1月30日チャールズは処刑され[8]、貴族院の廃止をへて5月19日に共和政の樹立を宣言した[9]

[編集] 脚注

  1. ^ 両軍とも自軍の勝利を喧伝した。国王軍はロンドンを一挙に陥れようとしたが、ロンドン市民が義勇兵を募って守りを固めたのをみて断念し、オックスフォードに進んでこれを占領した。
  2. ^ 州や都市を守るためにつくられた民兵は自分の故郷を守ることには熱心だったが、地方意識が強く、国全体のこととなると士気を高くもてなかった。また、装備・訓練・実戦経験において貴族の率いる国王軍にはるかに及ばなかった。特にアドウォルトン・ムーアの戦いではその弱体さが際立った。のちにクロムウェルは当時を顧みて、民兵の混成部隊だった議会軍を「よぼよぼの召使いや給仕やそんな連中」と述懐している。
  3. ^ これらの再編によってただちに議会軍が精強になったわけではなく、軍の内外で様々な問題をかかえていた。議会内の見解の一致がとれていないことや、革命の目指す方向がないことなどがその主な理由であった。
  4. ^ スコットランド側が用意した文面に、交渉にあたったヘンリー・ヴェーン子爵らは若干の修正を提案した。すなわち、「神の言葉にしたがって」と文頭に付け加えることによって、解釈に幅をもたせてスコットランドとの合意を実現した。それでもイングランド側の宗教会議で紛糾したが、「人殺しが病人に襲いかかってきたとき、病人は薬を飲み続けて殺されるに任せるだろうか、それとも薬をすてて武器をとって立ち向かうだろうか」というジョン・ピムの演説も奏功し、どうにかイングランド側でも合意を支持した。
  5. ^ 「我々が国王軍に99回勝ったとしても、チャールズは国王であり続けるだろう。しかし我々が1度負ければ、我々はみな絞首刑になるだろう」という言説も出てきていた。
  6. ^ 長老派・独立派などの党派は、おおむね長老派教会分離派それぞれの信仰と一致するが、政治的長老主義と宗教的長老主義はいくばくかの温度差がある。詳しくは清教徒革命#内戦・革命における党派を参照のこと。
  7. ^ 議会は兵士への給与支払いが長期にわたり滞っているにもかかわらず、ニューモデル軍の解散やアイルランド遠征、ロンドン市内への立ち入り禁止などを決定し、これに兵士たちは反発した。
  8. ^ 当初平等派を主導していた論者は、国王の処刑には消極的だった。平等派の目的はあくまで人民主権の実現であり、国王の処刑に耳目が集中しすぎることを懸念したからである。また、処刑後に軍と独立派の強すぎる発言力が、かえって民衆に危機感をいだかせ、チャールズは罪人というよりも殉教者として見られることもあった。これが1660年の王政復古の下地を作ってゆくことになる。
  9. ^ スコットランドではチャールズの処刑をうけて1649年2月5日、チャールズ2世の即位が宣言された。

[編集] 関連作品

  • 『クロムウェル』(1970) --リチャード・ハリス主演、クロムウェルを中心としたイングランド内戦が題材の映画mwl:Guerra Cebil Anglesa

最終更新 2009年11月12日 (木) 09:44 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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