インディアン戦争
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インディアンを追撃するアメリカ騎兵 |
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| アメリカ州の先住民族 | アメリカ植民地/アメリカ合衆国 | ||||||
インディアン戦争(インディアンせんそう、英: Indian wars)は、1622年から1890年の間の、アメリカ合衆国における入植者によるインディアンの征服戦争の総称。初期のころからインディアンと入植者の小競り合いが続いていたが、移住者の増加とともに列強による植民地戦争とも絡みながら大規模化していった。
アメリカ独立戦争以後、豊かで安い地価を求めて入植者が西進するようになるとインディアンの撲滅戦争と化した。インディアンは現住地を追われ保留地に押し込められ激しく抵抗するようになる。
クレイジー・ホースらに率いられたインディアンの連合軍がカスター将軍の第7騎兵隊を全滅させるなどの戦果もあったが、ジェロニモの降伏やウンデット・ニーの虐殺以降、(20世紀になってからのレッド・パワー運動は別として)インディアンによる組織的な反乱はなくなった。
目次 |
[編集] 概要
イギリスがアメリカへの入植を始めた1610年代や1620年代は平穏に過ぎたが、ピクォート戦争の起こった1637年頃から開拓地の安全を図るためとさらに開拓地を拡げていくために、植民地人はインディアン種族間の争いに加担するようになった。この戦争は17世紀(フィリップ王戦争、ウィリアム王戦争および18世紀初頭のアン女王戦争)からウンデット・ニーの虐殺で1890年にアメリカの辺境が「消滅」するまで、インディアンの土地を開拓者のために解放し、インディアンを征服してアメリカに同化させ、インディアン居留地への強制移住という結果になっていった。
これらの戦争でアメリカ側とインディアン側の受けた損失については様々な統計が示されてきた。最も信頼に足る数字はグレゴリー・ミクノなどによる交戦記録を厳密に照合したものであり、1850年から1890年の間だけで、21,586人の市民と兵士が死亡、負傷、または捕虜になったとしている。[1]他の数字としては、ラッセル・ソーントンなどのやや大雑把で関係性の薄い政府の資料から外挿したもので、45,000人のインディアンと19,000人の白人が殺されたとしている。この後者の推定値の中には、辺境の虐殺によって非戦闘員がしばしば殺されたので、双方の女性子供の犠牲者も含まれている。[2]その他にも様々な著者が、少ない者では5,000人、多い者では50万人という数字を上げている。ここでの議論に含まれていないのは、双方の残虐さである。インディアンはその残酷な戦い方で、アメリカは破壊的な作戦実行で示した残虐さは、毎年のように新聞、記録保管所、外交記録およびアメリカ独立宣言(...(イギリスは)辺境の住人、戦い方を知っている残酷なインディアンに、年齢、性別や状態に拘わらず見境無い破壊を奨励している)の中で指摘されてきた。
インディアン戦争は小さな戦争の連続であった。インディアンはそれぞれの歴史を持つ様々な集団であった。戦争の間を通じて、インディアンはヨーロッパ人と一括りで呼べるような単一の民族では無かった。様々なやり方で築かれた社会に住み、地域的なレベルで戦争と和平の決断を下した。ただし、イロコイ連邦やテカムセのような指導者によって吹き込まれた一時的な同盟のように、公式の同盟の一部として戦うことがあった。
インディアン戦争は大きく3つの時代区分に分けられる。最初の時代はヨーロッパ人がアメリカに入ってきて手探りでインディアンとの共存を探った時代であり、2番目の時代はアメリカ合衆国が誕生してそれに続く期間であり、インディアンからの激しい抵抗があったもののアメリカの文化に同化しないインディアンが排除されて、ミシシッピ川から東にはほとんどインディアンの居留地が無くなった時代である。3番目の時代はミシシッピ川の西に開拓が進み、アメリカの国力が充実してきてアメリカ西部のインディアンが屈服していった時代である。
[編集] ヨーロッパ人の植民期
1620年にピルグリム・ファーザーズがアメリカ東海岸のプリマス植民地に到着した頃は、インディアンとヨーロッパ人の共生が進んだ。むしろインディアンに助けられて入植者が定着できたという面もあった。ただし、全ての地域でインディアンが友好的にヨーロッパ人を迎えたわけではなく、インディアンに様々な種族があったように、ヨーロッパ人を迎えるインディアンの対応は様々であり、16世紀前半のフロリダのように有無を言わせず退去させられた例もあった。17世紀前半のフランスの場合は、敵対するインディアンの一方に荷担して、まだ銃火器を持たないインディアンを圧倒するようなことがあった。
インディアンは、その狩猟生活に貴重な道具となった銃を供給してくれ、かつ様々な商品を交易したり贈り物を届けてくれるヨーロッパ人とは友好的な関係を保った。しかし、いち早く銃を持った種族は他の種族を圧倒する力を持つようになった。17世紀前半のイロコイ連邦がまさにこの典型的な例であり、アメリカ北東部のかなり広い範囲を勢力下に収めることになった。
[編集] インディアンとヨーロッパ人の抗争の開始
インディアンとヨーロッパ人の間で大規模な抗争に発展した最も初期のものは、1637年のピクォート戦争が挙げられる。この戦争は、イギリス人交易業者の1隊が殺されたことに端を発し、マサチューセッツ湾植民地とプリマス植民地の白人が、ピクォート族と敵対していたモヘガン族を使ってピクォート族を殲滅するという結果になった。入植初期のピルグリム・ファーザーズは、インディアンから土地を購入するという形を採っていたが、この頃から清教徒が大挙して入植するようになり、開拓者が勝手にインディアンの土地に入り込むというような形態が生まれた。
1650年代になると、イロコイ族がヌーベルフランスの開拓者を襲うようになった。これに対してフランスが軍隊を組織して反撃を行い、一時的に休戦時期はあったものの、この敵対関係は約半世紀続いた。この戦争はビーバー戦争と呼ばれる。イロコイ族のように一時敵対していたものが一旦和平を結ぶと、その同盟相手が他のヨーロッパ人と戦争を行う場合は強力な戦力となった。
17世紀中頃から後半にかけて、ニューイングランドは何度も疫病の流行に悩まされ、免疫力の無いインディアンが大きくその数を減らした。1670年代ニューイングランド南部の人口は、白人35,000人に対してインディアン15,000と大きく逆転していた。1675年、それまで白人に対して友好的な姿勢で臨んできたワンパノアグ族の酋長メタコメットが反旗を翻した。白人はメタコメットをフィリップ王と呼んでいたので、この戦争はフィリップ王戦争と呼ばれる。ワンパノアグ族の攻撃でポートランドなどの開拓地は壊滅的に破壊されたが、ニューイングランドを挙げての反撃と他のインディアン種族も白人に味方したことで、ワンパノアグ族も最後は大敗し、その人口は10分の1以下になったとされている。
18世紀に入って、それまで比較的平穏であったカロライナ植民地で、インディアンの反乱が続いた。1711年に始まったタスカローラ戦争と、その終結後間も無い1715年のヤマシー戦争である。タスカローラ戦争で敗れたタスカローラ族の残党は北へ逃れてイロコイ連邦に合流した。同様にヤマシー戦争で敗れたクリーク族は南に逃れ、一部はスペイン領フロリダに入って後のセミノールとなり、その抵抗は19世紀半ばまで続いた。
[編集] インディアンを巻き込んだヨーロッパ列強の対立
1688年に始まった大同盟戦争以降、ヨーロッパでの対立構図がそのまま北アメリカに持ち込まれ、主にイギリスの北アメリカ植民地とフランスのヌーベルフランスとの間に抗争が繰り返された。1689年のウィリアム王戦争、1702年のアン女王戦争、1744年のジョージ王戦争および1756年のフレンチ・インディアン戦争である。これらを総称して北米植民地戦争とも呼ばれる。フランスとイギリスは、必ずその同盟インディアンを戦争に動員して戦った。
アメリカ植民地やヌーベルフランスでは、フランスの同盟相手は五大湖地方のアルゴンキン語族であったが、南部フランス領ルイジアナではチョクトー族が同盟相手であった。これに対してイギリスはそれぞれフランスと同盟する種族と敵対的な部族を選び、北部ではイロコイ族、南部ではチカソー族と同盟を結んだ。ミシシッピ川の通行がからむフランス・チョクトー族同盟軍とチカソー族の戦いは、チカソー戦争 (1720-1760)と呼ばれる。
この時期の特徴的なことは、アメリカ東海岸にほとんどインディアンがいなくなったことである。住んでいるとすれば、ほとんど植民地人の生活習慣を受け入れ、社会的また宗教的にも同化してきたインディアンであり、政府のインディアン部局に所属して代理人を務めたり、一部では混血も進められて農園を所有する者すら現れた。植民地社会に同化できないインディアンは内陸部に後退し、植民地との交易をつづけて和平を保つか、開拓者に対して敵対的な行動を行って植民地人に反撃を食らい、また内陸に引っ込むという悪循環を繰り返した。
これらの戦争の結果、最終的に1763年のパリ条約でフランスが北アメリカの植民地を放棄したことで、情勢が一気に変わった。カナダからメキシコ湾まで広大な植民地を支配することになったイギリスと、それまでフランスやスペインと友好的な関係を築いてきたインディアン種族との間に対立が生まれることになった。
[編集] イギリス対インディアン
イギリスは1763年にフランス領アメリカを獲得すると、1763年宣言を発してアパラチア山脈より西への白人の入植を禁じた。これは白人開拓者とインディアンとの抗争を恐れたことが強い動機となって発せられたものであった。しかし、それまでフランスと同盟していたインディアン種族がポンティアック酋長の呼びかけに応じて同盟を結び、ポンティアック戦争と呼ばれる反乱を起こした。この戦争に加わったのは五大湖、オハイオ領土、イリノイ郡と広範な地域に及ぶ多くの種族だった。この戦争は、それまで単一の種族単位に行動することの多かったインディアンが、多くの種族が共同して反抗する可能性を実際に見させることになった。
1763年宣言は、実質的にはポンティアック戦争の開戦後に発せられ、戦争を終了させる条約の中でも交渉材料として使われた。しかし、植民地人の西方領土解放要求を抑えることはできず、新たなインディアンとの抗争の火種となったうえに、植民地人の不満も増幅させ、アメリカ独立戦争の原因の一つになった。そのような中で1773年のダンモアの戦争が起こった。オハイオ川の南まで侵入して来た開拓者をショーニー族やミンゴ族インディアンが襲ったことに端を発し、バージニア知事のダンモア卿が軍を発して鎮めるという結果に終わったが、この戦いを境に、イギリス対インディアンという戦いの構図は、登場人物は同じだがアメリカの植民地人対インディアンという構図に変わっていった。
[編集] ミシシッピ川の東 (1775年-1842年)
この期間の戦争は新しく建国されたアメリカ合衆国に対するインディアンによるものであり、米墨戦争の直前までを一つの区切りとしている。
| インディアン戦争の戦い ミシシッピ川の東 |
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[編集] アメリカ独立戦争
詳細は「西部戦線 (アメリカ独立戦争)」を参照
アメリカ独立戦争は基本的に2本の平行した戦線があった。1つは東部のイギリス支配に対するものであり、もう1つは西部のインディアン戦争であった。あたらしくできたばかりのアメリカ合衆国は、ミシシッピ川の東にいるイギリスと同盟したインディアンと戦うことになった。西方へ開拓地を拡げたいという植民地の関心は、イギリスがインディアンとの間に和平を保つという政策を採ったために独立戦争の原因の一つにもなった。イギリス側に付いたインディアンは自分達の土地を侵略してくる開拓者の波を止めることを戦争に期待していた。独立戦争の西部戦線はアメリカ合衆国の歴史の中で「最も広範で破壊的な」インディアン戦争となった。[3]
多くのインディアン社会ではこの戦争でどちらの側に付くかで分かれた。イロコイ連邦は独立戦争で内乱状態になった。チェロキー族は中立派(あるいはアメリカ派)と反アメリカ派に分かれ、反アメリカ派はドラッギング・カヌーに率いられてチカマウガ戦争を戦った。他の多くの種族社会も同様に分裂した。
辺境での戦争は特に残酷な様相を呈した。多くの残虐行為がどちらの側にもあった。双方共に非戦闘員が多く犠牲になり、軍隊の遠征のために集落や食料の農場と倉庫がしばしば破壊された。この遠征の中でも最大のものは1779年のサリバン遠征隊によるものだった。この時は40以上のイロコイ族集落を破壊してニューヨーク州北部に対するイロコイ族の襲撃を無力化した。この遠征は望み通りの成果までは上げられなかったが、インディアンの行動はより方向性がはっきりした。
インディアンは、1783年にイギリスがアメリカとパリ条約を結んで停戦したとき、インディアンには何も知らせないままにインディアンの広大な領土をアメリカに渡してしまったことを知って驚愕した。アメリカ合衆国は当初、イギリス側に付いて戦ったインディアンを、土地を失った被征服民として扱った。この考え方を押しつけることが不可能と分かった時(インディアンは紙の上で戦争に負けたのであり、戦場でではなかった)、その政策を放棄した。アメリカは使える土地を拡げたかったので、連邦政府が次に打った手はインディアンとの条約で土地を購入することのみで拡げることだった。各州や開拓者はこの政策に違和感を抱き、さらに戦争が続くことになった。
[編集] チカマウガ戦争
詳細は「チカマウガ戦争」を参照
チカマウガ戦争はアメリカ独立戦争に巻き込まれたチェロキー族との間の一連の紛争であり、1794年まで続いた。チカマウガとは、最初はオーバーヒル集落から、後にはローワー集落、バレー集落およびミドル集落のチェロキー族が加わり、戦争指導者であるドラッギング・カヌーに率いられて、南西のチカマウガ地区(テネシー州チャタヌーガ)に、後にはファイブ・ローワー集落に住んだ者達を、アメリカ人が呼んだものである。これらの集落では、クリーク族、白人の王党派、逃亡奴隷および宗旨を変えたチカソー族も加わり、後にはチカマウガ・チェロキー族戦士が100名北方に行ったのと入れ替わりに100名以上のショーニー族および他の種族70名も加わった。当初の攻撃目標は、ワトーガ川、ホルストン川およびノリチャキー川沿い、さらにテネシー東部のカーター渓谷の開拓地とされ、1780年にはナッシュボロ砦を始めとするカンバーランド川沿いの開拓地やケンタッキー、さらに後にはバージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナおよびジョージアまでにも拡がった。チカマウガによる攻撃の規模は、一握りの戦士による急襲から400から500名、時には1,000名を越える大部隊によるものもあった。ドラッギング・カヌーに近い同盟者アレクサンダー・マギリブレーの支配下のアッパー・マスコギー族はしばしばチカマウガの行動に加わり、また単独でも行動した。カンバーランド川の開拓地はチカソー族、北方のショーニー族およびデラウェア族からの攻撃を受けた。ドラッギング・カヌーやその後継者であるジョン・ワットの作戦行動は、北西部の作戦行動と連携して行われることがあった。これに対する植民地人の反応は平和な地域のチェロキー族集落を破壊し尽くすということであり、どちらの側も人命に関しては大きな被害が無かった。この戦争は1794年のテリコ・ブロックハウスの条約で終結した。
[編集] 北西インディアン戦争
詳細は「北西インディアン戦争」を参照
1787年の北西部条例によって、北西部領土は白人開拓者のために公式に組織化された。アメリカ人開拓者が大挙してこの地域に入るようになった。インディアンがこの「侵入」に対抗して暴力に訴えたが、ジョージ・ワシントンは軍隊を派遣して鎮圧させようとした。しかし、北西インディアン戦争で、ショーニー族のブルージャケットやマイアミ族のリトルタートル、レナペ族のバッコンガヘラおよびオタワ族のエグシャワに率いられる汎種族同盟が、ジョシア・ハーマー将軍やアーサー・セントクレア将軍に率いられるアメリカ軍を撃破した。セントクレア将軍の敗北は、アメリカ軍がインディアンに喫したものとしては最大の損失となった。アメリカは事態を交渉で収めようとしたが、ブルージャケットやショーニー族に率いられた同盟軍はアメリカが認められない境界線に固執したために、新たにアンソニー・ウェイン将軍に率いられる新しい軍隊が発せられた。ウェイン軍は1794年のフォールン・ティンバーズの戦いで同盟軍を破った。インディアンはイギリスの援助を期待したが、アメリカとの友好関係を重視したイギリスから無視され、1795年のグリーンビル条約に調印して和解した。この条約でインディアンはオハイオ全部とインディアナの一部をアメリカ合衆国に割譲した。
[編集] テカムセ、クリーク戦争および米英戦争
アメリカ合衆国はグリーンビル条約の後も次々とインディアンの土地の権利を奪っていったので、インディアンの社会では大きな脅威となっていた。1800年インディアナ準州知事にウィリアム・ハリソンが就任し、トーマス・ジェファーソン大統領の指示で、インディアンの土地取得を加速させることになった。ショーニー族の兄弟テカムセとテンスクワタワはアメリカの拡張に対する抵抗を組織した。テカムセの目的はインディアンの指導者達が土地を売ることを止めさせることだった。
テカムセが南部に行って、クリーク族、チェロキー族およびチョクトー族の中で同盟者を募っている間に、ハリソンはインディアン同盟に戦いを挑み、1811年のティッペカヌーの戦いでテンスカタワとその追随者を打ち破った。アメリカはこの勝利で武力による抵抗が収まることを期待したが、テカムセはイギリス軍と同盟して、米英戦争の中でアメリカに対する戦いを始めた。
独立戦争の時と同様に、米英戦争では西部戦線で大規模なインディアン戦争となった。テカムセに挑発されたクリーク族は、当初クリーク族内の内戦から始まったクリーク戦争でアメリカの拡張政策に激しく抵抗することになった。米英戦争におけるイギリスとの戦いは手詰まりの様相を呈したが、アメリカは西部戦線ではそこそこの成功を収めた。テカムセはテムズの戦いでハリソン軍に殺され、古北西部での抵抗が終わった。アメリカに反攻したクリーク族も敗れた。1818年の第一次セミノール戦争は。ある意味でクリーク戦争の延長であったが、最終的には1819年にアメリカがフロリダを獲得することになった。
独立戦争や北西インディアン戦争と同様に米英戦争の後も、イギリスはインディアンに対する同盟を放棄した。これはインディアン戦争にとっては大きな転機であり、インディアンはアメリカ合衆国に対する戦いで外国の力を宛てにできなくなった。
[編集] 強制移住の時代
これらの戦争の一つの結果は、アンドリュー・ジャクソン大統領が1830年に署名して成立したインディアン移住法であった。インディアン移住法そのものはインディアンの移住を強制するものではなかったが、ルイジアナ買収で得た西部の土地と引き替えに東部にあるインディアンの土地を明け渡すよう交渉する権利を大統領に委ねるものであった。歴史家のロバート・V・レミニによれば、ジャクソンは、イギリスやスペインがアメリカの国境内でインディアンに武装させアメリカに戦争を挑ませるように仕向けている事態を鑑みて、国内の安全保障を優先するという政策を促進させた。[4]
多くのインディアン移住条約が結ばれた。インディアンの大半は渋々ながら移住条約の条件に従ったが、苦い諦めということでもあった。しかしこれら条約の執行に抵抗して戦闘を始めるものがいた。これらは、1832年のブラック・ホーク戦争と1836年のクリーク戦争および長く犠牲も大きい第二次セミノール戦争 (1835-1842)であった。
[編集] アラスカ
18世紀末にアラスカまで進出したロシア帝国は、1802年にシトカ島の基地を先住民族のトリンギット族に奪われた。1804年、バラノフ知事の指揮するロシア軍が、頑強に抵抗するトリンギット族の追い出しに成功(シトカの戦い)し、ロシア領アラスカの開拓を続けた。この戦いはヨーロッパ人とアメリカ州の先住民族の最後の戦いと言われる。その後も先住民族の抵抗は散発的に続いてはいたが、ロシアはアラスカの植民地経営から思うような成果を上げられず、1867年にアメリカ合衆国にアラスカを譲渡した。
[編集] ミシシッピ川の西 (1823年-1890年)
東部と同様に西部の大平原や山岳地でも、鉱山師、牧場経営者および開拓者によるアメリカの拡張で、インディアンとの紛争が増大した。グレートベースンのユト族からアイダホ州のネ・ペルセ族といった多くの種族が、一度ならず白人に戦いを挑んだ。大平原北部のスー族や南西部のアパッチ族がその土地への侵入に対して最も激しい抵抗を行った。シッティング・ブルやクレイジー・ホースのような意思の固い指導者に率いられたスー族は、馬を使った高速の戦闘が得意であった。スー族は元々五大湖地方で定住型の農業を営んでいたものが、大平原に流れてきていた。スー族は馬の捕まえ方や乗り方を覚え、西部に移動してその流儀で他のインディアン種族を圧倒し、恐れられる戦士集団となった。アパッチ族は他部族を襲ってその経済力を得ていた経緯があり、血縁者の死の報復のために戦いを起こしていた。アパッチ族は皆戦い方に精通しており、砂漠や峡谷という環境では極めて捕まえにくかった。
[編集] 大平原
南北戦争の間も白人とインディアンの抗争は続いていた。1862年のダコタ戦争(古い権威ある文献では「1862年のスー族蜂起」)は、アメリカとスー族の間の最初の大規模衝突であった。原因は、アメリカ政府の怠慢にある。サンティ・スー族(ダコタ族)は、当時、狭い保留地に強制移住させられ、保留地管理事務所からの食糧配給が滞ったため、飢餓状態になっていた。あるとき、狩りから戻る途中の4人の戦士が、いざこざで白人農場主の一家を殺してしまい、酋長会議が開かれ、殺人者を引き渡すか、全面戦争かの協議がなされた。ここでタオヤデドゥタ(小さなカラス)酋長は当初戦闘に反対したが、部族の窮状に不満のたまっていた他の酋長達に押し切られて交戦となり、ミネソタ州全土を覆う6週間の戦いとなった。500名以上のアメリカ軍兵士と開拓者が死んだ。それ以外にも小さな襲撃や捕虜となった後にさらに多くの者が死んだと信じられている。
この蜂起で死んだスー族の数は文献には残されていないが、戦争後に303名のスー族が殺人と強姦で告訴され、アメリカ軍の軍事法廷で死刑の宣告を受けた。死刑判決の大部分は減刑されたが、1862年12月26日、ミネソタ州マンケートで38名のダコタ・スー族戦士が絞首刑に処せられた。これはアメリカの歴史の中でも最大の同時執行であった。[5]
1864年にはサンドクリークの虐殺と呼ばれる悪名高いインディアン戦争の戦いが起こった。コロラド州南東部のシャイアン族とアラパホ族の集落を土地の民兵が襲い、およそ150名の男女、子供を殺し死体を損傷した。サンド・クリークに住むインディアンは連邦政府によってその時に住んでいる領土内での安全を保証されていたが、インディアンに反感を抱く白人開拓者が暴走した。後に連邦議会による調査が行われ、インディアンを殺した者に対して短期間ではあるが大衆の抗議が続いた。
1876年、ダコタ・ゴールドラッシュがブラックヒルズに巻き起こった時に、最後の重大なスー族戦争が起こった。ブラックヒルズ一帯は条約上ではスー族の不可侵領土だったが、金が出たあとはまったく無視され、白人の荒らし放題だった。アメリカ軍はついに条約を自ら破り、スー族の掃討作戦に出た。幾つかの小競り合いの後で、ジョージ・アームストロング・カスター隊長はスー族、シャイアン族、アラパホ族が宗教儀式のためにリトル・ビッグ・ホーン河畔に宿営地しているのを見つけ、これを奇襲し、リトルビッグホーンの戦いとなり、本隊とは離れて行動していたカスター将軍の部隊は、戦術的な利点があり数的にも上回ったインディアンに全滅させられた。インディアンはクレイジー・ホースたちに率いられ、シッティング・ブルの勝利の予言によって鼓舞されていた。
その後の1890年、サウスダコタ州ウンデッド・ニーに連行されたゴーストダンス信奉派のミネコンジュー・スー族の一団に対し、アメリカ軍は武装解除を強制して銃撃戦となり、兵士達はおよそ300名のインディアンを殺した(ウンデット・ニーの虐殺)。死亡した29名の兵士には、友軍の銃撃で死んだ者もいる。
これらの凄惨なインディアン戦争の背景には、アメリカ政府によるバッファローの絶滅作戦がある。大平原地帯のインディアン達が衣食住の柱として頼っていたバッファローが、彼らの力を奪うために1880年代の無差別殺戮で大平原から絶滅寸前まで追い込まれていたのである。
[編集] 南西部
南西部の広大な地域での紛争は1846年から1895年まで続いた。この地域のあらゆる非プエブロ諸族を巻き込み、スペイン系メキシコ人との紛争に続いた。ナバホ族とアパッチ族との紛争が良く知られているが、それだけでは無かった。南西部で最後の大規模な作戦計画は5,000名の兵士を投入した。この作戦でアパッチ族のジェロニモ酋長と24名の戦士、女子供が1886年に降伏した
南西部の種族(プエブロ族を含む)は、アメリカ合衆国がメキシコからこの地域を獲得する前に何世紀も、互いにまた外から入ってきた開拓者との交易と戦いを繰り返していた。
[編集] 西部のインディアン戦争年譜
- コマンチ戦争 (1836-1875) 南部平原、主にテキサス共和国とテキサス州(テキサスのインディアン戦争を参照)
- カイユース戦争 (1848–1855) オレゴン準州-ワシントン準州
- ロウグ川戦争 (1855-1856) オレゴン準州
- ヤキマ戦争 (1855–1858) ワシントン準州
- スポーケン=クーダレン=パルーズ戦争 (1858) ワシントン準州
- フレーザー・キャニオン戦争 (1858) ブリティッシュ・コロンビア州
- カリフォルニア・インディアン戦争 (1860-65) フパ族、ワイヨット族、ユーロック族、トロワ族、ノムラキ族、チマリコ族、ツヌングウェ族、ホィルクート族、カルーク族、ウィントン族その他に対する戦い
- ラマルチャ戦争 (1863) ブリティッシュ・コロンビア州
- チルコティン戦争 (1864) ブリティッシュ・コロンビア州
- ナバホ戦争 (1861–1864) ロング・ウォーク・オブ・ナバホで終了。アリゾナ準州、ニューメキシコ準州
- フアラパイまたはワラパイズ戦争 (1864–1869) アリゾナ準州
- アパッチ作戦またはアパッチ戦争 (1864–1886) カールトン将軍がナバホ族とともにメスカレロ・アパッチ族をサムナー保留地に強制移住させたもの。ジェロニモが降伏した1886年まで継続
- ダコタ戦争 (1862) ミネソタ州南西部での白人入植者による挑発で、保留地で飢餓状態になっていたスー族が反乱を起こしたもの。100人以上が死亡。アメリカの歴史の中でも大量同時処刑となる38名のスー族が絞首刑にされた。米軍は約1,600名を今日のサウスダコタ州の居留地に強制移住させた。
- レッドクラウド戦争 (1866–1868) スー族のマアピア・ルタ(レッド・クラウド)にちなんでこう呼ばれるが、レッド・クラウド自身はこの戦いに参加していない。ララミー砦の条約で、アメリカ和平委員会はスー族の一大保留地「グレート・スー・ネーション」を認め、「ここには軍隊の駐留や監視が無く、開拓者が入ることなく、道路建設権も無い」と約束したが、数年後には反故にされた。これに怒ったスー族は、前後していくつもの襲撃を加えている。この保留地にはブラックヒルズ全体が含まれていた。
- コロラド戦争 (1864–1865) コロラド東部平原を中心としてアメリカ軍と、シャイアン族とアラパホ族の連合軍が衝突
- サンドクリークの虐殺 ジョン・チヴィントンが降伏したシャイアン族とアラパホ族450名以上を殺害
- コマンチ作戦 (1867–1875) ミズーリ方面軍の指揮官フィリップ・シェリダン少将が1868年から69年の冬季作戦行動を指揮。コロラド州、カンザス州、ニューメキシコ州およびテキサス州の境界地域に散在するコマンチ族やカイオワ族などのインディアン部族の掃討を目論んだもの[6] 。シェリダンの有名な暴言「よいインディアンとは、死んだインディアンのこと」はこの時生まれた。
- ビーチャー・アイランドの戦い (1868) 北部シャイアン族の戦争指導者ローマン・ノーズがアメリカ第9騎兵隊の斥候と9日間戦った。
- ウォシタ川の戦い (1868) ジョージ・アームストロング・カスターの第7騎兵隊がウォシタ川沿いのブラック・ケトルの無抵抗のシャイアン族キャンプを奇襲攻撃。250名の男女、子供が殺された。
- サミット・スプリングスの戦い (1869) トール・ブルに率いられたシャイアン族が、ユージーン・A・カー大佐指揮のアメリカ軍に敗北。トール・ブルはバッファロー・ビル・コディに殺されたと伝えられている。
- パロ・デュロ峡谷の戦い (1874) シャイアン族、コマンチ族およびカイオワ族の戦士が、ラナルド・S・マッケンジー指揮する第4騎兵隊と交戦
- モードック戦争またはモードック作戦 (1872–1873) キエントプース酋長(通称キャプテン・ジャック)以下53名のモードック族戦士が溶岩石の荒地に立てこもり、1、000名のアメリカ軍を7ヶ月間手こずらせた。エドワード・キャンビー将軍が和平調停中に殺された。インディアン戦争で殺された唯一の将軍となった。キエントプースは絞首刑となり、家族の懇願も無視されて、その死体は有料の見世物にされた。
- レッドリバー戦争 (1874–1875) ウィリアム・シャーマンおよびフィリップ・シェリダン中将指揮下のアメリカ軍とコマンチ族の戦い
- ブラックヒルズ戦争またはリトルビッグホーン作戦 (1876–1877) シッティング・ブルやクレイジー・ホースたちスー族が、ララミー条約の違反に抗議し、アメリカ軍と戦った
- ローズバッドの戦い (1876) クレイジー・ホースたちスー族が、カスターの第7騎兵隊を支援するために移動中のアメリカ軍と交戦
- リトルビッグホーンの戦い (1876) クレイジ・ーホースたちスー族とシャイアン族、アラパホ族が、カスターの第7騎兵隊を全滅させた。
- ネズ・パース作戦またはネズ・パース戦争 (1877) ジョセフ酋長指揮下のネズ・パース族が1877年、保留地への強制移住を拒んで、第1騎兵隊の攻撃を避けてアイダホ、イエローストーンおよびモンタナを通ってカナダへの逃亡を試みたものを、追跡攻撃したもの。
- バンノック作戦またはバンノック戦争 (1878) 土地の分配に不満を持ったアイダホ州南部のバンノック族およびパイユート族が1878年に、アメリカ第21歩兵連隊、第4砲兵連隊および第1騎兵隊と交戦したもの。
- シャイアン作戦またはシャイアン戦争 (1878–1879) アメリカ武装軍と小規模シャイアン族との戦い
- シープイーター作戦またはシープイーター戦争 (1879年5月-8月) 1879年5月1日、3個中隊がアイダホ州中央部でショショーニー族を追跡襲撃したもの。太平洋岸北西部では最後の作戦
- ユート作戦またはユート戦争 (1879年9月-1880年11月) 1879年9月29日、T・T・ソーンバーグ少佐指揮下の第4歩兵連隊とだ5騎兵隊の一部200名がレッド峡谷で300名ないし400名のユート族戦士に攻撃され包囲された。ソーンバーグ隊は10月早くに第5騎兵隊と第9騎兵連隊に救出されたが、大きな損失を被った。ユート族は1880年11月に和平に応じた。
- パイン・リッジ作戦 (1890年11月-1891年1月) スー族に最終的な保留地受け入れを迫った、最後の大規模戦闘となった。アメリカ正規軍の約半分に相当する歩兵と騎兵を投入した。残ったインディアン戦士は武器を置き、1891年1月に保留地に入った。
- ウンデット・ニーの虐殺 (1890年12月29日) シッティング・ブルの腹違いの兄弟ビッグフットや約200名のスー族が騎兵隊に殺された。14日前に、シッティング・ブルは、アメリカ政府が彼を逮捕するために派遣したインディアン警察の集団と銃撃戦を行い、スタンディング・ロック管理所そばのキャンプで彼の息子クロウフットに殺されていた。
[編集] 最後の戦い (1898年-1917年)
- 1898年10月5日、ミネソタ州リーチ湖でのシュガーポイントの戦い。アメリカ第3歩兵連隊の兵卒オスカー・バーカードにインディアン戦争では最後の名誉のメダルが贈られた。
- 1917年、アリゾナ州ノーゲールズのすぐ西でアメリカ第10騎兵隊とヤクイ族インディアンが交戦
[編集] アメリカ軍
[編集] 斥候
- アパッチ族斥候
- ナバホ族斥候
- ブラック・セミノール斥候
- アメリカ軍インディアン斥候
[編集] 騎兵
- 第1騎兵連隊 - 1834年 1836年 - 1892年
- 第2騎兵連隊 - 1867年および1870年
- 第3騎兵連隊 - 1869年
- 第4騎兵連隊 - 1865年 - 1886年
- 第5騎兵連隊 - 1876年
- 第6騎兵連隊 - 1867年 - 1885年および1890年
- 第7騎兵連隊 - 1871年 - 1890年
- 第8騎兵連隊 - 1867年 - 1869年および1877年
- 第9騎兵連隊 - 1868年および1875年 - 1881年 別名バッファロー兵
- 第10騎兵連隊 - 1867年 - 1868年、1875年、1879年 - 1880年、1885年、1917年 バッファロー兵
- 第113騎兵連隊
[編集] 歩兵
- 第1歩兵連隊 - 1791年、1832年、1839年-1842年、1870年代-1890年代
- 第2歩兵連隊
- 第3歩兵連隊 - 1792年、1856年-1858年、1860年、1887年、1898年
- 第4歩兵連隊 - 1808年、1816年-1836年、1869-1879年
- 第5歩兵連隊 - 1877年
- 第6歩兵連隊 - 1823年-1879年
- 第9歩兵連隊 - 1876年
- 第10歩兵連隊
- 第11歩兵連隊 - 1874年
- 第12歩兵連隊 - 1872年-1873年、1878年、1890-1891年
- 第13歩兵連隊 - 1867年-1871年
- 第14歩兵連隊 - 1876年
- 第15歩兵連隊
- 第16歩兵連隊
- 第18歩兵連隊 - 1866年-1890年
- 第21歩兵連隊
- 第22歩兵連隊 - 1869年、1872年、1876年-1877年
- 第23歩兵連隊 - 1866年、1868年、1876年
- 第24歩兵連隊Regiment
- 第25歩兵連隊(バッファロー兵) 1866年-1890年代
- ミシシッピーライフル狙撃兵隊
[編集] 砲兵
[編集] 歴史学
アメリカの歴史書では、インディアン戦争はアメリカ合衆国の軍事史の比較的小さな部分としてしか取り扱われていない。20世紀の最後の数十年間に、相当数の歴史家がこの戦争に関する著書の中でインディアンの見解を紹介し始め、インディアンとその文化における戦争の影響を強調するようになった。
良く知られ影響力有る著書は1970年のディ・ブラウンの「ウンデッドニーに私の心を埋めて」(Bury My Heart at Wounded Knee)である。学術的歴史では、フランシス・ジェニングスの「アメリカの侵略:インディアン、植民地主義、および征服」(The Invasion of America: Indians, Colonialism, and the Cant of Conquest、ニューヨーク、ノートン、1975年)が、インディアンとヨーロッパ人の関係について伝統的な見方を逆転させていることで著名である。インディアンと兵士について両方の観点から最近重要な著作、ジェローム・A・グリーンの「インディアン戦争の古参兵:軍隊生活の記憶と西部の実行作戦、1864年-1898年」(INDIAN WAR VETERANS: Memories of Army Life and Campaigns in the West, 1864-1898、ニューヨーク、2007年)が出版された。
歴史家の中にはインディアン戦争をインディアンとアメリカ白人との間の民族戦争と見て、闘争の複雑な現実を単純化する者がいる。インディアンと白人はしばしば共闘した。インディアンは他のインディアンと戦うこともあった。例えばホースシュー・ベンドの戦いはクリーク族インディアンに対するアメリカ軍の勝利とされているが、勝者はアンドリュー・ジャクソンに率いられたチェロキー族、クリーク族およびテネシー州民兵の共同軍であった。広い観点から、インディアン戦争はアメリカ合衆国による先住民族の征服戦争であった。これまで、それほど単純化されることがあまり無かった。
またそのような観点から、白人に協力したインディアンを「裏切り者」とみなす解釈も存在する。例えばパイン・リッジ作戦においては多数のポーニー族が正規軍に参加してスー族と戦闘を行っており、現代でもスー族を英雄視する一方でポーニー族が悪役扱いされている(従来の西部劇と違いインディアンへの差別が無いとされる映画「ダンス・ウィズ・ウルブズ」においても、この見方が踏襲されている)。しかしインディアンを全て同族と見なすのは白人の側の勝手な解釈であり、ポーニー族にとってみれば白人もスー族も異民族である。当時のポーニー族はスー族に圧迫されており、そのため白人と手を結んだのである。
[編集] 脚注
- ^ Michno, “Encyclopedia of Indian Wars” Index.
- ^ Thornton, American Indian Holocaust, 48?49.
- ^ Raphael, People's History, 244.
- ^ Remini, Jackson and his Indian Wars, 113.
- ^ Carley, Kenneth (1961). The Sioux Uprising of 1862. Minnesota Historical Society, p. 65. “Most of the thirty-nine were baptized, including Tatemima (or Round Wind), who was reprieved at the last minute.”
- ^ "Named Campaigns — Indian Wars."
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- "Named Campaigns — Indian Wars". United States Army Center for Military History. 2008-06-01 閲覧。
- Raphael, Ray. A People's History of the American Revolution: How Common People Shaped the Fight for Independence. New York: The New Press, 2001. ISBN 0-06-000440-1.
- Remini, Robert V. Andrew Jackson and his Indian Wars. New York: Viking, 2001. ISBN 0-670-91025-2.
- Richter, Daniel K. Facing East from Indian Country: A Native History of Early America. Cambridge, Massachusetts: Harvard University Press, 2001. ISBN 0-674-00638-0.
- Thornton, Russell. American Indian Holocaust and Survival: A Population History Since 1492. Oklahoma City: University of Oklahoma Press, 1987. ISBN 0-8061-2220-X.
- Utley, Robert M., and Wilcomb E. Washburn. 'Indian Wars. Boston: Houghton Mifflin, 1977, revised 1987. ISBN 0-8281-0202-3.
- Yenne, Bill. Indian Wars: The Campaign for the American West. Yardley, PA: Westholme, 2005. ISBN 1-59416-016-3.
- Jerome A. Greene, Indian War Veterans: Memories of Army Life and Campaigns in the West, 1864-1898 (Savas Beatie, New York, 2007).
- Kip, Lawrence (1859). Army life on the Pacific : a journal of the expedition against the northern Indians, the tribes of the Cour d'Alenes, Spokans, and Pelouzes, in the summer of 1858. Redfield. Available online through the Washington State Library's Classics in Washington History collection
- John D. McDermott, A Guide to the Indian Wars of the West (University of Nebraska Press, 1998) ISBN 0-8032-8246-X
[編集] 外部リンク
- Indian Wars and Pioneers of Texas by John Henry Brown, published 1880, hosted by the Portal to Texas History.
- Increase Mather, A Brief History of the War with the Indians in New-England (1676) Online Editionmwl:Guerras andígenas ne ls Stados Ounidos de la América
最終更新 2009年10月23日 (金) 00:28 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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