ウァレンティニアヌス1世

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ウァレンティニアヌス1世のコイン

ウァレンティニアヌス1世Valentinianus I, 321年 - 375年11月17日)は、ローマ帝国皇帝(在位:364年 - 375年)。

[編集] 生涯

パンノニアのキバリス(現在のヴィンコヴツィ)に将軍の息子として生まれる。皇帝ユリアヌスヨウィアヌスに仕える軍人となった。ヨウィアヌスの死後、364年2月26日ニカイアで軍人たちにより43歳で皇帝に選ばれた。そのすぐ後に彼の弟ウァレンスが共同皇帝に選ばれた。

2人の兄弟は、ナイシスで帝国の配分を決めた。ウァレンティニアヌスは西ローマ皇帝としてイタリア、イリュリクムヒスパニアガリアブリタンニアアフリカを取り、ウァレンスには東ローマ皇帝としてバルカン半島の東半分、ギリシア、エジプト、シリア、小アジア、ペルシアまでを与えた。彼らはすぐにプロコピウスの反乱にあったが、366年にウァレンスはリディアでその軍勢を倒し、プロコピウスを処刑した。

その短い治世の間に、ローマはアフリカ、ゲルマニア、ブリタニアでそれまで遭遇したことのない蛮族との紛争に会うこととなった。特にブルグント族サクソン人である。

ウァレンティニアヌスのおもな仕事は、国境を守り軍を整えることであった。ミラノに最初の司令部を置き、パリランスでアレマンニ人(en)と戦うために指揮を執った。367年にアレマンニ人がマインツを攻撃して略奪したが、ウァレンティニアヌスは大軍をもって彼らを殲滅した。374年、アレマンニ人の王マクリアヌスと和平を結び、その後トリーアに司令部を置いてライン川の防御を固め、いくつもの砦の建設を監督した。

また、ガリアの海岸がサクソン人の海賊に襲われ、ブリタンニアではサクソン人がピクト人・スコット人と手を結んでアントニヌスの長城からケントまでを荒らした。派遣されたテオドシウス(テオドシウス1世の父)は侵略者を完全に撃退し、皇帝にちなんでウァレンティアと呼ばれる新しい属州を置いた。

アフリカではフィルムスが反乱を起こし、ローマの支配に虐げられていた人々が参加した。テオドシウスが再び呼び出され、少数の部隊とともにアフリカに渡ったが、フィルムスは収監を恐れて自殺した。

374年、ゲルマン人のクァディ族(現在のモラヴィアスロバキアにいた)は、ドナウ川北にローマの砦が築かれたことや、自分たちの王が殺されたことに憤激し、川を渡って侵攻してきた。375年4月、ウァレンティニアヌスは大軍とともにイリュリクムに入った。現在のコマーロムの近くでクァディ族の使者と会見を持ったが、怒りのあまり叫んだときに脳卒中を起こした。これが原因となって同年11月17日に死去した。

[編集] 評価

ウァレンティニアヌスはキリスト教徒だったが、国民すべてに信仰の自由を与え、生贄や魔術などを禁止しただけであった。市民・聖職者両方の奢侈に断固反対し、教会の蓄財や世俗化にも反対した。かんしゃく持ちなのが欠点で、魔術の罪(ときには占いや手品でも)で訴えられた者を罰するときに見せる怒りはすさまじいものであった。


最終更新 2009年10月14日 (水) 06:47 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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