ウクライナ

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ウクライナ
Україна
ウクライナの国旗 ウクライナの国章
国旗 国章
国の標語: Воля, злагода, добро
(ウクライナ語: 自由、調和、善良)
国歌: ウクライナは滅びず
ウクライナの位置
公用語 ウクライナ語
首都 キエフ(キーウ)
最大の都市 キエフ
政府
大統領 ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ
首相 ミコラ・アザロフ
面積
総計 603,500km245位
水面積率 7%
人口
総計(2008年 45,708,000人(27位
人口密度 79人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 9,505億[1]フリヴニャ
GDPMER
合計(2008年 1,797億[1]ドル(52位
GDPPPP
合計(2008年 3,368億[1]ドル(30位
1人あたり 7,347[1]ドル
独立
 - 日付
ソビエト連邦より
1991年8月24日
通貨 フリヴニャUAH
時間帯 UTC +2(DST: +3)
ISO 3166-1 UA / UKR
ccTLD .ua
国際電話番号 380

ウクライナウクライナ語Україна[ukrɑˈjinɑ])は、東ヨーロッパ。東にロシア連邦、西にハンガリーポーランドスロバキアルーマニアモルドバ、北にベラルーシ、南に黒海を挟みトルコが位置している。

歴史的・文化的には中央東ヨーロッパの国々との関係も深い。キエフ大公国13世紀モンゴル帝国に滅ぼされた後は独自の国家を持たず、諸侯はリトアニア大公国ポーランド王国に属していた。17世紀から18世紀の間にはウクライナ・コサック国家が興亡し、その後ロシア帝国の支配下に入った。第一次世界大戦後に独立を宣言するも、ロシア内戦赤軍が制したことで、ソビエト連邦内の構成国となった。1991年ソ連崩壊に伴い独立した。

16世紀以来「ヨーロッパの穀倉」地帯として知られ、19世紀以後産業の中心地帯として大きく発展している。天然資源に恵まれ、鉄鉱石石炭など資源立地指向の鉄鋼業を中心として重化学工業が発達している。ソ連時代にチェルノブイリ原子力発電所事故が起きたが、現代でも原子力発電は盛んである。

目次

[編集] 国名

ウクライナの最高法規たるウクライナ憲法によると、当国の正式国号は「Україна」([ukrɑˈjinɑ])である[2]。日本語の表記は「ウクライナ」となっている[3]。稀に「ユクライナ」と書かれることもある。漢字表記をする場合は「宇克蘭」[4]、または「烏克蘭」[5]。公式の英語表記は「Ukraine」(ユークレイン)である。

「ウクライナ」というスラヴ語の地名の初出は、「ウクライナ」(Ѹкраина[6]という形で原初年代記イパチー写本のキエフ年代記、1187年の条である[7]。この地名は、キエフ公国チェルニーヒウ公国と並んでルーシ大公国の歴史的中枢地に含まれるペレヤースラウ公国の範囲を示している。また、この地名は他のルーシ年代記に1189年の条[8]1213年の条[9]1280年の条[10]にも「ウクライナ」あるいは「ヴクライナ」(Вкраина)という形で登場し、ガリツィア地方、ヴォルィーニ地方、ポリーシャ地方を指す用語として用いられている。

13世紀にルーシ大公国が滅び、その中部・南部の地域がリトアニア大公国ポーランド王国に併合されると、「ウクライナ」は併合地の領域を表す地名としてリトアニア・ポーランドの年代記や公式文書などに使用されるようになる。14世紀から17世紀にかけて広義の「ウクライナ」はルーシ人が居住するガリツィア地方、ヴォルィーニ地方、ポジーリャ地方、ブラーツラウ地方とキエフ地方の範囲を示し、狭義の「ウクライナ」はキエフを中心としたドニプロ川の中流域を示している[11]

「ウクライナ」の地名の両義性は、ウクライナ・コサックヘーチマン国家が誕生する17世紀半ば以後にも東欧の古文書にもみられる。狭義の「ウクライナ」は当国家の支配圏を指しているが、広義の「ウクライナ」は当国家の支配圏外のルーシ人の居住地を意味している[12]。しかし、ヘーチマン国家がロシア保護国になることにより、「ウクライナ」はドニプロ川の中流域だけを意味するようになり、17世紀以降はルーシの本土を意味する小ルーシという地名の同義語となった。

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ルーシ系の知識人による民族運動が発展していくに連れて、「ウクライナ」はルーシ人が居住する民族領域を意味する名称となり、「ルーシ人」は「ウクライナ人」という民族名に取って代わられた[13]1917年に成立したウクライナ人民共和国において初めて、「ウクライナ」という名称が正式な国号の中で用いられることとなる。

[編集] 語源

V・コロネリによる東欧地図 (1690年). キエフを中心とした地域は「VKRAINE ou PAYS DES COSAQUES」(ウクライナ或いはコサックの国)と記されてある。隣の「OKRAINA」(辺境)はロシア南部の国境地帯を指す。

「ウクライナ」の語源については、「国」といった意味であるという説と、「辺境」といった意味であるという説がある。前者は「内地」を意味する中世ルーシ語の「ウクライナ」(ѹкраина)・「ヴクライナ」(вкраина)という単語に基づいており、後者は「僻地」を意味する近世のポーランド語の「オクライナ」(Okrajna)やロシア語の「オクライナ」(окраина)という単語に基づいている[14]

「ウクライナ」/「ヴクライナ」に関連する単語の中で、もっとも基本的で、現在でも使用されている一音節の「クラーイ」(край)という単語には「地域」・「隅」・「境」・「端」などの複数の意味がある[15]。これから派生したウクライナ語の「クライーナ」(країна)という名詞は「国」を意味する[16]。ウクライナ語では「ウ~」(у[17]と「ヴ~」(в[18]は「内~」・「~の中で」を意味する前置格を支配する前置詞であることから、「ウクライナ」や「ヴクライナ」は「境界の内側」・「内地」を意味する。一方、ロシア語では「クラーイ」から派生した「オクライナ」(окраина)という単語が「場末」・「辺境」・「はずれ」という意味をもっている。ロシア語では「オ~」(о[19]と「ウ~」(у[20]は「~の側に」・「~の端に」を意味する前置詞であるために、ロシア語話者は「ウクライナ」を「辺境地」と解釈しがちである。

[編集] 地理

ウクライナの国土のほとんどは、肥沃な平原、ステップ(草原)、高原で占められている。ドニエプル川ドネツ川ドニエステル川が横切っており、南のブーフ川とともに、黒海アゾフ海に注ぎ込んでいる。

南西部にあるドナウ川デルタ地帯ルーマニアとの国境になっている。

山岳地帯は、ウクライナの最南端のクリミア山脈と西部のカルパティア山脈にしかない。最高峰はカルパト山脈にあるホヴェールラ山(Говерла, Hoverla)で標高2,061メートルある。なお、これ以外の地域も平坦というわけではなく、東ヨーロッパの中では比較的起伏の多い地形をしている。

気候は温暖な大陸性気候であるが、クリミア半島の南岸は地中海性気候により近い。降雨量は局所的に偏っており、北部や西部は多く、南部や東部は少ない。冬は黒海沿岸は涼しいが、内陸に行くにしたがって寒くなる。夏はほとんどの地域で暖かいが、当然南に行くほど暑い。

ニージン
プルィルークィ
ノヴォフラード
コーロステニ
ベルディーチウ
スミーラ
ルブヌィー
ドロホーブィチ
ストルィーイ
カールシュ
コロムィーヤ
ムカーチェヴェ
ペルヴォマイシク
イェウパトーリヤ
ジャンコイ
メリトーポリ
ロームヌィ
コノトプ
ショーストカ
ロゾヴァ
イジューム
スロウヤーンシク
クラマトールシク
イェナーキイェヴェ
ホールリウカ
スタロビーリシク
アルチェーウシク
スタハーノウ

[編集] 歴史

[編集] 古代

スキタイ人の貴族の首飾り(紀元前4世紀、南ウクライナ)

紀元前10世紀頃より現在のウクライナの地にはさまざまな遊牧民族が到来した。紀元前8世紀頃、黒海北岸に至った騎馬民族スキタイ人は、紀元前6世紀キンメル人を追い払って自らの国家を立て、紀元前4世紀にかけて繁栄した。黒海沿岸にはギリシャの植民都市が建設され、地中海メソポタミア方面との交易を通じてペルシャギリシャローマの文化的影響を受けた。紀元前3世紀頃、中央アジアより来たサルマティア人の圧力を受けてスキタイは衰退した。2世紀頃に東ゴート族が侵入し、3世紀中頃クリミア半島に存続していたスキタイ人の国家を滅ぼした。これらの民族は交易や植民を盛んに行い、彼らが建設した多くの交易拠点は後に都市国家へと発展した。4世紀から5世紀にかけて民族大移動の発端となるフン族がこの地を通り抜けた。6世紀にはアヴァール族が侵入し、同じ頃移住してきたと考えられている東スラヴ人を支配した。スラヴ民族はウクライナ中央部と東部に居住し、キエフの建設と発展に重要な役割を担った。7世紀から8世紀にかけてはハザール可汗国の支配下にあった。

[編集] 中世

9世紀頃、首都をキエフとする国家、キエフ大公国(ルーシ)が誕生した。『ルーシ年代記』によると、北欧からやって来たルーシ族ヴァリャーグと呼ばれる)たちをに据えることによって建国されたと記されている。一方で現代の歴史学研究によれば、ルーシ族はあくまで侵入者であり、それまであった現地の公朝を征服することでウクライナの地に国家を建設した、という見方も有力になっている[要出典]。ルーシ族は、もともとこの地の住民であったスラブ人と混血し、次第に同化した。ウクライナ史上で初めての広域な集権的大公朝であるリューリク朝が繁栄した。

988年ヴォロディーメル聖公ギリシアからキリスト教を受け入れ、教会スラブ語での典礼が行われ、ギリシャ・ローマに次ぐ第3のキリスト教圏を確立した。キエフではキエフ大公とキエフ府主教が近隣の諸公国を支配下に置き、10世紀および11世紀を通じて、キエフ・ルーシはヨーロッパにおける大国の1つとなった。

しかしながら、ヤロスラフ賢公亡き後12世紀以降、内部抗争と欽察人の絶え間ない攻撃により、キエフ大公国は弱体化した。さらに、1240年にはモンゴル帝国の侵略を受け、キエフをはじめとするほとんどの都市は壊滅し、キエフ大公による支配体制は滅亡した。さらに、キエフ公国を初めとする南西ルーシの公国はモンゴルの金帳汗国に隷属した。

キエフ大公国時代の伝統と文化、そしてキエフ大公の称号を受け継いだのはキエフの西部にあったハールィチ・ヴォルィーニ大公国であった。その大公国はポーランド王国ハンガリー王国ドイツ騎士団などと手を結び、金帳汗国と戦いつづけた。1253年に大公国の君主であるダヌィーロ一世ローマ教皇からを受け、ルーシ初のとなった。さらに14世紀にはハールィチに小ロシア府主教座が設置され、ウクライナの地において正教会の筆頭として復活した。しかし、1340年にハールィチ・ヴォルィーニは王位継承の問題によって内乱に落ち、1349年ハールィチ・ヴォルィーニ戦争で亡国し、1392年リトアニア大公国ポーランド王国によって分割された。キエフ、チェルニーヒウヴォルィーニを支配したリトアニア大公国はルーシ語を公用語とし、正教を国教にするなど、ルーシ人に対して緩和政策をとって次第にルーシ化したが、ハールィチポジーリャを得たポーランド王国は新たな領土のポーランド化を進めた。

[編集] 近世

民話的な存在コサック・ママーイ。ウクライナのコサックのシンボル、「ウクライナの守護神」とも言われる。コサックは西洋人のキリスト教徒であったが、東洋の戦術・文化を受容していた。

1569年にリトアニア大公国とポーランド王国はポーランド・リトアニア共和国を発足させた。それによって、両国の支配下におかれたウクライナの領土はポーランド王国に属するようになった。その領土はルーシ県、ポジーリャ県、ヴォルィーニ県、ブラーツラウ県、ベールズ県、キエフ県という地方自治体に整理された。各県では下位の自治体ごとに小議会が開催され、共和国の貴族の全てが参政権を持っていた。国政ではセイミクで選出された複数の代表が定期的に首都ワルシャワに出て国会の常設議会の代議員として働いた。有力貴族は中央政界の元老院の議員となった。また共和国の君主の選挙に際してはウクライナの各県のシュラフタを含む共和国全土のシュラフタの一人ひとりが直接選挙である国王選挙に参加する権利を平等に持っていた[21]。そこには民族や宗教の違いや財産の多寡による差別はなかったもの[21]の、政界においては裕福なシュラフタが裕福でないシュラフタを買収することがあった。共和国が衰退を開始した17世紀半ばに入ると同国の民主主義の制度的欠陥であるリベルム・ヴェト(任意拒否権)を回避するための根回しが重要となり、シュラフタの間でお金のやりとりで解決するいわゆる金権政治の傾向がより顕著になっていく。ウクライナのシュラフタのうち裕福な者の大半はポーランド文化に積極的[要出典]

こうしてウクライナのシュラフタはポーランド化した者とそうでない者に二分していったのである。裕福なシュラフタは他のシュラフタを自らの家人として雇うようになり、シュラフタは平等であったものの、そこに経済の原理による慣習的な上下関係が発生していった。17世紀半ばになり新大陸からの安価な輸入穀物にヨーロッパの市場を奪われて共和国の経済が不振となる[要出典]、裕福でないシュラフタは経済的に困窮して土地を手放すことで裕福なシュラフタに雇用される家人となっていった[22]

[編集] コサック時代

コサックのウクライナを背景にしたフメリヌィツィキー将軍(18世紀初頭)。右上の隅にコサック国家の国章「銃士」と、足元にコサック国家の簡単な地図が描かれている。

15世紀後半に、リトアニアロシアクリミアが接する地域、「荒野」と呼ばれるウクライナの草原において、コサックという武人の共同体が成立した。16世紀にコサックは、ザポロージャシーチという要塞を築き、それを根拠地とし、共同体を「サポロージャ・コサック軍」と称した[23]。16世紀から17世紀前半にかけてのコサックは、ポーランド・リトアニアの国王の臣下であったが、国王の支配が及ばない地域に住み、軍人の特権と自治制を有した。コサックは、ポーランド・リトアニアの援軍として働き、リヴォニア戦争1558年1583年)、ロシア・ポーランド戦争 (1605年1618年)、トルコ・ポーランド戦争 (1620年1621年)、スモレンスク戦争1632年1634年)などに参加した。それと同時に、彼らは独断で隣国のモルドヴァクリミアロシアなどへ遠征したり、水軍としてオスマン帝国が支配する黒海沿岸部を攻撃したりした。さらに。コサックの一部は傭兵として全ヨーロッパで活躍したこともあり、三十年戦争カトリック側のために戦った。軍人でありながら、貴族権を持たないコサックは、貴族の国家であるポーランド・リトアニアにおいて社会・宗教・民族的迫害を受け、しばしば反乱を起こした。その反乱の中で最も大きかったのは、コスィーンシキーの乱1591年1593年)、ナルィヴァーイコの乱1594年1596年)、ジュマイロの乱(1625年)、フェドロヴィチの乱(1630年)、スリーマの乱(1635年)、パウリュークの乱(1637年)とオストリャニンの乱(1638年)であった[24][25]

1648年に、ボフダン・フメリヌィツィキー将軍が率いるコサック軍は、ポーランド・リトアニアにおいて大きな反乱を起した。反乱は次第にポーランドからウクライナの独立戦争に変容し、ウクライナの中部にコサック国家が誕生した[26][24]1654年に、ポーランドと戦い続けるために、コサックのウクライナはロシアのツァーリの保護を受けたが、1656年にロシア人がポーランド人と単独和議を結んだため、スウェーデントランシルヴァニアと同盟を締結した[27]1657年に、コサックの将軍にイヴァン・ヴィホウシキーが選ばれると、ウクライナ国内で反頭領の反乱が勃発してウクライナ・ロシア戦争へ展開した。ヴィホウシキーは、1659年コノトプで勝利を収めたが、ポーランドとの連合条約を結んだためにコサック長老の支持を失った[24]。荒廃時代とよばれるウクライナ内戦が始まり、その結果、コサック国家がドニプロ川を軸にして右岸ウクライナ左岸ウクライナザポロージャという地域に分かれた。右岸ウクライナのコサックはポーランド・リトアニアの支配下に置かれ、左岸ウクライナとザポロージャはロシアの保護下に置かれた。1667年にこのような分割はアンドルソヴォ条約によって公認された。1672年に新たな将軍ペトロ・ドロシェンコは、オスマン帝国の援助を受けてウクライナの統一を実しようとしたが、1676年にオスマン帝国に裏切られて失敗した[28]1689年にロシアとポーランド・リトアニアは最終的にウクライナを分割した。17世紀後半にポーランド人は右岸ウクライナにおいてコサックの自治制を廃止したが、ロシア人は左岸ウクライナにおいてコサック国家を保護国として存続させた。1709年に、大北方戦争の際、イヴァン・マゼーパ将軍が引率したコサックはスウェーデンと同盟を結び、ロシアの支配から離脱しようとはかったが、ポルタヴァの戦いに惨敗した[29]。マゼーパの蜂起はロシアに口実を与え、ロシア政府はウクライナにおけるコサックの自治制を廃止する政策に乗り出した。1754年にロシアはロシア・ウクライナの関税国境を廃止し、1764年にコサック将軍の位を廃止した。廃位させられた最後の将軍キリロ・ロズモウシキーはロシアの元帥に任じられた。1775年にロシア軍はザポロージャのシーチを破壊し、1781年にウクライナにおけるコサック自治制は廃止された。1783年に、ロシア国内にならってウクライナで農奴制が敷かれた[24][30]

[編集] 近代 

『エネイーダ』の表紙。コサック軍を率いるエネーイ棟梁。

18世紀から19世紀にかけて、ロシア帝国オーストリア帝国によるウクライナの抑圧政策と全ヨーロッパで流行したロマン主義民族主義の高まりにより、ウクライナ人の民族運動も盛んになった。1798年に、イヴァン・コトリャレーウシキーによるコサック国家の再建を謳う叙事詩エネイーダ』が出版された。この作品は、現代ウクライナ語の口語で書かれた初めての作品であった一方、ウクライナの民族的レネサンスの序幕でもあった[31]1806年にハルキウ大学が設立されると、ウクライナの知識人によるウクライナの歴史・文化・民俗に関する研究が活発的に行われるようになった[32]1825年頃、近世のコサック軍記の編集物として『ルーシ人の歴史』が著され、ウクライナの文化人、歴史学者、作家などに大きな影響を与えた[33]ウクライナ語の完成が急がれたのもこの時期で、ロシア語正書法、ポーランド語正書法、そして独自の正書法などさまざまなものが生み出されたが、最終的にはタラス・シェウチェンコのまとめたウクライナ語文法が現代ウクライナ語の基礎となった[34]

ロシア帝国は常にウクライナにおけるロシア化政策を実行しており、なお、ウクライナ語は当時はロシア語の一方言「小ロシア語」として扱われ、独自の言語としては公認されていなかった。1863年に文学作品を除きウクライナ語の書物の出版・流通を禁止するヴァルーエフ指令が出され、1873年にウクライナ語の書物の出版・流通・輸入を禁止するエムス法が定められた[35]

[編集] 現代

[編集] ウクライナ独立戦争

ウクライナの反露ポスター。「他国のものは要らないが、自国のものは渡さぬ!」。ロシアの双頭の鷲から子供を守っているウクライナ人の婦人。

1917年2月革命によりロシア帝政が崩壊し、ペトログラドロシア臨時政府が成立した。それに伴い、同年3月14日にキエフでウクライナ政府としてフルシェーウシキー教授が指導するウクライナ中央議会は成立した。10月革命によってロシアの臨時政府が倒され、共産党ソビエト政権が誕生すると、11月7日に中央議会はキエフを首都とするウクライナ人民共和国の樹立を宣言したが、ウクライナ・ソビエト戦争が勃発した後、1918年1月9日にウクライナ人民共和国の独立を宣言した[36]。同年2月8日にロシアの赤軍はキエフを占領したが、2月9日にブレストでウクライナ・ドイツオーストリアの同盟が完結し、中央議会は同盟国の軍事力を借りてウクライナを解放し、3月に首都を奪い返した[37]4月29日にウクライナの保守階級によるクーデターの結果、中央議会に代わってスコロパードシキー大将の政権が成立した。国号はウクライナ国に改められ、元首はヘーチマンとなった。当国は安定した発展を見せたが、ドイツの連合国への降伏により自体は一転し、1918年12月19日にスコロパードシキー政権が倒され、新たな執政内閣の政権が成立した[38]。国号は再びウクライナ人民共和国となった。しかし、ドイツ軍の撤退によりウクライナ・ソビエト戦争が再開した。1919年1月6日にソビエトのロシアは傀儡政権として首都をハルキウとするウクライナ社会主義ソビエト共和国を樹立した。同年2月5日にソビエト軍はキエフを占領し、ウクライナ人民共和国の政府を亡命させた。1919年から1920年にかけてウクライナの支配を巡って、ウクライナ人民共和国軍、ソビエトの赤軍、ロシア帝政派の白軍、白軍を支援するフランス軍イギリス軍ポーランド軍ネストル・マフノ率いる無政府主義者の黒軍、ウクライナのゲリラを中心とする緑軍などが争った。1920年冬に戦争がソビエトの赤軍の勝利で終結し、ウクライナ社会主義ソビエト共和国は西ウクライナを除きウクライナ全域を確保した[39]

一方、オーストリア・ハンガリー帝国の解体に伴い、1918年10月19日に西ウクライナのガリツィアブコビナ地方に住んでいたウクライナ人リヴィウを首都とする西ウクライナ人民共和国の独立を宣言した。しかし、11月1日にポーランドが当共和国へ侵入し、ウクライナ・ポーランド戦争が始まった。ポーランド側はフランスイギリスルーマニアハンガリーなどによって後援されたが、西ウクライナ側は国際的に孤立していた。1919年1月22日に西ウクライナはウクライナ人民共和国に援助を求めて、キエフでウクライナ人民共和国と合同したが、ウクライナ人民共和国の政府はソビエトの赤軍と戦ったので、援軍を派遣することができなかった。こうした中で、右岸ウクライナの併合を目論むポーランドが7月18日に西ウクライナ全地域を占領し、西ウクライナ人民共和国は滅亡した。その後、1920年4月に西ウクライナを巡ってポーランド・ソビエト戦争が勃発したが、1921年3月18日リガ条約によって西ウクライナのポーランド支配が確定した[40]

[編集] 社会主義時代

キエフのホロドモールの慰霊碑。ウクライナ人は、1917年から1922年にかけて共産主義のロシアに対して強く抵抗したので、ソ連の政権が「ウクライナ人の問題」を解決するために、ウクライナ人が住む地域において人工的な大飢饉を促した。1933年に「ヨーロッパの穀倉」といわれたウクライナでは数百万人が餓死した。

1922年12月30日ウクライナ社会主義共和国は、ロシアベラルーシザカフカスと共に同盟条約によってソビエト連邦を結成した[41]。諸共和国は平等の立場で新しい国家連合を形成したが、その国家連合はソ連憲法制定によってロシアを中心とする中央集権的なシステムに変遷し、その他の独立共和国はロシアの自治共和国となった[42]

1923年から1933年にかけて、ウクライナでのソビエト政権を磐石なものにするために、ソ連政府・共産党はウクライナ化政策を実行した。ウクライナ語教育の普及や政府諸機関へのウクライナ人の採用などにより、政権とウクライナ人の間に存在した敵意をなくそうという試みであった[43]。しかし、1930年以降、党内からこの政策を厳しく批判する声が上がり、1933年にウクライナ化は「ウクライナ民族主義的偏向」として中止された。ウクライナ化を指導した政治家、知識人、文化人は逮捕・粛清され、ロシア化の時代が再開した[44]

ソビエト連邦下のウクライナは拙速な農業の集団化政策などにより2度の大飢饉(1921年 - 1922年1932年 - 1933年、後者はホロドモールとよばれ2006年にウクライナ政府によってウクライナ人に対するジェノサイドと認定された。アメリカ・カナダ・イタリアなどの欧米諸国では正式にジェノサイドであると認定されている[45]が、国際連合欧州議会では人道に対する罪として認定している)に見舞われ、推定で、400万から1000万人が亡くなった。この「拙速な集団化政策」は意図してなされたものであるという説も有力である。

この背景には、レーニンスターリンらによる農民への敵視政策があった。共産党政府のとった土地の共有化を農民は拒むため、多くの住民が農民であったウクライナの統治は共産党政府にとって大きな障壁となっていた。そのため、一説によるとレーニン、スターリンらにとってはウクライナの農民の根絶が理想であったともされている。スターリンは、農民問題の解決は至急の課題であると明言している。また、この時期に前後し、ウクライナでは農民、即ちウクライナ人への懐柔政策と弾圧政策が交互にとられ、結果ウクライナ共産党幹部全員をはじめ多くの人間が粛清された。最終的には、ウクライナ語使用の制限など弾圧政策が長く採られることになった[46]

大粛清はウクライナから始められ、1937年には首相のパナース・リューブチェンコが自殺した。この年、ウクライナ社会主義ソビエト共和国は国号をウクライナ・ソビエト社会主義共和国へと変更した。

一方、西ウクライナはポーランドルーマニアチェコスロバキアによって分割された。1921年から1939年にかけてポーランドはヴォルィーニハルィチナー地方、ルーマニアはブコビナ地方、チェコスロバキアはザカルパッチャを支配した。

第二次世界大戦が始まった1939年、ソ連はポーランドに侵攻し、占領した西ウクライナをウクライナに組み入れた。その中で一時カルパト・ウクライナの独立が宣言されたが、ドイツは同盟国であるハンガリーへその領土を組み込んだ。1941年以降の独ソ戦で赤軍が敗走を続ける中、キエフ包囲戦において、66万人以上のソ連軍兵士が捕虜となった。

1941年のドイツ国とソ連の開戦は、スターリンの恐怖政治におびえていたウクライナ人にとって、一時的に解放への期待が高まることになった。ドイツ軍は当初「解放者」として歓迎された面もあり、ウクライナ人の警察部隊が結成された。独ソ戦では、ウクライナも激戦地となり、500万以上の死者を出した(ソ連の内務人民委員部(NKVD)はウクライナから退却する際に再び大量殺戮を行っている)。

しかし、彼らの目的であるウクライナの政治的・文化的独立は、ソ連のみならずドイツ側からも弾圧された。かねてより独立活動を行ってきたウクライナ民族主義者組織 (OUN) が1941年6月にウクライナ独立国の独立を宣言した際には、ドイツは武力でこれを押さえ込もうとした。ドイツは、「帝国コミッサリアート」を設置しナチス親衛隊が直接統治を行うこととした。

ウクライナ人は「劣等人種」とみなされ数百万の人々が、「東方労働者」としてドイツへ送られて強制労働に従事させられた。またウクライナに住むユダヤ人はすべて絶滅の対象になった。ドイツの占領などによる大戦中の死者の総数は、虐殺されたユダヤ人50万人を含む700万人と推定されている。なお、ユダヤ人虐殺に関しては現地の住民の協力があったことが知られている。人だけでなく、穀物や木材などの物的資源も略奪され、ウクライナは荒廃した。このドイツ軍の暴虐にウクライナ人農民は各地で抵抗し、やがて1942年10月、ウクライナ蜂起軍(UPA)が結成されるに至る。おもに西ウクライナにおいて、テロ活動などでドイツ軍と戦った。UPAが活動を活発化させればさせるほど、ドイツ軍もウクライナ人迫害の手を強めた。

一方でドイツ軍は、1943年春にスターリングラード攻防戦で決定的な大敗北を喫すると、自らの軍隊に「東方人」を編入させようとして、武装親衛隊(SS)にウクライナ人部隊「ガリツィエン」を創設した(この時期、武装親衛隊SS)はウクライナ人だけでなく、多数の外国人を採用している)。ウクライナ人たちも、ドイツ支配下のウクライナの待遇が改善されること(自治・独立)を希望し、約8万人のウクライナ人が応募、そのうち1万3千人が採用された。1917年~1921年の独立革命の挫折の経験から、ウクライナ人は自分たちに、よく訓練された正規の軍隊が不足しているということを痛感していたのである。彼等はまさに「ウクライナ人」として、スターリンのソ連軍と戦う機会を与えられることになった(その一方でユダヤ人虐殺にも荷担した)。「ガリツィエン」部隊以外にも、多くのウクライナ人が「元ソ連軍捕虜」としてドイツ軍に参加している。しかしそれらを圧倒的に上回る数のウクライナ人が「ソ連兵」としてナチス・ドイツと戦い、死んでいった。当時のソ連軍兵士1100万人のうち、4分の1にあたる270万人がウクライナ人であった。

やがて、ドイツが敗走して再びソ連軍がやってくると、ウクライナ蜂起軍(UPA)は破滅的な運命をたどる。彼等は今度はソ連軍に対するテロ活動を開始し、それだけでなくガリツィア地方のポーランド人、ユダヤ人の大量虐殺を行った。家は次々に焼き討ちにし、ときには虐殺に反対した同朋のウクライナ人をもいっしょに殺害した。このようなUPAのテロ活動は1950年代まで続いた。戦後、ソ連はポーランドやチェコスロヴァキアと共同軍事行動をUPAにたいして起こし、ポーランドでは国内のウクライナ人を強制退去させる「ヴィスワ作戦」が行われた。戦後まもなくの東欧は、新しく引きなおされた国境線にしたがって大量の人々が無理やり移住させられる時期だった。ウクライナでも、ポーランドなどから追い出されたウクライナ人が大量に国内へ流入する一方で、多くの国内のポーランド人、ユダヤ人は国外へ強制退去させられ、国内からほとんど姿を消してしまったのだった。

ウクライナは第二次大戦において最も激しい戦場になったとされ、その傷跡は今日にまで各地に残されている。ドイツ空軍機による破壊は文化財にもおよび、多くの歴史的建造物が失われた。ソ連政府は、ウクライナ人への懐柔策として「南方戦線」と呼ばれていたこの地域の戦線を「ウクライナ戦線」と命名し、ウクライナ人を前線へ投入した。

廃止されたチェルノブイリ原子力発電所。ソ連ではV・I・レーニン共産主義記念チェルノブイリ原子力発電所と呼ばれていた。

第二次世界大戦後、ウクライナ社会主義共和国の国境は旧ポーランド領であったハリチナー地方などを併合して西に拡大し、ほとんどのウクライナ人が単一国家の下に統合された。ソビエト連邦内では、ロシアに次いで2番目に重要な共和国となり、「ソ連の穀倉」といわれた。

白ロシア共和国(現ベラルーシ)と共にソ連とは別に国際連合加盟国として国連総会に議席を持った。1948年から2年間と1984年から2年間は非常任理事国も務めている。しかし現実は、ウクライナは相変わらず「ソ連の一部」止まりであり、「ロシア化」が進められた。1956年ハンガリー動乱1967年プラハの春のさいは、ウクライナで威嚇の為の大軍事演習が行われたり、ウクライナを経由して東欧の衛星国へ戦車が出撃している。1953年のスターリンの死後に、大粛清の犠牲になった多くのウクライナ人の名誉回復がなされ、また徐々にウクライナ文化の再興が水面下で活発化した。1960年代には体制に批判的な、または「ウクライナ的な」文学も登場した。ニキータ・フルシチョフの「脱スターリン主義」の時代には、ウクライナ・ソヴィエト政府もこのような動きを少なからず容認した。しかしレオニード・ブレジネフの「停滞の時代」になると、1972年にウクライナ人知識階級が大量に逮捕されるという事件が起こる。1976年には人権擁護団体「ウクライナ・ヘルシンキ・グループ」が結成されるが、それも弾圧された。

1954年、フルシチョフにより、クリミア半島(クリム半島)がロシアからウクライナに移管された。これは、ポーランド・リトアニア共和国に対抗するためにロシアとウクライナ・コサックの間で結ばれたペレヤスラフ条約締結300周年記念を祝うためであった。

ソ連支配下のウクライナにおいて大部分のウクライナ農民は、1970年代まで国家の社会保障を受けることも出来ないでいた。収穫の大部分は相変わらず国家によって搾取され、スターリンの粛清の恐怖がなくなった今、共産党の幹部たちは自らの特権階級(ノーメンクラトゥーラ)としての地位を不動のものとする。非効率な計画経済、冷戦下における膨大な軍事費・科学技術費は、ウクライナの近代化を進めたとはいえ、人々の生活は一向に改善する気配が無かった。政治の腐敗、経済的矛盾は深刻化していったにもかかわらず、隠蔽されつづけた。だが、1986年4月26日、チェルノブイリ原発事故が発生し、国内外に大きな被害が及んだ(チェルノブイリ原子力発電所を参照)。

ソ連はゴルバチョフの「ペレストロイカ」の時代を迎えており、ウクライナでは「ペレブドーヴァ」と呼ばれる改革・開放をもとめる運動がおきた。1960年代頃から民族文化運動を続けてきたウクライナ人文学者たちは、ウクライナ語の解放・普及を訴えた。ソヴィエト政府によってその存在を否定され、弾圧されつづけてきたウクライナ・カトリックは、水面下で根強く活動を続けて、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の強い励ましを受けた。そしてついに1989年、ウクライナ語の公用化(10月[47])、ユニエイトの公認化が実現した。東欧における民主革命の成功も受けて、ウクライナ民族運動は最高潮に達していく。

1989年9月、作家連盟などを中心に民族主義大衆組織「ペレストロイカのための人民運動」(通称"ルフ")が結成される。1990年1月22日(1918年の中央ラーダによるウクライナ独立宣言の日)にルフの呼びかけで、大勢のウクライナ人は手と手をつないで長い「人間の鎖」をつくりあげた。3月にはウクライナにおいて民主的な最高会議(国会)議員選挙が実現し、ルフを中心とする民主勢力が大きな勢力を占めた。7月、最高会議は「主権宣言」を採択。様々な国家の権利をソ連から取り戻すことを宣言し、非核三原則も採択した。学生や炭鉱労働者によるストライキやデモは、民主勢力をさらに後押しする。ウクライナ共産党は分裂・衰退し、民主勢力へ走る者もでた。

崩れ行くソ連を完全に見限り、8月24日に最高会議はウクライナの独立を宣言、国名から「人民共和国」を削除した。12月の国民投票によっても、圧倒的に独立が支持され(ウクライナ国内の多くのロシア人も支持した)、レオニード・クラフチュクがウクライナ初代大統領に選ばれた。1917年の独立革命の挫折以来、幾多の試練を乗り越えて、ついにウクライナの独立は達成されたのである。

[編集] 独立時代

1991年ソ連崩壊に伴って新たな独立国家・ウクライナとなり、独立国家共同体ウクライナ語 СНД ;CIS)の創立メンバーの一員となった。独立ウクライナは旧ウクライナ民族共和国の中枢機関であったウクライナ中央ラーダの正当な後継者であることを意識し、国旗や国章の「トルィズーブ」(三叉の鉾)などは同共和国時代のものが採用された。この独立をもって、ウクライナはキエフ・ルーシ崩壊以降ウクライナ史上最大の領土を手に入れた。

2004年、大統領選挙の混乱からオレンジ革命が起き、第三回投票で勝利したユシチェンコ2005年1月、大統領に就任した。

2005年3月、ロシア側より天然ガスの料金を国際的な市場価格にあわせてそれまでの優遇価格より倍以上に引き上げる要求があり両国が対立、2006年にかけて欧州各国を巻き込んだ騒動となった(ロシア・ウクライナガス紛争参照のこと)。その後、野党勢力により内閣不信任案が可決される。

2006年6月22日ウクライナ最高議会選においてユシチェンコ大統領派の与党「われらのウクライナ」が惨敗。これを受けてティモシェンコ率いる「ティモシェンコ連合」と「われらのウクライナ」およびウクライナ社会党の3政党は議会多数派を組む合意が成立した。しかし、その後は人事をめぐり議論は紛糾、3政党間の亀裂は深まっていた。議会選挙で最大勢力となった地域党が議場を封鎖する間に社会党は連合を離脱した。地域党、ウクライナ共産党の支持を受け、社会党党首モロス氏が最高会議議長に就任した。その後、この3党は議会多数派の合意書に調印し、大統領に対し、地域党党首ヤヌコーヴィチ氏の首相指名を提案。結果、8月にヤヌコーヴィチ内閣が成立した。しかし、大統領との権限争いで議会も分裂し、両派の妥協の産物として最高会議は解散し、2007年9月30日に臨時最高会議選挙が行われた。12月、ティモシェンコ連合とわれらのウクライナが連合する形でティモシェンコ内閣が発足した。

2010年、大統領選挙にてヤヌコーヴィチとティモシェンコが激突。決選投票の結果、ヤヌコーヴィチが勝利し、ウクライナは再び親露派に率いられることとなった。

[編集] 政治

キエフにあるウクライナ最高議会堂

ウクライナの政体は、司法立法行政の三権が分立する議会制民主主義共和制)であり、大統領制議院内閣制をミックスした半大統領制を採用している。大統領は、5年任期で国民投票によって選ばれ、首相や政府の閣僚を任命する権限をもつが、それには議会の承認を得なければならない。

[編集] 議会

ウクライナの国会は、最高議会であり、一院制で450議席。全議席は全国区の比例代表制によって選出されるが、政党もしくは選挙ブロックは全投票の3%以上を獲得しなければ議席を得ることができない。議員の任期は5年。議会は立法、国際協定の批准、予算の裁可および首相の承認・罷免、閣僚の承認・罷免を行う。

2006年の選挙で議席を獲得した政党は5党(地域党、「われらのウクライナ」、ウクライナ社会党、ウクライナ共産党、ティモシェンコ連合)。2007年10月選挙は地域党が最多議席を確保したものの、「ティモシェンコ連合」が第2党に躍進。その他は「われらのウクライナ・国民自衛」、共産党および前最高会議議長ヴォロディームィル・リトヴィン率いる中立派の「リトヴィン連合」が議席を確保、社会党は得票率3%に及ばず全議席を失った。

[編集] 2004年ウクライナ大統領選挙

2004年クチマ大統領の任期満了に伴い大統領選挙がおこなわれた。

クチマ大統領の後継ヤヌコーヴィチ首相と、野党指導者・ユシチェンコ元首相の一騎打ちという形になった。10月31日の第1回投票ではユシチェンコが首位に立つが、僅か15万票差であった。

11月21日の決選投票の開票の結果、ヤヌコーヴィチの当選が発表される。しかし、ユシチェンコ陣営は11月22日夜、決選投票において全国で1万1000件の不正が行われ、第一回投票の5倍に膨らんだと、政権側の選挙違反を糾弾した。これにより首都キエフを中心に、ストライキなどの大規模な政治運動が起こった(オレンジ革命)。

欧米諸国の圧力もあり再選挙が行われることとなり、12月26日に実施された再決選投票の結果、ユシチェンコが52.12%、ヤヌコーヴィチが44.09%の得票となり、ユシチェンコ元首相の当選が確実になった。ヤヌコーヴィチ陣営はユシチェンコ陣営に不正があったとして最高裁に提訴したが野党による政府施設の封鎖が起こり、30日には提訴が却下された。翌2005年1月23日にユシチェンコ元首相は正式に大統領に就任し、この争いは一応の決着を見せた。

なお、この選挙期間中、欧米のマスメディアはロシア人とウクライナ人の間で民族的対立が激化してウクライナ国民に分裂が生じているように報じた。この選挙ではアメリカのウクライナ系政治団体の資金援助やソロス財団の公然の介入が行われており、ウクライナ自身の革命と言うよりは外国勢力の干渉の結果だったという分析もある。一方、干渉があったとはいえ、それだけでなし得たものではなく実際に国民の間に従来の政権に対する不満があったことは大きな要素のひとつであった。また、アメリカが反ロシア派を支援した背景には、ロシア帝国時代やソ連時代にロシア勢力から弾圧を受けた非常に多くのウクライナ人がアメリカに亡命を余儀なくされたという歴史上の経緯も関係している、という分析もある。

つまり、アメリカに亡命したウクライナ人の作った組織がアメリカ政府や関係者に働きかけ、反ロシア的な勢力を支援させるということは不自然ではない、というのである。しかし、このようなロビー活動が表沙汰になることは少なく、こうしたもっともらしい分析もこれまでの経緯から類推した憶測の域を出ない。いずれにせよ「アメリカ側の都合だけで革命が推進された」であるとか「オレンジ革命は悪しき旧共産主義的な独裁体制からの民主化を達成した」というように単純化できる問題ではない。その後、ウクライナではしばしば「革命」が叫ばれることが習慣化しており、2007年にも反ユシチェンコ派の議員が「革命」を実行している。

[編集] 2010年ウクライナ大統領選挙

大統領選挙が2010年1月~2月にかけて行われ、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチが大統領に当選した。

[編集] 軍事

ウクライナ軍は、陸軍海軍空軍の3軍種から成る。2005年末の時点で、総員24万5千人(内、軍人18万人)。

[編集] 準軍事組織

ウクライナには、ウクライナ軍以外に、以下の準軍事組織が存在する。

[編集] 外交

ユシチェンコ大統領の就任当初は、ロシアよりもEU(欧州連合)諸国との関係を強化することを目指していた。同様の立場を取るグルジアアゼルバイジャンモルドヴァとともにGUAM(4カ国の頭文字)と呼ばれる連合を結成し、また、同国自身が将来的にはEUへの加盟をさせようとしているとも伝えられる。

一方で、ウクライナ経済はロシアとの関係を悪化させたことにより急速に悪化。そのため、大統領はロシアとの関係に対する意見の相違からティモシェンコ首相を解任。その後は頻繁にロシアを訪問し、ロシアとの政治的・経済的関係を強化させようとするなど、ロシアとの関係修復も模索してきた。今後は、2010年の大統領選挙で当選したヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領の誕生により、ロシアとの関係改善がより一層進むものと見られる。

ヤヌコーヴィチ政権下で、ウクライナは国民の反対が根強いNATOへの加盟を放棄することを正式に宣言した。しかし、ロシア主導の軍事同盟「CSTO」にも加盟しない意向を示しており、ロシアと西欧諸国双方とバランスの取れた外交を目指す姿勢を見せている。

[編集] ビザ

2005年8月1日より日本国民がウクライナに入国する際のビザ(査証)を短期90日までの滞在(但し、就労を伴わない活動に限る)に限って、その取得を必要としない制度が開始された。しかしながら、2009年6月現在、ウクライナ国民の日本への入国には依然としてビザが必要である。

[編集] 地方行政区分と都市

ウクライナは、24の州と、クリミアにある1つの自治共和国、そして2つの特別市から構成される。

No. 州庁所在地 No. 州庁所在地
1 イヴァーノ=フランキーウシク州 イヴァーノ=フランキーウシク 13 チェルニウツィー州 チェルニウツィー
2 ヴィーンヌィツャ州 ヴィーンヌィツャ 14 テルノーピリ州 テルノーピリ
3 ヴォルィーニ州 ルーツィク 15 ドニプロペトロウシク州 ドニプロペトロウシク
4 オデッサ州 オデッサ 16 ドネツィク州 ドネツィク
5 キエフ州 キエフ 17 ハルキウ州 ハルキウ
6 キロヴォフラード州 キロヴォフラード 18 フメリヌィーツィクィイ州 フメリヌィーツィクィイ
7 ザカルパッチャ州 ウージュホロド 19 ヘルソン州 ヘルソン
8 ザポリージャ州 ザポリージャ 20 ポルタヴァ州 ポルタヴァ
9 ジトームィル州 ジトームィル 21 ムィコラーイウ州 ムィコラーイウ
10 スムィ州 スムィ 22 リヴィウ州 リヴィウ
11 チェルカースィ州 チェルカースィ 23 リウネ州 リウネ
12 チェルニーヒウ州 チェルニーヒウ 24 ルハンシク州 ルハンシク
- 特別市 No. 自治共和国 自治共和国の首都
- キエフ (首都) セヴァストポリ 25 クリミア自治共和国 シンフェロポリ
ウクライナの都市(2001年[48]
都市 行政区分 人口 都市 行政区分 人口
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キエフ

リヴィウ

1 キエフ キエフ 2,611,327人 11 ルハーンシク ルハンシク州 463,097人
2 ハルキウ ハルキウ州 1,470,902人 12 マキーイウカ ドネツィク州 389,589人
3 ドニプロペトロウシク ドニプロペトロウシク州 1,065,008人 13 シンフェロポリ クリミア自治共和国 358,108人
4 オデッサ オデッサ州 1,029,049人 14 ヴィーンヌィツャ ヴィーンヌィツャ州 356,665人
5 ドネツィク ドネツィク州 1,016,194人 15 セヴァストポリ セヴァストポリ 342,451人
6 ザポリージャ ザポリージャ州 815,256人 16 ヘルソン ヘルソン州 328,360人
7 リヴィウ リヴィウ州 732,818人 17 ポルタヴァ ポルタヴァ州 317,998人
8 クルィヴィーイ・リーフ ドニプロペトロウシク州 668,980人 18 チェルニーヒウ チェルニーヒウ州 304,994人
9 ムィコラーイウ ムィコラーイウ州 514,136人 19 チェルカースィ チェルカースィ州 295,414人
10 マリウポリ ドネツィク州 492,176人 20 スームィ スームィ州 293,141人

[編集] 経済

ソビエト連邦時代は、連邦内の重要な農業および産業地帯であったが、現在は天然ガスを中心とするエネルギー供給のほとんどをロシアに依存しており、経済の構造改革の遅れと相まって、他国の影響を受けやすいものになっている。

1991年、政府はほとんどの物資の価格を自由化し、国有企業を民営化するための法制度を整備した。しかし、政府や議会内の強い抵抗により改革は停止され、多くの国有企業が民営化プロセスから除外された。1993年の末頃には、通貨政策の失敗によりハイパーインフレーションにまで至った。

1994年に大統領に就任したレオニード・クチマは、IMFの支援を受けながら経済改革を推進し、1996年8月には10万分の1のデノミを実施し、新通貨フリヴニャを導入した[49]。現在の政府は、経済への介入を極力減らし、調整方法を合理化することに努めるとともに、企業家を支援する法環境を整備し、包括的な税制の改革を行った。ただし構造改革の政治的な問題に関わる分野や農地の民営化に関する改革は遅れている。

1999年の生産高は、1991年の40%にまで落ち込んだ[50]。しかし、同年には貿易収支が初めて黒字を記録[51]。その後もフリヴニャ安や鉄鋼業を中心とした重工業により、2000年国内総生産は、輸出の伸びに支えられて6%という成長をみせ、工業生産高の成長も12.9%だった。これは独立以来初めての上方成長であった。2001年から2004年までの間も、中国への鉄鋼輸出の急増などに起因して高度成長が続いた。

ところが2005年、ユシチェンコ政権の成立後暗転し始める。それまでの好調なウクライナ経済は、ロシアからの安価なエネルギー資源および原料の供給、経済発展を続けるロシアや中国への輸出等によって支えられていた。しかしユシチェンコ大統領は就任直後、ロシアとは距離を置き、EUやアメリカなどとの関係を強化する姿勢を示した。大統領はアメリカなど西欧諸国からの投資拡大を見込んでいたが、実際にはそれほど投資は増えず、逆にロシアからの安価なエネルギー資源供給が受けられなくなった(ロシア・ウクライナガス紛争を参照)。またロシアに並ぶ輸出相手国であった中国の需要が減少するなど経済環境が悪化。

2008年以降は世界金融危機の影響を受けてウクライナ経済は再び落ち込み、債務不履行の瀬戸際まで追い込まれた。経済安定化のため2008年10月にはIMFより総額165億ドルに及ぶ緊急融資を受けた[52]。2010年7月にはIMFより新たに152億ドルの融資を受けることで合意した[53]

[編集] マスコミ

[編集] 交通

ウクライナの交通は、鉄道バス船舶航空機自動車などによっている。鉄道は、ウクライナ鉄道によって一元化されている。一方、ウクライナの航空会社はソ連時代のアエロフロート一括管理型から多くの中小の航空会社が競合する状態になっている。

[編集] 人口

[編集] 民族

ウクライナにおけるウクライナ人の人口(2001年度全ウクライナ国勢調査より)

主要民族はウクライナ人で、全人口の約8割を占める。他に少数民族としてロシア人ベラルーシ人モルドヴァ人クリミア・タタール人ブルガリア人ハンガリー人ルーマニア人ポーランド人ユダヤ人がいる。

東部や南東部の産業地帯は最も人口が集中しており、全人口の70%が都市部に住んでいる。

[編集] 言語

当地の国家語は言語法により定められたウクライナ語のみである。ただし、統計によれば、ウクライナ語を母語とする国民は5割強である[54]。また、多くの国民はウクライナ語ロシア語の2言語を理解する。ロシア語は、公式なステータスを持たないが、ハルキウなどのある東部、オデッサなどのある南部、首都キエフの位置する中部を中心に全土で広範囲に渡り話されている[55]。また、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領は選挙時にロシア語の第2公用語化を主張していたが、大統領になってから「公約にはしていない」と公言し、公用語化の動きは沈静化している[56]

西部においてはウクライナ語使用人口が年々増えており、ロシア語は一般的ではない[57]ウクライナ語ロシア語は、ともに 東スラヴ語群に属し、似ている言語であるが、ウクライナの大半は歴史上ポーランドポーランド王国)の一地方であった時代が長いためポーランド文化の影響を強く受けており、そのためウクライナ語ポーランド語チェコ語など西スラヴ語群との類似性も多く見られる。なお、ウクライナ語には多数の方言が存在する。

国勢調査でウクライナ語を母語と選択した国民の中でも、長年にわたるロシア帝国・ソ連時代のロシア語優遇政策により、西部を除く地域では日常生活においてロシア語の方を優先して使用する人も多く、ウクライナ科学アカデミー社会学研究所による調査では、家庭内でウクライナ語のみ話しているのは全国民の38.2%に過ぎないことがわかっている。次いでロシア語のみが40.5%、両言語が16.2%となっており、ウクライナ語使用率は母語調査の結果よりも低くなっている[58]。この結果の差から、日常生活でもウクライナ語が主要言語である西部地域を除いた場合には状況は複雑であり、ロシア語の方がより一般的である、ないしはロシア語とウクライナ語を同頻度に使用しているような人々にとっても、「ウクライナ語こそ唯一無二の母語である」というアイデンティティは持っていると言える。

[編集] 宗教

現在ウクライナの国民は多くキリスト教徒アイデンティティを持っているが、大半は特定の宗教団体に属していない[60]。伝統的な宗教は、正教会の一員であるウクライナ正教会である。ルーシの洗礼以来ウクライナの正教会はコンスタンディヌーポリ総主教庁に属していたが、1686年モスクワ総主教に移され、20世紀末までモスクワ総主教庁に属していた。この移管は教会法に違反していたと指摘されるが[61]、モスクワ総主教庁側はこの移管を「教会法違反」とは捉えていない。1990年には、ウクライナの独立運動の興隆に呼応して、モスクワ総主教庁から分離独立したキエフ総主教庁が設立された。現在、このキエフ総主教庁・ウクライナ正教会の教会法上の合法性を認めている他国の正教会は存在しないが、キエフ総主教庁は教会法解釈・歴史認識につき主張をしつつ、自らの合法性の承認を得るべく様々な活動を行っており、信徒数の上でもウクライナにおける最大の教会となっている。これに次ぐ正教会としてモスクワ総主教庁のもとに留まりつつ事実上の自治を行っているウクライナ正教会(モスクワ総主教庁系)があり、こちらは他国の正教会からも教会法上の合法性を認められているが、ウクライナ国内での信者数は減少している。他にもウクライナ独立正教会と独立合法ウクライナ正教会の教会組織が存在する。

東方典礼カトリック教会たるウクライナ東方カトリック教会が正教に次いで勢力を有する。西方典礼のカトリック教会およびプロテスタント、さらにイスラム教徒ユダヤ教徒仏教徒も少数存在する。

[編集] 教育・科学

キエフ大学
リヴィウシカ・ポリテフニカ大学

1995年から6歳から17歳までの11年間が義務教育である。小学校・中学校に相当する9年間は同じ学校に通い、10年目以降は普通学校と専門学校のいずれかを選択することになる。このため11年間同じ学校に通う生徒も存在する。

必須科目はウクライナ語のほか、情報学、経済学などで、英語は1年生からの必須科目で、ロシア語は選択科目となっている。

ウクライナの学校は、3月末に1週間の春休み、6 - 8月に3ヵ月間の夏休み、12月末 - 1月に約2週間の冬休みがある。

[編集] 高等教育機関

[編集] 研究所

[編集] 文化

[編集] 料理

ウクライナ発祥地のボルシチは国内でもっとも一般的なスープである。

ウクライナ料理は、東欧を代表するウクライナ人の伝統的な食文化である。その歴史はキエフ大公国時代にさかのぼる。ウクライナ料理は、ポーランド・リトアニア・ルーマニアロシア・ユダヤなどの食文化にも大きな影響を与えた。一方、他国の料理の影響が見られる[63]

主食パンであり、パンに類する食品も多い。その中で、ヴァレーヌィク(ウクライナ風餃子)、ハムーシュカ、フレチャーヌィク(団子)、コールジュ、コロヴァーイ(ケーキの一種)、パスカ復活祭のパン)、クチャー(小麦の甘いお粥)などがある。の料理が比較的に少なく、スープ野菜煮物などの料理が圧倒的に多い。世界的にも有名なウクライナ料理ボルシチは、大まかに50種類以上のレシピがある。肉料理は肉料理、魚料理は類料理が一般的である。さらに、肉料理としてサーロ身の塩漬け)が頻繁に利用される。 飲み物は甘い、もしくは甘辛いものが多い。メドウーハ(蜂蜜酒)、ホリールカ(唐辛子入りのお)、ナスチーイカ(果実酒)、クヴァース(液体のパン)などがある[63]

主な調理法は軽く炒めて茹でること、また軽く炒めて煮ることである。揚げ物などは少ない。調味料としては、サーロ、向日葵油スメターナ蜂蜜などが用いられる[63]

ウクライナでは、ウクライナ料理のほかに、クリミア・タタール料理が存在する。

[編集] スポーツ

他のヨーロッパ諸国同様、サッカーテニスバスケットボールバレーボールなどの球技に人気がある。2012年にはポーランドと共催でサッカー欧州選手権2012が開催されることになっている。

[編集] 文学

[編集] 美術

ウクライナのプィーサンカ

[編集] 建築

[編集] 世界遺産

ウクライナ国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が1件ある。詳細は、ウクライナの世界遺産を参照。

[編集] 音楽・舞踊

[編集] 神話・昔話

[編集] 祝祭日

祝祭日
日付 日本語表記 ウクライナ語表記 備考
1月1日 元日 Новий рік
1月7日 クリスマス Різдво
3月8日 国際女性デー Міжнародний жіночий День
5月1日 労働の日 День міжнародної солідарності трудящих
移動祝日 復活祭 Великдень
5月9日 勝利記念日 День Перемоги
復活祭の第8日曜日 三位一体の日 Трійця
6月28日 憲法記念日 День Конституції
8月24日 独立記念日 День Незалежності

[編集] ウクライナゆかりの有名人

日本人の母とウクライナ人の父の間に生まれた「昭和の大横綱

[編集] 政治

[編集] 文学

[編集] 学術

[編集] スポーツ

[編集] 音楽・芸術

[編集] 映画

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. ^ (ウクライナ語) ウクライナ憲法 // ウクライナ最高議会公式ページ。
  3. ^ 日本語文献では「ウクライナ共和国」という正式国号がしばしば見られるが、間違いである。
    ウクライナ語の「Україна」については、日本語には「ї」に近い発音がないため表記が困難であるが、便宜的に「ウクライィーナ」と表現される。ラテン文字表記としては「Ukrayina」や「Ukraina」などが用いられる。
  4. ^ 以前は「烏克蘭」が用いられていたが、天江喜七郎が駐ウクライナ特命全権大使在任時にウクライナ日本語教師の大会で「宇克蘭」を使用するよう確認。以降、日本国外務省、及び在ウクライナ大使館では「宇克蘭」、略称「宇」を用いている[要出典]。また、中澤英彦著「ニューエクスプレス ウクライナ語」(白水社、2009)にも「宇」との省略形が使用されている。
  5. ^ weblio辞書「ウクライナ」”. 三省堂 大辞林. 三省堂. エラー: この日付はリンクしないでください。]]
  6. ^Оукраина」と表記される場合もある。
  7. ^ Полное собрание русских летописей (ПСРЛ). — Т. 2. Ипатьевская летопись. — СПб., 1908. — c. 652.
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  9. ^ Полное собрание русских летописей (ПСРЛ). — Т. 2. Ипатьевская летопись. — СПб., 1908. — c. 732.
  10. ^ Полное собрание русских летописей (ПСРЛ). — Т. 2. Ипатьевская летопись. — СПб., 1908. — c. 881.
  11. ^ (ウクライナ語) Яковенко, Н. Нарис Історії України з найдавніших часів до кінця XVII. — К., 1997
  12. ^ 1657年スウェーデン王国との交渉においてコサックの棟梁イヴァン・ヴィホーウシクィイは、「ギリシアの信仰ルーシの言葉が広まっている地域、ヴィスワ川までの古のウクライナ、あるいはルーシ」の所有権の承認を主張していた。(ウクライナ語) Яковенко, Н. Нарис Історії України з найдавніших часів до кінця XVII. — К., 1997
  13. ^ (ウクライナ語) Яковенко, Н. Нарис Історії України з найдавніших часів до кінця XVII. — К., 1997
  14. ^ (ウクライナ語) Півторак Г.П. Походження українців, росіян, білорусів та їхніх мов. Міфи і правда про трьох братів слов'янських зі «спільної колиски»(H・ピウトラーク. 『ウクライナ人、ロシア人、ベラルーシ人とそれらの言語の起源). — Київ : Академія, 1998.
  15. ^ (ウクライナ語) КРАЙ 。ウクライナ語オンライン大辞典。例えば、
    Рідний край、[リードヌィイ・クラーイ]、故郷。
    Передній край、[ペレードニイ・クラーイ]、前線。
    Східний край、[スヒードヌィイ・クラーイ]、東端。
  16. ^ (ウクライナ語) КРАЇНА 。ウクライナ語オンライン大辞典
  17. ^ (ウクライナ語) у 。ウクライナ語オンライン大辞典
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  25. ^ Розділ ІІІ. Україна-Русь — третій зайвий у Речі Посполитій «Двох Народів» (1569-1648). § 3. Шляхта, простолюд, козаки – вузол взаємопов’язань і протиріч // Яковенко Н. Нарис історії України з найдавніших часів до кінця ХVІІІ ст. — Київ, 1997.
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  27. ^ Розділ V. Козацька ера. § 1. Козацька революція 1648-1657 рр. // Яковенко Н. Нарис історії України з найдавніших часів до кінця ХVІІІ ст. — Київ, 1997.
  28. ^ Розділ V. Козацька ера. § 2. Руїна (1658—1686) // Яковенко Н. Нарис історії України з найдавніших часів до кінця ХVІІІ ст. — Київ, 1997.
  29. ^ Розділ V. Козацька ера. §3. Мазепа і мазепинці // Яковенко Н. Нарис історії України з найдавніших часів до кінця ХVІІІ ст. — Київ, 1997.
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  54. ^Мовна політика та мовна ситуація в Україні. Аналіз і рекомендація." キエフ, ジム出版社、Києво-Могилянська академія、2010(調査年は2006年)
  55. ^ ただし、西部にロシア語話者がいるのと同様、東部にもウクライナ語母語話者は存在する。東部にも農村部にはウクライナ語話者がいるが、彼らが都市部に出た場合、その都市でロシア語が優勢であれば、ロシア語を話す場合は多い。また教育機関では、東西問わずウクライナ語教育が行われている。
  56. ^ 2011年9月現在
  57. ^ ただし、都市部にはロシア語で教育をするロシア語学校も存在し、少ないながらもロシア語母語話者はいる。
  58. ^Мовна політика та мовна ситуація в Україні. Аналіз і рекомендація." キエフ, ジム出版社、Києво-Могилянська академія、2010(調査年は2006年)。
  59. ^
      ウクライナ語
      ロシア語
      その他
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    (英語) Orest Subtelny. Ukraine: A History. Univ of Toronto Pr; 3rd ed. 2000. - Society, Economics, and Culture. pp. 193-194.
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[編集] 参考文献

[編集] 著作

  • (日本語) 新興国ウクライナ / ウイルヘルム・キスキー[他]. 世界思潮研究会、1921.
  • (日本語) ウクライナ、白ロシア、モルダビアの民話 / 伊集院俊隆. 新読書社、1985.
  • (日本語) シベリア、ウクライナ私の捕虜記 / 後藤敏雄. 国書刊行会、1985.
  • (日本語) ウクライナ語入門 / 中井和夫. 大学書林、1991.
  • (日本語) とどけウクライナへ / 坂東弘美. 八月書館、1991.
  • (日本語) ウクライナとモルドバ / 秋山秀一. 芦書房、1992.
  • (日本語) スキタイ黄金美術展図録 / 江上波夫、加藤九祚. 日本放送協会、1992. *(日本語) うくらいな / 島田文彦. 日本図書刊行会、1993.
  • (日本語) ウクライナ / 早坂真理. リブロポート、1994.
  • (日本語) グルジア、ウクライナの歌 / 二見淑子. 近代文芸社、1995.
  • (日本語) ウクライナ語基礎1500語 / 黒田竜之助. 大学書林、1995.
  • (日本語) てぶくろ:ウクライナ民話 / 田中かな子[他]. メイト、1995.
  • (日本語) 日本とウクライナの国境をこえて / 長田久文. 長田久文、1996.
  • (日本語) かものむすめ:ウクライナ民話 / 松谷さやか[他]. 福音館書店, 1997.
  • (日本語) 黄金のシルクロード展 / 加藤九祚. 黄金のシルクロード展実行委員会、1998.
  • (日本語) ウクライナ・ナショナリズム / 中井和夫. 東京大学出版会、1998.
  • (日本語) ポーランド・ウクライナ・バルト史 / 伊東孝之、井内敏夫、中井和夫. 山川出版社、1998.
  • (日本語) わらのうし / 内田莉莎子[他]. 福音館書店、1998.
  • (日本語) ブラジル、インド、中国、タイ及びウクライナの砂糖産業. 農畜産業振興事業団、2000.
  • (日本語) 国境・領土紛争の比較研究‐ロシアとウクライナ、中国、日本 / 木村、汎、国際日本文化研究センター. 2000-2001.
  • (日本語) 物語ウクライナの歴史 / 黒川祐次. 中央公論新社, 2002.
  • (日本語) 帝政ロシアのウクライナ諸県における農業史と家族史・歴史人口統計学的研究 / 佐藤芳行、新潟大学. 2002-2003. *(日本語) マフノ運動史 / ピョートル・アルシノフ[他]. -- 社会評論社、2003.
  • (日本語) ネイションとステートの形成プロセスにおけるウクライナ・アイデンティティーの確立 / 末澤恵美、平成国際大学. 2003-2005.
  • (日本語) ウクライナ100の素顔 / 東京農大ウクライナ100の素顔編集委員会. 東京農業大学出版会、2005.
  • (日本語) 現代ウクライナ短編集 / 藤井悦子、オリガ・ホメンコ. 群像社、2005.
  • (日本語) ウクライナ丸かじり / 小野元裕. ドニエプル出版、2006.
  • (日本語) 日本語-ウクライナ語・ウクライナ語-日本語単語集 / 阿部昇吉[他]. 国際語学社、2007.
  • (日本語) 大地の肖像 / 藤井讓治、杉山正明、金田章裕. 京都大学学術出版会、2007.
  • (日本語) ウクライナ語会話 / ユーラシアセンター. ベスト社、2007.4
  • (日本語) 北方の資源をめぐる先住者と移住者の近現代史 / 北海道開拓記念館. 北海道開拓記念館、2008.
  • (日本語) 地域間の歴史世界 / 鈴木健夫. 早稲田大学出版部、2008.
  • (日本語) ウラン投資環境調査:ウクライナ. 石油天然ガス・金属鉱物資源機構金属資源開発本部企画調査部、2008.
  • (日本語) ウクライナ・国鉄機関車修理工場の近代化調査報告書. 経済産業省、2008.
  • (日本語) ニューエクスプレス ウクライナ語 / 中澤英彦. 白水社、2009.

[編集] 論文

  • (日本語) ウクライナの登録コサック制度--ウクライナ=コサックの集団意識によせて / 栗原 典子. スラヴ文化研究. 1. 2001.
  • (日本語) プーチン時代のロシア=ウクライナ関係 (特集2 プーチンの外交) / 末澤 恵美. ユーラシア研究. (27). 2002.11.
  • (日本語) NATO・ウクライナ関係について / 北住 英樹. 鵬友. 29(2). 2003.7.
  • (日本語)「ウクライナ民族主義者組織(OUN)」と「ウクライナ蜂起軍(UPA)」のウクライナ独立国家構想とその戦略 - 対ソ政策と対ポーランド政策を中心に / 柳沢 秀一. 現代史研究. (通号 50). 2004.
  • (日本語) 検証 ウクライナでの"オレンジ革命"--革命成功の原因と新政権の課題 / 井沢 正忠. 海外事情研究所報告. (通号 39). 2005.
  • (日本語) ウクライナ大統領選挙に関する一考察 / 粟田 聡. ユーラシア研究. (32). 2005.5.
  • (日本語) ウクライナにおける日本語教育の現状と問題点 / 立間 智子. 国際交流基金日本語教育紀要. (2). 2006.
  • (日本語) 特別寄稿 ロシア天然ガス供給停止の波紋 - ウクライナ問題と日本への示唆 / 村木 茂. エネルギーレビュー. 26(3) (通号 302). 2006.3.
  • (日本語) ウクライナとロシア原油--供給源・ルート多元化をめぐる戦い / 藤森 信吉. 比較経済研究. 43(2). 2006.8.
  • (日本語) 世界史Q&A ベラルーシ人・ウクライナ人とロシア人の違いについて教えてください (世界史の研究(209)) / 中井 和夫. 歴史と地理. (通号 599). 2006.11.
  • (日本語) イヴァン・フランコの『狐ミキータ』- ウクライナにおけるゲーテ受容の一例 / 小粥 良. Goethe-Jahrbuch. 49. 2007.
  • (日本語) レーシャ・ウクラインカ再読--ウクライナ文学におけるナショナル・アイデンティティ / 原田 義也. スラヴ研究. (54). 2007.
  • (日本語) ウクライナ語《ridna mova》が意味するもの / 〆木 裕子. 大阪大学言語文化学. 17. 2008.
  • (日本語) ウクライナの現代言語状況と言語問題 / 芳之内 雄二. 北九州市立大学文学部紀要. (74). 2008.
  • (日本語) ウクライナ系カナダ人のエスニシティと社会統合 - ウクライナ・ヴィレッジ設立とその公営化までを中心に / 浦田 葉子. 経営研究. 21(1) (通号 50). 2008.1.
  • (日本語) ウクライナのWTO加盟 / 関 嘉勝. JMC journal. 56(5) (通号 686). 2008.5.
  • (日本語) 日本の鏡ウクライナ--日本への熱い期待 / 馬渕 睦夫. 外交フォーラム. 21(8) (通号 241). 2008.8.
  • (日本語) 世界の潮 ロシアとウクライナの「ガス戦争」 / 塩原 俊彦. 世界. (788). 2009.3.

[編集] 外部リンク

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