ウクライナ

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ウクライナ
Україна
ウクライナの国旗 ウクライナの国章
国旗 国章
国の標語 : Воля, злагода, добро
(ウクライナ語: 自由、調和、善良)
国歌 : ウクライナは滅びず
ウクライナの位置
公用語 ウクライナ語
首都 キエフ(キーウ)
最大の都市 キエフ
政府
大統領 ヴィクトル・ユシチェンコ
首相 ユーリヤ・ティモシェンコ
面積
総計 603,700km²43位
水面積率 極僅か
人口
総計(2008年 45,708,000人(27位
人口密度 79人/km²
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 9,505億[1]フリヴニャ
GDPMER
合計(2008年 1,797億[1]ドル(52位
GDPPPP
合計(2008年 3,368億[1]ドル(30位
1人当り 7,347[1]ドル
独立
 - 日付
ソビエト連邦より
1991年8月24日
通貨 フリヴニャUAH
時間帯 UTC +2(DST: +3)
ccTLD UA
国際電話番号 380

ウクライナУкраїна)は、東ヨーロッパ

東にロシア連邦、西にハンガリーポーランドスロバキアルーマニアモルドバ、北にベラルーシが位置している。

歴史的・文化的には中央東ヨーロッパの国々との関係も深い。キエフ大公国13世紀モンゴル帝国に滅ぼされた後は独自の国家を持たず、諸侯はリトアニア大公国ポーランド王国に属していた。17世紀から18世紀の間にはウクライナ・コサック国家が興亡し、その後ロシア帝国の支配下に入った。第一次世界大戦後に独立を宣言するも、ロシア内戦赤軍が制したことで、ソビエト連邦内の構成国となった。1991年ソ連崩壊に伴い独立した。

16世紀以来「ヨーロッパの穀倉」地帯として知られ、19世紀以後産業の中心地帯として大きく発展している。天然資源に恵まれ、鉄鉱石石炭など資源立地指向の鉄鋼業を中心として重化学工業が発達している。ソ連時代にチェルノブイリ原子力発電所事故が起きたが、現代でも原子力発電は盛んである。

目次

[編集] 国名

ウクライナの最高法規たるウクライナ憲法によると、当国の正式国号は「Україна」([ukrɑˈjinɑ])である[2]。日本語の表記は「ウクライナ」となっている[3]。稀に「ユクライナ」と書かれることもある。漢字表記をする場合は「烏克蘭」・「宇克蘭」。公式の英語表記は「Ukraine」(ユークレイン)である。

初めて「ウクライナ」[4]というスラブ語の地名は、イパチー写本のキエフ年代記、1187年の条に見られる[5]。この地名は、キエフ公国チェルニーヒウ公国と並んでルーシ大公国の歴史的中枢地に含まれるペレヤースラウ公国の範囲を示している。また、この地名は他のルーシ年代記に1189年の条[6]1213年の条[7]1280年の条[8]にも登場し、ガリツィア地方、ヴォルィーニ地方、ポリーシャ地方を指す用語として用いられている。

13世紀にルーシ大公国が滅び、その中部・南部の地域がリトアニア大公国ポーランド王国に併合されると、「ウクライナ」は併合地の領域を表す地名としてリトアニア・ポーランドの年代記や公式文書などに使用されるようになる。14世紀から17世紀にかけて広義の「ウクライナ」はルーシ人が居住するガリツィア地方、ヴォルィーニ地方、ポジーリャ地方、ブラツラウ地方とキエフ地方の範囲を示し、狭義の「ウクライナ」はキエフを中心としたドニプロ川の中流域を示している[9]

「ウクライナ」の地名の両義性は、ウクライナ・コサックヘーチマン国家が誕生する17世紀半ば以後にも東欧の古文書にもみられる。狭義の「ウクライナ」は当国家の支配圏を指しているが、広義の「ウクライナ」は当国家の支配圏外のルーシ人の居住地を意味している[10]。しかし、ヘーチマン国家がロシア属国になることにより、「ウクライナ」はドニプロ川の中流域だけを意味するようになり、17世紀以後にルーシの本土を意味する小ルーシという地名の同義語となった。

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ルーシ系の知識人による民族運動が発展していくに連れて、「ウクライナ」はルーシ人が居住する民族領域を意味することとなり、「ルーシ人」は「ウクライナ人」という民族名に取り替えられる[11]1917年に「ウクライナ」の地名は、ウクライナ人民共和国の正式な国号の一部として用いていることとなる。

[編集] 語源

現在の国名でありウクライナ人の好む方の名称である「ウクライナ」の語源は、「国」・「公国」といった意味であるという説と、「地方」・「縁(へり)」・「僻地」といった意味であるという説があるが、後者はロシアから見た感覚的なものである。

Українаウクライィーナ) / Украинаウクライーナ)」という語に関連する単語の中でもっとも基本的なもの(一音節の単語なので)とされ、現在でも使用されている「крайクラーイ)」という単語にも「国」と「地方」、「縁」などいくつもの意味がある。これから派生したウクライナ語の「країнаクライィーナ)」という単語は「国」いう意味であるが、一方、ロシア語の「окраинаアクラーイナ)」という単語は「場末」、「町の端っこ」、「はずれ」という意味であるということからも、ロシア側のウクライナへの感覚が理解できる。

歴史上では「ウクライナ」と呼ばれる地域は南方のルーシ(キエフ大公の領土を継承するペレヤスラヴ公国と西の隣国と交流が盛んであったハールィチ・ヴォルィーニ大公国)を指す用語である。その用語は「国」・「公国」という意味があったらしく、そのような意味は中世後期まで受け継がれている(「バルカラバ年代記」、「ペリソプニチア福音」など)。

また、「ウクライナ」と名乗る国家が現れたのは20世紀以降であり、実際にウクライナは一地方名(どこの国の地方であるかは別の問題であるが)であった時期が長かった。特にウクライナと呼ばれる地域が複数あった時代には、名実ともに「Украина」という語は地方の名称であった。ウクライナはほぼキーフルーシ大公国の領域を網羅していることから、国民はキーフルーシ大公国の後継者と考えている。ちなみにルーシをギリシャ語読みするとロシアとなり、モスクワ公国がその後このロシアを名乗るようになり、ウクライナと名乗らざるをえないというのも事実である。

政治的にとった場合、独立ウクライナでは「Україна」という語はあくまで「国」という意味であるべきだが、ロシアの支配側の見解では「ロシアの一地方」であるという意味が都合よい。ロシア語の文法(前置詞の用法)からも、ロシアが「Украина」を「地方」という意味で扱ってきたことは明らかである。よりアカデミックな立場では、「国」か「僻地」か意見の分かれるところであり、語源に関して客観的に間違いないと考えられる結論は現在も出ていない。

[編集] 地理

詳細は「ウクライナの地理」を参照

ウクライナの国土のほとんどは、肥沃な平原、ステップ(草原)、高原で占められている。ドニエプル川ドネツ川ドニエステル川が横切っており、南のブーフ川とともに、黒海アゾフ海に注ぎ込んでいる。

南西部にあるドナウ川デルタ地帯ルーマニアとの国境になっている。

山岳地帯は、ウクライナの最南端のクリミア山脈と西部のカルパティア山脈にしかない。最高峰はカルパト山脈にあるホヴェールラ山(Говерла, Hoverla)で標高2,061メートルある。なお、これ以外の地域も平坦というわけではなく、東ヨーロッパの中では比較的起伏の多い地形をしている。

気候は温暖な大陸性気候であるが、クリミア半島の南岸は地中海性気候により近い。降雨量は局所的に偏っており、北部や西部は多く、南部や東部は少ない。冬は黒海沿岸は涼しいが、内陸に行くにしたがって寒くなる。夏はほとんどの地域で暖かいが、当然南に行くほど暑い。

ニージン
プルィルークィ
ノヴォフラード
コーロステニ
ベルディーチウ
スミーラ
ルブヌィー
フメリヌィーツィクィイ
コーヴェリ
ドロホーブィチ
ストルィーイ
カールシュ
コロムィーヤ
ムカーチェヴェ
ペルヴォマイシク
イェウパトーリヤ
ジャンコイ
ドニプロゼルジンシク
クルィヴィーイ・リーフ
マールハネツィ
ニーコポリ
パウロフラード
メリトーポリ
ロームヌィ
コノトプ
ショーストカ
ロゾヴァ
イズューム
スロヴヤーンシク
クラマトールシク
イェナーキイェヴェ
ホールリウカ
スタロビーリシク
アルチェーウシク
スタハーノウ

[編集] 歴史

[編集] 概要

現在ウクライナと呼ばれる地は古代において多数の遊牧民が割拠していたが、中世にはルーシ(またはキエフ・ルーシ)の下で統一され大国となった。しかし、13世紀半ばのモンゴル帝国の侵入により解体され、その一部の公国は隣国であるリトアニア大公国ポーランド王国の傘下に入り、キエフ・ルーシの東部はキプチャク汗国に属した。

キエフ・ルーシの解体後、その一公国であったモスクワ公国は後にロシア(ルーシのギリシャ語読み)帝国へと変遷をとげる。16世紀から18世紀にかけてコサック国家が存在していたが、18世紀末にはロシア帝国に併合された。ロシア内戦期には複数の"独立国家"が誕生したが、1919年に成立したウクライナ社会主義共和国が全土を制圧。1922年にはソ連に加盟した。ソ連時代には別枠で国際連合(国連)の原加盟国であった。

1991年、ソビエト連邦の崩壊にともない独立を宣言した。

[編集] 古代 - キエフ・ルーシ時代

詳細は「スキタイ」、「サルマティア人」、「キエフ大公国」、「ハールィチ・ヴォルィーニ大公国」をそれぞれ参照

スキタイ人の貴族の首飾り(紀元前4世紀、南ウクライナ)

紀元前10世紀頃より現在のウクライナの地にはさまざまな遊牧民族が到来した。紀元前8世紀頃、黒海北岸に至った騎馬民族スキタイ人は、紀元前6世紀キンメル人を追い払って自らの国家を立て、紀元前4世紀にかけて繁栄した。黒海沿岸にはギリシャの植民都市が建設され、地中海メソポタミア方面との交易を通じてペルシャギリシャローマの文化的影響を受けた。紀元前3世紀頃、中央アジアより来たサルマティア人の圧力を受けてスキタイは衰退した。2世紀頃に東ゴート族が侵入し、3世紀中頃クリミア半島に存続していたスキタイ人の国家を滅ぼした。これらの民族は交易や植民を盛んに行い、彼らが建設した多くの交易拠点は後に都市国家へと発展した。

4世紀から5世紀にかけて民族大移動の発端となるフン族がこの地を通り抜けた。6世紀にはアヴァール族が侵入し、同じ頃移住してきたと考えられている東スラヴ人を支配した。スラヴ民族はウクライナ中央部と東部に居住し、キエフの建設と発展に重要な役割を担った。7世紀から8世紀にかけてはユダヤ教遊牧国家であるハザール汗国の支配下にあった。

9世紀頃、首都をキエフとする最初のスラヴ人国家、キエフ・ルーシ(キエフ大公国)が誕生した。諸説あるが、広い意味でこの国家は現在のウクライナ・ベラルーシロシアの源流だと考えられている。ノヴゴロドなどロシア系の年代記によると、現在のスウェーデン一帯からやって来たヴァイキングヴァリャーグと呼ばれる)たちをКнязь:王のこと)に据えることによって建国されたと記されている。一方で現代の歴史学研究によれば、ヴァリャーグはあくまで侵入者であり、それまであった現地の公朝(集権的でない)を征服することでルーシの地に国家を建設した、という見方も有力になっている。ヴァリャーグは、もともとこの地の住民であったルーシの諸民族(のちのウクライナ人など)と次第に同化していき、ウクライナ史上で初めての広域な集権的王朝であるリューリク朝が繁栄した。

ギリシャとの繋がりが強かったキエフ・ルーシでは、988年ヴォロディーメル聖公キリスト教を受け入れ、ルーシ語での典礼が行われ、ギリシャ・ローマに次ぐ第3のキリスト教圏を確立した。キエフではキエフ大公(Великий князь Київський)とキエフ府主教が近隣の諸公国を支配下に置き、10世紀および11世紀を通じて、キエフ・ルーシはヨーロッパにおける大国の1つとなった。

しかしながら、ヤロスラフ賢公亡き後12世紀以降、内部抗争とペチェネグ人やポロヴェツ人などのトルコ系とされる遊牧民族やハザールなどの絶え間ない攻撃により、キエフ・ルーシは弱体化した。さらに、1240年にはモンゴル帝国の侵略を受け、キエフをはじめとするほとんどの都市は壊滅し、キエフ大公による支配体制は滅亡、キエフ公国やウラジーミル大公国など、すべての公国および共和国はキプチャク汗国に隷属した。

キエフ・ルーシの伝統と文化、そしてキエフ大公の称号を受け継いだのはキエフの西部にあったハールィチ・ヴォルィーニ大公国であった。その大公国は東ヨーロッパの諸国と手を結び、キプチャク汗国と戦いつづけた。ハールィチの大公であるダヌィーロ一世はローマ教皇から王の冠を受け、ルーシで初めてのとなった。

一方、大公のローマ教皇への接近を警戒したキエフ府主教はウラジーミルへの遷座を経てモスクワに移り、1453年東ローマ帝国の滅亡後の1589年にはモスクワ総主教に格上げされた。キエフ府主教座が北東ルーシに動いたことに伴い、ウクライナでは14世紀にはハールィチに新たに府主教座が設置されたが、15世紀にはキエフ府主教座がウクライナの正教会の筆頭として復活した。

しかし、ウクライナの大公国は王位継承の問題によって内乱に落ちた。最後は国が分裂し貴族によって大公が暗殺されるなど混迷を極め、14世紀前後に隣国のリトアニア大公国ポーランド王国によって征服されて消滅した。

[編集] コサック時代 - 帝政ロシア時代

詳細は「ウクライナ・コサック」、「フメリヌィーツィクィイの乱」、「ヘーチマン国家」をそれぞれ参照

民話的な存在コサック・ママーイ。ウクライナのコサックのシンボル、「ウクライナの守護神」とも言われる。コサックは西洋人のキリスト教徒であったが、東洋の戦術・文化を受容していた。

16世紀頃より、現在のウクライナ南部にはキエフ・ルーシの士族を中心とするウクライナ・コサックの国家が成立した。17世紀にはキエフを再建して本拠地とするなど勢力を拡大し、モスクワ大公国の度重なる侵攻にもかかわらず1世紀の間存続した。

1648年には、棟梁であるボフダン・フメリヌィーツィクィイの指導するコサックとポーランドの間に戦争が始まった。フメリヌィーツィクィイは長年のポーランド支配を断ち切ることに成功したが、数年後の1654年にはモスクワ大公国の保護下に入る形で、1667年にポーランドとモスクワ大公国によって分割され、独立はまたも失われることとなった。このことは今日のウクライナ人にとってはロシア民族共通の敵であるポーランドを対等な連合の下に駆逐したのにも拘らずロシアに裏切られたというように受け取られ、反露感情の源泉のひとつとなっている。

その後も、1700年代に始まったロシア帝国(狭義にはモスクワ大公国)・スウェーデン大北方戦争では、ヘーチマンのイヴァン・マゼーパ派がロシアからの独立を望みスウェーデンと同盟した。しかし、ポルタヴァの戦いピョートル1世のモスクワ軍に敗れ、モスクワからの独立は露と消えた。1783年クリミア汗国の併合などにより、現在のウクライナ東部と中央部にあたる地域はロシア帝国に併合され、西部はポーランドの支配を経た後、1772年のポーランド分割によってハプスブルク君主国の領土となった。

19世紀に入ると、ロシア帝国の抑圧政策と全ヨーロッパで流行した民族主義の影響により、ウクライナ人の民族運動も盛んになった。また、現在最初の「ウクライナ文学」とされているイワン・コトリャレフスキーのパロディー叙事詩「エネイーダ」もこの時期に書かれた。ウクライナ語の完成が急がれたのもこの時期で、ロシア語正書法、ポーランド語正書法、そして独自の正書法などさまざまなものが生み出されたが、最終的にはタラス・シェフチェンコのまとめたウクライナ語文法が現代ウクライナ語の基礎となった。なお、ウクライナ語は当時はロシア語の一方言「小ロシア語」として扱われており、独自の言語としては公認されていなかった。

[編集] ロシア革命期

詳細は「ウクライナ人民共和国」、「ウクライナ国」、「西ウクライナ人民共和国」をそれぞれ参照

ウクライナ人民共和国の反露ポスター。「他国のものは要らないが、自国のものは渡さぬ!」。ロシアの双頭の鷲から子供を守っているウクライナ人の婦人。

1917年ロシア革命を機にウクライナはいくつもの勢力が独自の政府を組織して独立を宣言したが、いずれの勢力も互いに、またペトログラートボリシェヴィキ革命政府と対立し、特に十月革命以降激しい内戦状態に陥った。これをロシア側ではロシア内戦と呼ぶ「ロシアの内戦」に包含しており、「ロシア内戦のウクライナ戦線」などと呼ばれているが、ウクライナではウクライナ内戦と呼ぶ。同時に、ボリシェヴィキとの戦闘をウクライナ・ソビエト戦争と呼ぶ。また、1918年からはポーランド・ソビエト戦争と呼ばれる戦争が始められたが、その主戦場となったのはウクライナ地方であり、第一次世界大戦時の連合国各国派遣軍やドイツ帝国軍なども加わって激しい戦闘が繰り返された。

主要な国家としては、中部ウクライナから東ウクライナにかけてウクライナ人民共和国、西ウクライナに西ウクライナ人民共和国が成立した。

十月革命時の最大勢力はキエフを首都とするウクライナ中央ラーダのウクライナ人民共和国で、臨時政府派、ボリシェヴィキが続いた。第三勢力のボリシェヴィキと共同して第二勢力の臨時政府派を潰した中央ラーダは、その後ボリシェヴィキの宣戦布告を受け戦争状態に入った。1918年1月には中央ラーダは首都を追われジトームィルで体勢を立て直した。2月に中央同盟国ブレスト=リトフスク条約を締結したウクライナ人民共和国は、・墺軍と共同してボリシェヴィキを一挙に壊滅し、クリミア半島に至る広大な領土を手にした。

4月にドイツの軍事力を背景としたヘーチマンの政変が起こされ、国号はウクライナ国に改められた。同国は安定した発展を見せたが、ドイツの連合国への降伏により自体は一転、ウクライナ国政府はディレクトーリヤ勢力に敗れ、ディレクトーリヤはウクライナ人民共和国を復活させた。

一方、西ウクライナでは、ウクライナ国民ラーダがリヴィウを首都とする西ウクライナ人民共和国を成立させた。しかし、右岸ウクライナの併合を目論むポーランドとの戦争に敗れ、同共和国領はポーランドに併合された。

一方のウクライナ人民共和国もかつての勢いを取り戻すことができず、その後ウクライナは全土で内戦状態に陥った。主な勢力としては、「不可分の大ロシア」を標榜した帝政派の南ロシア軍など白軍白衛軍)、黒海より侵入し「不可分のロシア」への支持から白軍を支援したフランス軍やイギリス軍、アナキストのネストル・マフノ率いるマフノ運動と呼ばれる農民アナキズムのウクライナ革命蜂起軍、ベッサラビア方面に侵攻したルーマニア軍、西部より侵攻したポーランド軍、そしてロシア・ボリシェヴィキとボロチビストなどのウクライナ・ボリシェヴィキがあった。

マフノ運動は一時期、ボリシェヴィキの赤軍や白軍を放逐した。ウクライナ人民共和国は、マフノ軍や白軍との戦いで消耗し、赤軍に対抗するためポーランドと連合した。ポーランド参戦以降のウクライナの戦いをポーランド・ソビエト戦争と呼ぶことがある。しかし、ポーランドの裏切りや軍隊内での伝染病の発生によりウクライナの命運は尽きた。中央ラーダ・ディレクトーリヤの残存勢力は、国外へ逃れ亡命ウクライナ人民共和国政府を立ち上げた。

一方、ウクライナ・ボリシェヴィキは、当初はモスクワのボリシェヴィキからは独立した組織であったが、次第にモスクワの支配下に置かれるようになっていった。白軍は一時はモスクワに迫るほどの勢力を持ったが、マフノ軍との戦いによる消耗と英仏軍の干渉の失敗により赤軍に敗れた。

ウクライナの独立勢力のすべてが「反ボリシェヴィキ」で一致していたにも拘らず、互いに協力せず潰し合いとなった最大の原因は、白軍の掲げた「不可分のロシア」という政策と反社会主義思想が原因であったとされる。また、マフノ軍はアナキストでありながら主に赤軍に協力して強大な白軍勢力を漸減したことも、赤軍勝利の大きな要因であった。マフノ運動賛同者は、最終的には赤軍によって老若男女ほぼ皆殺しにされた。

[編集] ソビエト連邦時代

詳細は「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」、「ホロドモール」、「カルパト・ウクライナ」、「ウクライナ蜂起軍」をそれぞれ参照

1933年のホロドモールの犠牲。ウクライナ人は、1917年から1922年にかけて共産主義のロシアに対して強く抵抗したので、ソ連の政権が「ウクライナ人の問題」を解決するために、ウクライナ人が住む地域において人工的な大飢饉を促した。1933年に「ヨーロッパの穀倉」といわれたウクライナでは数百万人が餓死した。

内戦は最終的には1921年の白軍の壊滅により終結したが、ウクライナでは1919年ウクライナ社会主義ソビエト共和国の成立を経て、1922年にはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国白ロシア・ソビエト社会主義共和国とともにソビエト連邦を結成した。当初はウクライナ政府にもある程度の意思決定権が与えられていたが、それは徐々に制限されるようになり、結局ソ連の結成によりまたもやウクライナの独立は失われることとなった。ロシアにとってウクライナはすべての産業の中心地であり、手放すわけにはいかなかった。また、内戦の終結後西部のハルィチナー地方など一部地域はポーランド領となった。ルーマニアはウクライナの一部の併合により「大ルーマニア」の夢を達成した。

1920年代にはウクライナ人への懐柔策として、ウクライナ語の使用や教育、ウクライナ文化の研究などを奨励する「ウクライナ政策」が採られた。

ソビエト連邦下のウクライナは拙速な農業の集団化政策などにより2度の大飢饉(1921年 - 1922年1932年 - 1933年、後者はホロドモールとよばれ2006年にウクライナ政府によってウクライナ人に対するジェノサイドと認定され、またアメリカ・カナダ・イタリアなどの欧米諸国においては正式にジェノサイドであると認定されている[12])に見舞われ、推定で、400万から1000万人が亡くなった。この「拙速な集団化政策」は意図してなされたものであるという説も有力である。

この背景には、レーニンスターリンらによる農民への敵視政策があった。共産党政府のとった土地の共有化を農民は拒むため、多くの住民が農民であったウクライナの統治は共産党政府にとって大きな障壁となっていた。そのため、一説によるとレーニン、スターリンらにとってはウクライナの農民の根絶が理想であったともされている。スターリンは、農民問題の解決は至急の課題であると明言している。また、この時期に前後し、ウクライナでは農民、即ちウクライナ人への懐柔政策と弾圧政策が交互にとられ、結果ウクライナ共産党幹部全員をはじめ多くの人間が粛清された。最終的には、ウクライナ語使用の制限など弾圧政策が長く採られることになった[13]

大粛清はウクライナから始められ、1937年には首相のパナース・リューブチェンコが自殺した。この年、ウクライナ社会主義ソビエト共和国は国号をウクライナ・ソビエト社会主義共和国へと変更した。

第二次世界大戦が始まった1939年、ソ連はポーランドに侵攻し、占領した西ウクライナをウクライナに組み入れた。その中で一時カルパト・ウクライナの独立が宣言されたが、ナチス・ドイツ軍は同盟国であるハンガリーへその領土を組み込んだ。1941年以降の独ソ戦で赤軍が敗走を続ける中、キエフ包囲戦において、66万人以上のソ連軍兵士が捕虜となった。

ナチス・ドイツ軍は当初「解放者」として歓迎された面もあり、ウクライナ人の警察部隊が結成された。しかし、彼らの目的であるウクライナの政治的・文化的独立は、ソ連のみならずドイツ側からも弾圧された。かねてより独立活動を行ってきたウクライナ民族主義者組織 (OUN) が1941年6月にウクライナ独立国の独立を宣言した際には、ドイツは武力でこれを押さえ込もうとした。ドイツの占領などによる大戦中の死者の総数は、虐殺されたユダヤ人50万人を含む700万人と推定されている。当時のソ連軍兵士1100万人のうち、4分の1にあたる270万人がウクライナ人であった。なお、ユダヤ人虐殺に関しては現地の住民の協力があったことが知られている。

一方、ウクライナ蜂起軍 (UPA) などウクライナのパルチザンはドイツ軍、ソ連軍の双方と戦ったが、世界のいずれの国家からも支援を受けられなかったこともあり、結局ウクライナの独立は成功しなかった。ウクライナは第二次大戦において最も激しい戦場になったとされ、その傷跡は今日にまで各地に残されている。ドイツ空軍機による破壊は文化財にもおよび、多くの歴史的建造物が失われた。ソ連政府は、ウクライナ人への懐柔策として「南方戦線」と呼ばれていたこの地域の戦線を「ウクライナ戦線」と命名し、ウクライナ人を前線へ投入した。

廃止されたチェルノブイリ原子力発電所。ソ連ではV・I・レーニン共産主義記念チェルノブイリ原子力発電所と呼ばれていた。

第二次世界大戦後、ウクライナ社会主義共和国の国境は旧ポーランド領であったハリチナー地方などを併合して西に拡大し、ほとんどのウクライナ人が単一国家の下に統合された。ソビエト連邦内では、ロシアに次いで2番目に重要な共和国となり、「ソ連の穀倉」とといわれた。

白ロシア共和国(現ベラルーシ)と共にソ連とは別に国連加盟国として国連総会に議席を持った。1948年から2年間と1984年から2年間は非常任理事国も務めている。

1954年ニキータ・フルシチョフにより、クリミア半島(クリム半島)がロシアからウクライナに移管された。これは、ポーランドに対抗するためにロシアとウクライナ・コサックの間で結ばれたペレヤスラフ条約締結300周年記念を祝うためであった。

1986年4月26日、チェルノブイリ原発事故が発生し、国内外に大きな被害が及んだ。(チェルノブイリ原子力発電所を参照)

[編集] 独立ウクライナ時代

2004年、オレンジ革命期のキエフ

1991年ソ連崩壊に伴って新たな独立国家・ウクライナとなり、独立国家共同体ウクライナ語 СНД ;CIS)の創立メンバーの一員となった。独立ウクライナは旧ウクライナ民族共和国の中枢機関であったウクライナ中央ラーダの正当な後継者であることを意識し、国旗や国章の「トルィズーブ」(三叉の鉾)などは同共和国時代のものが採用された。この独立をもって、ウクライナはキエフ・ルーシ崩壊以降ウクライナ史上最大の領土を手に入れた。

2004年、大統領選挙の混乱からオレンジ革命が起き、第三回投票で勝利したユシチェンコ2005年1月、大統領に就任した。

2005年3月、ロシア側より天然ガスの料金を倍以上に引き上げる要求があり両国が対立、2006年にかけて欧州各国を巻き込んだ騒動となった(ロシア・ウクライナガス紛争参照のこと)。その後、野党勢力により内閣不信任案が可決される。

2006年6月22日ウクライナ最高議会選においてユシチェンコ大統領派の与党「われらのウクライナ」が惨敗。これを受けてティモシェンコ率いる「ティモシェンコ連合」と「われらのウクライナ」およびウクライナ社会党の3政党は議会多数派を組む合意が成立した。しかし、その後は人事をめぐり議論は紛糾、3政党間の亀裂は深まっていた。議会選挙で最大勢力となった地域党が議場を封鎖する間に社会党は連合を離脱した。地域党、ウクライナ共産党の支持を受け、社会党党首モロス氏が最高会議議長に就任した。その後、この3党は議会多数派の合意書に調印し、大統領に対し、地域党党首ヤヌコーヴィチ氏の首相指名を提案。結果、8月にヤヌコヴィッチ内閣が成立した。しかし、大統領との権限争いで議会も分裂し、両派の妥協の産物として最高会議は解散し、2007年9月30日に臨時最高会議選挙が行われた。12月、ティモシェンコ連合とわれらのウクライナが連合する形でティモシェンコ内閣が発足した。

[編集] 政治

詳細は「ウクライナの政治」を参照

キエフにあるウクライナ最高議会堂

ウクライナの政体は、司法立法行政の三権が分立する議会制民主主義共和制)であり、大統領制議院内閣制をミックスした半大統領制を採用している。大統領は、5年任期で国民投票によって選ばれ、首相や政府の閣僚を任命する権限をもつが、それには議会の承認を得なければならない。

[編集] 議会

ウクライナの国会は、最高議会であり、一院制で450議席。全議席は全国区の比例代表制によって選出されるが、政党もしくは選挙ブロックは全投票の3%以上を獲得しなければ議席を得ることができない。議員の任期は5年。議会は立法、国際協定の批准、予算の裁可および首相の承認・罷免、閣僚の承認・罷免を行う。

2006年の選挙で議席を獲得した政党は5党(地域党、「われらのウクライナ」、ウクライナ社会党、ウクライナ共産党、ティモシェンコ連合)。2007年10月選挙は地域党が最多議席を確保したものの、「ティモシェンコ連合」が第2党に躍進。その他は「われらのウクライナ・国民自衛」、共産党および前最高会議議長ヴォロディームィル・リトヴィン率いる中立派の「リトヴィン連合」が議席を確保、社会党は得票率3%に及ばず全議席を失った。

[編集] 2004年ウクライナ大統領選挙

詳細は「2004年ウクライナ大統領選挙」を参照

2004年クチマ大統領の任期満了に伴い大統領選挙がおこなわれた。

クチマ大統領の後継ヤヌコーヴィチ首相と、野党指導者・ユシチェンコ元首相の一騎打ちという形になった。10月31日の第1回投票ではユシチェンコが首位に立つが、僅か15万票差であった。

11月21日の決選投票の開票の結果、ヤヌコーヴィチの当選が発表される。しかし、ユシチェンコ陣営は11月22日夜、決選投票において全国で1万1000件の不正が行われ、第一回投票の5倍に膨らんだと、政権側の選挙違反を糾弾した。これにより首都キエフを中心に、ストライキなどの大規模な政治運動が起こった(オレンジ革命)。

欧米諸国の圧力もあり再選挙が行われることとなり、12月26日に実施された再決選投票の結果、ユシチェンコが52.12%、ヤヌコーヴィチが44.09%の得票となり、ユシチェンコ元首相の当選が確実になった。ヤヌコーヴィチ陣営はユシチェンコ陣営に不正があったとして最高裁に提訴したが野党による政府施設の封鎖が起こり、30日には提訴が却下された。翌2005年1月23日にユシチェンコ元首相は正式に大統領に就任し、この争いは一応の決着を見せた。

なお、この選挙期間中、欧米のマスメディアはロシア人とウクライナ人の間で民族的対立が激化してウクライナ国民に分裂が生じているように報じた。この選挙ではアメリカのウクライナ系政治団体の資金援助やソロス財団の公然の介入が行われており、ウクライナ自身の革命と言うよりは外国勢力の干渉の結果だったという分析もある。一方、干渉があったとはいえ、それだけでなし得たものではなく実際に国民の間に従来の政権に対する不満があったことは大きな要素のひとつであった。また、アメリカが反ロシア派を支援した背景には、ロシア帝国時代やソ連時代にロシア勢力から弾圧を受けた非常に多くのウクライナ人がアメリカに亡命を余儀なくされたという歴史上の経緯も関係している、という分析もある。

つまり、アメリカに亡命したウクライナ人の作った組織がアメリカ政府や関係者に働きかけ、反ロシア的な勢力を支援させるということは不自然ではない、というのである。しかし、このようなロビー活動が表沙汰になることは少なく、こうしたもっともらしい分析もこれまでの経緯から類推した憶測の域を出ない。いずれにせよ「アメリカ側の都合だけで革命が推進された」であるとか「オレンジ革命は悪しき旧共産主義的な独裁体制からの民主化を達成した」というように単純化できる問題ではない。その後、ウクライナではしばしば「革命」が叫ばれることが習慣化しており、2007年にも反ユシチェンコ派の議員が「革命」を実行している。

[編集] 2010年ウクライナ大統領選挙

詳細は「2010年ウクライナ大統領選挙」を参照

次回の大統領選挙は2010年に予定されている。政界では既に次期選挙をにらんだ行動が始まっており、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチの支持率が高い。

[編集] 軍事

ウクライナ軍は、陸軍海軍空軍の3軍種から成る。2005年末の時点で、総員24万5千人(内、軍人18万人)。

[編集] 準軍事組織

ウクライナには、ウクライナ軍以外に、以下の準軍事組織が存在する。

[編集] 外交

ユシチェンコ大統領の就任当初は、ロシアよりもEU(欧州連合)諸国との関係を強化することを目指していた。同様の立場を取るグルジアアゼルバイジャンモルドヴァとともにGUAM(4カ国の頭文字)と呼ばれる連合を結成し、また、同国自身が将来的にはEUへの加盟をさせようとしているとも伝えられる。

一方で、ウクライナ経済はロシアとの関係を悪化させたことにより急速に悪化。そのため、大統領はロシアとの関係に対する意見の相違からティモシェンコ首相を解任。その後は頻繁にロシアを訪問し、ロシアとの政治的・経済的関係を強化させようとするなど、現在ではロシアとの関係修復も模索している。

[編集] ビザ

2005年8月1日より日本国民がウクライナに入国する際のビザ(査証)を短期90日までの滞在(但し、就労を伴わない活動に限る)に限って、その取得を必要としない制度が開始された。しかしながら、2009年6月現在、ウクライナ国民の日本への入国には依然としてビザが必要である。

[編集] 地方行政区分と都市

詳細は「ウクライナの地方行政区画」を参照

ウクライナは、24の州と、クリミアにある1つの自治共和国、そして2つの特別市から構成される。

No. 州庁所在地 No. 州庁所在地
1 イヴァーノ=フランキーウシク州 イヴァーノ=フランキーウシク 13 チェルニウツィー州 チェルニウツィー
2 ヴィーンヌィツャ州 ヴィーンヌィツャ 14 テルノーピリ州 テルノーピリ
3 ヴォルィーニ州 ルーツィク 15 ドニプロペトロウシク州 ドニプロペトロウシク
4 オデッサ州 オデッサ 16 ドネツィク州 ドネツィク
5 キエフ州 キエフ 17 ハルキウ州 ハルキウ
6 キロヴォフラード州 キロヴォフラード 18 フメリヌィツィクィイ州 フメリヌィツィクィイ
7 ザカルパッチャ州 ウージュホロド 19 ヘルソン州 ヘルソン
8 ザポリージャ州 ザポリージャ 20 ポルタヴァ州 ポルタヴァ
9 ジトームィル州 ジトームィル 21 ムィコラーイウ州 ムィコラーイウ
10 スムィ州 スムィ 22 リヴィウ州 リヴィウ
11 チェルカースィ州 チェルカースィ 23 リヴネ州 リヴネ
12 チェルニーヒウ州 チェルニーヒウ 24 ルハンシク州 ルハンシク
- 特別市 No. 自治共和国 自治共和国の首都
- キエフ (首都) セヴァストポリ 25 クリミア自治共和国 シンフェロポリ
ウクライナの都市(2001年[14]
都市 行政区分 人口 都市 行政区分 人口
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キエフ

リヴィウ

1 キエフ キエフ 2,611,327人 11 ルハンシク ルハンシク州 463,097人
2 ハルキウ ハルキウ州 1,470,902人 12 マキーイウカ ドネツィク州 389,589人
3 ドニプロペトロウシク ドニプロペトロウシク州 1,065,008人 13 シンフェロポリ クリミア自治共和国 358,108人
4 オデッサ オデッサ州 1,029,049人 14 ヴィーンヌィツャ ヴィーンヌィツャ州 356,665人
5 ドネツィク ドネツィク州 1,016,194人 15 セヴァストポリ セヴァストポリ 342,451人
6 ザポリージャ ザポリージャ州 815,256人 16 ヘルソン ヘルソン州 328,360人
7 リヴィウ リヴィウ州 732,818人 17 ポルタヴァ ポルタヴァ州 317,998人
8 クルィヴィーイ・リフ ドニプロペトロウシク州 668,980人 18 チェルニーヒウ チェルニーヒウ州 304,994人
9 ムィコラーイウ ムィコラーイウ州 514,136人 19 チェルカースィ チェルカースィ州 295,414人
10 マリウポリ ドネツィク州 492,176人 20 スームィ スームィ州 293,141人

[編集] 経済

詳細は「ウクライナの経済」を参照

ソビエト連邦時代は、連邦内の重要な農業および産業地帯であったが、現在は天然ガスを中心とするエネルギー供給のほとんどをロシアに依存しており、経済の構造改革の遅れと相まって、他国の影響を受けやすいものになっている。

1991年、政府はほとんどの物資の価格を自由化し、国有企業を民営化するための法制度を整備した。しかし、政府や議会内で強い抵抗が起きたことから、すぐに改革は停止され、過去に逆行するような政策がとられた。1999年の生産高は、1991年の40%にまで落ち込んだ。1993年の末頃には、通貨政策の失敗によりハイパーインフレーションにまで至った。

現在の政府は、経済への介入を極力減らし、調整方法を合理化することに努めるとともに、企業家を支援する法環境を整備し、包括的な税制の改革を行った。ただし構造改革の政治的な問題に関わる分野や農地の民営化に関する改革は遅れている。

2000年国内総生産(GDP)は、輸出の伸びに支えられて6%という成長をみせ、工業生産高の成長も12.9%だった。これは独立以来初めての上方成長であった。経済の成長は2001年も続き、実質国内総生産で9%、工業生産高で14%以上伸びた。2002年から2004年の間も、中国への鉄鋼輸出の急増に起因して急成長を続けた。

ところが2005年、ユシチェンコ政権の成立後暗転し始める。それまでの好調なウクライナ経済は、ロシアからの安価なエネルギー資源および原料の供給、経済発展を続けるロシアや中国への輸出等によって支えられていた。しかしユシチェンコ大統領は就任直後、ロシアとは距離を置き、EUやアメリカなどとの関係を強化する姿勢を示した。大統領はアメリカなど西欧諸国からの投資拡大を見込んでいたが、実際にはそれほど投資は増えず、逆にロシアからの安価な資源供給が受けられなくなり、またロシアに並ぶ輸出相手国であった中国の需要が減少するなど経済環境が悪化。

ロシアとの関係が急激に悪化し経済が失速する中で、特にウクライナ経済を牽引していた東部地域の住民を中心に、ロシアとの関係改善を望む声が急速に高まった。危機感を覚えた大統領はまずティモシェンコ首相を解任。ついでモスクワを訪問し、「ロシアは我々の永遠の戦略的パートナーだ」と発言するなど、ロシアとの関係修復に奔走した。しかし、ロシアとの関係のみが現在ウクライナの経済を低迷させている要因というわけではない。

[編集] 交通

詳細は「ウクライナの交通」を参照

ウクライナの交通は、鉄道バス船舶航空機自動車などによっている。鉄道は、ウクライナ鉄道によって一元化されている。一方、ウクライナの航空会社はソ連時代のアエロフロート一括管理型から多くの中小の航空会社が競合する状態になっている。

[編集] 人口

ウクライナにおけるウクライナ人の人口(2001年度全ウクライナ国勢調査より)

詳細は「ウクライナの人口」を参照

主要民族はウクライナ人で、全人口の約8割を占める。他に少数民族としてロシア人ベラルーシ人モルドヴァ人クリミア・タタール人ブルガリア人ハンガリー人ルーマニア人ポーランド人ユダヤ人がいる。

東部や南東部の産業地帯は最も人口が集中しており、全人口の70%が都市部に住んでいる。

主要な言語はウクライナ語であり、言語法により唯一の国家語、公用語とされている。公式統計によれば、ウクライナ語を母語とする国民は7割に達する。また、多くの国民はウクライナ語ロシア語の2言語を理解する。ロシア語は、公式なステータスを持たないが、ハルキウなどのある東部、オデッサなどのある南部、キエフのある中部を中心に全土で広範囲に渡り話されている。

西部においてはウクライナ語使用人口が年々増えており、ロシア語は一般的ではない。ウクライナ語ロシア語は、ともに東スラヴ語群に属し、近似した言語であるが、ウクライナの大半は歴史上ポーランドポーランド王国)の一地方であった時代が長いためポーランド文化の影響を強く受けており、そのためウクライナ語ポーランド語チェコ語など西スラヴ語群との類似性も多く見られる。なお、ウクライナ語には多数の方言が存在している。

[編集] 宗教

詳細は「ウクライナの宗教」を参照

現在ウクライナの国民は多くキリスト教徒アイデンティティを持っているが、大半は特定の宗教団体に属していない[17]。伝統的な宗教は、正教会の一員であるウクライナ正教会である。ルーシの洗礼以来ウクライナの正教会はコンスタンディヌーポリ総主教庁に属していたが、1686年モスクワ総主教に移され、20世紀末までモスクワ総主教庁に属していた。この移管は教会法に違反していた[18]が、モスクワ総主教庁側はこの移管を「教会法違反」とは捉えていない。1990年には、ウクライナの独立運動の興隆に呼応して、モスクワ総主教庁から分離独立したキエフ総主教庁が設立された。現在、このキエフ総主教庁・ウクライナ正教会の教会法上の合法性を認めている他国の正教会は存在しないが、キエフ総主教庁は教会法解釈・歴史認識につき主張をしつつ、自らの合法性の承認を得るべく様々な活動を行っており、信徒数の上でもウクライナにおける最大の教会となっている。これに次ぐ正教会としてモスクワ総主教庁のもとに留まりつつ事実上の自治を行っているウクライナ正教会(モスクワ総主教庁系)があり、こちらは他国の正教会からも教会法上の合法性を認められているが、ウクライナ国内での信者数は減少している。他にも独立ウクライナ正教会と独立合法ウクライナ正教会の教会組織が存在する。

東方典礼カトリック教会たるウクライナ東方カトリック教会が正教に次いで勢力を有する。西方典礼のカトリック教会およびプロテスタント、さらにイスラム教徒ユダヤ教徒仏教徒も少数存在する。

[編集] 教育

詳細は「ウクライナの教育」を参照

キエフ大学
リヴィウシカ・ポリテフニカ大学

1995年から6歳から17歳までの11年間が義務教育である。小学校・中学校に相当する9年間は同じ学校に通い、10年目以降は普通学校と専門学校のいずれかを選択することになる。このため11年間同じ学校に通う生徒も存在する。

必須科目はウクライナ語のほか、情報学、経済学などで、英語は1年生からの必須科目で、ロシア語は選択科目となっている。

ウクライナの学校は、3月末に1週間の春休み、6 - 8月に3ヵ月間の夏休み、12月末 - 1月に約2週間の冬休みがある。

[編集] 大学

[編集] 文化

詳細は「ウクライナの文化」を参照

[編集] 料理

詳細は「ウクライナの料理」を参照

[編集] スポーツ

詳細は「ウクライナのスポーツ」を参照

他のヨーロッパ諸国同様、サッカーテニスバスケットボールバレーボールなどの球技に人気がある。2012年にはポーランドと共催でサッカー欧州選手権2012が開催されることになっている。

相撲の大鵬の父はウクライナ人であることは良く知られており、ウクライナ人は親日的である[要出典]

[編集] 文学

詳細は「ウクライナの文学」を参照

[編集] 美術

詳細は「ウクライナの美術」を参照

[編集] 世界遺産

ウクライナ国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が1件ある。詳細は、ウクライナの世界遺産を参照。

[編集] 音楽・舞踊

[編集] 神話・昔話

[編集] 祝祭日

詳細は「ウクライナの祝祭日」を参照

祝祭日
日付 日本語表記 ウクライナ語表記 備考
1月1日 元日 Новий рік
1月7日 クリスマス Різдво
3月8日 国際女性デー Міжнародний жіночий День
5月1日 労働の日 День міжнародної солідарності трудящих
移動祝日 復活祭 Великдень
5月9日 勝利記念日 День Перемоги
復活祭の第8日曜日 三位一体の日 Трійця
6月28日 憲法記念日 День Конституції
8月24日 独立記念日 День Незалежності

[編集] ウクライナ出身の有名人

詳細は「ウクライナ人の一覧」を参照

日本人の母とウクライナ人の父の間に生まれた「昭和の大横綱

[編集] 政治

[編集] 文学

[編集] 学術

[編集] スポーツ

[編集] 音楽・芸術

[編集] 映画

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. ^ (ウクライナ語) ウクライナ憲法 // ウクライナ最高議会公式ページ。
  3. ^ 日本語文献では「ウクライナ共和国」という正式国号がしばしば見られるが、間違いである。
    ウクライナ語では「Україна」と表記される。発音は、日本語には「ї」に近い発音がないため表記が困難であるが、便宜的に「ウクライィーナ」と表現される。ラテン文字転写としては「Ukrayina」や「Ukraina」などが用いられる。ロシア語では「Украина」と表記し、「ウクライーナ」のように発音する。
  4. ^Оукраина」(ウクライナ)あるいは「Вкраина」(ヴクライナ)
  5. ^ Полное собрание русских летописей (ПСРЛ). — Т. 2. Ипатьевская летопись. — СПб., 1908. — c. 652.
  6. ^ Полное собрание русских летописей (ПСРЛ). — Т. 2. Ипатьевская летопись. — СПб., 1908. — c. 663.
  7. ^ Полное собрание русских летописей (ПСРЛ). — Т. 2. Ипатьевская летопись. — СПб., 1908. — c. 732.
  8. ^ Полное собрание русских летописей (ПСРЛ). — Т. 2. Ипатьевская летопись. — СПб., 1908. — c. 881.
  9. ^ (ウクライナ語) Яковенко, Н. Нарис Історії України з найдавніших часів до кінця XVII. — К., 1997
  10. ^ 1657年にスヴェーデン王国との交渉中のコサックの棟梁イヴァン・ヴィホーヴシクィイは、「ギリシアの信仰ルーシの言葉が広まっている地域、ヴィスワ川までの昔のウクライナ、あるいはルーシ」の所有権の承認を主張していた。(ウクライナ語) Яковенко, Н. Нарис Історії України з найдавніших часів до кінця XVII. — К., 1997
  11. ^ (ウクライナ語) Яковенко, Н. Нарис Історії України з найдавніших часів до кінця XVII. — К., 1997
  12. ^ http://www.president.gov.ua/content/golodomor_75_30.html
  13. ^ Orest Subtelny. Ukraine: A History. Univ of Toronto Pr; 3rd ed. 2000. pp. 413-424.
  14. ^ ウクライナ統計委員会-2001年度の全ウクライナ国勢調査
  15. ^

    ██ ウクライナ語

    ██ ロシア語

    ██ その他

  16. ^ 左図

    ██ ウクライナ人

    ██ ロシア人

    ██ その他

    右図

    ██ ベラルーシ人

    ██ モルドバ人

    ██ クリミア・タタール人

    ██ ブルガリア人

    ██ ハンガリー人

    ██ ルーマニア人

    ██ ポーランド人

    ██ ユダヤ人

    ██ アルメニア人

    ██ ギリシャ人

    ██ ドイツ人

  17. ^ (ウクライナ語) ウクライナ世論調査:宗教 // ラズムコーウ・センター(2000年‐2009年)。2009年6月3日閲覧。
  18. ^ (ウクライナ語) Огієнко І. І. Українська церква: Нариси з історії Української Православної Церкви: У 2 т.: Т. l-2. — К.: Україна, 1993. — 284 с. — XII. Обмосковлення Української Церкви ISBN 5-319-01166-0
    (英語) Orest Subtelny. Ukraine: A History. Univ of Toronto Pr; 3rd ed. 2000. - Society, Economics, and Culture. pp. 193-194.
  19. ^ 本節全体の出典:(英語) ウクライナ // ザ・ワールド・ファクトブック。2009年5月14日閲覧。

[編集] 参考文献

[編集] 著作

  • (日本語) 新興国ウクライナ / ウイルヘルム・キスキー[他]. 世界思潮研究会、1921.
  • (日本語) ウクライナ、白ロシア、モルダビアの民話 / 伊集院俊隆. 新読書社、1985.
  • (日本語) シベリア、ウクライナ私の捕虜記 / 後藤敏雄. 国書刊行会、1985.
  • (日本語) ウクライナ語入門 / 中井和夫. 大学書林、1991.
  • (日本語) とどけウクライナへ / 坂東弘美. 八月書館、1991.
  • (日本語) ウクライナとモルドバ / 秋山秀一. 芦書房、1992.
  • (日本語) スキタイ黄金美術展図録 / 江上波夫、加藤九祚. 日本放送協会、1992.
  • (日本語) うくらいな / 島田文彦. 日本図書刊行会、1993.
  • (日本語) ウクライナ / 早坂真理. リブロポート、1994.
  • (日本語) グルジア、ウクライナの歌 / 二見淑子. 近代文芸社、1995.
  • (日本語) ウクライナ語基礎1500語 / 黒田竜之助. 大学書林、1995.
  • (日本語) てぶくろ:ウクライナ民話 / 田中かな子[他]. メイト、1995.
  • (日本語) 日本とウクライナの国境をこえて / 長田久文. 長田久文、1996.
  • (日本語) かものむすめ:ウクライナ民話 / 松谷さやか[他]. 福音館書店, 1997.
  • (日本語) 黄金のシルクロード展 / 加藤九祚. 黄金のシルクロード展実行委員会、1998.
  • (日本語) ウクライナ・ナショナリズム / 中井和夫. 東京大学出版会、1998.
  • (日本語) ポーランド・ウクライナ・バルト史 / 伊東孝之、井内敏夫、中井和夫. 山川出版社、1998.
  • (日本語) わらのうし / 内田莉莎子[他]. 福音館書店、1998.
  • (日本語) ブラジル、インド、中国、タイ及びウクライナの砂糖産業. 農畜産業振興事業団、2000.
  • (日本語) 国境・領土紛争の比較研究‐ロシアとウクライナ、中国、日本 / 木村、汎、国際日本文化研究センター. 2000-2001.
  • (日本語) 物語ウクライナの歴史 / 黒川祐次. 中央公論新社, 2002.
  • (日本語) 帝政ロシアのウクライナ諸県における農業史と家族史・歴史人口統計学的研究 / 佐藤芳行、新潟大学. 2002-2003.
  • (日本語) マフノ運動史 / ピョートル・アルシノフ[他]. -- 社会評論社、2003.
  • (日本語) ネイションとステートの形成プロセスにおけるウクライナ・アイデンティティーの確立 / 末澤恵美、平成国際大学. 2003-2005.
  • (日本語) ウクライナ100の素顔 / 東京農大ウクライナ100の素顔編集委員会. 東京農業大学出版会、2005.
  • (日本語) 現代ウクライナ短編集 / 藤井悦子、オリガ・ホメンコ. 群像社、2005.
  • (日本語) ウクライナ丸かじり / 小野元裕. ドニエプル出版、2006.
  • (日本語) 日本語-ウクライナ語・ウクライナ語-日本語単語集 / 阿部昇吉[他]. 国際語学社、2007.
  • (日本語) 大地の肖像 / 藤井讓治、杉山正明、金田章裕. 京都大学学術出版会、2007.
  • (日本語) ウクライナ語会話 / ユーラシアセンター. ベスト社、2007.4
  • (日本語) 北方の資源をめぐる先住者と移住者の近現代史 / 北海道開拓記念館. 北海道開拓記念館、2008.
  • (日本語) 地域間の歴史世界 / 鈴木健夫. 早稲田大学出版部、2008.
  • (日本語) ウラン投資環境調査:ウクライナ. 石油天然ガス・金属鉱物資源機構金属資源開発本部企画調査部、2008.
  • (日本語) ウクライナ・国鉄機関車修理工場の近代化調査報告書. 経済産業省、2008.
  • (日本語) ニューエクスプレス ウクライナ語 / 中澤英彦. 白水社、2009.

[編集] 論文

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  • (日本語) プーチン時代のロシア=ウクライナ関係 (特集2 プーチンの外交) / 末澤 恵美. ユーラシア研究. (27). 2002.11.
  • (日本語) NATO・ウクライナ関係について / 北住 英樹. 鵬友. 29(2). 2003.7.
  • (日本語)「ウクライナ民族主義者組織(OUN)」と「ウクライナ蜂起軍(UPA)」のウクライナ独立国家構想とその戦略 - 対ソ政策と対ポーランド政策を中心に / 柳沢 秀一. 現代史研究. (通号 50). 2004.
  • (日本語) 検証 ウクライナでの"オレンジ革命"--革命成功の原因と新政権の課題 / 井沢 正忠. 海外事情研究所報告. (通号 39). 2005.
  • (日本語) ウクライナ大統領選挙に関する一考察 / 粟田 聡. ユーラシア研究. (32). 2005.5.
  • (日本語) ウクライナにおける日本語教育の現状と問題点 / 立間 智子. 国際交流基金日本語教育紀要. (2). 2006.
  • (日本語) 特別寄稿 ロシア天然ガス供給停止の波紋 - ウクライナ問題と日本への示唆 / 村木 茂. エネルギーレビュー. 26(3) (通号 302). 2006.3.
  • (日本語) ウクライナとロシア原油--供給源・ルート多元化をめぐる戦い / 藤森 信吉. 比較経済研究. 43(2). 2006.8.
  • (日本語) 世界史Q&A ベラルーシ人・ウクライナ人とロシア人の違いについて教えてください (世界史の研究(209)) / 中井 和夫. 歴史と地理. (通号 599). 2006.11.
  • (日本語) イヴァン・フランコの『狐ミキータ』- ウクライナにおけるゲーテ受容の一例 / 小粥 良. Goethe-Jahrbuch. 49. 2007.
  • (日本語) レーシャ・ウクラインカ再読--ウクライナ文学におけるナショナル・アイデンティティ / 原田 義也. スラヴ研究. (54). 2007.
  • (日本語) ウクライナ語《ridna mova》が意味するもの / 〆木 裕子. 大阪大学言語文化学. 17. 2008.
  • (日本語) ウクライナの現代言語状況と言語問題 / 芳之内 雄二. 北九州市立大学文学部紀要. (74). 2008.
  • (日本語) ウクライナ系カナダ人のエスニシティと社会統合 - ウクライナ・ヴィレッジ設立とその公営化までを中心に / 浦田 葉子. 経営研究. 21(1) (通号 50). 2008.1.
  • (日本語) ウクライナのWTO加盟 / 関 嘉勝. JMC journal. 56(5) (通号 686). 2008.5.
  • (日本語) 日本の鏡ウクライナ--日本への熱い期待 / 馬渕 睦夫. 外交フォーラム. 21(8) (通号 241). 2008.8.
  • (日本語) 世界の潮 ロシアとウクライナの「ガス戦争」 / 塩原 俊彦. 世界. (788). 2009.3.

[編集] 外部リンク

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