ウッドロウ・ウィルソン
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| ウッドロウ・ウィルソン Thomas Woodrow Wilson |
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アメリカ合衆国
28代大統領 |
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| 任期: | 1913年3月4日 – 1921年3月4日 |
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| 副大統領: | トーマス・マーシャル |
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| 出生: | 1856年12月28日 ヴァージニア州スタントン |
| 死去: | 1924年2月3日 ワシントンD.C. |
| 政党: | 民主党 |
| 配偶: | 1. エレン・ルィーズ・ウィルソン 2. イーディス・ボーリング・ウィルソン |
| サイン: | ![]() |
トーマス・ウッドロウ・ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson, 1856年12月28日 - 1924年2月3日)は、第28代アメリカ合衆国大統領。政治学者であり、アンドリュー・ジャクソンの次にホワイトハウスで連続2期を勤めた2人目の民主党大統領。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 生い立ち
ヴァージニア州スタントンでジョゼフ・ウィルソンとジャネット・ウッドロウの長男として生まれる。祖父と父は敬虔なキリスト教牧師であり、特に父は合衆国長老教会の創設者の一人である。祖先は北アイルランドのストラベーンの出で、トーマス本人はジョージア州オーガスタで成長した。
父はトーマスに牧師の後を継がせようとしたが、ウィリアム・グラッドストンに私淑して政治家を志した。
トーマスは自らを「神の子」と信じていたふしがあり、政治への道を召命と見なしたことで、後にジークムント・フロイトの精神分析対象となった [1]。
デイヴィッドソン大学に入学し、1年後にプリンストン大学へ編入し1879年に卒業した。ファイ・カッパ・サイのメンバーだった。後に、ヴァージニア大学で1年間法律を学んだ。1886年にはジョンズ・ホプキンス大学から政治学の博士号 (Ph.D.) を受ける。ウィルソンは研究実績に基づく博士号を得た唯一の大統領である。
[編集] 学者として
1885年にブリンマー大学で歴史学および政治学を教えた後、1888年にコネチカット州のウェスリアン大学に勤め、1890年にプリンストン大学の法律学と政治経済学の教授になった。1902年6月9日に満場一致でプリンストンの学長に選ばれた。1910年から翌年までアメリカ政治学会の会長だった。
[編集] 政治家として
ウィルソンは同時代の政治的問題に対する公的コメントにより全国的な評判を得、その立場の政治的重要性は増加した。1910年には民主党のニュージャージー州知事候補に指名されてこれを受諾、秋の選挙に勝利して学者出身知事となった。 1912年の大統領選で民主党は大統領候補にウィルソンを指名した。ウィルソンは大統領選で「ニュー・フリーダム」をスローガンに掲げた。共和党のウィリアム・タフトとセオドア・ルーズベルトはお互いに対立し、共和党は内部分裂した。結果ウィルソンは大統領選に勝利した。
[編集] 大統領として
ウィルソンはニュー・フリーダムと呼ばれる進歩主義的国内改革を実行した。企業独占を支えた高率の関税を引きさげるなど、改革の意志を鮮明にした。一方、外交では共和党政権時代の「棍棒外交」や「ドル箱外交」を批判し、「宣教師外交」を主張したが実態は何も変わらず中南米諸国から反発を招いた。ウィルソン政権下でハイチが保護国となりドミニカも軍政下に置かれた。また、メキシコ革命の際はアメリカ軍を派遣してベラクルスを武力占領し、革命に干渉した。
第一次世界大戦に対してアメリカ合衆国を中立の立場に保ち、それは 1916年の再選に寄与した。しかしながらルシタニア号沈没事件による国民の反独感情や大戦間極東における日本の台頭を懸念する世論によって参戦への圧力は増大し、アメリカは1917年4月6日にドイツへの宣戦を布告した。開戦にさいしウィルソンは国内統制を強化し愛国団体を通じて偏狭的なナショナリズムを煽り、労働運動や反戦運動などを弾圧した。
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第一次世界大戦末期の1918年1月8日に、ウィルソンは有名な「十四か条の平和原則」を発表した。その中で彼は国際平和機構の設立を提唱し、国際連盟として実現したが、アメリカ自身は議会の反対で加盟できなかった。第一次世界大戦後、和平会談に出席するため1918年12月4日ヴェルサイユへ出発した。彼は在職中にヨーロッパへ旅行した最初の大統領である。合衆国代表としてヴェルサイユ条約に調印した。4月11日に日本代表の牧野伸顕らが出した人種的差別撤廃提案に対し、イギリスとオーストラリアが反発。議長を務めたウィルソンも、移民政策が拘束されると言う反対論を無視できず、国内選挙の都合から反対に回り、「全会一致でない」と理由をつけて議長権限により否決に追い込んだ。
このことから、彼の唱える進歩的自由主義は白人のみを対象としていたという説もある。但し、ウィルソンがこの点について議会に妥協したのは、移民政策に絡み内政干渉を理由にアメリカの国際連盟不参加という事態を避けるためでもあった。しかし、後に議会の反対に遭い、結局不参加となってしまう。そのため、彼が人種差別撤廃の理念自体に反対していたかどうかには諸説ある。彼の理想主義は、現実の前にことごとく敗れたともいえる。
[編集] 政権末期
1919年10月2日、コロラド州で脳梗塞を発症、左半身不随、左側視野欠損、言語障害となった。しかし主治医と夫人のイーディスは大統領の執務不能という事態を秘匿し、以後長期にわたってイーディスがすべての国政を決裁した。一方副大統領のトーマス・マーシャルは、そもそもウィルソンと不仲で副大統領職も半ば嫌々引き受けたという事情もあり、大統領の職務不能を知ってもあえて火中の栗を拾おうとはせず、いくつかの儀典に大統領の名代として参加したほかは、大統領の職務権限の代行は一切しなかった。
こうした事実が明らかになったのは、実にウィルソンの死後になってからのことであり、これが後の大統領権限継承順位を明文化した憲法修正第25条制定の伏線となった。
ウィルソンは長期間のリハビリを経た後、政権末期ごろになってようやく閣議に出席できるまでに回復したが、言語に明瞭さは戻ったものの機械的で感情を欠き、政策も無為無策で事なかれ主義が目立つものとなった。
[編集] 内閣
| 職名 | 氏名 | 任期 |
| 大統領 | ウッドロウ・ウィルソン | 1913 - 1921 |
| 副大統領 | トーマス・マーシャル | 1913 - 1921 |
| 国務長官 | ウィリアム・ブライアン | 1913 - 1915 |
| ロバート・ランシング | 1915 - 1920 | |
| ベインブリッジ・コルビー | 1920 - 1921 | |
| 財務長官 | ウィリアム・マカドゥー | 1913 - 1918 |
| カーター・グラス | 1918 - 1920 | |
| デイヴィッド・ヒューストン | 1920 - 1921 | |
| 陸軍長官 | リンドリー・ガリソン | 1913 - 1916 |
| ニュートン・ベイカー | 1916 - 1921 | |
| 司法長官 | ジェームズ・マクレイノルズ | 1913 - 1914 |
| トーマス・グレゴリー | 1914 - 1919 | |
| ミッチェル・パルマー | 1919 - 1921 | |
| 郵政長官 | アルバート・バーレソン | 1913 - 1921 |
| 海軍長官 | ジョセファス・ダニエルズ | 1913 - 1921 |
| 内務長官 | フランクリン・レーン | 1913 - 1920 |
| ジョン・パイン | 1920 - 1921 | |
| 農務長官 | デイヴィッド・ヒューストン | 1913 - 1920 |
| エドウィン・メリディス | 1920 - 1921 | |
| 商務長官 | ウィリアム・レッドフィールド | 1913 - 1919 |
| ジョシュア・アレグザンダー | 1919 - 1921 | |
| 労働長官 | ウィリアム・ウィルソン | 1913 - 1921 |
[編集] 結婚
1885年にジョージア州出身のエレン・ルイーズ・アクソンと結婚し、マーガレット、ジェシー、エレノアの三女をもうけた。エレンは徐々に健康を害し1914年腎臓炎で死去した。ウィルソンは、在任中に独身だったことのある3人の大統領のうちの一人となっている。
1915年、58歳のウィルソンは、ボーリング家(ポカホンタスの子孫)出身。未亡人となっていた43歳のイーディス・ボリング・ガルト(Edith Bolling Galt、1872年 - 1961年)を紹介され再婚した。イーディスは第一次世界大戦下でファーストレディの重責を務め、1919年にウィルソンが倒れると2年間にわたり非公式ながら夫に代わって国政をみた。
[編集] その他
- ジョンズ・ホプキンズ大学の学生寮ウィルソン・ハウスは彼にちなんで命名された。 プリンストン大学の公共政策大学院であるウッドロウ・ウィルソン・スクールも彼にちなんで命名されている。
- ウィルソンの肖像は1928年から1946年まで10万ドル紙幣 ($100,000) に使用されていた。但しこの紙幣は、一般流通用ではなく連邦準備制度理事会や財務省の財務処理のためにのみ使用される金証券だった。また原子力潜水艦ウッドロウ・ウィルソン も彼にちなんで命名されたもの。
- 現在のスロバキアの首都であるブラチスラヴァ市は、第一次世界大戦後短期間「ウィルソン市」(Wilsonovo mesto)と呼ばれた。これはウィルソン大統領がチェコスロバキアの建国を支援したことを記念したものであった。
- ディスレクシアの為、9歳まで文字が読めず、11歳まで文章を書くことができなかった。
- 伝記にアーサー・リンク、草間秀三郎訳『ウッドロー・ウイルソン伝』(南窓社、1980年)がある。
[編集] 脚註
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- ホワイトハウス発表の経歴(英語)
- 演説のオーディオクリップ
- 1期目就任演説(英語)
- 2期目の就任演説(英語)
- 生地、バージニア州スタントンにあるWoodrow Wilson Presidential Library
- ジョージア州、オーガスタの幼年時代を過ごした家
- ワシントンDCのWoodrow Wilson House
- Woodrow Wilson International Center for Scholars(ワシントンDC)
- ウィルソンに関するリンク集
- プロジェクト・グーテンベルクにおける Woodrow Wilsonの作品
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pnb:ووڈرو ولسن
最終更新 2009年10月24日 (土) 19:13 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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