エドワード・S・モース

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エドワード・S・モース

エドワード・シルヴェスター・モースEdward Sylvester Morse1838年6月18日 - 1925年12月20日)は、アメリカの動物学者。標本採集に来日し、請われて東京大学お雇い教授を2学年勤め、大学の社会的・国際的姿勢の確立に尽力した。大森貝塚を発掘した。日本に初めて、ダーウィン進化論を体系的に紹介した。『モールス』とも書かれる。

目次

[編集] 生涯

メイン州ポートランドに生まれた。高校は入退学を繰り返し、製図工の勤めも長続きしなかったが、13歳ごろから採集し始めた貝類の標本は、学者が見学にくるほど充実していた。1854年(18歳)、博物学協会に入り、1857年、新種のカタツムリを協会誌上に報告した。

貝の縁で、1859年から2年余、ハーヴァード大学ルイ・アガシー教授の学生助手を勤め、アガシーやジェフェリーズ・ワイマン(Jefferies Wyman)の講義を聴き、ワイマンの貝塚発掘にも関係した。生物学界に人脈も作った。ダーウィンの『種の起源』が、1859年に出ていた。

講演にたけ、その謝礼金が生活を助けた。1867年、ジョージ・ピーボディ(George Foster Peabody)の寄付を得て、3人の研究仲間とセイラムに『ピーボディー科学アカデミー』(1992年以降のピーボディ・エセックス博物館)を開き、1870年まで軟体動物担当の学芸員を勤めた。1868年、セイラムに終生の家を構えた。

1871年(31歳)から1874年まで、(大学卒の学歴がないのに)ボードイン大学(Bowdoin College)教授を勤め、ハーヴァード大学の講師も兼ねた。1872年からアメリカ科学振興協会の幹事になった。

初訪日(1877年6月 - )

進化論の観点から腕足動物に注目し、1877年(明治10年)6月、その種類の多い日本に私費で渡った。文部省に採集の諒解を求めるため横浜駅から新橋駅へ向かう汽車の窓から、貝塚を見つけた。ハインリッヒ・フォン・シーボルトも執念を持った大森貝塚である。訪れた文部省では、東京大学動物学生理学教授への就任を請われた。江ノ島臨海実験所を作ろうとも言われた。

東京を見歩いた。日光へ採集旅行もした。東大と契約した。そして江ノ島の漁師小屋を『臨海実験所』に改造し、7月17日から8月29日まで採集した。9月12日、講義を始めた。9月16日、学生ほかと大森貝塚を掘り始め、出土品を教育博物館に展示した。9月24日、東大で進化論を講義し、10月、その公開講演もした。11月初め、一時帰国した。東大と外務省の諒解を得て、大森貝塚の出土品の重複分を持ち帰った。

一時離日(1877年11月 - )

持ち帰った出土品をアメリカの博物館・大学へ寄贈し、その見返りにアメリカの資料を東大に寄贈して貰うという、国際交流を実行した。また、東大から依頼された物理学の教授には、トマス・メンデンホールを、哲学の教授にはアーネスト・フェノロサを斡旋した。さらに、計2500冊の図書を購入し、寄贈を受け、東大図書館の基礎を作った。

再訪日(1878年4月 - )

1878年(明治10年)(40歳)、4月下旬、家族をつれて戻った。1863年に結婚した妻エレン(Elen Elizabeth Owen)と一男一女である。

6月末浅草で、『大森村にて発見せし前世界古器物』を500人余に講演し、考古学の概要、『旧石器時代』『新石器時代』『青銅器時代』『鉄器時代』の区分、大森貝塚が『新石器時代』に属することを述べ、出土した人骨に傷があり現在のアイヌには食人風習がないから「昔の日本には、アイヌとは別の、食人する人種が住んでいた」と推論した[1]。演説会の主催および通訳は、江木高遠であった。(講演の中の『プレ・アイヌ説』は、考古学の主流にならなかった[2]。)

7月中旬から8月末まで、採集に北海道を往復した。10月の『東京大学生物学会』(現在の『日本動物学会』)の発足に関わった。日本初の学会である。

この滞日期には、『進化論』(4回)、『動物変進論』(3回)、『動物変遷論』(9回)の連続講義を始め、陸貝、ホヤ、ドロバチ、腕足類、ナメクジ、昆虫、氷河期、動物の生長、蜘蛛、猿、などに関する多くの学術講義や一般向け講演をした。江木高遠が主宰した『江木学校講談会』の常任講師であった。(『動物変遷論』は、1883年、モースの諒解のもとに石川千代松が、『動物進化論』の名で訳書を出版した。)

貝塚の土器から興味が広がり、1879年初から、蜷川式胤に日本の陶器について学んだ。5月初めから40日余、九州近畿地方に採集旅行をし、陶器作りの見学もした。

1879年7月、大森貝塚発掘の詳報、"Shell Mounds of Omori"を、Memoirs of the Science Department, University of Tokio(東京大学理学部英文紀要)の第1巻第1部として出版した。ときの東大綜理加藤弘之に、「学術報告書を刊行し、海外と文献類を交換するよう」勧めたのである。(この中で使われた"cord marked pottery"が、日本語の『縄文式土器』となった。)

1879年8月10日、冑山(現在の熊谷市内)の横穴墓群を調査し、その31日、東京大学を満期退職し、9月3日、離日した。後任には、チャールズ・オーティス・ホイットマンを斡旋した。

再帰国(1879年9月 - )

1880年7月、古巣の『ピーボディー科学アカデミー』の館長となり、講義講演の活動を続けたが、日本の民具・陶器への執着はやまなかった。

再々訪日(1882年6月 - )

1882年(明治15年)(44歳)6月初、家族を残し、日本美術研究家のビゲロー(William Sturgis Bigelow)と横浜に着いた。東大側は歓迎し宿舎を提供した。あちこちで講演し、冑山の再訪もしたが、今回は民具と陶器の収集が目的で、民具は、『ピーボディー科学アカデミー』用であった。大隈重信が、所蔵の全陶器を贈った。

7月下旬から9月上旬まで、フェノロサ、ビゲロ-らと、関西・中国へ収集・見学の旅をした。そして武具や和書も集めたのち、1883年2月、単身離日した。

離日(1883年2月)

離日後、東南アジアフランスイギリスを回って収集し、6月ニューヨークに着いた。集めた民具は800点余、陶器は2900点に上った。

1884年(46歳)、アメリカ科学振興協会の人類學部門選出副会長、1886年、同協会会長となった。1887年、1888年、1889年にもヨーロッパへ、学会や日本の陶器探しの旅をした。

1890年(52歳)、日本の陶器のコレクションをボストン美術館へ譲渡して管理に当たり、1901年、その目録(Catalogue of the Morse Collection of Japanese Pottery)を纏めあげた。

1898年(60歳)、日本から勲三等旭日章を受けた。1902年、20数年ぶりに動物学の論文の執筆を再開した。

1913年(75歳)、30年以上前の日記とスケッチをもとに、『日本その日その日』を書き始めた。1914年、ボストン博物学会会長となった。1915年、『ピーボディー科学アカデミー』が改名した『ピーボディー博物館』の名誉会長になった。1917年、『日本その日その日』を書き終えて出版した。1922年、日本から勲二等瑞宝章を受けた。

1923年(85歳)、関東大震災による東京帝国大学図書館の壊滅を知り、全蔵書を東大に寄付する旨、遺言を書き直した。

1925年(87歳)、貝塚に関する論文を絶筆に、12月20日脳溢血でセイラムの自宅に没し、ハーモニー・グローヴ墓地(Harmony Grove Cemetery)に葬られた。1万2000冊の蔵書が東大に遺贈された。

大森貝塚が取り持つ縁で、大田区とセイラム市とは、姉妹都市になっている[3]

[編集] おもな著書

邦訳を入れ子で記す。

  • 『動物学初歩』(First Book of Zoology)(1875)
  • 『大森貝塚』(Shell Mounds of Omori)(1879)
  • 『モース日本陶器コレクション』(Catalogue of the Morse Collection of Japanese Pottery)(1901)
  • 『中国とその住居、瞥見』(Glimpses of China and Chinese Homes)(1902)
  • 『火星の謎』(Mars and its Mystery)(1906)
  • 『日本その日その日』(Japan Day by Day)(1917)
  • 『日本のすまい・内と外』(Japanese Homes and Their Surroundings)(1885)

[編集] 参考図書

[編集] 脚注

  1. ^ 近藤義郎・佐原真訳、『大森貝塚』、岩波文庫(1983)ISBN 9784003343210 p.131 - p.135
  2. ^ 同上 p.213
  3. ^ 大田区役所公式サイト

[編集] 関連項目

最終更新 2009年11月15日 (日) 10:36 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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