エリック・ハイデン
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| オリンピック | ||
|---|---|---|
| 男子 スピードスケート | ||
| 金 | 1980 | 500m |
| 金 | 1980 | 1000m |
| 金 | 1980 | 1500m |
| 金 | 1980 | 5000m |
| 金 | 1980 | 10000m |
エリック・ハイデン(Eric Arthur Heiden、1958年6月14日 - )はアメリカ合衆国のスピードスケート選手。ウィスコンシン州マディソン出身。
1980年に地元で行われたレークプラシッドオリンピックにおいて、男子スピードスケートで500m、1000m、1500m、5000m、10000mの5種目すべてで金メダルを獲得する快挙を達成した、「パーフェクト・ゴールドメダリスト」。
また、妹のベス・ハイデンも女子3000mにて同大会で銅メダルを獲得し、兄妹そろって同大会でメダル獲得をした。
その後、自転車競技のロードレースに転身。1985年、初代全米プロ自転車選手権ロードレース(現 フィラデルフィア・インターナショナル・チャンピオンシップ)の優勝者となり、1986年のツール・ド・フランスではセブンイレブンチームの一員として参加したが、第18ステージで途中棄権した。なお、自転車競技選手としては1990年まで現役を続けた。
スケート引退後はウィスコンシン大学医学部を卒業、現在は整形外科医。
[編集] 完全制覇までの道のり
挫折から無敵の存在へ
ハイデンは幼少時より、スポーツマニアの父により様々な競技をさせられていた。初めてスケートリンクに立ったのは3歳のときだったという。スピードスケートを本格的に始めた高校の時にはすぐに全米でもトップクラスの選手となり、世界ジュニアスプリントで2位に入った。しかし1976年、初めて挑戦したインスブルックオリンピックでは、500,1000mとも入賞すら果たせず、当時スケート大国であったソ連、オランダ勢には遠く及ばなかった。
これを機にハイデンは地元のクラブの女性コーチダイアン・ホルム(札幌オリンピックスピードスケート1500m金メダリスト)に頼み込んで独自の超ハードな練習を徹底的に行い、驚異的な肉体を身につけた。太ももの太さは74センチに達していたという。 それでも本人もコーチも未知のトレーニング(オイルを塗った床の上ですべる練習やゴムチューブを巻きつけて引っ張り遠心力に耐える等)であったため、実際に成功に結びつくかは不安であり、またコーチもナショナルチームのコーチといった存在ではなく、単なる地元のスケート教室のトレーナーであったため、旅費を捻出できずにヨーロッパ遠征にも同行できないという状況であった。
しかし結果は、1977年から1979年まで世界選手権でのスプリント、総合の両部門を完全制覇するという、正に無敵の存在となり、本場のヨーロッパ勢を唖然とさせることとなった。また、ハイデンのトレーニング方法も今日でも普通にスピードスケートの選手が取り入れるポピュラーなものとなったのである。世界新記録も何度も更新し、万全の体制で1980年、地元のレークプラシッドで行われる冬季オリンピックに望むこととなる。
史上唯一の完全制覇
1980年の冬季オリンピック・レークプラシッド大会は、ハイデンが全種目制覇を達成するかに全世界の注目が集まった。地元アメリカの選手であり、21歳という若さにもかかわらずスピードスケートの頂点に君臨していたこと、また日程的にも種目間にインターバルが十分取れるということもあり、本人も完全制覇を意識していた。しかし実際には強力なライバルもおり、容易ではなかったのである。
まず最初の種目は500mだが、この種目が一番不安視されていた。同走のソ連のエフゲニー・クリコフは当時の世界記録保持者、しかもハイデンは不利なアウトスタート(当時は500mは一発勝負)だったのである。さらに悪いことに、ハイデンは最初のスタートでフライングを犯してしまい、やり直しとなったスタートでクリコフの先行を許してしまう。クリコフのリードでレースは進み、もはやハイデンの夢は最初から打ち砕かれてしまうのかと思われた時、クリコフがカーブで大きくバランスを崩し、そのお陰でハイデンはリードを奪い、金メダルを獲得することが出来た。クリコフは猛烈な追い上げで銀メダルとなったが、ミスがなければまずハイデンを破っていたと思われる。このように、完全制覇のスタートは幸運のお陰ともいえたのであった。
続く5000mは彼自身「体力的にもっともきつい」と言っていたレースである。結果は僅差の競り合いを一秒差で制することとなり、「ラッキーだった」と述べた。インターバルを置いた1000mは五種目中唯一、なんの問題もなく制覇し三冠を達成したハイデンであったが、続く1500mでは、楽勝ペースかと思われた矢先に、今度は600m付近で彼自身が大きくバランスを崩し、転倒しかけるという場面が見られた。しかし強靭な太ももとボディバランスで持ち直し、4つ目の金メダルを獲得した。安堵感からかインタビューでは感想を求められての第一声に「ワーオ!」とおどけて見せている。
そしてついにインターバルを置いて最終10000mに臨むことになるが、ここに一番の難関が待ち構えていたのである。前日に、ハイデンはアイスホッケーの決勝を観戦。学生中心で臨んだアメリカが、最強と言われていたソ連チームを破って金メダルを獲得した試合に熱狂し、興奮のあまり、夜なかなか眠ることが出来なかったという(ディスコでフィーバーしていたというの噂はデマであると本人が証言)。おかげでハイデンは翌日スケート会場に遅れて到着し、コーチや関係者をやきもきさせた。
そんな中臨んだ最終種目10000mでは、同走はこれまた当時の世界記録保持者であったソ連のラスキン。ところがラスキンは個人の記録以上に、ハイデンの全種目制覇を阻まんと、スケート大国の威信に燃えていたのである。スタート直後から飛ばしに飛ばし、ハイデンのペースを狂わせる作戦に出たラスキンにハイデンは大きく取り残され、精神的にかなりのプレッシャーを課されることとなった。それでもコーチは冷静で、ハイデンに構わずペースを守り続けるように指示を与える。結局5000m付近でラスキンは失速し、今度は逆にハイデンの独走となる。
しかし最終種目だけにこれまでの疲労の蓄積は並大抵ではなくしかも寝不足でもあり、プレッシャーをかけられ続けていたハイデンの方としても、周回を重ねるごとに体力は限界に近づき、もはや腰を曲げている状態だけでも耐えられなくなってきたという。最後は正に残りの体力を振り絞っての気力の勝負でフィニッシュを果たした。その結果は、世界記録の大幅な更新での金メダル獲得に加え、ラスキンとのタイム差も記録的なものとなり、当時ソ連と冷戦状態にあったアメリカの新聞社も「記録に残る勝利」としてハイデンの栄誉をたたえたのである。
栄冠の後
正に全米の英雄となったハイデンであるが、五輪後にあっさりと引退し、大学の医学部に戻ることを表明。また、殺到したコマーシャル出演の話を全て断り、「自分の金メダルを金儲けには利用したくない」と述べている。また、インタビューで、金メダルをどうしているかと聞かれた時には「ベッドの下に突っ込んでいるよ」「結果は確かに良かったけど、そこに至る過程、いかに努力したかそしてベストを尽くしたことがもっと重要なんだよ」と述べた。
1988年に全種目入賞を果たした橋本聖子は、1992年アルベールビルオリンピックでハイデンからアドバイスを受け、1500mで銅メダルを獲得した(日本の女子選手初の冬季五輪メダル獲得)。
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最終更新 2009年9月24日 (木) 08:40 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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