エルトン・ジョン

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サー・エルトン・ジョン
基本情報
出生名 レジナルド・ケネス・ドワイト
出生 1947年3月25日(62歳)
学歴 王立音楽院
出身地 イングランドの旗 イングランド, ミドルセックス州, ピナー
ジャンル ポピュラー音楽
職業 作曲家
ピアニスト
アレンジャー
プロデューサー
担当楽器 ピアノ
活動期間 1969年-
レーベル Rocket Records
RCAレコード
ユニバーサル・レコード
公式サイト www.eltonjohn.com
  

サー・エルトン・ハーキュリーズ・ジョン CBESir Elton Hercules John CBE、旧名:レジナルド・ケネス・ドワイト/Reginald Kenneth Dwight男性1947年3月25日 - )は、イギリスミドルセックス州ピナー生まれのピアニストシンガーソングライター。代表曲に「僕の歌は君の歌」「ロケット・マン」「クロコダイル・ロック」「土曜の夜は僕の生きがい」「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」「キャンドル・イン・ザ・ウインド」「僕の瞳に小さな太陽」「僕を救ったプリマドンナ」「ブルースはお好き?」「サッド・ソングス」「サクリファイス」「愛を感じて」などがある。

目次

[編集] 人物

1969年ソロ・デビュー。1970年の「僕の歌は君の歌」のヒット以降、コンスタントに活動を続け、現在までに全世界で2億5000万枚以上のアルバム・セールスを記録している、世界で最も成功した男性ソロ・アーティストの一人である。ほぼ作曲専門で、作詞は1968年のデビュー以降その多くを盟友バーニー・トーピンが手がけている。芸名はソロ・デビュー前に参加したバンド、ブルーソロジーのメンバーだったエルトン・ディーン(Elton Dean、キース・ティペット・グループを経てソフト・マシーンに加入)とロング・ジョン・ボルドリー(Long John Baldry)の二人の名前から取ったものである。

1970年代前半に彼の人気は全盛期を迎えた。1972年の『ホンキー・シャトー』以降、アルバムセールスは7枚連続全米首位を記録し、1975年には『キャプテン・ファンタスティック』で全米ビルボードのアルバムチャート史上初の初登場1位を記録するなど、この時期に数多くの快挙を成し遂げている。活動休止期間を経て、トーピンと一時期決別してからは不遇の時代が続いたが、一方で1986年にはディオンヌ・ワーウィックらとのデュエット曲「愛のハーモニー」で初のグラミー賞を受賞している。80年代後半から90年代前半にかけては、喉の病気やアルコール薬物依存症などに苦しみながらも、音楽活動と並行してチャリティーにも精力的に取り組むようになる。その後は復調し、映画『ライオン・キング』のサントラなど数多くの仕事で成功した。1997年には、旧作の詞の一部を差し替え、事故死したダイアナ妃に捧げたシングル「キャンドル・イン・ザ・ウインド 1997/ユー・ルック・トゥナイト」が全世界で3700万枚以上を売り上げるシングル史上最大のヒット曲となる。この記録は2008年1月現在も破られていない。1998年2月24日には長年の功績を称えられ、ポピュラー音楽の音楽家としては3人目となるナイトに叙勲された。

メロディメーカーとしての手腕は確かなもので、様々なジャンルの音楽を貪欲に吸収し独自のものにしている。初期のプログレッシブ・ロック志向からカントリー・ミュージックへの傾倒、さらにはアメリカン・ロック、フィリー・ソウル、ディスコミュージックに至るまで、その音楽性は幅広い。日本においてはバラード・シンガーとして認知されがちだが、サービス精神旺盛な生粋のロックンローラーであり、確かな技術に裏打ちされたパフォーマンスの評価は高い。過剰なまでの派手な衣装も特徴的であり、着ぐるみを着用していた時期もあった。ピアノの下に隠れての曲弾き、ピアノの上によじ登ってのゴリラドラミングなどのパフォーマンスを行うことも多い。彼の音楽性は、しばしば同様にピアノマンの異名を持つビリー・ジョエルと比較される。彼等は近年頻繁にジョイント・コンサートを行っている。

彼は両性愛者であることで知られる。1984年にドイツ人の女性と結婚したが、4年後に離婚。2005年には男性恋人と再婚して大きな話題を呼んだ。近年のグラミー賞授賞式では、ゲイを揶揄するリリックを歌ったエミネムとパフォーマンスして物議を醸したが、音楽性が優れているアーティストに対して協力するのは当然と意に介さなかった。

長年自身の容姿に劣等感を持っていたことをインタビューなどで語っている。1970年代の前半ごろから既に頭髪が薄くなりカツラを使用していた。1990年代に植毛手術に成功。21世紀に入っては視力矯正手術にも成功し、長年愛用していた眼鏡もオークションに出した。現在は色付きサングラスの使用が多い。

繊細さと荒々しさを併せ持つ性格で、過激で辛辣な言動などから、常にゴシップでとりあげられる存在である。一方取材に対して饒舌で、舌禍事件を起こすこともしばしばある。自身のコンプレックス、同性愛を笑い話として披露することも多い。交友関係は非常に広く、数多くのミュージシャンのみならずデビッド・ベッカムをはじめとするサッカー選手などとも親交がある。また彼自身、クラブチームを保有していた時期がある。

彼は鉄道にも興味があるらしく[要出典]、東京へ行く際、関西国際空港へ降り立ち、新大阪から新幹線に乗ったことがある。

[編集] 来歴

[編集] 生い立ち

エルトン・ジョンは、RAFの飛行中隊長だったスタンリー・ドワイトと妻シェイラの息子、レジナルド・ケネス・ドワイトとして、1947年3月25日にイギリスのミドルセックス州ピナーに生まれた。ドワイトは母親や他の親類の女性によって育てられ、父親と過ごした時間はわずかだった。両親はドワイトが15歳だった1962年に離婚、母親はその後フレッド・フェアブラザーと再婚し、ドワイトは義父をダーフという愛称で呼んだ。

4歳のときから、ドワイトはピアノを弾き始める。 彼は神童であり、耳で聴いた如何なるメロディーも演奏することができた。11歳のときに王立音楽院に合格し、職業としての音楽に専念するため、卒業前に学校を離れるまで6年間在学した。後にプロデューサーを務めるクリス・トーマスはこの学校の同窓生である。初期に影響を受けた人物にはジム・リーブスが含まれていた。

[編集] デビューに至るまで

1960年、ドワイトは友人とコルヴェッツというバンドを結成。このバンドがやがてブルーソロジーに発展する。ドワイトは、昼は音楽出版社への売り込みに奔走し、夜はロンドンのホテルでの単独ギグか、ブルーソロジーとの活動をしていた。 1960年代半ばまでには、ブルーソロジーはアイズレー・ブラザーズ、メジャー・ランス、ドリス・トロイ、およびパティ・ラベル&ブルーベルズのようなアメリカのソウルR&Bのミュージシャンのバックバンドとしてツアーを行った。1966年には、バンドはロング・ジョン・ボルドリーのサポートミュージシャンとなり、イギリスキャバレーをまわるツアーに参加している。

ドワイトはリバティ・レコードのA&Rマネージャーだったレイ・ウィリアムズがニュー・ミュージカル・エクスプレス誌に載せたミュージシャン募集広告に応募する。最初の面接でウィリアムズは、同じく応募してきたバーニー・トーピンが書いた歌詞のストックをドワイトに渡した。これが今日まで続くパートナーシップの始まりとなった。

1967年、彼とバーニー・トーピンとの最初の共作曲「スケアクロウ」が書かれる。トーピンと出会って半年後、レジナルド・ドワイトは尊敬していたボルドリーとブルーソロジーのサックス奏者エルトン・ディーンの名にあやかり、単独捺印証書によって自分の名前をエルトン・ジョンに改めた。

ジョンとトーピンのチームは、1968年にディック・ジェイムズのDJMレコードにソングライターとして入社。その後2年以上、ロジャー・クックやルルなど様々なアーティストに楽曲を提供した。トーピンが1時間未満で歌詞を書きジョンに渡し、ジョンは30分ほどでそれに曲をつけた。すぐに曲が浮かばない場合は歌詞を処分した。こうして2年間、彼らはジェイムズが歌手に提供するイージー・リスニングを書いた。

別の音楽出版社のスティーヴ・ブラウンのアドバイスにより、ジョンは自分のデビューレコードのため、トーピンと共により複雑な曲を書き始める。最初の作品はブルーソロジーのギタリスト、カレブ・クエイがプロデュースした1968年のシングル「アイヴ・ビーン・ラヴィング・ユー」だった。1969年には、クエイとドラマーのロジャー・ポープ、ベーシストのトニー・マレーとともに、シングル「レディ・サマンサ」とアルバム『エンプティ・スカイ』を録音した。これらは高い評価を得たものの売り上げは芳しくなかった。しかしスリー・ドッグ・ナイトに「レディ・サマンサ」をカバーされたことでにわかに注目を浴び始める。

ソロデビュー後も、スーパーなどで売られる最新ヒットのカバーレコードで「チャートバスターズ」として名前を隠して歌ったり、キング・クリムゾンやジェントル・ジャイアントのリード・ヴォーカリストのオーディションを受けるなどしており、この時期の活動にはまだ明らかでない部分がある。

[編集] 1970年代前半

1970年、プロデューサーにガス・ダッジョン、アレンジャーにポール・バックマスターを迎えて制作したセカンド・アルバム『僕の歌は君の歌(エルトン・ジョン)』がリリースされた。全米では、アルバムに先がけて発売されたシングル「僕の歌は君の歌」のトップ10ヒットにならう形で売り上げを伸ばした。ジョン・レノンをはじめとする数多くのミュージシャンが絶賛した「僕の歌は君の歌」は、彼の初期の活動における代表曲として広く知られるスタンダード・ナンバーである。

クインシー・ジョーンズが絶賛したという彼の最初のコンサート・ツアーには、元スペンサー・デイヴィス・グループのドラマーだったナイジェル・オルソンとベーシストのディー・マレーが参加した。彼らはジョンが『僕の歌は君の歌』からわずか半年後にリリースしたアルバム『エルトン・ジョン3』でも演奏していた。1972年からはギタリストのデイヴィー・ジョンストンがバックバンドに加わり、彼の活動における黄金期を支えたラインナップが完成する。同年のアルバム『ホンキー・シャトー』は、彼にとって初めての全米1位を記録した。その後、1975年の『ロック・オブ・ザ・ウェスティーズ』まで、彼は7枚のアルバムを連続で全米1位に送り込んだ。本国のイギリスでも『ピアニストを撃つな!』が1973年度の年間チャート1位になるなど、彼の人気は世界的なものとなった。1974年には所属していたMCA傘下にレコード・レーベル、ロケット・レコードを設立。以降彼のアルバムはこのレーベルから発表された。

この時期の作品の中で最も成功したとされるのが1973年発表の2枚組『黄昏のレンガ路』である。現在もコマーシャルなどで頻繁に使用されるタイトル・ナンバーや、のちにリメイクされて幾度もヒットする「風の中の灯のように(キャンドル・イン・ザ・ウィンド)」などを収録したこの作品は、現在も一般的な彼の最高傑作として評される。また、1975年発表のアルバム『キャプテン・ファンタスティック』は、全米ビルボードのアルバムチャートでは史上初となる初登場1位を記録した。1974年に発売されたベスト盤『グレイテスト・ヒッツ』は、彼のアルバムとしては最も大きな商業的成功を収め、米国では歴代15位のベストセラーとなっている。シングルでは「クロコダイル・ロック」「ベニー・アンド・ザ・ジェッツ」「フィラデルフィア・フリーダム」「アイランド・ガール」の4枚の作品が1位。他のアーティストとのコラボレーションも盛んに行い、ニール・セダカとの共演「バッド・ブラッド」、ジョン・レノンとの「真夜中を突っ走れ」「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」なども全米1位に輝いた。また、1974年にはザ・フーによるロック・オペラを映画化した『トミー』に、ピンボールの魔術師と呼ばれる役で出演した。

[編集] 1970年代後半

1976年発表のキキ・ディーとの「恋のデュエット」は彼にとって初の全英シングルチャート1位となっている。ハイペースでのレコード発表と並行して、極めてワーカホリックだったスケジュールでのステージ活動はジョンの精神や肉体に支障を来した。『キャプテン・ファンタスティック』の発売後に彼はオルソンとマレーを解雇し、バックバンドの布陣を変えて音楽活動に臨むが、そのような経緯で発売された『ロック・オブ・ザ・ウエスティーズ』は商業的な成功を収めながらも評論家からは酷評されてしまう。

こういったプレッシャーから彼の心に迷いが生じたのか、アルバム『蒼い肖像』を発売すると彼は引退を表明して音楽活動を休止する。なおこれを境に彼は、パートナーシップを築き上げてきたトーピンや、バックバンドとの関係も一時的に解消している。ローリング・ストーン誌の中で彼が両性愛者であることを公表したのも同時期である。

約2年の活動休止期間を経てカムバックしたジョンは、1978年にアルバム『シングル・マン』を発表する。スタッフの面子を一新して制作されたこのアルバムでは、これまで全ての楽曲の作詞を手がけてきたトーピンに代わり、ゲイリー・オズボーンが新たな作詞家として起用されている。その後フィリー・ソウルの大御所、トム・ベルとともにアルバム1枚分の作品を制作するが、結果的にジョン自身の意向によってアルバムはお蔵入りとなり、一部楽曲が12インチシングルで発売されるのみとなった(後年になって全てリリースされている)。1979年にはピート・ベロッティをプロデューサーに迎え、楽曲もベロッティが手がけた異色作『恋に捧げて〜ヴィクティム・オブ・ラヴ』をリリースするが、ユーロビートを大胆に取り入れた作風は評論家には受け入れられず、セールスも芳しくなかった。一方で同年にはライブ活動を再開し、当時のソ連では初の西側ロックミュージシャンによるライブとなるモスクワ公演を行って話題となった。

[編集] 1980年代

その後、ジョンはオズボーン以外にトム・ロビンソンなどを作詞家として迎え入れているものの、結果的に解消していたトーピンとの作曲コンビは1980年のアルバム『21 at 33』を境に復活。1983年以降は再び彼が大半の楽曲の作詞を手がけるようになっている。1981年以降はクリス・トーマスが主にアルバムのプロデュースに携わった。ジョンとは旧知の仲であったトーマスは、『トゥー・ロウ・フォー・ゼロ』や『スリーピング・ウィズ・ザ・パスト』などといった1980年代の主要なジョンの作品において非常に大きな役割を担っている。試行錯誤を経て、再び以前のパートナーやバックバンドとともに創作活動に臨むようになった彼は、1985年の『アイス・オン・ファイアー』で再びガス・ダッジョンをプロデューサーに迎えている。

1980年代を通してのシングルでは「リトル・ジニー」「エンプティ・ガーデン」「ブルー・アイズ」、「ブルースはお好き?」「パッセンジャーズ」、「サッド・ソングス」、「エルトンのケンカ大作戦」、「悲しみのニキタ」、「愛のハーモニー」、「キャンドル・イン・ザ・ウィンド'86」、「ヒーリング・ハンズ」、さらには1988年の「アイ・ドント・ウォナ・ゴー・オン」はビルボード2位まで上昇し、1989年にリリースした「サクリファイス」が翌年にソロとして初の全英シングルチャート1位を記録するなど、ほぼ毎年ヒット曲を連発していたが、常に全盛期のイメージと比較され新しいヒット曲が出る度に「エルトンの復活」と称された。しかし、全盛期との違いとしてアルバム・セールスは1980年代の後半には大きく伸び悩んだ。1987年に行った長期公演では喉を悪化させてしまい、翌年に声帯の手術を行っている。以降、彼のヴォーカル・スタイルおよび歌声は大きく変貌した。彼は1984年にドイツ人のレコーディング・エンジニア、レネーテ・ブリューエルと結婚。彼女との結婚生活はさまざまなスキャンダルを呼び、最終的に4年後の1988年に離婚に至った。1980年代後半の彼は精神的にも不安定な状態が多く、過食症アルコールの過剰摂取はよりいっそうエスカレートしていたといわれる。

この時期、エルトンはもう一枚アルバムを作る予定であったらしいが結局、その内の数曲がベストアルバムやシングルB面として発表されるにとどまった。

[編集] 1990年代

1990年薬物アルコール依存症過食症の治療のため入院。更生施設への入居を経てカムバックしたジョンは、翌年のアルバム『ザ・ワン』で再び好調なセールスと高い評価を得る。なお、1980年代暮れから1990年代初めにかけて多くの友人や知人などをエイズで亡くした彼は、1992年以降シングルの全収益を自ら設立したエイズ患者救援者団体、「エルトン・ジョン・エイズ基金」に寄付するようになった。

1992年には、クリス・レアリトル・リチャードなどを初めとする十数人のアーティストとのデュエットを収めたカヴァー集『デュエット・ソングス』を発表。企画盤にもかかわらず、全世界で200万枚以上のセールスを記録する大きな成功を収めた。このアルバムにプロデューサーとして参加したグレッグ・ペニーは、1995年の『メイド・イン・イングランド』では全面的にプロデュースに関わっている。

1994年には、以前にアルバム『ジャンプ・アップ(Jump Up!)』で共作した作詞家、ティム・ライス(Tim Rice)とともにディズニー映画『ライオン・キング』の音楽を担当する。 この映画のサントラは全米チャート1位を記録し、最終的に彼の30年以上に渡るキャリアの中では『グレイテスト・ヒッツ』に次ぐ商業的成功を収めたアルバムとなった。 ジョンの歌唱による主題歌「愛を感じて(Can You Feel the Love Tonight)」もグラミー賞最優秀ポップ男性ボーカル賞とアカデミー歌曲賞を受賞するなど高い評価を受けた。 また、この年から彼はビリー・ジョエルとジョイント・コンサート、フェイス・トゥ・フェイスを行っている。

1997年9月、彼は自動車事故で亡くなったダイアナ元皇太子妃への追悼歌「キャンドル・イン・ザ・ウィンド 1997」をシングル発売する。アルバム『黄昏のレンガ路』に収録されていた楽曲を、歌詞を変えてリメイクしたこの曲は全世界で3700万枚以上のセールスを記録。ビルボードのHOT 100とシングルセールスチャートで14週、カナダの公式シングルチャートで46週、その他日本をはじめとする世界各国のヒットチャートで首位を獲得し、シングルとしては史上最も多くの枚数を売り上げた。この楽曲の成功により、ジョンは1998年度のグラミー賞で最優秀男性ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス賞を受賞している。また、カップリング曲の「ユー・ルック・トゥナイト」が収録されていたアルバム『ザ・ビッグ・ピクチャー』も、相乗効果で久々に全米・全英ともにトップ10内にランクインした。

1998年にはティム・ライスと再びタッグを組み、ヴェルディオペラをモチーフにしたミュージカル『アイーダ』やドリームワークス配給のアニメ映画『エルドラド』のサントラ盤などを制作。この2枚のアルバムの中で、ジョンはスティングジャネット・ジャクソンシャナイア・トゥエインバックストリート・ボーイズなどといった多数の豪華な顔ぶれとともにデュエットしている。2000年には長年バックバンドでキーボーディストとして活躍してきたガイ・バビロンをプロデューサーに迎えてインスト集を制作し、アルバート・ブルックスが主演・監督・脚本を務めた同名映画のサウンドトラック盤『ハリウッド・ミューズ』としてリリースした。

また、同年には行われたアメリカ・ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンで、メアリー・J・ブライジブライアン・アダムスなどをゲストに迎えた豪華なライヴを行った。その模様は『ワン・ナイト・オンリー』と名づけられてアルバムやDVDなどで商品化されている。

[編集] 近年

最近はミュージシャンとしての活動そのものよりも、かつて親交が深かったジョージ・マイケルマドンナといった他の歌手への批判、台湾パパラッチに対する暴言など、過激な言動や奇行などが取り沙汰されることが多い。また2005年には、イギリスで同性同士の準婚関係を認めるシヴィル・パートナーシップ法の制定を機に、15年来のパートナーだったデヴィッド・ファーニッシュと同性結婚し話題を呼んだ。[1]

なお本業の音楽では、2枚のオリジナル・アルバムと過去に発売されたアルバムのデラックス版やリマスター盤などを再発売したほかに、2004年2月からはラスベガスシーザーズ・パレス・ホテルにつくられたコロシアムにて3年間の契約で、セリーヌ・ディオンとの日替わりという形でレッド・ピアノという定期公演を行っている。2008年まで公演契約が延長され、現在も大好評。最新アルバムはかつての名作『キャプテン・ファンタスティック』の続編的作品『キャプテン・アンド・ザ・キッド』で、2006年9月に発表された。

2007年3月25日、60歳の誕生日にニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンで通算60公演目となる記念コンサート「60 in 60」を開催。その模様はBDとDVDで発売されている。

2008年12月3日、エルヴィス・コステロアポロ・シアターで撮影しているテレビ番組「スペクタクル」に出演し、レオン・ラッセルローラ・ニーロからの音楽的な影響を語った。

[編集] 関連人物

  • バーニー・トーピン/Bernie Taupin
    作詞家。デビュー以前より現在に至るまで殆どの楽曲を担当する。エルトンは歌詞に合わせて曲を作るが、そのスタイルは若き彼らが同居していた頃から同じであり、「僕の歌は君の歌」は歌詞を渡して30分で書き上げたという。エルトン曰く最もイマジネーションが湧く作詞家。現在はアメリカ在住で、打ち合わせの後に歌詞がファックスで送られてくる。初期のアルバムには常にエルトンと共に写真が載っている。最新作『キャプテン・アンド・キッド』ではカウボーイ姿で久々に顔を出している。
  • デイヴィー・ジョンストン/Davey Johnstone
    ギタリスト。『ホンキー・シャトー』よりのエルトン・ジョン・バンドのメンバー(レコーディングは『マッドマン』より参加)。現在はツアーの音楽監修も務める。マンドリン、シタールなどの楽器も弾きこなす。バンド加入前、マグナ・カルタに在籍中の1970年に、バーニー・トーピンのアルバムに参加している。
  • ナイジェル・オルスン/Nigel Olsson
    ドラマー。エルトン・ジョン・バンドのメンバー。プラスティック・ペニー、スペンサー・デイヴィス・グループを経て、デビューライブから参加。1975年に脱退(金銭問題とも言われ、この時期のシングルが「&エルトン・ジョン・バンド」名義で出されている)。その後80年代にバンド復帰。その後も散発的にレコーディング、ライブに参加。2000年より再び正式メンバー。高音部のコーラスを担当し、ソロミュージシャンとしても「涙のダンシング・シューズ」などのヒット曲がある。
  • ディー・マレイ/Dee Murray
    ベーシスト。エルトン・ジョン・バンドのメンバー。スペンサー・デイヴィス・グループに在籍後、デビューライブから参加。1975年にナイジェルと脱退し、1980年代に共に復帰している。その後も散発的に活動を共にしたが1992年1月15日、癌のため病死。
  • レイ・クーパー/Ray Cooper
    数々のミュージシャンと共演した名パーカッショニスト。1973年「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」ツアーからバンドに参加。1979年モスクワ公演、1995年来日公演などでエルトンとの二人だけのツアーを行っている。映画制作も手がけるなど才人。
  • ガス・ダッジョン/Gus Dudgeon
    初期の黄金期を支えたプロデューサー。エルトンとの関わりは深く、1980年代に彼が窮状に陥った際は『アイス・オン・ファイヤー』のプロデューサーとして再起用している。2002年7月21日に、妻とともに交通事故死。
  • クリス・トーマス/Chris Thomas
    1980年代以降の多くの作品を手がけたプロデューサー。エルトンとはロイヤル・アカデミーの学友でもある。セックス・ピストルズ『勝手にしやがれ!』のプロデューサーとしても有名。
  • ポール・バックマスター/Paul Buckmaster
    アレンジャーとして『エルトン・ジョン』より参加。弦楽器により音に深みを出し、初期のエルトンのイメージを形成した。近年の作品にも参加している。デヴィッド・ボウイの『スペイス・オディティ』タイトル曲を共に手がけたガス・ダッジョンをプロデューサーに使うよう進言した。

[編集] ディスコグラフィ

詳細は「エルトン・ジョンの作品」を参照

[編集] スタジオ録音作品

[編集] ライヴ盤

もともとはアナログA面(ロンドン・サイド)とB面(ニューヨーク・サイド)1枚でリリースされたアルバムがCDリミックスでリニューアルされた時2枚にまとめられた。2枚目には歴史的なジョン・レノンのゲスト出演で、一緒に演奏した「真夜中を突っ走れ」「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」のライヴ音源なども収録されている。

[編集] サウンドトラック

[編集] ベスト盤

[編集] シングル

1968年

  • I've Been Loving You

1969年

  • Lady Samantha
  • It's Me That You Need

1970年

  • Border Song (US #92)
  • Rock'n'Roll Madonna
  • Take Me To The Pilot
  • Your Song (UK #7/ US #8)

1971年

  • Friends (US #34)
  • Levon (US #24)

1972年

  • Tiny Dancer (US #41)
  • Rocket Man (UK #2/ US #6)
  • Honky Cat (UK #31/ US #8)
  • Crocodile Rock (UK #5/ US #1)

1973年

  • Daniel (UK #4/ US #2)
  • Saturday Night's Alright For Fighting (UK #7/ US #12)
  • Goodbye Yellow Brick Road (UK #6/ US #2)
  • Step Into Christmas (UK #24)

1974年

  • Candle In The Wind (UK #11)
  • Bennie And The Jets (UK #37/ US #1)
  • Don't Let The Sun Go Down On Me (UK #16/ US #2)
  • The Bitch Is Back (UK #15/ US #4)
  • Lucy In The Sky With Diamonds (UK #10/ US #1)

1975年

  • Philadelphia Freedom (UK #12/ US #1)
  • Someone Saved My Life Tonight (UK #22/ US #4)
  • Island Girl (UK #14/ US #1)

1976年

  • Grow Some Funk Of Your Own / I Feel Like A Bullet (In The Gun Of Robert Ford) (US #14)
  • Pinball Wizard (UK #7)
  • Don't Go Breaking My Heart with Kiki Dee (UK #1/ US #1)
  • Sorry Seems To Be The Hardest Word (UK #11/ US #6)

1977年

  • Bite Your Lip (Get Up And Dance!) (UK #28/ US #28)
  • Crazy Water (UK #27)

1978年

  • Ego (UK #34/ US #34)
  • Part-Time Love (UK #15/ US #22)
  • Song For Guy (UK #4/ US #101)

1979年

  • Are You Ready For Love (UK #42)
  • Mama Can't Buy You Love (US #9)
  • Victim Of Love (US #31)
  • Johnny B. Good

1980年

  • Little Jeannie (UK #33/ US #3)
  • Don't Ya Wanna Play This Game No More? (UK #44/ US #39)

1981年

  • 28 November 1974 [EP] with John Lennon (UK #40)
 I Saw Her Standing There 
 Whatever Gets You Thru The Night 
 Lucy In The Sky With Diamonds
  • Nobody Wins (UK #42/ US #21)
  • Chloe (US #34)

1982年

  • Blue Eyes (UK #8/ US #12)
  • Empty Garden (Hey Hey Johnny) (UK #51/ US #13)

1983年

  • I Guess That's Why They Call It The Blues (UK #5/ US #4)
  • I'm Still Standing (UK #4/ US #12)
  • Kiss The Bride (UK #20/ US #25)
  • Cold As Christmas (In The Middle Of The Year) (UK #33)

1984年

  • Sad Songs (Say So Much) (UK #7/ US #5)
  • Passengers (UK #5)
  • Who Wears These Shoes? (UK #50/ US #16)
  • In Neon (US #38)
  • Breaking Hearts (Ain't What It Used To Be) (UK #59)

1985年

  • Act Of War with Millie Jackson (UK #32)
  • Nikita (UK #3/ US #7)
  • Wrap Her Up (UK #12/ US #20)
  • That's What Friends Are For / Dionne Warwick & Friends (UK #16/ US #1)

1986年

  • Cry To Heaven (UK #47)
  • Heartache All Over The World (UK #45/ US #55)
  • Slow Rivers with Cliff Richard (UK #44)

1987年

  • Flames Of Paradise with Jennifer Rush (UK #59/ US #36)
  • Your Song [Live] (UK #85)
  • Candle In The Wind [Live] (UK #5/ US #6)

1988年

  • I Don't Wanna Go On With You Like That (UK #30/ US #2)
  • Town Of Plenty (UK #74)
  • A World Of Spanish (UK #91/ US #19)

1989年

  • Through The Storm with Aretha Franklin (UK #41/ US #16)
  • Healing Hands (UK #45/ US #13)
  • Sacrifice (UK #55/ Us #18)

1990年

  • Club At The End Of The Street (UK #47/ US #28)
  • Sacrifice / Healing Hands (UK #1)
  • You Gotta Love Someone (UK #33/ US #43)
  • Easier To Walk Away (UK #63)

1991年

  • Don't Let The Sun Go Down On Me [Live] with George Michael (UK #1/ US #1)

1992年

  • The One (UK #19/ US #9)
  • Runaway Train with Eric Clapton (UK #31)
  • The Last Song (UK #21/ US #23)

1993年

  • Simple Life (UK #44/ US #30)
  • True Love with Kiki Dee (UK #2/ US #56)

1994年

  • Don't Go Breaking My Heart with LuPaul (UK #7/ US #92)
  • Ain't Nothing Like The Real Thing with Marcella Detroit (UK #24)
  • Can You Feel The Love Tonight (UK #14/ US #4)
  • Circle Of Love (UK #11/US #18)

1995年

  • Believe (UK #15/ US #13)
  • Made In England (UK #18/ US #52)
  • Blessed (US #34)

1996年

  • Please (UK #33)
  • You Can Make History (Young Again) (US #70)
  • Live Like Horses with Luciano Pavarotti (UK #9)

1997年

  • Candle In The Wind 1997 / Something About The Way You Look Tonight (UK #1/ US #1)

1998年

  • Recover Your Soul (UK #16/ US #55)
  • If The River Can Bend (UK #32)

1999年

  • Written In The Stars with LeAnn Rimes (UK #10/ US #29)
  • A Step Too Far

2000年

  • Someday Out Of The Blue (US #49)
  • Friends Never Say Goodbye

2001年

  • I Want Love (UK #9/ US #110)

2002年

  • This Train Don't Stop There Anymore (UK #24)
  • Original Sin (UK #39)
  • Your Song with Alessandro Safina (UK #4)
  • Sorry Seems To Be The Hardest Word with Blue (UK #1)

2003年

  • Are You Ready For Love [Remix] (UK #1)

2004年

  • All That I'm Allowed (I'm Thankful) (UK #20)
  • Ghetto Gospel / Tupac Shakur with Elton John (UK #1)
  • Turn The Lights Out When You Leave (UK #32)

2006年

  • The Bridge
  • Tinderbox

2007年

  • Rocket Man (UK #62)
  • Step Into Christmas (UK #65)
  • Calling It Christmas with Joss Stone (UK #138)

2008年

  • Joseph, Better You Than Me / The Killers feat. Elton John & Neil Tennant (UK #88)

2009年

  • Tiny Dancer (Hold Me Closer) / Ironik feat. Elton John (UK #3)

[編集] 日本公演

10月5日,6日 渋谷公会堂、7日,8日 大阪厚生年金会館、10日,11日 東京厚生年金会館
  • 1974年 Goodbye Yellow Brock Road Tour
2月1日,2日 日本武道館、3日,4日,5日 大阪厚生年金会館、7日 福岡市九電記念体育館、8日 広島郵便貯金ホール、9日 京都会館、10日 大阪フェスティバルホール、11日 名古屋市公会堂、13日 東京厚生年金会館
10月31日 名古屋レインボーホール、11月2日 東京ドーム、4日 日本武道館、5日 大阪球場
  • 1995年 An Evening with ELTON JOHN with レイ・クーパー
2月6日 大阪城ホール、7日 福岡国際センター、9日 名古屋センチュリーホール、11日 大阪城ホール、12日,14日,15日,16日 日本武道館
3月26日 福岡ドーム、28日 大阪ドーム、30日,31日 東京ドーム、4月3日 ナゴヤドーム
11月12日 大阪城ホール、13日,15日 日本武道館
  • 2007年 An Evening with Elton John Solo
11月20日,21日 日本武道館

[編集] 豆知識

  • 日本オリコンにおけるエルトン・ジョンのシングルで初チャートイン曲(100位以内、以下同)は1971年の「フレンズ」。1970年の「僕の歌は君の歌」(Your Song)は発売当時はチャートインしていない。1992年に映画『エンジェル 僕の歌は君の歌』の主題歌に「僕の歌は君の歌」が起用され再発、実に発売から22年後の初チャートインとなった。オリコン上、エルトン・ジョンのシングルで最も売れたのは「キャンドル・イン・ザ・ウインド1997」を除くと「イエス、イッツ・ミー」である。
  • 1994年にリリースされた「愛を感じて」"Can You Feel The Love Tonight?" はディズニー映画「ライオン・キング」の主題歌になっており、彼自身この曲で賞を受けている。
  • 1998年の日本公演ではゴジラ、桜の木、ヨーダスター・ウォーズの登場人物)の被り物を被って登場し、被ったままで演奏、歌唱。協演したビリー・ジョエルからは色々とツッコまれた。
  • 1991年、テレビ朝日の放送終了時の楽曲(通称「Join us」)を製作。この曲はその後10年にわたって使用され、コアなテレビファンからも支持を集めていた。

[編集] 脚注

  1. ^ 「エルトン・ジョンさんが結婚、きっかけは映画製作」

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月11日 (水) 02:46 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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