オリックス・バファローズ
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| オリックス・バファローズ | |
| 会社名 | オリックス野球クラブ株式会社 |
|---|---|
| 創設年度 | 1936年 |
| 所属リーグ | |
| パシフィック・リーグ | |
| 歴代チーム名 | |
| 本拠地 | |
| 京セラドーム大阪(本拠地) ほっともっとフィールド神戸(準本拠地) |
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| 収容人員 | 36,627人 |
| フランチャイズの遍歴 | |
| 永久欠番 | |
| なし | |
| 獲得タイトル | |
| 日本一(4回) | |
| 1975 | 1976 | 1977 | 1996 | |
| リーグ優勝(12回) | |
| 1967 | 1968 | 1969 | 1971 | 1972 | 1975 | 1976 | 1977 | 1978 | 1984 | 1995 | 1996 | |
| セ・パ交流戦優勝(1回) | |
| 2010 | |
| 成績(タイトル以外) | |
| 日本シリーズ出場(12回)(太字は勝利した年) | |
| 1967 | 1968 | 1969 | 1971 | 1972 | 1975 | 1976 | 1977 | 1978 | 1984 | 1995 | 1996 | |
| クライマックスシリーズ | |
| 0勝1敗 2008 |
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| プレーオフ(前後期制)(5回) (太字は勝利した年、斜体は後期優勝) |
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| 2勝3敗 1973 | 1974 | 1975 | 1977 | 1979 |
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| 球団組織 | |
| オーナー | 宮内義彦(代行:西名弘明) |
| 運営母体 | オリックス |
| 監督 | 岡田彰布 |
オリックス・バファローズ(ORIX Buffaloes)は、日本のプロ野球球団のひとつ。日本野球機構内パシフィック・リーグ所属。読売ジャイアンツ、阪神タイガース、中日ドラゴンズとともに、日本プロ野球の発足時から存続している球団である。
大阪府を保護地域とし、大阪市西区にある京セラドーム大阪を本拠地(専用球場)としている。また、兵庫県神戸市須磨区のほっともっとフィールド神戸[1]を準本拠地としている。
二軍(ウエスタン・リーグ所属)は、兵庫県神戸市北区にあるあじさいスタジアム北神戸を本拠地としている。2008年までの球団名は「サーパス神戸」→「サーパス」。その他、球団全体の練習場と合宿所が神戸市西区に設けられている。
目次 |
[編集] 球団の歴史
[編集] 阪急時代
[編集] 創立 - 1940年代
1936年1月23日、阪神急行電鉄(法人としては、のちの京阪神急行電鉄→阪急電鉄)が大阪阪急野球協会(おおさかはんきゅうやきゅうきょうかい)を設立し、阪急職業野球団(はんきゅうしょくぎょうやきゅうだん)または、阪急軍(はんきゅうぐん)という名前で球団が発足した(当初は阪急の社内部署。後に会社法人として分立された)。当時阪神急行電鉄社長の小林一三が、ライバル会社である阪神電気鉄道が立ち上げた大阪タイガースに対抗する為、設立を決意したとも言われる。球団名に阪神急行電鉄の通称である阪急の名称が入っているが、企業名を球団名に入れた日本で最初のプロ野球球団であった。なお、阪急はこれ以前(1924年 - 1929年)に宝塚運動協会というプロ野球チームを所持していた[2]。
発足するにあたって、東京六大学野球のスター選手であった山下実、宮武三郎らを集めて結成。本拠地は当初暫定的に宝塚球場とし、1937年に武庫郡瓦木村(1942年5月5日、西宮市へ編入)で開場した阪急西宮球場へ移転した。戦前は優勝に届かなかったが、戦中にあってもチーム体勢を大きく崩すことなく終戦を迎え、1946年のリーグ戦再開に参加することになる。
1947年の日本野球連盟によるニックネーム導入に際し、まず「熊」をイメージしたベアーズ(Bears)を入れ阪急ベアーズ(はんきゅうベアーズ、Hankyu Bears)と改称するが、オープン戦で負けが続き、bearに「(株式用語で)弱気、売り方」という意味があることも判明、縁起をかつぐ意味もあって4月18日にブレーブス(Braves)と改め、阪急ブレーブス(はんきゅうブレーブス、Hankyu Braves)となる。「ブレーブス」のニックネームは公募で決まったが、これはアメリカメジャーリーグ(MLB)のボストン・ブレーブス(当時)に由来しており、元来の意味は「勇者」である。
1949年オフの2リーグ分立でパ・リーグに加盟した。この時の混乱に乗じた宇高勲(新設された西日本パイレーツ[3]スカウト)による引き抜き等により、エースの今西錬太郎を筆頭に、主戦打者である平井三郎・宮崎剛、さらには捕手3人(日比野武・楠協郎・永利勇吉)などを他球団に奪われることになった。
[編集] 1950年代
2リーグ分裂後はエースや主戦打者が流出した影響もあり、Bクラスに低迷することになった。1952年に本拠地である西宮球場にナイター照明設備を完成しており、ナイターが開催されるようになった。この当時のユニフォームが黒地に白のペンストライプというデザインだった上にナイトゲームに強かったことから「夜の勇者」という異名をとった。1953年、ルーファス・ゲインズ、ラリー・レインズ、ジョン・ブリットンの3外国人の活躍もあり、夏場に10連勝する等「夜の勇者旋風」を巻き起こし、2リーグ分裂後初のAクラス(2位)につけた。
1954年には梶本隆夫、1956年には米田哲也という後に名球会入りをする好投手2人が入団し、俊足の河野旭輝・ロベルト・バルボンの2人で1950年代後半に5年連続盗塁王を独占('56 - '60)したものの、チームは低迷し「灰色カラー(灰色の時代)」と言われた。また、頻繁に監督交代が行われ、2リーグ分裂以後一貫してチームを率いていた浜崎真二監督に代わって1954年には西村正夫監督が再任され、1957年より長く金星スターズで監督を務めていた藤本定義監督を招聘。1959年には戸倉勝城が監督に就任したが、どの監督も芳しい成績を残すことは叶わなかった。
この間、1958年に「株式会社阪急野球倶楽部」だった運営会社の名前が「株式会社阪急ブレーブス」へ変更された。
[編集] 1960年代
1959年シーズン途中よりチームを率いていた戸倉勝城監督も低迷から脱却できず、彼の退任に伴い後に名将と謳われることになる西本幸雄が1963年、コーチより監督に昇格するが、球団史上初となる最下位に転落した。なお、53年間続いた阪急時代の最下位はこれが唯一であった。しかし、西本は2年目である1964年にチームを2位まで浮上させた。1965年、1966年こそBクラスに落ち、信任投票事件を起こすなどもあったが、1967年に1936年の球団創立以来初めて優勝しこの年からは長池徳士、ダリル・スペンサー、足立光宏らが活躍し、1969年までリーグ3連覇を果たし、黄金時代を築くことになる。
この間にあった1968年のドラフト会議は史上空前の大豊作年だったことで知られているが、阪急が指名した選手の中からは山田久志、加藤秀司、福本豊の3選手を後年日本プロ野球名球会へ輩出している。1位指名の山田は3年目の1971年から頭角を現し、「サブマリン投法」という独特のフォームで球界を代表するピッチャーの1人として活躍。1976年から1978年にかけては、長嶋茂雄や王貞治もなしえなかった3年連続MVPを獲得し、1988年の引退までに通算284勝を記録した。2位指名の加藤は1982年に移籍するまで、クリーンナップの一員として阪急打線を支えた。また、7位指名の福本は、入団2年目から打撃が開花し、1番打者として定着。その俊足を生かして、1970年から13年連続で盗塁王のタイトルを獲得、1983年には当時ルー・ブロックが持っていた通算盗塁記録を更新し「世界の盗塁王」とまで称された。
加藤と福本は、「1番福本が四球で出てすかさず盗塁、2番大熊がバントで送り、3番加藤の犠牲フライで福本が生還」という、阪急打線の核となり、山田は長年エースとして活躍するなど、1970年代以降のチームの中核を獲得できたドラフト会議となった。
[編集] 1970年代
1970年代に入っても黄金時代は続き、1970年こそ4位に終わったものの、1971年、1972年とリーグ連覇を果たした。しかし、この時期セ・リーグでは読売ジャイアンツが同じく黄金時代(のちにV9時代と呼ばれる)を迎えており、日本シリーズで勝利を収めることは出来なかった。
1973年のシーズンから前後期制となったが、後期シーズン1位もプレーオフで南海に2勝3敗で敗れリーグ優勝は叶わず、この後期シーズン1位を置き土産に11年に渡って指揮を執った西本監督は退任することになった。
西本に代わって1974年より監督へ就任した上田利治は初年度こそ2位と優勝は叶わなかったものの、1975年[4]は優勝し、1976年と1978年には前後期ともに1位という完全優勝を達成するなど、1978年までリーグ4連覇を果たした[5]。また、日本シリーズでも1975年に広島を4勝2分で下して悲願の日本一を達成し、以後1977年まで3年連続日本一となっている。この時期のチームは、山口高志、山田久志、加藤秀司、福本豊、ボビー・マルカーノ、バーニー・ウイリアムスら球史に残る名選手を擁しており、圧倒的な強さから「王者ブレーブス」と呼ばれた。
しかし、4年連続日本一が懸かった1978年の日本シリーズ第7戦で、対戦相手のヤクルトスワローズの主砲・大杉勝男が放ったレフトポール際の際どい飛球を審判員の富澤宏哉はホームランと判定し、上田は放棄試合も辞さない態度を示して1時間19分の猛抗議を行った。判定は覆らず、3勝4敗で日本一を逃す。上田はこの長時間抗議の責任を取って辞任した。
リーグ5連覇がかかった1979年のシーズンは上田の辞任に伴い、梶本隆夫が監督に昇格して指揮をとり、エース山田久志が21勝5セーブ、主砲加藤英司が打率.364・本塁打35・打点104の成績を残すもプレーオフで近鉄に3連敗で敗退し、5連覇はならなかった。
[編集] 1980年代 - 1988年の球団譲渡
1980年にチームは10年ぶりのBクラス(5位)に転落し、上田利治が監督に復帰した(前監督の梶本はコーチとして残留)。上田の監督復帰でチームは翌年にはAクラスに復帰したが、1970年代のような圧倒的な強さは見せられなかった。
1981年には日本ハムファイターズの「ギョロタン」に次いで日本で2番目の球団マスコットキャラクターの「ブレービー」(背番号:100)が登場した。1982年には阪急西宮球場のスコアボードが関西初の電光掲示板となり、「アストロビジョン」として親しまれるなどファンサービスに努めたが、観客動員は伸び悩み、球団経営は悪化の一途を辿った。
この時期、球団経営の悪化を食い止めるべく様々な企画が考えられている。その中でも有名なものとしては、1983年4月に阪急西宮球場で開かれた試合のアトラクションで、福本豊とバンプ・ウィルスの2選手と競走馬の競走がある。しかし、競走馬は野球場の人工芝に慣れなかったのか、全く脚が伸びず最下位となり、世界の盗塁王を馬と競走させたと揶揄されるなど、様々な意味で不発で終わった。
1984年にはブーマー・ウェルズが三冠王になる活躍を見せてリーグ優勝を果たしているが、これが阪急ブレーブスとしての最後の優勝となった。日本シリ-ズでは広島と対戦し、3勝4敗で敗れている。
1986年、球団創立50周年を迎え、ファンサービスの強化や戦力の充実により観客動員が伸び、関西パ・リーグ球団で初めて100万人を超える動員(114万5000人・球団発表)を記録した。惜しくも優勝は逃したが、ストッパーとして活躍したアニマル・レスリーが咆哮パフォーマンスで全国的な人気を集めた。1987年には、球団史をまとめた書籍『阪急ブレーブス50年史』を発行。
1988年10月19日、阪急電鉄がオリエント・リースへの球団譲渡を発表。この時、小林公平は「(阪急電鉄として)プロ野球チームを持つ使命を終えた」とコメントした。球団譲渡した最大の理由は、当時阪急の双子の赤字であった宝塚歌劇団と野球チームのどちらかを手放すことを金融機関から要請された、もう一つは西宮北口駅付近と梅田駅付近(通称阪急村)の再開発を迫られた為[要出典]と言われている。ちなみに、同じ年には南海電気鉄道がホークスをダイエーへ売却することと福岡への移転が決定。関西を代表する2つの球団の歴史が大きく動いた年でもあった。
[編集] オリックス時代
[編集] 球団譲渡 - 1990年代
| 種類 | 株式会社 |
|---|---|
| 略称 | オリックス・バファローズ、オリックス、バファローズ |
| 本社所在地 | 〒550-0023 大阪府大阪市西区千代崎三丁目北2番30号 |
| 設立 | 1936年1月23日 (阪急軍としての球団創立日) |
| 業種 | サービス業 |
| 事業内容 | プロ野球球団経営 |
| 代表者 | 宮内義彦(オーナー) 西名弘明(代表取締役社長) |
| 資本金 | 1億2500万円(2010年12月31日時点) |
| 純利益 | 0円(2010年12月期) |
| 純資産 | 9200万円(2010年12月31日時点) |
| 総資産 | 11億1500万円(2010年12月31日時点) |
| 決算期 | 12月末日 |
| 主要株主 | オリックス 100% |
| 関係する人物 | 小林一三(球団創立者) |
| 外部リンク | http://buffaloes.co.jp/ |
| 特記事項:1936年に大阪阪急野球協会として設立、1988年にオリエント・リース(現:オリックス)に球団譲渡。 | |
1988年11月4日、正式に阪急電鉄からオリエント・リースに球団が譲渡。オリエント・リースは翌1989年「オリックス」に社名変更。球団名はオリックス・ブレーブス(ORIX Braves)、会社名はオリックス・ブレーブス株式会社にそれぞれ変更された(1990年9月には、現在のオリックス野球クラブ株式会社へ社名変更)。球団事務所はそれまでの大阪府大阪市北区角田町から、同市同区曾根崎新地に移された。
球団オーナーは小林公平から宮内義彦オリックス社長に交代し、球団社長(兼球団代表)に近藤靖夫が就任した。
球団譲渡とともに、ユニフォームは黒と赤を基調としたデザインから、オリックスブルー(紺色)とブレーブスゴールデンイエロー(黄金)を基調にしたデザインへ変更される。「ブレーブス」の愛称と阪急西宮球場の使用が継続されたが、1988年に完成したグリーンスタジアム神戸を準本拠地とすることも併せて発表された。グリーンスタジアム神戸は阪急時代だった1988年5月の対南海戦でも使われたが、1989年には主催試合が14試合と増加し、1990年も13試合組まれた。
球団譲渡後の初年度となった1989年のシーズンは、南海から移籍した門田博光を加えたブルーサンダー打線がチームを引っ張ったが、優勝した近鉄にゲーム差なしの2位となった。
1990年も2位に終わり、上田監督が辞任。同年シーズン終了後の11月1日より、40年以上も本拠地としていた西宮球場からグリーンスタジアム神戸に本拠地を移し、愛称をブルーウェーブ(Blue Wave)に変更。監督も長年チームを率いた上田から土井正三に代わり、脱阪急色が進んでいった。
1991年シーズンから1993年まで土井がチームを率いたが、3年連続で3位に終わった。1992年には後にチームを支えることになる田口壮、鈴木一朗(イチロー)の両選手が入団しているが、田口は土井の厳しい指導からイップスとなり、鈴木は高卒1年目から起用され、当時の近鉄のエースだった野茂英雄からホームランを放つなどある程度の活躍したものの、レギュラーに定着することは無かった。
土井がイチローを起用しなかったことについて、イチローの実力を見抜けなかったとする意見もあるが、後に能力自体は認識していたと土井自身は発言している[6]。 イチロー自身も、土井の訃報の際に確執の存在を否定している。
1993年限りで退任した土井に代わり、1994年から仰木彬が監督に就任。仰木の下でレギュラーとして起用されたイチロー(この年に登録名を変更)は初の規定打席到達にして日本新記録の年間210安打を樹立し、当時のパ・リーグ新記録となる打率.385を記録。その功績に対してオフには正力松太郎賞が贈られた。チームの最終順位は2位に終わったが、イチローフィーバーに後押しされたチームは優勝争いにも加わり、観客動員も球団記録を大幅に更新した。
1995年は1月17日に発生した阪神・淡路大震災の影響から一時は神戸での試合開催が危ぶまれることになる。しかし、宮内オーナーは「こんなとき神戸を逃げ出して何が市民球団だ。一人も来なくてもいいから、スケジュール通り絶対、神戸でやれ」と神戸での開催を主張、最終的には神戸での試合が開催が決定され、チームは「がんばろうKOBE」を合言葉にこのシーズンに臨むこととなった。
被災した神戸市民を励まそうと一丸となったチームは、6月には月間20勝を超える躍進を見せ、ペナントレースは独走状態となり、7月末に早くもマジックが点灯した。前年までの覇者西武には直接対決15連勝を記録し、対戦成績では21勝5敗と大きく勝ち越した。また、4月19日には野田浩司が一試合奪三振19の日本新記録を達成すると、佐藤義則が8月26日の対近鉄戦(藤井寺球場)で、当時の史上最年長でのノーヒットノーランを記録している。
「マジック1」とした後の地元神戸での4連戦に全敗し、念願の地元胴上げはならなかったものの、9月19日の対西武戦に勝利し球団譲渡後初のリーグ制覇を実現した。日本シリーズではヤクルトスワローズに1勝4敗で敗れたが、被災地とともに戦うチームの姿は大きな感動を呼び、ファンは熱烈な応援でチームを支えた。この年の「神戸」と「ブルーウェーブ」の関係は、ホームタウンとプロスポーツチームの理想的な関係として各方面で取り上げられた。
1996年は日本ハムに先行を許し、8月前半には5ゲーム差をつけられたものの、9月上旬には逆転し、9月23日の日本ハム(グリーンスタジアム神戸)との直接対決ではイチローのサヨナラ安打で勝利を収め、リーグ2連覇と2年越しの「神戸での胴上げ」を実現した。日本シリーズでも巨人を4勝1敗で下し、地元神戸でオリックス譲渡後初めてとなり、球団としても19年ぶりとなる日本一に輝いた。この年は観客動員数も大幅に伸び、過去最高の179万4000人を記録している。
1997年はリーグ3連覇がかかっていたが、後半戦において投手陣が崩壊。西武の前に2位に終わると、1998年は開幕6連敗を経験するなど3位と優勝争いに絡みながらも優勝できないシーズンが続くことになる。
1998年のドラフト会議で、沖縄水産高校の新垣渚を指名し、交渉権を獲得したが、入団交渉は難航し、球団編成部長の三輪田勝利が自殺するという事態となった。新垣は入団せず九州共立大学に進学し、後にダイエーに入団している。(詳細は三輪田勝利#1998年のドラフト、突然の死参照)
1999年は打率リーグ1位、防御率2位となったものの、若手の伸び悩みが目立って最終的な順位は3位だった。この頃から1995年と1996年のリーグ連覇を担った選手たちが、引退・トレード・FA等で次々とチームを去っており、弱体化の傾向が目立つようになる。
[編集] 2000年 - 球団合併
2000年、ファームの収益性改善・独立採算を目指し、ファームのチーム名をサーパス神戸( - こうべ、SURPASS KOBE。後にチーム名は「サーパス」に変更。)に改称した。「ファームとは本来選手がいてはいけないところ」という理念のもとにファームの改革をしようとした結果だが効果は発揮せず、チームの弱体化に歯止めはかからないままだった。結局4位に終わり、オリックスへの譲渡後初、球団としては12年ぶりにBクラスに転落した。また、シーズンオフには主戦打者のイチローがポスティング制度を利用してMLBのシアトル・マリナーズに移籍した。
イチローの抜けた2001年のシーズンは、具臺晟や新人の大久保勝信を加えて臨んだ。イチローの守っていた右翼では若手の葛城育郎がレギュラーを確保し、大久保勝信も新人王を獲得するなど若手の台頭こそあったものの、それまでの監督生活13年間でBクラスは前年の1度だけという名将仰木を以てしても戦力不足は補えず、4位に終わった。このシーズンをもって仰木は監督を退く。シーズン終了後、石毛宏典が監督に就任した。この年に左翼のレギュラーで、チームの精神的支柱の田口壮がFA宣言を行い、MLBのセントルイス・カージナルスに移籍した。
石毛監督の初年度となった2002年はチーム打率.235と極端な貧打に悩まされた。この貧打により、主戦投手の金田政彦が防御率2.50で最優秀防御率のタイトルを獲得するも4勝9敗、具臺晟もリーグ2位の防御率2.52を記録しながら5勝7敗と投手陣を見殺しにする試合が多く、阪急以来の39年ぶりとなる2度目の最下位に転落してしまった。特に接戦に弱く、1点差だと15勝23敗、2点差だと8勝21敗であった。
2003年も序盤でチームが低迷したこともあり、4月23日に石毛は解任された。代わってコーチを務めていたレオン・リーが監督に就任したが、前年とは対照的に打撃陣は好調であったが投手陣が崩壊し、対ダイエー戦で20失点以上を4度記録するなど、プロ野球史上最多の927失点(自責点818点)、チーム防御率も5.95を記録。48勝88敗4分、借金40と大惨敗。球団初の2年連続最下位となった。
2004年はレオンに代わり、前年まで西武を率いた伊原春樹を監督に招聘、ダイエーからFAで村松有人を、阪神からムーアを獲得するなど、積極的に戦力補強を行ってシーズンに臨んだ。しかし、いざシーズンを迎えるとまたしても投手陣が崩壊(防御率5.65)してしまい、3年連続最下位に終わっている。
[編集] 近鉄との球団合併
詳細は「プロ野球再編問題 (2004年)」を参照
2004年6月13日、日本経済新聞により大阪近鉄バファローズとオリックスの球団合併が報じられ、球団合併を両球団が検討していることが判明した。以後、紆余曲折を経て12月1日、球団経営の抜本的立て直しを目的として、同じパ・リーグの近鉄と合併することとなり、「オリックス・バファローズ」となった[7]。なお、この時に選手分配ドラフトが開催され、選手の約半数を新規参入球団『東北楽天ゴールデンイーグルス』に譲渡している。
合併後の監督には、近鉄・オリックス両球団で監督経験のある仰木彬(1988年 - 1992年:近鉄、1994年 - 2001年:オリックス)が復帰。保護地域に関しては兵庫県を保護地域としてきた阪神タイガースとの兼ね合いもあり、2007年度までの3年間のみ暫定措置として、従来からのオリックスの保護地域である兵庫県と、近鉄の保護地域だった大阪府の両方を阪神タイガースとともに保護地域とするダブルフランチャイズの形が取り入れられ、神戸総合運動公園野球場と大阪ドームの両方を実質的な本拠地球場とした(専用球場の扱いについてはまとめて後述)。
球団事務所については、引き続き神戸市内に置くこととなった。
[編集] 合併後
2005年は合併により有力選手が加入したことに加え、仰木が監督に復帰したことから戦力は大幅に向上して臨んだシーズンとなった。肺がんに侵されながらも指揮を執る仰木の下でチームは最後までAクラス争いを続けたが4位でシーズンを終えた。Aクラスやプレーオフ進出を逃がした。シーズン後に仰木は監督を退任し、代わって球団ゼネラルマネージャーだった中村勝広が監督に就任した。編成を司るGMより監督への就任は日本球界初となる。仰木は球団シニアアドバイザーに就任したが、12月15日に肺がんによる呼吸不全のため70歳で逝去した。
2006年、巨人を自由契約となった清原和博、ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結んでいた中村紀洋を獲得して臨んだが、8月27日の対北海道日本ハムファイターズ戦で敗れて7年連続Bクラスが確定し、5位に終わった。成績不振の責任を取って中村は辞任し、代わって10月6日にドジャース育成部長だったテリー・コリンズが監督に就任した。
11月20日よりこれまで神戸市(スカイマークスタジアム内)にあった球団事務所を大阪市北区堂島に移転した。この結果、球団業務の大半(球団本部、大阪営業部、ファンサービス部等)は大阪に集約され、なお神戸事務所は神戸営業部等一部の業務のみに規模を縮小するなど、球団の経営機能は大幅に大阪にシフトしていくことになった。また、専用球場の登録はこの年に限り暫定的に神戸に移したがこのシーズン終了と共にまた大阪に戻し、試合数を大幅に増やすことになる(後述)。
2007年、1月6日に前川勝彦が大阪市内でひき逃げ事故を起こし、さらに無免許[8]だったことが発覚して、業務上過失傷害と道路交通法違反の疑いで逮捕された。これを重くみた球団は1月18日付で前川を懲戒解雇処分としたが、その騒動の最中だった1月17日に、大幅な減俸を提示されて契約交渉が決裂した中村紀洋を解雇した。この他球団の編成も完了している時期の解雇について、選手会が野球協約上、問題のある交渉ではないかと批判している。低迷期より主戦打者だった谷佳知を、鴨志田貴司・長田昌浩とのトレードで巨人に放出し、ダン・セラフィニなどを補強。近鉄で実績を残し、一度引退を表明したタフィ・ローズを獲得して臨んだシーズンだったが、選手起用などで混迷は続いた。4月下旬から5月半ばにかけて17試合で1勝16敗と大きく負け越すと、優勝争いはおろかAクラス争いにすら加わる事無く、パ・リーグ他5球団に負け越し、合併からわずか3年で最下位に転落した。
2008年、シーズン前に獲得を発表したジェレミー・パウエルについて、1月29日になって福岡ソフトバンクホークスも獲得を発表したため、当初はパウエルに数ヶ月の出場停止を課す条件でのソフトバンク入団という妥協案も取り沙汰されたが、オリックスはコミッショナーに提訴するなど1ヶ月あまりの混乱が続き、最終的にパウエルはソフトバンクへ入団した(詳しくはジェレミー・パウエル#二重契約問題参照)。3月1日にこれまで共同出資を行っており、袖のユニフォームスポンサー契約を結んでいた近畿日本鉄道とのスポンサー契約を更新しないことが発表された。また、このユニフォーム袖部分について新たに携帯電話会社・イー・モバイルがスポンサーとなることが決まった。
シーズンも開幕から低迷が続き、5月21日にコリンズが辞任を発表した。この辞任を受け、大石大二郎ヘッドコーチが監督代行に就任し、8月2日に監督に昇格した。大石の監督代行就任後、6月3日の巨人戦に勝利し、阪急時代も含めて通算4500勝を達成[9]するなどチームは持ち直していった。9月24日の対ソフトバンク戦に勝利して2001年シーズン以来7年ぶり、オリックス・バファローズとしては初のシーズン勝ち越しを決め、9月29日の対埼玉西武ライオンズ戦に勝利して、初のクライマックスシリーズ進出を決めた。シーズンも2位で終わり、クライマックスシリーズでは第1ステージで3位・日本ハムと対戦。2連敗で敗退し日本シリーズ出場はならなかったものの、15勝を挙げて新人王を獲得した小松聖を筆頭に、山本省吾・金子千尋・近藤一樹が先発10勝、加藤大輔が最多セーブ、坂口智隆はゴールデングラブ賞、タフィ・ローズは打点王を獲得するなど、チームの戦力は大幅に充実した。
2009年、1月19日にファームとネーミングライツを契約していた穴吹工務店との契約満了に伴い、10年ぶりにファームのチーム名がサーパスから一軍と同じオリックス・バファローズに変更された。2月23日、ビジター用ユニフォームと球団旗のデザイン変更が発表される(後述)。3月28日、関西プロ野球球団初の球団公式チアリーリングチームがデビューし、4月10日にチーム名「Bs Dreams(ビーズ・ドリームズ)」が発表された。
この年は、楽天を解雇されたホセ・フェルナンデスを加えローズ・カブレラ・ラロッカの4人でビッグボーイズを結成するなどし、開幕前の野球解説者の予想でも上位にあげられていたが、これら4人の外国人選手全員が死球などで全員が骨折するなど、極度の不運に見舞われ、主力選手の多くが怪我で離脱した。先発投手陣も、前年大活躍をした小松が開幕から大不振に陥ったのをはじめ、近藤が5月から不調に陥り、復帰した平野も開幕直後に体調不良で戦線離脱、開幕から金子と共に好調を維持していた岸田護も故障で離脱した。さらに、抑えの加藤を擁するリリーフ陣も不安定な投球が目立ち、9月以降は先発要員の金子が抑えに起用された。チームは5月に9連敗、6月に7連敗と大型連敗を繰り返し、6月は4勝14敗と大きく負け越して低迷。6月10日から1軍投手コーチ(ベンチ)の赤堀元之をブルペン、1軍投手コーチ(ブルペン)の清川栄治をベンチに配置転換した。6月18日からは1軍投手チーフコーチの佐々木修を2軍投手コーチに降格、先日1軍投手コーチとなった清川栄治を1軍投手チーフコーチに昇格する人事を発表している。しかし、これでも好調の兆しは最後まで見られず、優勝した日本ハムに6勝18敗、この年2位に躍進した楽天には4勝19敗1分と大きく負け越すなど苦戦を強いられ、9月にはシーズン3度目の6連敗を喫した。9月9日の対楽天戦で敗戦を喫して2年ぶりにシーズン負け越しが決定。9月27日の対ロッテ戦で引き分けになり、勝率差でロッテに及ばなくなったため、2年ぶりに最下位となった。その責任を受けて中村と大石の解任を発表し、10月13日後任として前阪神監督をつとめた岡田彰布が就任した。
[編集] 2010年代
2010年、2月5日にキャンプ地の宮古島市のホテルで、小瀬浩之が転落死[10]する事態が起きた。直後に阿部真宏とのトレードで西武から赤田将吾を獲得している。3月20日から3月26日まで、1989年以来のパ・リーグ開幕4連勝を果たす。4月2日から4月7日まで5連敗・合計37失点と大量失点されたこともあり、4月8日に1軍バッテリーコーチの三輪隆が2軍バッテリーコーチに降格、2軍バッテリーコーチの吉原孝介を1軍バッテリーコーチに昇格する人事を発表した。
交流戦に入るとチームは機能し始めるようになり、16勝8敗の好成績を残し、6月13日の対横浜ベイスターズ戦を7-2で勝利し、交流戦6年目で初優勝した。交流戦後の後半戦に入ると一時は3位に浮上したものの主力選手の不振等で連敗を繰り返し、その後もCS出場圏内にとどまっていたが9月26日、日本ハムが西武にサヨナラ勝ちし、勝率差で日本ハムに及ばなくなったため、2年連続のBクラスが、9月28日には5位が決定した。T-岡田が本塁打王、金子千尋が最多勝を獲得している。
2011年、「オリックス・バファローズ改造計画」と称し、大阪市・大阪府民に愛される野球チームを目指すための様々な新機軸を展開することになった。球団にとっては阪急からオリックスとなった1989年以来の大幅な変更[11]。1月8日、大阪市内で「オリックス・バファローズ 新ブランド発表会」を開き、今季から使用する新ユニホーム及び新マスコットキャラクターを公開した。コンセプトを「伝統、誇り、革新」として金色、白、ネイビーを新たなチームカラーに設定。白が基調のホーム用と胸に「ORIX」と入ったグレーのビジター用のほか、日曜日の主催試合で着用する3種を使う。また、新しいロゴも決まり「Buffaloes」の「f」を一つ裏返すことで力強い牛の角を表現、ホーム用と日曜日用のユニホームの胸部分に使用する。ブルーウェーブ時代からの「ネッピー」と「リプシー」に代わる新マスコットは、バファローと草食動物オリックスを掛け合わせた架空の生き物で、男女のペア。名前を一般公募し、男は「バファローブル」、女が「バファローベル」と命名された。
「LEGEND OF Bs 2011」として2011年5月7日、8日、20日、21日には復刻版阪急ブレーブスのユニフォームを全選手が纏い、プレーした。この際に使用したユニフォームはチャリティーオークションで販売された。また、この時の試合写真を集めた公式写真集が2011年8月、オリジナル写真集PHOちょ+よりリリースされた。LEGEND OF Bs 2011阪急ブレーブス公式写真集
チーム防御率リーグワーストと投手陣が低迷していた為8月3日付で一軍投手チーフコーチの福間納を育成担当へ降格、育成担当の赤堀元之は一軍投手コーチ(ブルペン)に昇格し、ブルペン担当だった小林宏はベンチへ昇格した。4年連続でシーズン中に投手コーチが交代することになった[12]。
8月28日の対ロッテ戦から9月7日の対楽天戦まで1997年以来14年ぶりの9連勝を達成した[13]。9月は18勝5敗1分という好成績で3位となり、調子を落とした2位の日本ハムと一時は1.5ゲーム差にまで縮めるが、10月は3勝9敗1分と調子を落とし、最後は西武との3位争いの末、18日のシーズン最終戦においてオリックスがソフトバンクに敗れ、同じくこの日最終戦だった西武が日本ハムに勝った為[14]、わずか勝率1毛差(.0001差)で4位となり3年連続のBクラス、クライマックスシリーズ出場を逃す結果となった。オフには李承燁、朴贊浩、加藤大輔が退団。一方で、西武から許銘傑を、韓国のロッテジャイアンツから李大浩を獲得。
2012年、球団創立以来初のキャプテン制度を導入。後藤光尊が就任。3月28日に阪神、米大リーグ・ヤンキースに在籍した井川慶を獲得。なお、井川は6年ぶりの日本復帰となる。背番号は阪神時代・ヤンキース時代と同じ「29」。
[編集] チーム成績・記録
- リーグ優勝 12回(年間最高勝率は南海にプレーオフで敗退した1973年と近鉄にプレーオフで敗退した1979年を含む、近鉄とのプレーオフを制した1975年を除く13回)
- (1967年 - 1969年、1971年 - 1972年、1975年 - 1978年[15]、1984年、1995年 - 1996年)
- セ・パ交流戦優勝 1回 (2010年)
- 日本一 4回
- (1975年 - 1977年、1996年)
- Aクラス 46回
- (1937年春、1938年春 - 1942年、1944年 - 1949年、1953年、1955年 - 1956年、1958年、1964年、1967年 - 1969年、1971年 - 1979年、1981年、1983年 - 1984年、1986年 - 1987年、1989年 - 1999年、2008年)
- Bクラス 30回
- (1937年秋、1943年、1950年 - 1952年、1954年、1957年、1959年 - 1963年、1965年 - 1966年、1970年、1980年、1982年、1985年、1988年、2000年 - 2007年、2009年 - 2011年)
- 連続Aクラス入り最長記録 11年(1989年 - 1999年)
- 連続Bクラス最長記録 8年(2000年 - 2007年)
- 最下位回数 6回(1963年、2002年 - 2004年、2007年、2009年)
- 最多勝 88勝(1956年)
- 最多敗 92敗(1963年)
- 最多引分 11分(1971年、1979年)
- 最高勝率 .678(1978年)
- 最低勝率 .353(2003年)
詳細は「オリックス・バファローズ及びその前身球団の年度別成績一覧」を参照
[編集] その他の記録
- 最小ゲーム差 0.0ゲーム(1989年)
- 最大ゲーム差 40.0ゲーム(1959年)
- 最高得点 758点(1985年)
- 最多本塁打 184本(1980年)
- 最小本塁打 3本(1944年)
- 最高打率 .285(1994年)
- 最低打率 .185(1943年)
- 最高防御率 2.57(1940年)
- 最低防御率 5.95(2003年)
[編集] 歴代本拠地
- 1936年 宝塚球場
- 1937年 - 1990年 阪急西宮球場
- 1948年から暫定的にフランチャイズ制がしかれ、1952年より正式にフランチャイズ制がしかれる。
- 1958年から1982年頃までと1988年は阪急電鉄の沿線への配慮から西京極球場を、また、オリックスへ球団を譲渡した1989年、1990年は神戸地区のファン確保のためグリーンスタジアム神戸(神戸総合運動公園野球場)を準本拠地として使った。
- 1991年 - 2004年 グリーンスタジアム神戸→Yahoo!BBスタジアム(神戸総合運動公園野球場)
- 球場の名称は2002年までがグリーンスタジアム神戸、2003年と2004年はネーミングライツによりYahoo!BBスタジアム。なお、1991年・1992年は西宮球場を準本拠地として開催していた。
- 2005年 大阪ドーム(現:京セラドーム大阪)
- 実質的にはスカイマークスタジアム(神戸総合運動公園野球場、Yahoo!BBスタジアムから改称)との併用。
- 2006年 スカイマークスタジアム
- 実質的には大阪ドーム(この年7月からネーミングライツにより「京セラドーム大阪」に名称変更)との併用。
- 2007年 - 現在 京セラドーム大阪
- スカイマークスタジアム(2011年、「ほっともっとフィールド神戸」に改称)は準本拠地扱いとなった。
[編集] 合併後の2球場併用
2005年より球団合併に伴う暫定処置として3年間限定で「ダブルフランチャイズ制」が認められ、合併前に両球団が本拠としていた2球場をともに本拠地球場扱いとした[16]。但し、野球協約における正式な本拠地球場である専用球場については規定通り1つとされ、大阪ドームが登録された。この年は大阪で34試合、神戸で32試合(他東京ドーム遠征2試合)が開催されている。球団は最終的には神戸での試合数を削減した上で大阪ドームに本拠地を一本化する方針であった(大阪ドームでの主催公式戦、当初案は2006年:42試合→2007年:54試合→2008年:60試合)。
ところが2005年10月、大阪ドームを運営する第三セクター「大阪シティドーム」が会社更生法を申請し、その後のドームの運営体制が不確定な事態となった影響から、オリックスは同年、専用球場の登録をスカイマークスタジアムに変更し、主催公式戦を半数ずつ[17]開催する措置を執った。同年4月、オリックスが大阪ドームの施設買収に乗り出し、同年6月にシティドーム社を100%減資した上でオリックス子会社のオリックス・リアルエステート(現:オリックス不動産)が買収した(詳細は大阪シティドーム参照)。これを受けてオリックスは2007年、再び大阪ドームを専用球場として登録。同年も予定を変更して主催公式戦のうち48試合が大阪で開催された。
2008年以降はダブルフランチャイズ制が終了、専用球場の選択は保護地域の大阪府内にある京セラドーム大阪(大阪ドーム)に限られることになった。ただし神戸総合運動公園野球場(ほっともっとフィールド神戸)の準本拠地としての使用も継続とし、年間20試合程度を開催していった。2011年度からは大阪ドームでの試合数を増やし、近鉄との合併後初めて20試合をきった。これまで必ず行われ特別料金が設定されていた神戸での対巨人戦と対阪神戦も無くなった。
正式な本拠地球場は1つであるが、選手名鑑などでは両球場を併記している場合もある(1999年までの近鉄も本拠地と準本拠地が併記されていたことがあった)[18]。球団合併以後の大阪ドーム、神戸総合運動公園野球場の試合数は以下の通りである。
| 年度 | 大阪 | 神戸 | その他 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 2005年 | 34試合 | 32試合 | 東京ドーム2試合 | |
| 2006年 | 34試合 | 34試合 | なし | この年に限り神戸を専用球場とした。 |
| 2007年 | 48試合 | 22試合 | 東京ドーム2試合 | |
| 2008年 | 48試合 | 22試合 | 東京ドーム2試合 | |
| 2009年 | 49試合 | 21試合 | 東京ドーム2試合 | 神戸の雨天中止分1試合を大阪に振替。 |
| 2010年 | 51試合 | 21試合 | なし | 神戸の雨天中止分1試合を大阪に振替。 |
| 2011年 | 58試合 | 14試合 | なし | 神戸のノーゲーム分1試合を大阪に振替。 |
| 2012年 | 57試合 | 15試合 | なし | 年間指定席の案内による予定。 |
[編集] スポンサー
- オリックス(袖:1989年 - 。ヘルメット:2000年代の初め)
- イー・モバイル(袖:2008年 - )
- 近畿日本鉄道(袖:2005年 - 2007年)
- アトラス(テレビゲームメーカー)(ヘルメット:2004年 - 2005年)
- 京セラ(ヘルメット・ユニフォーム:2006年3月 - 2010年)
- NHN(表記:Han Game)(ヘルメット・パンツ左:2011年)
- gloops(ヘルメット(表記:大熱狂!!プロ野球カード)・パンツ左(表記:gloops):2012年-)
[編集] 歴代監督
- 1936年 - 1937年 : 三宅大輔
- 1937年 : 村上実 (第1次)
- 1938年 - 1939年 : 山下実 (第1次)
- 1939年 : 村上実 (第2次)
- 1940年 : 山下実 (第2次)
- 1940年 - 1942年 : 井野川利春
- 1943年 - 1947年 : 西村正夫 (第1次) ※1
- 1947年 - 1953年 : 浜崎真二
- 1954年 - 1956年 : 西村正夫 (第2次)
- 1957年 - 1959年 : 藤本定義
- 1959年 - 1962年 : 戸倉勝城
- 1963年 - 1973年 : 西本幸雄
- 1974年 - 1978年 : 上田利治 (第1次)
- 1979年 - 1980年 : 梶本隆夫
- 1981年 - 1990年 : 上田利治 (第2次) ※2
- 1991年 - 1993年 : 土井正三 ※3
- 1994年 - 2001年 : 仰木彬 (第1次)
- 2002年 - 2003年 : 石毛宏典 ※4
- 2003年 : レオン・リー ※5
- 2004年 : 伊原春樹
- 2005年 : 仰木彬 (第2次) ※6
- 2006年 : 中村勝広
- 2007年 - 2008年 : テリー・コリンズ ※7
- 2008年 - 2009年 : 大石大二郎 ※8
- 2010年 - : 岡田彰布
※太字は優勝達成監督
- ※1 1947年より阪急ブレーブス
- ※2 1989年よりオリックス・ブレーブス
- ※3 ここからオリックス・ブルーウェーブ
- ※4 2003年4月23日に解任
- ※5 2003年4月23日より監督に昇格
- ※6 ここからオリックス・バファローズ
- ※7 2008年5月21日に辞任
- ※8 2008年5月21日より監督代行、2008年8月2日より監督に昇格
[編集] 永久欠番
- 無し
- 近鉄では鈴木啓示の1番が永久欠番に制定されていたが、合併時に消滅した。近鉄・オリックス両球団にとっても、永久欠番の扱いは合併時の課題だったが、鈴木本人が永久欠番を継続しない事を了承し、2005年より後藤光尊が着けた。
- また、オリックスでは欠番としてはいなかったものの、1988年限りで引退した福本豊の7番を着ける選手はいなかったため、しばらく空き番になっていた。2001年より進藤達哉が着け(同年に横浜ベイスターズからトレードで獲得)、進藤が退団後は、日高剛、濱中治が着用。2010年濱中が退団し、2011年から再び空番となったが、2012年からは赤田将吾が着用することになった。
[編集] 準永久欠番
- 51:イチロー
- 7年連続首位打者を獲得したイチローが2000年シーズン終了後にメジャーリーグに移籍した後、「51」を着けている選手はいない。2005年に仰木彬が監督に復帰した際、イチロー自身が「51番は監督に着けてほしい」と勧めたが、仰木も「そんな番号は恐れ多くて絶対着けられん」と断っている。また、2011年にバファローズに入団した坪井智哉(イチローと同学年)は、球団に51を希望するも却下された[19]。
[編集] 歴代の球団歌・応援歌
[編集] 阪急軍
- 阪急の歌
- 作詞:阪急後援會、作曲:古谷幸一
[編集] 阪急ブレーブス
- 阪急ブレーブス団歌
- 作詞:内海重典、作曲:入江薫、歌:ロイヤル・ナイツ
- 『阪神タイガースの歌』と同様に歌詞が「六甲おろし」で始まっていた。
- 阪急ブレーブス応援歌
- 作詞:サトウハチロー、作曲:藤山一郎、歌:ロイヤル・ナイツ
- カッチャカッチャ阪急
- 作詞:伊藤アキラ、作曲:佐藤勝、歌:ロイヤル・ナイツ
- ああ!王者
- 作詞:伊藤アキラ、作曲:佐藤勝、歌:山口高志・加藤秀司・山田久志・大熊忠義
- 若い阪急(阪急西宮球場人工芝記念ソング)
- ヒッティングマーチに多用された。
- Yes, you win!
- 歌:早見優
- 1983年のチームスローガン「フレッシュアンドチャレンジ」にちなんで作られた。
[編集] オリックス・ブレーブス
[編集] オリックス・ブルーウェーブ
- 輝け潮流
- ラッキーセブンの際には応援団がトランペット演奏していた。
- ビクトリーマーチ
- 歌:マリンサイド・ウォーカーズJR.
- 2000年以降、ラッキーセブンの際に場内に流された。
- リトル☆ネプチューン
- 歌:マリン・ウォーカーズ
- 試合開始前と勝利試合のヒーローインタビュー後に流された。
[編集] オリックス・バファローズ
- SKY
- 歌:MEGA STOPPER
- 7回裏攻撃前と試合に勝利した後流れる。
- PLAY BALL
- 歌:OUTSIDE SIGNAL(2005年)、MEGA STOPPER(2006年~)
- 2005年上半期は試合開始前に流されていた。なお、タイトルは同じだが、2005年と2006年のもので歌詞などは大幅に変わっている。
- BLUE SPIRITS-蒼きフィールドの戦士たち-
- 歌:OBSOUL
- 2005年3月発表。主に試合開始前にネッピーとリプシーのダンスソングとして使われていた。
- ウイニングラン
- 歌:Queen's Tears Honey
- 2006年下半期から使われた。
- Bop!!
- 歌:MEGA STOPPER
- 2006年シーズンから使われた第5の公式応援歌。球団が使っている映像などでは道頓堀リバープレスや通天閣でのロケが行われている。
- CALLING
- 歌:MEGA STOPPER
- 2010年発表。
- Hey! Believer〜あの日のウイニングボール〜
- 2010年発表。
[編集] チームの特徴
[編集] 球団名
- 球団愛称の正式表記は「バファローズ」であるが、メディアにはたびたび「バッファローズ」と誤表記されることがある。これは近鉄が名乗っていた時代も同様であった。大阪近鉄バファローズ#球団愛称も参照。
- 1991年に球団が神戸へ移転するに当たり、愛称公募が行われた(1990年8月13日の本拠地移転発表とともに発表)。当時の新聞報道によれば、神戸にちなんだ「ゴッドドアーズ」など駄洒落も多かったが、最も多くファンから寄せられた愛称は「ブルーサンダー打線」に引っ掛けた「サンダーズ」だった。しかし、球団側は結局この名称を採らず、公募とは脈絡のない「ブルーウェーブ」に決定。このため、ファンやマスコミから「決定事項の出来レースだったのではないか」との声も多く挙がり、またこれと併せて、当時の報道として「球場(グリーンスタジアム)は山の中にあるのに、何故「ブルーウェーブ=青い波」なのか?」との多数のファンの意見も伝えられていた[20]。
- 2012年現在、パ・リーグの球団で唯一、愛称の前に企業名(経営母体の名称)のみがつけられている(地域名の付かない)球団である。
- ブレーブス時代はアルファベットでの略称を「B」としていた。後に近鉄パールスが近鉄バファロー(1959年 - 1961年)→バファローズ(1962年 - 2004年)となった際に「B」で始まる球団名が重複することになったが、この際は後発の近鉄が「Bu」とアルファベット2文字の略称を使っていた。その後、1991年にオリックスがブルーウェーブへ改称した際に「BW」と2文字の略称へ変更。現在は近鉄が使っていた「Bu」の略称は引き継がず、「B」で始まる2球団が合併したという意味もこめて「Bs」としている(資料によってはブレーブスのBの意味も込められているとしている)。なお、横浜大洋ホエールズ(1978年 - 1992年)より改称したセ・リーグの横浜ベイスターズ(1993年 - 2011年)は「BS」でなく「YB」、その後身である横浜DeNAベイスターズ(2012年 - )は「DB」と表記する。
- 阪急時代、球団名を漢字一文字で表す場合は、同じ「阪」が付く阪神タイガースと区別するため、「急」と表記していた(阪神は「神」。こちらは阪急が消滅して以後、現在も続いている)。
- 2010年3月、2011年のシーズンより「バファローズ」から名称を変更する方向で調整していることが報じられた。報道によると名称はファンからの公募により決定するが、「バファローズ」の名称が多かった場合は、変更しない。また、「大阪」の冠を付けるとも伝えられていた[21]。しかし、オーナーの宮内は2010年10月8日の会見で球団名の変更について、「合併する際の近鉄サイドの強い要望も有り、バファローズの名前は親からもらった名前として使っていきたい」と否定する発言を行っている。
[編集] ファンと球団
- 関西地区には阪急時代から常に複数球団が存在したため、当時より人気の低迷に悩まされてきた。特に阪神タイガースとは本拠地が同じ西宮市であり、この事や阪神偏重の在阪スポーツ紙の姿勢も追い討ちをかけるような状況であった。「パ・リーグ加盟当初は南海」、「テレビ中継の開始以降は阪神」といった両雄の陰に隠れ、黄金時代であっても人気が伸び悩み、山田久志、ブーマー・ウェルズ、福本豊といった球史に残る選手を輩出しても人気獲得にはつながらなかった。 しかし数では多くなかったものの、ファンは関西での「阪急」の持つステータスやスマートなチームカラーに強い誇りを感じており、関西他球団のファンとは異質の愛着や温かみが特色となっていた。
- 阪急創始者の小林一三及び一三の三男で後にオーナーを務めた小林米三は、同じ阪急グループの宝塚歌劇団を「娘」、ブレーブスを「息子」と並び称して愛着を示していた。しかし、ともに赤字経営となっていき、球団末期にはグループ内ですら、歌劇の「じゃじゃ馬娘」と併せて「どら息子」と陰で呼ばれるようになっていた。身売り時の阪急社長・球団オーナーだった小林公平は、文化人肌で、宝塚歌劇には愛着を持っていたが、ブレーブス=野球には一三や米三程熱心ではなかったとされる(公平は創業家・小林家及び縁戚関係の松岡家の実子ではなく、三菱グループと親密な三村家からの婿養子である)。同じく阪急資本の東宝の「東宝チャンピオンまつり」などでも、阪急ナインのスポットニュースが番組に挿入されることはあったが、メインのプログラムの題材には読売ジャイアンツが使われるなど、グループが擁する映画・テレビ会社が活用されることも少なかった。ただ、一方ではオリックスに売却後も球団の納会に顔を出す等、選手・スタッフに対しては気にかけていたと山沖之彦は証言している[22]。
- ブルーウェーブ時代は本拠地を神戸に移したことで、地元神戸に根ざした球団運営が期待された。1994年以降、イチローの活躍や、「がんばろうKOBE」に代表される阪神・淡路大震災を契機とした神戸市民の連帯感が追い風となり、一時は近接する阪神タイガースを凌駕するほどの注目度と人気を集めた。しかし球団名に「神戸」の文字を入れないなど、地域密着に消極的な姿勢が見られた事や、世界記録を樹立した福本豊の背番号を永久欠番にしないなど、前身である阪急ブレーブスの歴史の軽視ともとられかねない姿勢やチーム強化・ファンサービスよりも選手を「契約金0円」でドラフト獲得し経費抑制を優先したことなどで、チームの弱体化と共に人気は低下し、後の球団合併を招く遠因となった(優勝時は満員御礼だったグリーンスタジアム神戸も石毛-レオン監督の頃には空席が非常に目立つようになっていた)。
- プロ野球再編問題 (2004年)による球団合併後は資本的には存続球団だが、ブルーウェーブと旧・大阪近鉄双方のファンより「合併の結果、ブルーウェーブもバファローズも消滅した」という意識を持たれたとされる。球団は2006年になって「阪急ブレーブス・近鉄バファローズ・ブルーウェーブの『3つのB』の伝統を大切にする」と宣言し、球団理念にもそれをうたっているが、公式ウェブサイト等においては前身球団の歴史をすべて掲載しないなど、徹底されていない面がある[23]。球団関係者からも「それぞれの球団のファンにすると、中途半端な印象があるのかもしれません」「2つの球団が合併したとはいえ、選手の大半は近鉄側でしたから、大阪に力点を置いた事業展開を行うべきだったのかもしれません」といった発言があり、複雑な成立過程を持つ球団ゆえのファン拡大の困難を認めている[24]。しかし、2011年のシーズンには「LEGEND of Bs 2011 蘇る黄金の70's」と題して1970年代の阪急・近鉄に光を当てたイベントが実施され、両球団の復刻ユニホームの使用や当時の選手とかつての阪急応援団長・今坂喜好による始球式がおこなわれたほか、このイベントの専用ウェブサイトでは両球団の創立以来の歴史も(1970年代を中心とする形ながら)記載された[1]。
- 宮内義彦球団オーナーは合併決定当時、「合併すれば実力もファンも2倍になります」と発言した。合併後、2006年は前年比102.5%の139万人に観客動員を増やしたが、2007年の観客動員は114万人で1試合平均で4,650人・前年比18.2%という大幅な減少を記録した。上記の通り、このシーズンは大阪での試合数を増やしたり、チームが3年ぶりに最下位に転落するといった事情があった。このため、オリックスグループの社員を数千人単位で動員したり、「大阪府民デー」では入場料を破格の値段に設定するなどの集客策が行われるようになった。2008年は好成績もあり、前年比111.4%の127万人となった。2009年は成績は低迷したが、観客動員数は微増の129万人(前年比101.5%)であった。2010年は前年比112.3%の144万人と大幅に増え、合併後では最多を記録した。2011年は前年から2.9%減の140万人だった。
- 旧経営者である阪急電鉄側もオリックス球団に配慮し、売却からしばらくは過去に球団を保有していた事については扱わない傾向だったが、2000年代以降は、グループの刊行物に、過去の記念乗車券等球団経営時代の物品を掲載したり、ブレーブス関連の鉄道グッズを車両基地公開イベントなどで復刻限定発売した例がある他、現在は阪急西宮ガーデンズ展示施設を設けているが、阪神電気鉄道との経営統合で阪神タイガースと間接的な関係が生じている事に配慮し、オリックス球団による復刻イベント等にも水面下での協力に留め、表立って協賛しない等限定した扱いとなっている。
[編集] マスコット
- 1981年から、日本プロ野球では、ヤクルトスワローズのヤー坊、日本ハムファイターズのギョロタンに次いで3番目となる球団着ぐるみマスコット「ブレービー」を採用。阪急西宮球場での試合中、5回裏終了時にスクーターでフィールドを駆けていた。ブレービーは1990年まで使われた。また、1988年にはブレービーの子どもとして「勇太」が登場したが、同年オフにオリエント・リースに球団が譲渡されたのに伴い、わずか1シーズンのみで消滅した。
- ブルーウェーブとなった1991年からは「ネッピー」(背番号111)が登場。ネッピーは海神ネプチューンの息子で、年齢は13歳という設定。登場当時は上半身は裸で、貝殻の首飾りをしていた。また1999年からは「海賊の娘で、嵐で船が難破して海で遭難していたところをネッピーに助けられた」という設定で、「リプシー」(背番号222)が登場、ネッピーとともにユニホーム姿となる。いずれもデザインは松下進。ネッピーと共に12球団唯一の人間型マスコットである。球団合併後もそのまま起用され続けていたが[25]、2010年シーズンを最後に全面リニューアルのため“引退”。2011年1月には西神プレンティにおいて「引退セレモニー」が行なわれ、以降は「ふるさとの海に帰る」とコメントしている。ちなみに、Jリーグ・ガンバ大阪のマスコット、ガンバボーイはネッピーの弟である(同じ松下進デザイン)。
- ブレービー・ネッピー共に島野修が1998年まで演じていた。
- その他、ブルーウェーブ時代に「ブルーパイレーツ」という海賊4人組のマスコットがいた。
- 2010年より東北楽天ゴールデンイーグルスの球界初のしゃべるマスコット「超特大ゴーヤ」が、象に踏まれているところを坂口智隆と赤田将吾から救出された縁で恩返しとしてオリックスへ移籍し1年間応援することとなり[26]。名前も「1・2・3・4ゴーヤ」と改名した。さらにシーズン終了後には勝手に残留表明まで行った[27]。また、「3・4・5・6・7八カセ」(最後の読みは「はかせ」だが、カタカナの「ハカセ」ではなく漢字の「八カセ」である)というゴーヤがマッドサイエンティストに扮装したかのようなマスコットまで登場したが、本人は「誰がゴーヤやねん!」と誰も言ってないのに否定している(ただし、公式動画で時折正体がばれるようなボロを出している)。その結果、メカに覆われたほとんど別物のマスコットになった。なお、2012年からは「大阪八カセ」に改名して活動している。
- 2011年1月に新マスコットを発表。デザインは幸池重季によるもので、「バファローと草食動物のオリックスを掛けあわせた架空の生き物」の兄妹[28][29]。名称は公募にて、兄が目の色のブルーと、球団スローガンの「新・黄金時代」にふさわしい、強く勇敢な雄牛「ブル」を意味し、また、ファンを「ブルブル」と身震いさせる様な熱い戦い、勝利を、という思いが込められた「バファローブル」(BuffaloBULL)、妹は勝利の女神で、勝利の「鐘(ベル)」を鳴らすという意味を込め、「美しさ(フランス語のBeLLe)」を兼ね備える、「バファローベル」(BuffaloBELL)に決定となった。[30]なお背番号はネッピー・リプシーを受け継ぎ兄のブルが「111」、妹のベルが「222」。
[編集] 応援スタイル
「チャンステーマ」も参照
- 阪急時代の応援は、高校野球のようなブラスバンドによる選手別応援歌演奏が特徴となっていた。現在の応援歌にも阪急時代から受け継がれている曲が一部存在する。
- オリックス・バファローズを応援する際は、旧近鉄系の「大阪私設應援團」と旧オリックス系の「神戸蒼誠会」「天体観測」などの私設応援団が先導して行う。ちなみに「天体観測」の名前の由来は「選手がスター(星)になって、遠い存在になっても応援し続ける」というもの。
- 合併以降、ラッパなどの鳴り物の多様化やタオルを使った応援など近鉄のやっていたような激しい応援スタイルに近いものとなっている。また大阪私設応援団が応援の指揮をとることが多いなど、外野スタンドでは旧近鉄ファンの勢力が強くなっている。個人応援歌も近鉄の応援団が加わったのもあり従来のオリックスとは違う、迫力のある激しい応援歌になりつつある。
- 2010年以降(岡田監督就任以降)、シーズン途中やキャンプ中のトレードなどによって途中加入した選手が増えたため、一部選手の応援歌は過去在籍していた選手の応援歌を流用する場合も出てきた。また、セ・パ交流戦で先発投手が打席に立つときは、過去の選手応援歌を流用して歌う場合がある。(2011年の例:金子千尋→イチロー、中山慎也→村松有人)
- 7回の攻撃前に飛ばされるジェット風船は、旧近鉄のチームカラーの赤色のものと、旧時代からのオリックスのチームカラーの青色のものがツートンで使われていたが、2011年の新ユニフォーム導入後は青と金色のツートンが公式色となった。なお、現在では勝利時にも風船を飛ばされることも多くなっている(勝利時も色は7回攻撃前と同じ)。
[編集] 営業・ファンサービス
- 神戸移転後、プロ野球初の男性DJ(=スタジアムDJと命名され、この言葉が今の場内アナ全般に使われるようになった)としてDJ・KIMURAを採用したり、内野グラウンドの天然芝化や内野スタンドのネット撤去、フィールドシートの設置、2004年からは「Take Me Out to the Ball Game」のヤフーBBスタジアム版を演奏など、メジャーリーグのボールパークの雰囲気に近付けるファンサービスを実施したが、観客動員数向上への目立った効果は出なかった(なおフィールドシートの名称が当初「殿馬シート」であったとする俗説があるが、実際には『ドカベン』とのコラボレーションであった「ドカベンチケット」内のみでの名称であり、球場ではこの名称は使われなかった)。
- 2005年シーズンより場内アナウンスを堀江良信(フリーアナウンサー)が担当している。選手名を全てスタメン発表から英語読みで呼ぶ。「○番、守備位置の英語、名前・苗字、(初打席のみ背番号)」2010年より球団非公式マスコットとなった1・2・3・4ゴーヤ(現在は大阪八カセ)との掛け合いも披露することもある。
- 地元大阪と神戸で開く主催ゲーム(オープン戦・公式戦いずれも)では、地元の企業・団体が1シリーズ(2~3連戦単位)で協賛し、球場のスタンド(大阪は2階席のバックスクリーン、神戸は左中間・右中間のバックスクリーン寄り)に「(協賛スポンサー名)シリーズ」の看板を掲げている。
- 大阪・神戸のホームゲームではその試合でオリックスが勝利をした場合、一塁側ベンチからクラッカー(キャノン砲)が発射され、紙テープで祝福するのが恒例となっている。
- 神戸で試合をする場合、5回と6回のイニングスインターバルにアトラクションとして花火ナイターが開かれる。基本的には毎回300発だが、交流戦やシーズン最終戦(神戸での最終戦)など特別な日には「スーパー花火ナイター」として多めに花火を打ち上げる。
- 2005年度から吉本興業と業務提携を結んだ。3月27日の朝日放送『なにわ人情コメディ 横丁へよ~こちょ!』(NGKで3月9日収録)に仰木彬監督や選手が劇中に出演し、チームをPRした。また、3月28日のホームゲーム開幕戦・対ロッテ戦(大阪ドーム)では、国歌斉唱をDonDokoDonの山口智充が担当した。この業務提携は2006年度も「よしもとプロデュース・Bsミックスモダン大作戦」として継続。3月31日の関西テレビ『NGKにバファローズがやってきた! ミックスモダン大作戦~結束~』(NGKで3月9日収録)には中村勝広監督・清原和博・中村紀洋らが出演してチームをPR。4月2日の大阪ドーム開幕戦(対北海道日本ハムファイターズ戦)では友近が国歌斉唱、また4月4日の対ロッテ戦では池乃めだかが国歌斉唱、レイザーラモンHGが始球式を行った。
- 2005年8月、『魔法戦隊マジレンジャー』とのコラボレーション企画が実施された。これは仰木監督の采配が「仰木マジック」とマスコミに称されていたことと、マジレンジャーが様々な魔法を使って悪を退治していくという物語のつながりから実現したもので、マジレンジャーの映画化記念イベントを兼ねて企画された。
- 2006年7月からはJリーグJ1のガンバ大阪と連携。2006年には宮本恒靖(現ヴィッセル神戸)と清原和博のポスターやグッズを合同で作製したり、オリックスの試合で宮本が始球式、ガンバの試合で吉井理人と北川博敏がキックオフセレモニーに出場した。なお、GS神戸を本拠としていた時代、隣接するユニバー競技場を本拠地としたヴィッセル神戸と提携し、ホームゲームが重複して開催される日は共通チケットを発売した。
- ただ、京セラドームの観客動員がやや伸び悩んでいることや神戸のファンの確保などの観点から、協約上のダブルフランチャイズが終了する2008年以後も兵庫県内(主として神戸)で20試合程度の準本拠地開催を行えるよう、兵庫県をフランチャイズとする阪神タイガースと交渉を進めており、2008年度以後も2007年度と同じ試合数(大阪48、神戸22、東京2)を確保している。なお、一軍の公式戦では上述3球場での開催のみだが、オープン戦とウエスタン・リーグでは姫路球場など神戸以外での兵庫県内の球場を使う事例がある。
- セ・パリーグ間交流試合では、大阪を事実上のメインとした2007年以後、対阪神戦、対巨人戦はそれぞれ大阪・兵庫で1試合ずつ、更にそれ以外のカードのうちの1チーム2連戦を兵庫県内で開催する事例が多い。ダブルフランチャイズだった2005年と2006年はカードによって開催地が異なるケースが多く、同じカード・同じ球場で3連戦行う試合もあれば、上述2球団のように試合日によって開催球場を変える場合もあった。特に5月下旬のホームゲームの場合、大阪ドームでは他のイベント(コンサートなど)に使われるため、ある1カード(2-3連戦)が全て兵庫県内で行われる試合もある。
- 前述したが2011年は大阪での試合を増やす方針から、神戸での試合が20試合を切る見通しである。これに伴い、交流戦主管全試合(12試合)は京セラドームでの開催となった(当初5月31日と6月1日の横浜戦だけほっともっと神戸での開催が予定されたが、公式戦日程変更のため京セラドームに変更された。また阪神戦・巨人戦は元から2試合とも京セラドームでの開催となっていた)
- 2009年8月7日~9日の千葉ロッテ三連戦では関東にフランチャイズを置くロッテを東軍、オリックスを西軍に見立てて、大坂夏の陣をモチーフとしたイベント「Bs大坂夏の陣」が行われた。普段は本場メジャーリーグのようにファーストネームからコールするスタジアムDJもこの日は姓から順、ポジションも漢字読みでコール、さらにスコアボードの外国人選手にも漢字を使った当て字で表記される(例、ローズ→狼主、アレックス→亜力士、ラロッカ→羅六華)など戦国時代のような和風さを連想させる演出が行われた。また来場者には、先着6万人に赤色のユニフォームがプレゼントされた。
- 2009年8月29日~30日の対埼玉西武ライオンズ戦では35歳前後のファンを対象とした「R35ゲーム」が開催された。30歳代の入場者には西宮球場最後のシーズン(1988年)の内野自由席大人の価格で招待され、また当時の青春時代を思い起こさせるため、ウグイス嬢にタッチの朝倉南役で知られる日高のり子が起用された。翌年、2010年7月19日にも50歳代を対象とした「R50ナイト」が開催され、当時の世代に馴染みの深いアニメ作品『巨人の星』の星飛雄馬役の古谷徹、星明子役の白石冬美が場内アナウンスに起用された。
- 2008年より毎年ホーム開幕3連戦の内野自由席、外野自由席、一部指定席のチケット料金を値引し、さらに帽子やユニフォームをプレゼントするサービスが振舞われている。その甲斐も合って同カードは3万人以上の客入りを記録している。
- 2009年10月24日、日本球界ではいち早く先駆けて球団公式ツイッターを開設。
- 2010年5月30日、1995年の阪神淡路大震災から15年経過したのを受けて、セ・パリーグ間交流試合において1995年当時日本シリーズで争った対東京ヤクルトスワローズ戦(スカイマークスタジアム)を、「がんばろうKOBEデー」として行われた
当日は、当時スタジアムDJをしていた「DJ.KIMURA」が担当し、選手たちは当時使用していた「BlueWave」時代のユニホームを着用して試合が行われた。(球場でも復刻グッズが販売された)
また応援団も1995年当時に使用していた「応援歌」に差し替えて行われた。(例:「坂口智隆」→「イチロー」・「T-岡田」→「藤井康雄」)
試合は3 - 1でオリックスが勝利し、観客動員も2010年最多の「34,545」人が球場に詰めかけた。 - 2010年7月16日-7月18日、「大坂夏の陣」を再び開催。甲冑をイメージした赤の特別ユニフォーム。全選手表示を漢字表記にしている。外国人(セギノール=「関乃流」、バルディリス=「英火(ニックネームの「AB」より)」等)はもとよりT-岡田を「暴君竜」(Tがティラノザウルスをイメージした登録名であるため)とした。この年はソフトバンクと対戦したが3戦全敗で終わった。
- 2011年1月30日から、公式サイトに「ハングル対応版」が登場。李承燁と朴賛浩の2人の韓国人選手の加入で韓国国内からのアクセスが多くなることを想定して設置された。
- 2011年7月1日-7月3日、3度目の「大坂夏の陣」を開催。リベンジレッドをテーマとした赤の特別ユニフォームを着用して試合に臨んだ。今回は対戦相手のソフトバンクも水色の特別ユニフォームを着用し、赤対水色の対決となった。前年同様に全選手表示を漢字表記(外国人選手では去年の例に加えへスマン=「兵州男」、フィガロ=「飛牙呂」など。移籍して対戦相手となったカブレラはカタカナ表記だが、告知画像では「亜力士(鷹へ寝返り)」とブラックジョークを交えて表記。)にしている。結果はオリックスの3戦全勝で前年のリベンジを果たした。
- 2012年5月12日・13日、「Bs選手会プロデュースデー2012」を開催。テーマはテレビ朝日の「スーパー戦隊シリーズ」をモチーフにした「野球戦隊バファローズ」。
[編集] その他
- 1936年の公式戦スタート時から存続する伝統ある球団でありながら、監督はOBにこだわらず積極的に外部の人間を受け入れる傾向にある。このため、生え抜き監督は選手経験のない村上実(その後能勢電鉄社長)を除くと、山下実・井野川利春・浜崎真二・西村正夫・梶本隆夫の5人しかいない。また井野川と浜崎は入団と監督就任が同時であることからも、OB監督にこだわっていないことがうかがえる。そして、オリックスがオーナーになってからは、生え抜き監督は一人もいない(ただし、近鉄球団合併後に同球団生え抜きだった大石大二郎が監督を務めた)。
- 兵庫県競馬組合の特別レースに協賛しており、2004年までは「ブルーウェーブ特別」として行っていたが、チームの合併と名称変更に伴い2005年から「バファローズ特別」にレース名を改めている。
[編集] ユニフォームの変遷
- 1936年…現在のホーム用にあたる白地に飾り文字、ビジター用にあたるユニフォームは紺が使われていた[31]。
- 1937年 - 1940年…チームカラーがオレンジに変更される。また紺地に白のペンシルストライプが登場。
- 1940年 - 1944年…戦況の悪化により「H」マークを廃止。また、左袖には阪急の社章が入る。
- 1945年 - 1949年…「H」マークが復活。ビジター用に当たるグレーは「HANKYU」のロゴ。当時はペンキで描いていた。
- 1947年 - 1952年…ロゴの「H」マークが丸くなり、ホーム用に阪急独特のナール型(丸文字)背番号が登場。ビジター用は同じ書体で丸味のない角型。茶の「Braves」は1950年まで使用。
- 1951年 - 1954年…ペンシルストライプを復活。また、ロゴが赤茶に変更される。
- 1955年 - 1959年…アトランタ・ブレーブスを意識したホーム用ユニフォームが登場。同時にチームカラーが紺と海老茶[32]に変更される。1957年から帽子のマークを変更。
- 1960年 - 1961年…「Braves」の書体が変更され1980年代初頭まで使われる。前立てラインが登場。また帽子のツバを赤に変更。
- 1962年 - 1971年…縦縞が初登場。この時代はマイナーチェンジが繰り返される。
- 1972年 - 1983年…衣類の技術的進化によりカラフルな色が出せるようになり、丸首ニット製ベルトレスユニフォームを採用。プルオーバーとなる。ロゴ、胸文字、背番号が赤(縁取り:黒)、アンダーシャツ、ストッキング、が黒、首、袖が赤、黒、白のライン、帽子は黒地にHマーク、ツバが赤。マイナーチェンジを重ねつつ、1983年まで基本スタイルが踏襲され、黒、赤、白=常勝阪急のイメージが定着する。
- 1975年 - 1979年…袖とパンツのラインが太くなり、首部分に伸縮ゴムが入る。1975年 - 1977年の3年連続日本一(1975年 - 1978年は4年連続リーグ優勝)になったゲンのいいユニフォーム。ビジター用はグレーからスカイブルー、スパイクが黒から赤地に白ライン(美津濃製の「M」ライン)となる。
- 1977年より…背番号の上に選手のネームが入る。
- 1980年 - 1983年…アンダーシャツ・ストッキングを赤に変更。同時に、ベルト式(オーバーカバータイプ)になり、ボタン型となる(但し、第3ボタンまでがボタン式であとは飾りボタンのプルオーバー型)。スパイクが白地に赤ラインになる。
- 1981年 - …袖のラインを「黒・白・赤」から「赤・白・黒」に変更(パンツのラインは変更なし)。下述する1984年以降のユニホームにも引き続き採用した。
- 1984年 - 1988年…帽子のマークが「H」から西洋の騎士が身につける「プレートアーマー」のマスクをイメージした「B」に変わり、前面が白になる。同時にホーム用がモデルチェンジ。ボタン無しのVネックプルオーバータイプとなり、「Braves」のロゴが筆記体から変わる。また、1947年以来続いていたナール(丸文字)型の背番号の書体が変更となり、角文字になり、胸番号がゴシック体になる。
- 1985年 - 1988年…ビジター用もモデルチェンジする。デザイン書体などはホーム用同様で、胸ロゴが「HANKYU」から「Hankyu」へと小文字のゴシック体にかわる。左袖にはブレービーのワッペン(三角形)がつく。
- 1989年 - 1990年…球団がオリックスに売却され、球団名がオリックス・ブレーブスに改称。チームカラーをオリックス・ブルー(紺)とブレーブス・ゴールデン・イエロー(黄色)に変更。阪急時代のプルオーバーのVネックが継続される。ビジター用の上着は紺になる。背番号、胸番号の書体が高校野球型の書体となる(この番号の書体はブルーウェーブになってからも使用され、2000年まで使用された。ただし「8」のみ、同じ書体を使用していた広島や中日のものと異なり、中央の交差部分がX型ではなく横棒になっていた)。袖のワッペンは、右のみ。ホーム用はオリックスの社章、ビジター用はブレービーのワッペン(三角形)。ビジター用のワッペンは1989年夏から変更(デザインは同じで、枠のみ逆三角形に変更)。帽子マークはチームロゴと同じ「Braves」。またヘルメットの前面左から鍔にかけて「赤の3本ライン」が入る(阪急で使われたものを継続し、親会社の新しいロゴにも取り入れられることになった)。これは「バファローズ」となった後も2010年まで使用した(ビジター用は2009年に廃止)。
- 1991年 - 2000年…本拠地の神戸移転とチーム名変更を機に胸のロゴを「BlueWave」に、帽子マークを「BW」に変更。基本デザインは従来どおりの紺と黄色(チーム名が変更されたため、この黄色の呼称も「ブルーウェーブ・ゴールデン・イエロー」に変更された)のユニフォーム。左袖はホーム用はオリックスの社章、ビジター用は「BlueWave」。この間、右袖のワッペンだけマイナーチェンジが繰り返される。
- 2001年 - 2004年…プルオーバーを廃止しボタン式に変更。帽子やアンダーシャツ、ソックスの色がより濃い紺色になり、さらに前ラインが入り、選手名、背番号書体が変更され、斜体がかかる。
- 2005年 - 2010年…近鉄との合併によりオリックス・バファローズとなる。ユニフォームは胸のロゴを「BlueWave」から「Buffaloes」に変更し左袖に近鉄の文字を追加、帽子は「BW」を「Bs」に変更(胸・帽子ともにブルーウェーブ時代と同じ書体)しただけでそれ以外は従来どおり。新しいユニフォームを見た旧近鉄選手やファンなどからの批判もあり、急遽大阪ドーム用のユニフォームを作成することになった。
- 大阪ドーム用ユニフォームは帽子と胸の左側部分に、従来とは異なるデザインの紺に黄色の縁取りがある「Bs」マークを使用。ロゴは水牛の角をモチーフにデザイン。前立てにはブルーウェーブ時代のユニフォームと同様に紺のラインが入っている。また、紺のラグランスリーブと袖口の赤いラインに近鉄のイメージが残るように配慮されている。ラグランスリーブは1974年から1996年までの近鉄のユニフォームに使用していた。
- 2005年は阪神・淡路大震災から10年目の年で、神戸用ホームの左胸には「がんばろうKOBE 10th」のワッペンがつく。
- 2006年 - 2008年…神戸用ホームユニフォームの帽子・胸ロゴも大阪用と同じ書体のロゴに変更。2005年以後の神戸を除く地方遠征(公式戦では東京ドーム)は神戸仕様を使っていたが、2008年の東京シリーズは大阪仕様のものを着ていた。
- 2009年 - 2010年…ビジター用のユニフォームのデザインが変更。「ORIX」の文字や背番号などが白い文字になった。パンツのラインが赤色に変更。また、キャップはホーム用も含め大阪用に統一された(神戸用ユニフォームは廃止)。
- 2010年…ビジター用のキャップ及びヘルメットのデザインが変更。「Bs」の文字が白一色になり、オリックスのCIである斜め線が廃止された。つばの部分が赤色になった(ホーム用は変更なし)。また、デザイン変更に伴い、ニューエラ製のキャップからミズノ製へと変更。
- 2011年 - …帽子ロゴなどを除いて大幅にリニューアル。帽子はネイビー地にロゴがゴールド一色となる。ホーム用は胸に「Buffaloes」が6年ぶりに復活(ネイビーのロゴにゴールドの縁取り)し、ラケットラインにゴールドを配色。ロゴのうち左側の「f」をひっくり返すことで「牛の角」をイメージ。ビジター用はグレー地となり、「ORIX」のロゴもチームロゴと同じ字体に変更(オリックス球団初のロゴ変更)、ラケットラインはネイビー。日曜日のホームゲームで着用するサードユニホームも採用[33]し、これは上が濃紺、下が白のユニホームとなる。3種とも、右袖に新ロゴマークを挿入。ユニフォームのデザイナーは池越顕尋、生地はミズノ社製でWBC日本代表のユニフォームと同じ素材を使用し、従来のものよりも約35グラムも軽く、また速乾性にも優れている[34][35]。
- 2012年…キャプテン・後藤光尊の左胸にキャプテンマーク(金縁に紺色)を導入。
[編集] 限定ユニホーム
- 「がんばろう神戸」のスローガンが15周年目となる2010年5月30日の東京ヤクルトスワローズ戦に、1日限定でブルーウェーブ時代のユニフォームが復刻された[36]。なお、当日選手が着用したユニフォームはチャリティー販売に出品され、売上金の一部が復興関連団体に寄付された[37]。
- 2010年7月16 - 18日の対ソフトバンク戦に行われるイベント「Bs 大坂夏の陣」にて、特別ユニフォーム(略称ZIN-UNI2010)が着用された。デザインは戦国時代をイメージしたもので、肩には甲冑をあしらった装飾が施されており、色も普段の青と違い、赤を基調としている[38]。
- 2011年5月7・8日の対ロッテ戦および5月20・21日の対広島戦では「LEGEND OF Bs 2011 〜蘇る黄金の70'S〜」と題して、阪急ブレーブスの1977年 - 1979年当時の復刻版ユニホームを着用する(デザインは上述)。最初のロッテ戦のみ、スコアボードの表示も「阪急」とした。また同年8月12 - 14日の対西武戦・同月26日 - 28日の対ロッテ戦では近鉄バファローズの1974年 - 1977年当時の復刻版ユニホームを着用する(デザインは大阪近鉄バファローズ#ユニホームの変遷を参照)。同年9月10日・11日の対西武戦はブルーウェーブ時代の復刻版ビジターユニフォームを着用。
- 2011年7月1日 - 3日のソフトバンク戦では「Bs大坂夏の陣2011」と銘打ち、前2年間での「夏の陣」が1勝5敗と大きく負け越していることや史実の「大坂夏の陣」でも西軍が敗れていることを理由に、上半身を「リベンジレッド」と名づけられた赤色としたユニホームを着用した。結果はホークス相手に三戦全勝し、リベンジを果たした形となった。デザイン自体はサードユニホームをベースとしており、右袖にはロゴマークに代わってイベント用マークが入る。またラケットラインは入らない。
- 2012年…「感動、激動の80's」と銘打ち、5月25・26日の広島戦と6月2・3日の巨人戦で阪急ブレーブスの1984年 - 1988年当時の復刻版ホームユニフォーム(デザインは上述)を、8月4・5日のロッテ戦と同月24 - 26日の西武戦で近鉄バファローズの1978年 - 1996年当時の復刻版ホームユニフォーム(デザインは大阪近鉄バファローズ#ユニホームの変遷を参照、帽子は1978年後期からのものを使用)を着用する。
[編集] 二軍
- 2000年 - 2009年…「サーパス神戸」(2006年以後は単に「サーパス」のみ)時代のユニホーム。帽子は、青地に青緑色の文字で「SURPASS」。
- ホーム用:ベースは白、パンツは白、シャツの首・袖口・パンツの横ラインに青と青緑のツートンカラーのライン、胸マークは青フチに青緑の文字で「SURPASS」、左袖に穴吹工務店の社章、右袖にサマー・シルキー。背ネームは青、背番号は青緑のフチに青。
- ビジター用:ベースは青、パンツは白、シャツの首・袖口・パンツの横ラインに青緑と青のツートンカラーのライン、胸マークは青フチにシルバーの文字で「SURPASS」、左袖に穴吹工務店の社章、右袖にサマー・シルキー。背ネームは青緑、背番号は青緑のフチにシルバー。
[編集] 球団旗の変遷
- 1936年 - 1947年…藍色地に野球のグローブとボールを模したマーク。グローブの上の部分に「OSAKA」、下の部分に「NIPPON」、ボールの部分に「HANKYU」。
- ちなみに、戦時中に英語禁止令が出たため、阪急に対しても球団旗のデザイン変更命令が出されたが、阪急側は「『OSAKA』『NIPPON』『HANKYU』はローマ字であって、英語ではない」と拒絶した。この球団旗は愛称が「ブレーブス」になるまで使用された。
- 1947年 - 1988年…球団ニックネームを「ブレーブス」に。藍色地に黄色で勇者のマーク。その下に赤いリボン、それに白地で「HANKYU」。後に、勇者マークのデザインをシンプルにしたものにリニューアル。
- 1989年 - 1990年…オリックスに身売りされ、球団名が「オリックス・ブレーブス」に。左右セパレート型で、左は白地にオリックスの社章、右は藍色地に「Braves」。
- 1991年 - 2005年…チーム名が「ブルーウエーブ」に。上下セパレート型に変更。上が白地にオリックスの社章、下が藍色地に「BlueWave」。
- 2005年 - 2008年…大阪近鉄バファローズと合併し「オリックス・バファローズ」に。デザインはブルーウエーブ時代の「BlueWave」を「Buffaloes」に変更しただけ。
- 2009年 - 2010年…球団旗からオリックスの社章が消える。白地に大きく「Bs」。その下に細い赤色のライン、小さく「ORIX Buffaloes」
- 2011年 - …「オリックス・バファローズ改造計画」の一環として球団旗も一新。白地に上部に小さく「ORIX Buffaloes」。その下に大きく「Buffaloes」の新ロゴ(「Buffaloes」のfの文字が続くところで左右反転し牛の角を表現)。
- 二軍
- 2000年 - 2002年…ファームのチーム名を「サーパス神戸」とする。上が白、下が青緑のセパレート型。上は、白地に穴吹工務店の社章。下は青緑にサーパス神戸のロゴ。
- 2003年 - 2008年…穴吹工務店との契約が切れたため、球団旗を変更。上の穴吹工務店のロゴ部分を削除、下の部分の青緑にサーパス神戸のロゴを全面に。
[編集] 主なキャンプ地
[編集] キーワード
[編集] ノーヒットで勝利
戦前の1939年5月6日、甲子園で行われた南海とのダブルヘッダー第2試合では、南海の宮口美吉・平野正太郎両投手にノーヒットに抑えられながら2-1で勝った。4回裏に1点を先制されたものの6回・7回に犠打・エラー・四球をからめて1点ずつを取り逆転勝ちしたもの。ノーヒットに抑えられながら得点をあげた試合(無安打有得点試合、「ノーヒットありラン」とも言う)は他に1939年の金鯱(8月3日、vsイーグルス・西宮)・1959年の巨人(5月21日、vs阪神・甲子園)・1964年の南海(5月13日、vs近鉄・大阪)があるが、勝ったのはこの時の阪急だけである。
[編集] 1試合最多得点、最多得点差勝利 最多失点、最多得点差敗北
1940年4月6日に西宮で開かれた南海戦で、阪急は32-2の30点差という大量得点で勝利を飾った。しかし2003年、これと同じ組み合わせ(オリックスvsダイエーとして)で2度も大量失点試合をしてしまった。まず7月26日に福岡ドームで7-26、続いて8月1日にヤフーBBスタジアムで1-29と大敗を喫した。後者は2リーグ以後の最多失点試合、並びに最多失点差敗戦試合記録となってしまった。ちなみにこの年はダイエー相手に6月17日に盛岡で11-21、9月14日にヤフーBBスタジアムで11-20で敗れている。同一カードでの20失点4試合はワースト記録である。
[編集] パ・リーグでの最も遅い試合終了時間
1953年8月30日、対南海ホークス戦(阪急西宮球場)は当時パ・リーグの試合規定で23:45までの時限をオーバーしながら延長18回・23:54まで試合を続け、パ・リーグの最も遅い試合終了時刻を記録している。
[編集] 球団の身売り
ブレーブス(当時)とホークスの球団身売りも同じ1988年だった。
まず9月に当時の南海ホークスを南海電気鉄道からダイエー(当時登記上の本社は神戸市にあった)に身売り(正式な身売り日は11月1日)。本拠地も福岡県に移動したが、そのわずか1ヵ月後の10月19日に阪急ブレーブスもオリックス(当時はオリエントリース。こちらは登記上の本社は東京都)に身売りすることを決めた。同日、川崎球場ではロッテ対近鉄のダブルヘッダーが行われ、第2試合で引き分け、近鉄はパ・リーグ優勝を逸し、既に全日程終了していた西武の優勝決定したという球史に残る大試合が行われた当日とこの身売り発表が重なり、特にマスコミや報道陣を混乱させた(詳細は「10.19」)。
17時に行われた身売り発表の会見で、オリエントリースの関係者が入り口の立て札に「阪急電鉄総務部記者会見場」と書かれてあるのを見て、「なんで我が社の社名を書かないんですか! 阪急だけの発表じゃない!」と顔をしかめたという。その頃、当時西宮市長だった八木米次は、告示される市長選選挙出馬の会見を行っていたが、この事態に身売りについての会見に切り替えた。「ブレーブスの名前が残り、引き続き西宮球場を使うので安心した。これからも応援させていただく」と発言している。
[編集] 敵地でのホームゲーム
1999年6月11日からはダイエーの本拠・福岡ドームでダイエーとの3連戦をオリックスの主催ゲームとして開催した。これは神戸が屋外球場なので梅雨時の試合消化が難しくなることを懸念し、ダイエー側の許諾を得て福岡ドームで主催ゲームを開催することになった。しかしベンチのスペース上、主催のオリックスは三塁側、ビジターのダイエーは一塁側と通常のダイエー主催ゲームと同じ配置だった。また、当時ダイエーの監督だった王貞治は、「(本拠地でビジターとして試合しようとも)とにかく勝てばいいんだよ」と、珍事には動じていないことを強調した。13日には試合途中で控えの内野手を使い切ってしまったため、外野手のイチローが三塁を守るというハプニングもあった。イチローが公式戦で外野以外のポジションを守ったのはこの時だけである。
オリックスのホームゲームであるにもかかわらず観客の大半がダイエーを応援し、ダイエーが勝った試合終了後には花火の打ち上げとヒーローインタビューが行われるなど、ダイエーのホームゲームと変わらない球場の雰囲気だった。ただし、観客動員は3試合ともホークス主催の同球場同カードより1万人程度低く、観客動員の当ては外れた形となった。
これより10年前、1989年にダイエーは当時親会社のヘッドオフィスがあった神戸を準本拠地として主催試合を開催することを計画していたが、兵庫県をフランチャイズとしているオリックス(当時)と阪神の許諾を得られなかった為に実現に至らなかった過去の経緯から、同年オリックス主催のダイエー戦13試合(うち2試合中止で西宮に代替)を神戸で開催した。
[編集] 初の台湾遠征
2002年5月14、15日にダイエーの主催ゲームとして台湾・台北市立天母棒球場で2連戦が開催された。日本のプロ野球が海外で試合を行うのは戦後3回目(1961年5月20日の西鉄vs東映、1962年6月13~14日の阪急vs大毎が当時アメリカ合衆国の占領下にあった沖縄で行われた)だが、台湾での公式戦は戦後初である。尚、試合は1勝1敗だった。
[編集] 同一カード最多敗戦
2004年、オリックスは最下位だったが、特にダイエーには4勝23敗と大敗した。これはこのカードの最多敗戦記録であり、プロ野球全体でも同一カード最多敗戦タイ記録である。プロ野球では1967年にサンケイアトムズが読売ジャイアンツに3勝23敗と負け越して以来37年ぶり4度目で、パ・リーグでも1961年に近鉄が南海に5勝23敗とされて以来43年ぶり2度目である。尚、1990年にオリックスはダイエーに22勝1分3敗と大きく勝ち越している。
2004年はオールスター戦以降の対ダイエー戦が10戦全敗で、これについて当時監督だった伊原春樹は、「後半戦はダイエー戦の前にいつも西武戦が組まれていて、ダイエー戦ではまともな投手がいなかった」と述べている。
[編集] 押し出しで1試合8得点
1944年5月16日、西宮での対産業戦の7・8回に記録。その時の打撃は以下のとおり(太字は押し出し四球)。
- 7回表(産業の投手は森井茂):山田伝四球、上田藤夫投手ゴロ失策、野口明三塁内野安打、高橋敏左翼越え二塁打で山田・上田生還、阪田清春中堅前安打で野口生還、打者大平茂の時に阪田二盗、大平三塁ゴロで高橋本塁封殺、打者伊藤健一の時に大平二盗、伊藤一塁ゴロ野選、坂井豊司四球で阪田生還(産業の投手が井上嘉弘に交代)、笠松実四球で大平生還、山田四球で伊藤生還(産業の投手が松尾幸造に交代)、上田四球で坂井生還、野口四球で笠松生還、高橋三振、阪田二塁ゴロで野口二塁封殺
- 8回表:大平四球、伊藤四球、坂井一塁内野安打、笠松四球で大平生還(産業の投手が加藤正二に交代)、山田二塁ゴロ失策で伊藤生還、上田四球で坂井生還、野口三振、三木久一四球で笠松生還、阪田中堅前安打で山田生還、大平投手フライ、伊藤左翼前安打で上田・三木生還、坂井右翼フライ
[編集] 合計97歳の先発投手
1950年11月5日、阪急西宮球場で開かれた、対毎日オリオンズ戦。当時阪急の監督だった浜崎真二は毎日の湯浅禎夫総監督に「(毎日の)リーグ優勝が決まった後なので、わしが投げるからあなたもどうだろう」と持ちかけて、湯浅も「よし」と快諾。両監督が先発投手になった。
この当時の年齢は浜崎が48歳10ヶ月、湯浅が48歳1ヶ月で2人合せて96歳11ヶ月という最年長先発投手となった。浜崎は3回2/3(4回の2アウトまで登板)したが、21人の打者に対して8本の被安打、5失点(自責点も5点)で敗戦投手。一方の湯浅は4回を投げて勝ち投手にはなれなかったが19人に対して2本の被安打、2失点(自責点も2点)と好投した。
[編集] 契約金ゼロの新人選手
2000年~2002年のドラフトで契約金を出来高制とした“契約金ゼロ”の選手を入団させ話題になった。これはドラフトの時点ではドラフトにかかるには一歩足りないと思われる選手を入団テストの上でドラフト指名して二軍で育成し、その後一軍登録日数が一定に達するなどの条件で出来高として契約金相当額を支払う、という現在の育成選手制度に近いものであった。2001年に北川智規が先発投手として数試合に登板したほか、2002年には高見澤考史が一軍に定着し、出来高を受け取っている。しかし北川はその後一軍に定着できず、高見澤は故障に泣き、どちらも2004年までに自由契約となった。
その他の選手はほとんど一軍で戦力になることはなく、中島俊哉(現在は楽天)以外は2005年までにプロ野球を去っている。なお、この時入団した選手は前述の高見澤、北川、中島の他、高橋浩司・庄司大介(以上2000年入団)、板倉康弘・深谷亮司・藤本博史・橋本泰由(以上2001年入団)、塩屋大輔(以上2002年入団)である。開田博勝のように契約金ゼロでの指名ということを事前に伝えておらず、入団拒否に至った例もある。
結局「契約金ゼロ枠」の選手がほとんど活躍していないこともあり、2003年秋から05年まで常務GMを務めた中村勝広が「夢や憧れだけで入団させることは本人やチームのためにならない」とし、同年から廃止された。以降、育成選手も梶本達哉のみしか指名されておらず、怪我などで育成枠に降格する例としては宮本大輔などがいたが、育成枠自体があまり積極的に活用されることはなかった。しかし、近年はフレディ・バイエスタスなどの外国人を育成枠で獲得し、2011年度のドラフト会議で稲倉大輝・柿原翔樹が育成枠指名された。
[編集] ベースボール・モンキー
2006年、ボールのかごを持った猿の「ゴウ(背番号555)」がやってきて、審判にボールを手渡すという、当時広島や千葉ロッテがファンサービスの一環で行っていた「ベースボール・ドッグ」に対抗した「ベースボール・モンキー」を導入した。
しかし、大観衆・大声援を前にしたストレスから体調を崩してしまい、同年限りで引退。
[編集] 大阪・神戸とオリックスの今
オリックスは1991年 - 2004年まで神戸を本拠としており、1995年の阪神淡路大震災以後、復興のシンボルとして注目を集めた。2005年に近鉄と合併してからは大阪ドーム(現・京セラドーム大阪)との併用となり、年間30試合程度に試合数が削減されたが、やはり神戸のチームという印象が根強く、観客動員の面でも神戸での試合が大阪よりも比較的よく入っていたというデータ[39]があった。また、震災10周年の2005年は、神戸と東京での主催試合では「がんばろうKOBE」のロゴを入れたワッペンをつけて試合に臨んだこともあった。
2007年に事実上京セラドームに一本化(協約上は2008年度以後)され神戸を含めた兵庫県での主催試合も20試合程度に削減されてしまったが、引き続き神戸での主催試合では2万人前後の客の入りである。 なお、神戸はメインだった2003年から合併して7年が経過する今日まで、オリックス球団が管理許可制度の下で球場の運営を行っている。このことも年15試合以上公式戦を開催する要因にもなっている。
[編集] 東京での主催ゲーム
ブルーウェーブ時代の2004年、現在のフランチャイズが確立してから関西に本拠地を置く球団としては初めて東京都(東京ドーム)で主催公式戦・対北海道日本ハムファイターズを開催した。これは前述の福岡ドームでの件とは違い、これまで同地を本拠としていた日本ハムが札幌ドームに移転したために伴うものと、オリックスが会社設立40周年を迎えたことを記念して、現在のオリックスの本社がある東京で主催ゲームを開催することにしたものである。
2006年は専用球場を一時的に神戸にした関係上、東京ドームでの主催ゲームはなかったが、その年以外では2009年まで毎年「オリックスグループお客様感謝DAY」と銘打ち、オリックスグループの社員と取引先の顧客を無料で招待する試合として、リーグ戦期間中の週末の2試合を利用して開催した。
対戦相手は、バファローズとなった2005年も2004年に続いて対日本ハム戦を行った。2007年は対西武ライオンズ戦2試合を開催。ちなみに西武が東京ドームでパ・リーグのチームと試合をするのは、日本ハムが北海道に移転する前の2003年以来で、2008年は対千葉ロッテマリーンズ戦2試合、2009年は対東北楽天ゴールデンイーグルス戦2試合が行われたが、福岡ソフトバンクホークスとのカードは開催されていない。東京ドームでの主催試合の通算成績は5勝5敗である。
2010年以降は開催されない。なお、2010年のオリックスグループの社員と取引先の顧客を招待する試合は、3月30日、3月31日に行われた日本ハム主催試合のビジターゲームにて行った。
[編集] 10者連続安打
2010年6月7日、対広島東洋カープ戦4回戦(福山市民球場)の6回表1死1塁、坂口智隆の二塁内野安打から荒金久雄、後藤光尊、T-岡田の3者連続タイムリーに北川博敏の3ランで打順一巡の猛攻。坂口の左前打までプロ野球新記録となる1イニング最多連続打席安打、前身の阪急時代の9者連続安打を抜く10者連続安打を達成した。しかし、奇しくも同日の15分前に千葉ロッテマリーンズも同記録を達成しており、タイ記録扱いとなった。
また、この日挙げた両チームの総得点である31点は、2005年5月15日の同じく広島vsオリックス(14-16)の計30点を抜き、交流戦最多得点。両軍安打計43安打も同試合の42安打(広島22本、オリ20本)を抜く交流戦最多記録になった。
この他、1回表に後藤光尊が放った右翼本塁打は、史上5チーム目となる球団通算7500本塁打となった。
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| オリックス | 2 | 0 | 1 | 5 | 0 | 8 | 1 | 4 | 0 | 21 |
| 広島 | 0 | 3 | 1 | 0 | 3 | 0 | 2 | 0 | 1 | 10 |
- 10者連続安打詳細(括弧内は得点)
- 坂口:二安
- 荒金:左二 (1)
- 後藤:左安 (1)
- T-岡田:右安 (1)
- 北川:右本 (3)
- 日高:中安
- 一輝:右安
- 喜田:中安
- 大引:中安 (1)
- 坂口:左安 (1)
[編集] 放送
[編集] テレビ中継
[編集] 地上波
- 関西地区・兵庫県
- NHKプロ野球(NHK大阪放送局)
- スーパーベースボール(ABCテレビ)
- プロ野球中継(関西テレビ)
- サンテレビボックス席(サンテレビ)※兵庫県
阪急時代は同じく阪急電鉄が大株主であった関西テレビとの結びつきが強く、土曜・日曜のデーゲームを中心に数多くの試合を放送していた。オリックス・ブルーウェーブへの改称後は、毎日放送が多数の中継を担当した。現在はABCと関西テレビで、対阪神の交流戦と、それ以外の月数試合深夜での録画放送が行われるのみである。読売テレビ・テレビ大阪は系列局への裏送りが中心。
サンテレビはオリックス売却後はナイター中継中心となったが、阪急時代は阪急電鉄・阪急百貨店の筆頭提供で、デーゲームを放送する事もあった。現在でも対阪神の交流戦のほか、阪神戦がない日や、中継権獲得不可能な阪神の試合(主に東京ドームの対巨人戦)の裏カード時などに年数試合完全生中継が行われる。
- 全国
- NHKプロ野球(NHK)※一部デーゲーム
2005年まで(パリーグ同士の対戦については2004年まで)はフジテレビ系列(関西テレビが株主である関係で年1試合のみナイターの全国生中継が行われていた)、2006年まではテレビ朝日系列、2007年までテレビ東京系列でも全国中継していた。ほか、1989年-1990年代末期まではTBS系列でも放送されていたり、対巨人のオープン戦に限り日本テレビ系列で放送されたが、いずれも現在は放送していない。
[編集] 韓国
イ・スンヨプとパク・チャンホの韓国人選手が加入した2011年から韓国SBSテレビが主催ゲームの放映権を獲得し、スポーツ専門チャンネル「SBS CNBC」にて放映されることとなっている。
[編集] 衛星放送
- BS
- NHKプロ野球(NHK BS1)※2008年からは対巨人戦も放送
- スーパーベースボール(BS朝日)※交流戦の対巨人戦のみ
- J SPORTS STADIUM(J SPORTS系)
- どのチャンネルで放送するかは特に決まっていないが、放送がある場合はJ SPORTS2で中日主催試合の放送がない時に中継が行われる。J SPORTS系以外の下記チャンネルの枠で放送する場合もある。
- CS
- J SPORTS STADIUM
- アクティブ!ベースボール(スカイ・A sports+、GAORA)
CS放送は球団とJ SPORTSが制作著作権を保有。関西テレビ放送の関連会社メディアプルポ・エキスプレスが共同で制作協力している。
[編集] ラジオ中継
- NHKプロ野球(NHK大阪ほか各局)
- ラジオ関西ジャイアンツナイター(ラジオ関西)
- 対阪神の交流戦の他、阪神戦の開催がない日(雨天中止、もしくは移動日)にホームゲームが開催される場合、中継を行うことがある(ただし、デーゲームと月曜ナイターは、原則として交流戦の対阪神戦のみ)が、時期によっては全国放送のナイターを優先することもあり、対応はまちまちである。予備待機については、ビジター側の放送局の自主制作有無に関係なくアナウンサーを配置する。
- ホームゲームであってもJRN・NRNの予備順位に準拠しており、交流戦の対阪神戦や、聴取率調査期間における例外を除けば、原則として全国放送カードとなった日にしか中継されない(6月までの土・日は全国放送であっても自社での放送がない裏送りとなる事がある)。ただし阪神戦の開催がなく、かつ全国放送カードが巨人戦以外である場合には自社で中継することもある。なお、ビジター側の放送局が自主制作する場合は、予備カードとしての実況もそちらに委託する事がある。
- ビジター戦を中心に中継
- 「オリックス×日本ハム」を年間数試合程度中継(全国放送時、開幕戦、聴取率調査期間、夏の高校野球期間中の試合、終盤の優勝・CS争いのかかった試合のみ)。放送する場合も原則としてABCやMBSからの裏送り形式。
- 「オリックス×日本ハム」を全試合中継。原則としてABCやMBSからの裏送り形式。(自主制作の場合もある)
- 「オリックス×楽天」を年間数試合程度中継(全国放送時、開幕戦、夏の高校野球期間中の試合、終盤の優勝・CS争いのかかった試合のみ)。放送する場合も原則としてABCやMBSからの裏送り形式。
- 「オリックス×西武」が平日にナイターとして行われる場合に中継。自社スタッフの乗り込み形式(ABC技術協力)。
- 「オリックス×西武」が日曜に行われる場合に中継。自社スタッフの乗り込み形式。
- 以上「オリックス×ソフトバンク」を全試合中継。以前は自社スタッフの乗り込みも行っていたが、現在は原則としてABCやMBSからの裏送り形式のみ。
- 阪急時代の1979年 - 1988年には、福岡県を本拠地とする球団がなかった関係上、平和台野球場や北九州市民球場(当時:小倉球場)で主催ゲームを行う事があり、その際にはRKBやKBCが予備待機及び全国中継を制作することがあった。
- 以上「オリックス×中日」(交流戦)を中継。両局とも基本的にABCやMBSからの裏送り形式で中継するが、予備からの昇格の可能性が皆無に近い場合は、実況アナウンサーのみCBCや東海ラジオから派遣されることがある。また、CBCは自社スタッフが乗り込んでの中継を行ったこともある。(曜日により、ABC・MBSのどちらかが技術協力)
- かつてナゴヤ球場・ナゴヤドームでオリックス主催ゲームが行われた際、CBCや東海ラジオが予備待機及び全国中継を制作した事があった。
- 「オリックス×広島」(交流戦)を中継。該当カードは曜日及びネットワークにかかわらず全てABCからの裏送り形式で中継。ただし全国放送で広島の関与しないオリックス主催試合をネット受けする場合、水曜と木曜はMBS制作のものを放送する。
[編集] 応援番組
- テレビ
- 阪神間・大阪市内をサービスエリアとする、ケーブルテレビ局ベイ・コミュニケーションズが制作。同局およびジェイコムウエスト傘下の関西地区ケーブルテレビ各局にて放送。
- ラジオ
- 2010年4月5日より放送。毎週月曜日19:30-20:00
[編集] 過去の放送番組
- テレビ
- パリーグアワー(関西テレビ)
- ブレーブスレポート(関西テレビ。阪急時代に放送)
- オリックスアワー(関西テレビ。1989年。月・水・金曜の7:40 - 7:45に放送)
- 週汗(しゅうかん)オリックス(サンテレビ)
- ラジオ
[編集] 脚注
- ^ 旧・グリーンスタジアム神戸→Yahoo! BBスタジアム→スカイマークスタジアム
- ^ 佐藤光房『もうひとつのプロ野球 山本栄一郎の数奇な生涯』 朝日新聞社、1986年、146-149頁。小林一三は京阪・阪神など当時球場を保有していた私鉄各社を加えたプロ野球リーグを作る構想を持っていたことが、1923年に執筆した「職業野球団打診」という文章に示されている。
- ^ 2リーグ分立とともに創設し、セ・リーグへ加盟した。
- ^ この年のシーズン年間勝率(前後期通算64勝59敗7分).520での「優勝」及び「日本シリーズ制覇」は、ともにNPB史上最も低い記録である。
- ^ 1978年のゴールデングラブは9部門中8部門を阪急が独占し、阪急以外では日本ハム・柏原純一が唯一の選出(一塁手)だった。
- ^ 2009年3月28日放送の『報道特集NEXT』(TBS系)にて、土井がイチローについて「才能は素晴らしいものがあるが生意気で、周囲と協力することを教える為に2軍に落とした」と発言。川上哲治も声のみの出演で「当時土井から『すごい高校生(卒)がいる、拾い物だ』と聞いた」と証言。
- ^ あくまで球団としての合併であり、会社法人としては合併しておらず、社名は「オリックス野球クラブ株式会社」のまま。近鉄の運営会社「株式会社大阪バファローズ」は翌年3月いっぱいで解散。ただし、2007年まで近鉄側もオリックス野球クラブに出資した。
- ^ 前川は、過去にもスピード違反で免許取り消しになっていた。
- ^ 巨人と阪神に次ぐ、日本プロ野球3球団目の達成である。
- ^ オリックス小瀬選手、キャンプ宿舎で転落?死亡
- ^ 京セラドームの試合数を57に増加(神戸でも従来どおり試合を行う)、球団旗・ユニフォーム・ロゴマークを全部一新、新マスコット導入(ネッピー・リプシーは引退)
- ^ オリックス4年連続投手コーチ途中交代
- ^ オリックス9連勝、日ハム6連敗〈7日のパ・リーグ〉
- ^ この日オリックスが勝つか引き分け、もしくは西武が負けるか引き分けるかでオリックス3位確定という状況だった。
- ^ リーグ優勝のうち、1975年、1977年はプレーオフ(1975年は近鉄、1977年はロッテを相手にした)で獲得。1976年、1978年は前後期完全制覇により自動優勝が決まった。
- ^ なお、阪神もオリックスと同じく2005年からの3年間に限り「ダブルフランチャイズ制」が認められていた。(プロ野球地域保護権#備考も参照)
- ^ 野球協約の規定では半数以上を専用球場で開催しなければならない。
- ^ 参考:
- 雑誌『週刊ベースボール』(発行:ベースボール・マガジン社)
- プロ野球全選手写真名鑑各年度発行号
- 連載記事「12球団WEEKLYトピックス」
- 『12球団全選手カラー百科名鑑』各年度版(発行:日本スポーツ出版社→廣済堂あかつき→廣済堂出版)
- 『スポニチプロ野球選手名鑑』各年度版(発行:スポーツニッポン新聞社、発売:毎日新聞社)
- 雑誌『週刊ベースボール』(発行:ベースボール・マガジン社)
- ^ イチロー、坪井に「51番つけて」球団はNG…オリックス - 報知新聞2011年1月19日付
- ^ 最終的には、神戸の山の緑と海の青をそれぞれ球場名(グリーンスタジアム)とチーム名(ブルーウェーブ)で表現しているとされた。
- ^ 2010年3月19日放送の文化放送玉川美沙たまなびより
- ^ 産経新聞 2010年5月3日付。
- ^ 球団公式サイトの「ヒストリー」には、1988年10月以前の阪急ブレーブスと、1988年4月以前の近鉄バファローズについては掲載されていない(近鉄については合併当初は創立時から掲載していた。アーカイブ)。それに対して「福岡ソフトバンク公式サイト「ホークスの歩み」」では、南海球団創設以来の歴史を掲載しており、この点にも両者のそれぞれの球団の歴史に対する認識の違いが顕れている。ただし、旧本拠地の神戸総合運動公園野球場では阪急時代からの展示スペースが設けられている。また、ホークスの場合も南海時代の歴史やエピソードが積極的に取り上げられるようになったのは、ソフトバンクに親会社が交代してからで、ダイエー時代は「南海色をできるだけ消すという姿勢は、なかなか改められなかったようだ」という指摘がある(永井良和『ホークスの70年』(ソフトバンククリエイティブ、2008年、P228)。
- ^ 西大阪線あこがれぷらっとホーム楽会(2007年11月)でのオリックス・吉田事業本部長(当時)の発言。
- ^ 大阪近鉄のマスコット「バフィーリード」については商標権をオリックス本社が譲受していたが起用されていない。
- ^ オリックス、ゴーヤ「恩返し」移籍
- ^ 「超特大ゴーヤ」が勝手に残留宣言
- ^ 【オリックス】新ユニホーム!新キャラ! - 日刊スポーツ2011年1月8日配信。
- ^ 球団公式には八カセが勝手に開発した牛型ロボットの「バッファロボ1号・2号」であるという設定もあるマスコットストーリー - オリックス・バファローズ研究開発室
- ^ 【オリックス】新マスコットの名前発表 - 日刊スポーツ2011年3月8日配信。
- ^ 戦後に横沢三郎が設立したセネタースのユニフォームに流用され、そのストッキングの色からセネタースの球団愛称「青鞜」の語源となった。
- ^ 『プロ野球ユニフォーム物語』
- ^ オリックス 新ユニホームを発表 - スポーツニッポン2011年1月8日配信 過去に「サードユニフォーム」「サンデーユニフォーム」は中日ドラゴンズなどが使用したほか、阪神タイガースも交流戦専用ホームユニフォームを採用している
- ^ オリックス新ユニホームは“世界一仕様”
- ^ Bs新ブランド発表!金子千「新しい歴史をつくる」
- ^ 当時との差異点は左肩のオリックスの社章がスポンサー・イーモバイルのマークになっている点のみ。
- ^ オリが95年の復刻版ユニホームを着用
- ^ 7/16~18「Bs大坂夏の陣」、イベント詳細発表!
- ^ 神戸新聞ウェブ版(2005年7月掲載)
[編集] 関連書籍
- 阪急時代の歴史をまとめたもの
- 阪急ブレーブス五十年史(1987年1月、阪急ブレーブス・阪急電鉄株式会社編、阪急ブレーブス発行)…国立国会図書館の所蔵情報
- 阪急ブレーブス黄金の歴史 1936→1988 よみがえる勇者の記憶 永久保存版(2011年5月、ベースボール・マガジン社発行)ISBN 9784583617756
- オリックス時代の歴史をまとめたもの
- オリックス20年 History 1989-2009よみがえる青い記憶(2009年9月、ベースボール・マガジン社発行)ISBN 9784583616193
[編集] 関連項目
- 神戸アスリートタウン構想
- ブルーサンダー打線
- ミックスモダン打線
- オリックス・バファローズの選手一覧
- 旧:大阪近鉄バファローズ時代の選手一覧
- オリックス・バファローズ主催試合の地方球場一覧
- Template:オリックス・バファローズ及びその前身球団ドラフト指名選手
- 松下進 - 球団マスコットであったネッピー・リプシーのキャラクターデザイン担当者。
- 大前一樹 - シニアビジュアルプロデューサー。『J SPORTS STADIUM』オリックス戦中継の番組プロデューサーで、自ら実況も務める。
- 大阪産業大学 - 2008年より、教育に関する連携協定を締結。
- 摂南大学 - 2011年より、教育に関する連携協定を締結。
- オリックス・バファローズの応援団
[編集] 外部リンク
- オリックス・バファローズ
- オリックス・バファローズ (Orix_Buffaloes) - Twitter
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最終更新 2012年5月14日 (月) 06:41 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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