オリョール (戦艦)
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| オリョール Орёл |
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| 1904年にクロンシュタットにて撮影された、竣工間もない艦隊装甲艦オリョール | ||
| 艦歴 | ||
| 起工 | 1900年5月20日 ガレールヌイ島造船所 | |
| 進水 | 1902年7月6日 | |
| 竣工 | 1904年10月1日 | |
| 所属 | ||
| 捕獲 | 1905年5月15日 | |
| 要目 | ||
| 艦種 | 艦隊装甲艦 | |
| 艦級 | ボロジノ級 | |
| 排水量 | 基準排水量 | 13516 t |
| 満載排水量 | 15275 t | |
| 全長 | 121.0 m | |
| 全幅 | 23.2 m | |
| 喫水 | 8.9 m | |
| 機関 | バルト工場式 直立型3段膨張式蒸気機関 |
2 基 |
| ベルヴィル式ボイラー | 20 基 | |
| 出力 | 15800 馬力 | |
| 推進用スクリュープロペラ | 2 基 | |
| プロペラシャフト | 2 軸 | |
| 石炭燃料 | 通常積載量 | 787 t |
| 最大積載量 | 1235 t | |
| 速力 | 17.6 kn | |
| 航続距離 | 3200 nm/10 kn | |
| 乗員 | 士官 | 28 名[1] |
| 水兵 | 754 名[2] | |
| 武装 | 40口径305 mm連装砲 | 2 基 |
| 45口径152 mm連装砲 | 6 基 | |
| 50口径75 mm単装砲 | 20 門 | |
| 20口径63.5 mm単装上陸砲 | 2 門 | |
| 43口径47 mm単装砲 | 20 門 | |
| 23口径37 mm単装砲 | 2 門 | |
| 381 mm水上魚雷発射管 | 2 門 | |
| 381 mm水中魚雷発射管 | 2 門 | |
| 装甲 | 材質 | クルップ鋼 |
| 主要装甲帯 | 102 - 194 mm | |
| 対水雷艇75 mm砲装甲砲座 | 76 mm | |
| ボイラー覆い | 19 mm | |
| 対魚雷防御 | 43 mm | |
| 主砲塔 | 63 - 254 mm | |
| 主砲バーベット | 102 - 254 mm | |
| 中間砲塔 | 30 - 152 mm | |
| 中間砲バーベット | 127 mm | |
| 司令塔 | 51 - 203 mm | |
| 下層装甲甲板 | 25 - 43 mm | |
| 主甲板 | 32 - 51 mm | |
| 上層装甲甲板 | 25 - 50 mm | |
オリョール(ロシア語:Орёлアリョール)は、ロシア帝国で建造された戦艦である。ロシア帝国海軍では艦隊装甲艦(эскадренный броненосец)に分類された。いわゆる前弩級戦艦であるボロジノ級の3番艦。艦名はロシア語で「鷲」を意味しているが、これはビザンツ帝国から受け継いだロシア皇帝の紋章である「双頭の鷲」を表している[3]。この艦名は1667年にロシア最初の軍艦へ使用されて以来、代々主力艦に用いられてきた由緒ある艦名であったが、本艦がその名を持つ最後の艦となった[4]。
目次 |
[編集] 概要
1900年5月20日、サンクトペテルブルクのガレールヌイ島造船所[5]にて起工した。1902年7月6日には進水、1904年10月1日に部隊へ配備された。
オリョールの艦長には、1904年4月26日付けでニコライ・ユーンク海軍大佐が任官した。日露戦争へ参加するため、ほかの姉妹艦3 隻および二等防護巡洋艦ジェームチュクとともに第2太平洋艦隊第1装甲艦隊[6]を編成し、極東へ派遣された。しかし、1905年5月14日の日本海海戦では敗北を喫することとなった。
日本海海戦では5 発の305 mm砲弾、2 発の254 mm砲弾、39 発の152 mm砲弾、そして21 発の小口径の砲弾を受けたが、沈没に至るような重大な損傷にはならなかった。艦では43 名が戦死し、80 名近くが負傷した。艦長のユーンクもまた、負傷者の中に含まれた。
戦闘ののち、ほとんど戦闘能力を失いつつもオリョールは、艦隊装甲艦インペラートル・ニコライ1世、沿岸防護装甲艦ゲネラール=アドミラール・アプラークシン、アドミラール・セニャーヴィン、二等防護巡洋艦イズムルートからなるニコライ・ネボガトフ海軍少将の残存艦隊と合流した。しかし、少将は日本軍へ降伏し、5月15日、オリョールも日本へ明け渡された。ユーンクは野戦病院へ収容されたが、戦傷がもとで5月16日に死去した。彼はオリョールの明け渡し合意に参加していなかったこともあり、日本軍の合意の下、乗員の願いで海へ葬られた。
一方、捕獲されたオリョールは5月17日には佐世保港に到着した。艦は2年にわたる修繕工事と改装工事を請け、1907年に戦艦石見として日本海軍へ編入された。艦は元々トップヘビーで復原性に問題があった上、水線部分の装甲帯が海中に没するという欠陥もあったため、改善工事が行われた。重量軽減のため上部構造は大きく削られ、連装であった副砲も単装に改められた。このとき、副砲は数を減らすかわりに152 mm砲から203 mm砲に変更され、準弩級戦艦並みの砲力を持つことになった。こうした工事により、艦容は大きく変貌した。
第一次世界大戦時にも同盟国のロシアへ返還されることはなく、日本艦として青島へ派遣された。ロシア革命後のシベリア出兵では日本艦としてロシア極東へ派遣され、幾度か日本のウラジオストク艦隊の旗艦を務めた。ワシントン海軍軍縮条約に関連し、1922年9月1日付けで除籍、解体工事が始められた。1924年には標的艦として航空機によって撃沈された。これが、5 隻建造されたボロジノ級戦艦の最期となった。
1955年には、オリョールに船舶機関士として乗艦し、日本海海戦を体験したヴラジーミル・コステーンコが、海戦の回想録『オリョール上のツシマ На «Орле» в Цусиме』を公刊した。
[編集] 日本海海戦時の士官構成
- 艦長 N・V・ユーンク大佐(1904年4月26日より) - 戦傷がもとで死亡
- 上級士官 K・L・シュヴェーデ中佐(1901年より)
- 主計士官 S・N・ブルナーシェフ中尉(1904年1月より)
- 上級水雷士官 I・V・ニーコノフ中尉(1902年より)
- 下級水雷士官 V・L・モザレーフスキイ中尉(1904年7月31日より)
- 上級砲術士官 F・P・シャームシェフ中尉(1904年1月より)
- 下級砲術士官 A・V・ギールス中尉(1904年7月31日より) - 重度の負傷を負い、日本の野戦病院で死去
- 下級砲術仕官 G・M・リューミン中尉(1904年7月31日より)
- 上級航海士官 V・A・サトケーヴィチ中尉(1904年6月11日より)
- 下級航海士官 L・V・ラリオーノフ中尉(1904年4月27日より。1905年4月17日まで少尉)
- 当直長 K・P・スラヴィーンスキイ中尉(1904年5月24日より)
- 当直長 S・Ya・パヴリーノフ中尉(1904年6月18日より。1905年4月17日まで少尉)
- 当直長 I・I・ビービコフ中尉(1904年7月17日から) - マダガスカル・ノシベにて下艦
- 当直長 A・D・ブーブノフ少尉(1904年6月16日より)
- 当直長 A・P・シュピーンスキイ中尉(1904年4月26日より) - 戦死
- 当直士官 O・A・シチェルバチョーフ中尉(1904年6月17日より)
- 当直士官 D・R・カールポフ中尉
- 当直士官 Ya・K・トゥマーノフ公爵中尉(1904年5月17日より)
- 当直士官 N・A・サケラーリ中尉(1904年6月15日より)
- 当直士官 G・A・アンドレーエフ=カルムィコーフ少尉補(1904年8月15日より) - 戦死
- 当直士官 S・V・チトーフ少尉補(1904年6月19日より)
- 上級船上機関士 I・I・パルフョーノフ技術中佐(1904年9月11日から)
- 上級船上機関士補 K・A・スクラレーフスキイ二等技術大尉(1904年8月30日より)
- 船倉機関士 N・M・ルームス技術中尉(1904年6月19日より)
- 下級船上機関士 N・G・ルサーノフ技術中尉(1904年7月2日より)
- 下級船上機関士 P・М・モジューヒン技術中尉(1904年8月18日より)
- 下級船上機関士 G・Ya・レンチューコフ技術中尉(1904年7月8日より)
- 下級船上機関士 V・I・アンチーピン機関科少尉補
- 下級船上機関士 N・G・イヴァノフ機関科少尉補(1904年6月より)
- 船上造船技師 V・P・コステーンコ下級造船補佐官(1904年5月6日より)
- 上級船上医師 G・A・マカーロフ七等文官(1904年6月9日より)
- 下級船上医師 N・M・マールコフ八等文官(1904年6月23日より)
- 下級船上医師 A・P・アヴローロフ医師(1905年5月10日より)
- 船上司祭 パイーシイ修道司祭
- 物品副管理士 I・エリョーミン - 戦死
[編集] ギャラリー
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1905年、修理のため舞鶴港へ回航されたオリョール。 |
[編集] 脚注
- ^ 日本海海戦の直前には30 名が乗艦していた。
- ^ 日本海海戦の直前には828 名から837 名が乗艦していた。
- ^ 「オリョール」を艦名とする場合、いくつかの由来が考えられる。ひとつは単純に鳥類の「鷲」、ひとつはロシア皇帝の紋章としての「鷲」、もうひとつはロシアの都市である「オリョール市」である。戦艦の艦名には有名な合戦のあった地名・都市名が用いられることもあるが、オリョール市については戦艦の名の由来となるほどの合戦は行われていないため、第二の意味であると考えられる。
- ^ この艦が最後なのは、上記第二の意味での用例についてである。第一および第三の意味では、現代に至るまで複数の用例がある。同名艦については関連項目参照のこと。
- ^ 現セーヴェルナヤ・ヴェールフィの一部。
- ^ 日本語での訳し分けが困難であるが、ロシア語でいえば第2太平洋艦隊の場合の「艦隊」はэскадра(単一司令官の指揮下にある大艦隊)、第1装甲艦隊の場合は「装甲艦」の「隊」、すなわちотряд(任務ごとに分かれた部隊、分遣隊)である。
[編集] 関連項目
- フリゲート・オリョール(オリョール級)
- 初代ガレー船オリョール(1719年型)
- 2代ガレー船オリョール(リューリク級)
- 3代ガレー船オリョール(ブィーストラヤ級)
- 4代ガレー船オリョール(オリョール級)
- 初代戦列艦オリョール(オリョール級)
- 2代戦列艦オリョール(オリョール級)
- 機帆走戦列艦オリョール(オリョール級)
- 水雷艇オリョール(ドラコーン級)
- 警備艦オリョール(29号計画型)
- 大型対潜艦オリョール(61号計画型)
- 1160号計画「オリョール」型原子力航空母艦
- 1153号計画「オリョール」型原子力航空母艦
- 国境警備艦オリョール(11351号計画型)
- 原子力潜水ミサイル巡洋艦オリョール(949A号計画型)
[編集] 参考文献
- Р. М. Мельников Броненосцы типа «Бородино» (R・M・メーリニコフ著『ボロジノ級装甲艦』、電子化サイト) (ロシア語)
- ВОЕННАЯ ЛИТЕРАТУРА - Костенко Владимир Полиевктович На «Орле» в Цусиме: Воспоминания участника русско-японской войны на море в 1904–1905 гг. (V・P・コステーンコ著『オリョール』上のツシマ』、電子化サイト) (ロシア語)
- S. McLaughlin, 2005, Aboard the Orel at Tsushima, in Warship 2005, Conways Maritime Press - based on the memoirs of Lieutenant V. P. Kostenko, a Russian officer who survived the battle (英語)
- Gibbons, Tony: The Complete Encyclopedia of Battleships and Battlecruisers (英語)
- Burt, R. A.: Japanese Battleships, 1897–1945 (英語)
[編集] 外部リンク
- Эскадренный броненосец "Орел" - Архив фотографий кораблей русского и советского ВМФ. (ロシア語)
- Броненосцы "Бородино" "Князь Суворов" "Император Александр III" "Орел" и "Слава" - История Русского флота ТТД, фотографии, битвы, история и боевая служба (ロシア語)
- ЭСКАДРЕННЫЕ БРОНЕНОСЦЫ "Цесаревич" и типа "Бородино" - cnw.mk.ua (ロシア語)
- ВОЕННАЯ ЛИТЕРАТУРА - Костенко Владимир Полиевктович На «Орле» в Цусиме: Воспоминания участника русско-японской войны на море в 1904–1905 гг. (ロシア語)
- Новиков-Прибой Андрей Силыч Цусима (ロシア語)
- Tsushima - Эскадренный броненосец "Орел" (ロシア語)
- Офицерский состав броненосца "Орел" (ロシア語)
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最終更新 2009年9月20日 (日) 02:50 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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