オースチン・A50・ケンブリッジ

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オースチン・A50・ケンブリッジ
本国生産車
 
 
日産自動車生産車
 
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メーカー {{{メーカー}}}
 
親会社 {{{親会社}}}
 
製造国 {{{製造国}}}
 
製造期間 1954年-1957年(日本では-1960年)
 
設計統括 {{{設計統括}}}
 
デザイナー {{{デザイナー}}}
 
乗車定員 4/5人
(1958年以降の日産製は6人)
 
ボディタイプ 4ドア セダン
2ドア ピックアップ
2ドア パネルバン
 
ハイブリッド
 
エンジン 直4ガソリンOHV 1489cc 50馬力/4400rpm
 
モーター
 
最高出力/トルク {{{最高出力/トルク}}}
 
最高出力 {{{最高出力}}}
 
最大トルク {{{最大トルク}}}
 
変速機 4速MT
 
駆動方式 FR
 
サスペンション 前:独立 ダブルウィッシュボーン コイル
後:固定 半楕円リーフ
 
全長x全幅x全高 {{{全長x全幅x全高}}}
 
全長 3978mm
 
全幅 1562mm
 
全高
 
最低地上高 {{{最低地上高}}}
 
ホイールベース 2521mm
 
車両重量 951kg
 
乾燥重量 {{{乾燥重量}}}
 
総重量 {{{総重量}}}
 
最大積載量 {{{最大積載量}}}
 
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別名 {{{別名}}}
 
先代 オースチン・A40・サマーセット
 
後継 オースチン・A55・ケンブリッジ(英国)
日産・セドリック(日本)
 
姉妹車/OEM
 
車台共有車
 
同クラスの車 {{{同クラス}}}
 

オースチン・A50 ケンブリッジ (Austin A50 Cambridge)はイギリスの自動車メーカー・ブリティッシュ・モーター・コーポレーション (BMC)が1954年から1957年まで生産した小型乗用車である。

[編集] 英国での歴史

当時のイギリスにおける典型的なミドルクラス・サルーンとして開発された。前輪独立懸架、後輪固定軸の後輪駆動というごくコンベンショナルな構造で、イギリスの保守的な中産階級ユーザー向けに手堅く設計されたモデルである。

先代モデルのA40サマーセットはデザイントレンド過渡期のモデルであったため鈍重さが目立ったが、A50では、やや腰高ながら機能性を改善した1950年代中期の典型的3ボックス・ノッチバックスタイルのセダンとなり、ボディ構造もセミ・モノコック構造に改められた。またエンジンは、新設計のBMC・Bシリーズエンジンに刷新された。MGAやMG・ZBマグネットなどと共通の、当時のBMCにおける中級車用標準型4気筒エンジンである。

4ドア4人乗りのセダンが先行して登場したが、1956年11月にパネルバンが、1957年5月にはピックアップトラックが追加され、両者は乗用車がA55/A60へと発展した後も1971年まで生産続行された。

本国ではボルグ・ワーナー製オーバードライブやManumaticと呼ばれた半自動変速機付きも選択可能であった。1956年10月にはタイヤが14インチから13インチに変更され、圧縮比が高められる変更を受けた。当時の英国The Motor誌の計測によると、最高速度118.4km/h、0-60マイル加速28.8秒、燃料消費10.1km/lという性能であった。

A50はイギリス本国では約115,000台が生産された。また、同じスタイルで1242cc42馬力エンジンを持つ廉価版のA40・ケンブリッジも同時に登場したが、こちらの生産台数は約30,000台と少なかった。

1957年1月、A50はテールが伸ばされトランクスペースを拡大したA55・ケンブリッジに発展、1959年にBMC・"ファリーナ"・サルーンにモデルチェンジするまで約150,000台のA55が作られた。

[編集] 日産オースチン・A50

日産自動車は乗用車の設計・製造技術を学ぶべく、1952年にBMCと契約を結び、1953年10月からA40サマーセットのノックダウン生産を開始していた。だがそのノックダウン生産とパーツ国産化が進展する途上で、イギリス本国においてオースチンの中型セダンはサマーセットからケンブリッジへモデルチェンジされた。これを受けた日産は、オースチン国産化計画が一から出直しになる不利を押しても、当時の日本の小型車規格一杯の排気量である1500cc級車のケンブリッジを生産する方が得策と判断し、ケンブリッジへの生産切り替えを断行した。

1955年2月からA50・ケンブリッジの生産を開始し、1958年10月には完全国産化を達成した(なお日産はオースチンについてA55へのビッグマイナーチェンジは行わず、最後までA50のまま生産を続けた。)。

日本ではダットサン110系の上級車、トヨペット・クラウン(初代)に対抗する日産のトップモデルとして、タクシーや運転手付き社用車としても使用出来るよう、独自の変更が行われた。1957年にはシートがベンチシートとなり、1958年にはステアリングが小径化され、ドア内張りを凹ませて6人乗りに改造、1959年はリアウインドウが拡大された。また、日本独自の4ドア・ライトバンも生産された。

オースチンの組み立てから得た技術は、1959年発売の初代ブルーバード(310系)、1960年の初代セドリック(30系)に生かされ、日産自動車の技術水準向上に大きな役割を果たした。

また、A50のエンジンであるBMC・B型4気筒は、機構こそ平凡だが生産性・信頼性に優れた実用エンジンであった。日産はBMCとの契約でパーツを他車種に転用する許可をも得ていたことから、当時日産に招聘されていたアメリカ人自動車技師ドナルド・ストーンは、オースチンエンジンのストロークを縮小して独自の小排気量エンジンを速成する手法を提案した。このいわゆる「ストーン・エンジン」(1000ccのC型・1200ccのE型)は、1957年以降、ダットサンをはじめとする他の日産車に転用され、1960年代中期まで日産の小型車用主力エンジンとして大いに活用された。

A50の基本性能は、1950年代中期の日本で国産開発された乗用車とは比較にならぬほど優れており、当時のオーナードライバーや自動車愛好家(後年自動車評論家となる小林彰太郎熊倉重春など)の格好の足として、広く支持された。中でも、ほとんど英国製部品を使用し本革張りのセパレートシートを持つ初期の1955年型は、中古車になってからも人気が高かった。

もっともその走行性能や品質はともかく、イギリスのオーナードライバー向けに設計されたボディサイズは、車体長・車幅とも当時の日本における小型車規格に比して幾分の余りが生じており、規格を限界まで利用したサイズの競合モデルであるトヨペット・クラウンに比べると、ことに後部座席のゆとりを欠いていた。ゆえに先述のような定員増加対策なども施されたが、とかくクラウンと比較され、タクシー業界からの評価は必ずしも高くなかったという。

[編集] 関連項目

最終更新 2009年6月7日 (日) 11:10 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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