オーストラリアグランプリ

オーストラリアグランプリの最新ニュースをまとめて検索!

曖昧さ回避 この項目では、フォーミュラ1のレースについて記述しています。ロードレース世界選手権のレースについては「オーストラリアグランプリ (ロードレース)」をご覧ください。

オーストラリアグランプリ(オーストラリアGP, 英語Australian Grand Prix)は1985年から行われているF1のレースである。1985年から1995年まではアデレードアデレード市街地コースにて、1996年からはメルボルンアルバートパークサーキットにて行われている。季節が逆転する南半球で行われるこのレースは冬を避けるため、恒例としてアデレード時代はシーズンの最終戦、メルボルン時代ではシーズンの開幕戦として行われた(ただし2006年コモンウェルスゲームズ(英連邦大会)開催の関係で、バーレーンGPに開幕戦を譲ることとなった)。

開始当初オーストラリアGPは、他の国名グランプリ同様選手権の一部ではなかったが、F1のオープンホイールのレース用車両と似た車両によって、何年もの間オーストラリアの様々なサーキットで開催されていた。中でも注目に値する開催地としては1950年代のメルボルンのアルバートパークサーキットが挙げられる。ここでは時々当時の世界の一流ドライバーを招き、地元のドライバーが挑戦し競争した。このようなレースは1984年まで開催された。

オーストラリアGPがF1世界選手権の一部になったのは1985年である。アデレード市街地コースにてシーズンの最終戦として開催された。このサーキットはモナコモンテカルロ市街地コースほどではないにしろ、ドライバーやギヤボックスにとって厳しく、ドライバー・チーム双方からは不評を買っていた。その一方で、市街地レースとしては抜きどころが多く、観戦ポイントが整備されているなど、観客には最も人気のあった市街地サーキットのひとつであった。

現在の開催地はアルバートパーク・サーキットであるが、ここ数年開催赤字幅が拡大しており、ビクトリア州政府やプロモーターは他の開催地の可能性を探っている(契約は2010年まである)。赤字幅拡大の理由は、市街地(公園)サーキットであるために毎年ガードレールなどの設置をする必要があること、観戦者の消費が減少していること、開催権費用が高騰していることなどである。このためフィリップ・アイランド・サーキットへの移転計画が伝えられている。(ただしF1基準のサーキットではないため、開催には大幅な改修が必要となる)

2008年の当地でのグランプリは3度のセーフティーカー導入という荒れ模様のレースとなったが、 その最後の1回がトヨタのティモ・グロッグの12コーナー出口付近でのクラッシュであった。ランオフエリアの芝生の切れ目に大きな段差があり、この段差により大きく跳ね上がったマシンはコース上に叩きつけられ大破した。ランオフエリアにこのような段差があることは、安全確保という意味で、大きな問題であると、F1関係者からも指摘が出ている。

また、ヨーロッパが本場であるF1グランプリはオーストラリアGPが時差の関係で、ヨーロッパのテレビ観戦が未明になってしまうことで、バーニー・エクレストンがナイト・レース開催を要求しており、それが実現しなければ、2010年以降のオーストラリアGPが開催されない可能性もある。 現在シドニーがナイトレース開催に前向きであると伝えられている。


目次

[編集] 過去のレース

  • 1986年
1986年のオーストラリアGPはアデレード市街地で行われ、ウィリアムズナイジェル・マンセルネルソン・ピケマクラーレンアラン・プロストら3人がタイトルを争ったレースとして、そしてホンダ初のチャンピオン獲得をあと半歩で逃したレースとして語り継がれている。このホンダ初のドライバーズ・チャンピオンが懸かったレースには、ホンダの創業者でもあり当時最高顧問であった本田宗一郎が観戦に訪れていた。
前述の3人が僅差でチャンピオン争いを繰り広げた末の最終戦だったが、当時は16戦のうち最良の11戦の獲得ポイントでチャンピオンを争う有効得点制がまだ存続していた。マンセルが最も王座に近くこのレース3位以上で王座確定。ピケとプロストは共に同条件で、優勝しマンセルが4位以下なら王座を獲得できるという状況であった。
予選では、シーズンを通して圧倒的な強さを見せてきたウィリアムズのマンセルとピケがそれぞれ1位と2位、以下ロータスアイルトン・セナ、プロストの順に並んだ。プロストと同じマクラーレンに乗るケケ・ロズベルグは7位に終わっている。
82周の決勝がスタートすると同時に、マンセルはピケ・セナはおろか7位スタートのロズベルグにまで抜かれてしまう。ロズベルグは7周目にピケを抜くと、以降はずっとトップを走ることになる。ロズベルグは既にこのレース限りでF1引退することを表明しており、決勝前日には「トップ走行中にプロストが2位に上がってきたら、トップを譲る」ということを記者会見で口にしていたが、その話を聞くまでもなくロズベルグがプロストを援護することは容易に推測できた。一方、ウィリアムズはチーム体制も得点状況からも、両ドライバー共に援護は期待できない状況であった。
32周目にプロストがベネトンゲルハルト・ベルガーと接触してタイヤをパンクさせ、一旦はトップ争いから脱落してしまう。プロストはピットでタイヤを交換したが、このパンクしたタイヤを見た、当時大半のチームにタイヤを提供していたグッドイヤーのエンジニアは磨耗が予想より小さかったことと、戦前の予想からタイヤ交換の必要はないと判断、各チーム付きのエンジニアに通達されたが、これが勝負の鍵となった。
グッドイヤーの判断もあり、各チームはタイヤ交換をせずにレースを走りきる作戦を取ったが、63周目にはトップ走行中のロズベルグの右リヤタイヤがバースト、その場でリタイアした。続く64周目には3位走行中のマンセルもまた左リヤタイヤがバースト、これもその場でリタイアとなった。マンセルに発生したトラブルは、バックストレートを287km/hで走行中に突如左リヤタイヤがバーストするという大変危険なものであり、火花も大量に飛び散ったが、幸いマンセル自身がマシンをうまくコントロールしており、大事には至っていない。このトラブルにより王者獲得に圧倒的有利な条件だったマンセルが最初に脱落した。
グッドイヤーはここで各チームに「タイヤを換えないと責任をもてない」とタイヤ交換を強く進言し、多くのドライバーがピットに入りタイヤを交換するという事態になった。この時点でピケとプロストは1位と2位を走行しており、マンセルがリタイヤした時点で勝った方が王座を獲得するという状況だったが、プロストは32周目に既にタイヤ交換済であり、ピケは交換していなかったため、ピケだけがタイヤ交換を強いられることになった。
残りわずか18周の時点で、ピットアウトしたピケとトップを走るプロストの間には15秒の差があったが、プロストは燃費調整のためスローダウンし、ピケは新しいタイヤを活かして猛烈な追走をするものの、結局4秒差でプロストがこのレースを制した。1983年にはピケに、1984年はニキ・ラウダに最終戦まで争いながらわずかに王座を逃していたプロストが、この年の最終戦で逆転王座を獲得した。これは1959~1960年のジャック・ブラバム以来26年ぶりの2年連続王座でもある。
  • 1987年
1987年のレースは、気温35度という猛暑の中行われたレースをフェラーリのゲルハルト・ベルガーが予選1位からそのまま優勝している。2位には同じくフェラーリのミケーレ・アルボレートが入り、4年ぶりの1-2フィニッシュとなった。アルボレートの前で2位でゴールしたロータスのアイルトン・セナが、レース後の車検で車両規定違反でと裁定され失格になり、失格にならなければ獲得することの出来たシリーズランキング2位を失い、同3位に終わっている。
  • 1989年
1989年のレースは土砂降りの雨の中、危険であるとの多くのドライバーの主張を退け強行された。そのため、強行したフォーメーションラップでは、順番がバラバラになるなど大混乱のスタートとなった。プロストはこの決定を不服としてレースを棄権している。ドライバーの主張は間違っておらず、コース各所で接触・追突・スピンなどが多発した。その中で23位からスタートした中嶋悟ファステストラップを連発しながら前走車を次々と追い抜いた。終盤で3位走行のリカルド・パトレーゼを猛烈に攻めるがエンジントラブルが発生して抜くには至らず。しかし中嶋は4位でゴールし、この年唯一のポイントを獲得するとともにこのレースのファステストラップを記録した。優勝したのはウィリアムズのティエリー・ブーツェン、完走は全26台中たったの8台という大変なレースになった。
  • 1990年
1990年のこのレースは前年とは打って変わって快晴の中行われた。この年の王者は前戦日本GPで決定していわゆる消化試合になってしまっていたが、F1世界選手権第500戦となったこのレースでは、ベネトン・フォードのネルソン・ピケが優勝し、記念すべきこのレースに名を残している。
  • 1991年
1991年にも1989年同様アデレードは大雨に見舞われた。このレースをもって引退することを発表していた中嶋(「雨のナカジマ」の異名を持つ)にとって恵みの雨になるかと思われたが、あえなくスピン、リタイア。結局雨脚が強まったこともあり、レースは14周で中止。走行距離52.9km、25分で終了した過去最短のグランプリとなった。既に王者が決定していたマクラーレンのアイルトン・セナがこの時点でトップを走っていたため優勝となったが、各ドライバーに与えられるポイントは規定により半分となった。また、結果的にネルソン・ピケのF1最終レースともなった。
  • 1992年
1992年はホンダの第2期活動に幕を閉じるレースとなった。このレースで見事にゲルハルト・ベルガーが優勝を飾ったが、これはホンダにとって通算71勝目で、第2期活動で最後の勝利となっている。
  • 1993年
1993年はアラン・プロストの引退レースとなった。1988年から続いたセナ・プロ対決のラスト・レースである。スタートは、ポール・ポジションからスタートしたセナがプロストを従え、レースをリードした。その後、セナがタイヤ交換で一時プロストがトップに立つが、プロストがタイヤ交換すると、セナが再びリードを奪い、そのままセナが優勝した。プロストが2位に入った。表彰台では長年に渡り対峙し、敵対してきた両者が握手を交わした。また、1994年に事故死したセナにとってもこれが最後の優勝となった。
  • 1994年
1994年は1ポイント差でチャンピオンを争う、ミハエル・シューマッハデイモン・ヒルに注目が集まる。開始直後からこの2人が他を大きく突き放して接近戦を演じる緊迫の展開となるが、36周目に両者の接触・リタイアにより、シューマッハの初のチャンピオン獲得が決定した。レースはポールポジションからスタートしたナイジェル・マンセルが制したが、これはマンセルの通算31勝目であり、最後のF1優勝となった。
  • 1995年
アデレードでの最後の開催となったこの年、決勝は上位陣が次々と脱落する展開で、優勝したデイモン・ヒルから2位のオリビエ・パニスまで実に2周半もの大差がついてしまう珍事となる。優勝者が2位以下を2周以上周回遅れにしたレースはF1史上ではこのレースだけである。
  • 1996年
1996年には、ビクトリア州政府が明らかではないがかなり多額と推測される金銭を費やした後、メルボルンのアルバートパークサーキットに開催地が変更された。この決定は論争を巻き起こした。一連の抗議は、レースが公共の公園を個人的な遊び場に変えたと主張するアルバートパーク保護グループによって組織された。レース主催者と州政府は、州への経済的利益が費用よりも大きく、レース開催のための工事によって公園の公共的な快適さが増大したと主張した。一部からの批判があったが、参加者からは市街地レースよりも安全であるとして概ね好評である。
レースはこの年ウィリアムズからデビューのジャック・ヴィルヌーヴがデビュー戦で初ポールポジションを獲得する史上3人目となる快挙を達成、決勝も結果的にマシントラブルにより2位となるが、終盤までトップを快走した。
  • 1997年
1997年のレースでは、その前3シーズン勝利から遠ざかっていたマクラーレンがデビッド・クルサードにより、1993年の同グランプリ以来50戦ぶりの優勝を飾ることとなった。また、メルセデスエンジンも1955年イギリスGP以来、実に42年ぶりの優勝を飾ることとなった。
  • 1998年
1998年のレースでは、戦前の予想を覆し、この年からブリヂストンタイヤを装着した、マクラーレンのミカ・ハッキネンとデビッド・クルサードが圧倒的な速さを見せレースを席巻したが、レース途中にピットとの無線のやり取りの行き違いから予定外のピットストップを行い2位に後退したハッキネンを、クルサードがホームストレート上で「チームオーダー」により先行させるという場面があった。
  • 2001年
2001年にはレーススタッフに被害が及ぶ事故が起きた。スタート直後に発生したラルフ・シューマッハとジャック・ヴィルヌーヴのクラッシュにより吹き飛んだタイヤがフェンスの隙間を通って、ボランティアで参加していたコースマーシャル(レース運営に携わる係員)を直撃し、マーシャルは死亡した。
  • 2002年
2002年のレースはオーストラリア出身のドライバーであるマーク・ウェバーのデビュー戦であったが、ウェバーの大活躍が見られた。ウェバーは絶えず競争力の劣るミナルディに乗っていたが、他のチームの不運を味方につけ、5位でフィニッシュした。マーク・ウェバーとミナルディのオーナーであるオーストラリア出身のポール・ストッダートは、FIAの特別な計らいで、表彰式終了後に、2人で表彰台へ登壇して喜びを爆発させ、あっという間にモーターレース界を超えて国民的な有名人になった。また、この年から参戦を開始したトヨタは、いきなりミカ・サロが6位入賞し、ポイント獲得に成功したが、同様にF1デビュー戦であったジョーダン佐藤琢磨は、予選ではトラブルと雨によりまともにアタックラップできず最後尾スタートとなり、決勝レースでも多重クラッシュに乗じて瞬間的に5位走行するも、トラブルでリタイアと明暗が分かれる結果となった。

[編集] 過去の結果と開催サーキット

決勝日 ラウンド サーキット 勝者 所属チーム 結果
1985 11月3日 16 アデレード ケケ・ロズベルグ ウィリアムズ 詳細
1986 10月26日 16 アデレード アラン・プロスト マクラーレン 詳細
1987 11月15日 16 アデレード ゲルハルト・ベルガー フェラーリ 詳細
1988 11月13日 16 アデレード アラン・プロスト マクラーレン 詳細
1989 11月5日 16 アデレード ティエリー・ブーツェン ウィリアムズ 詳細
1990 11月4日 16 アデレード ネルソン・ピケ ベネトン 詳細
1991 11月3日 16 アデレード アイルトン・セナ マクラーレン 詳細
1992 11月8日 16 アデレード ゲルハルト・ベルガー マクラーレン 詳細
1993 11月7日 16 アデレード アイルトン・セナ マクラーレン 詳細
1994 11月13日 16 アデレード ナイジェル・マンセル ウィリアムズ 詳細
1995 11月12日 17 アデレード デイモン・ヒル ウィリアムズ 詳細
1996 3月10日 1 メルボルン デイモン・ヒル ウィリアムズ 詳細
1997 3月9日 1 メルボルン デビッド・クルサード マクラーレン 詳細
1998 3月8日 1 メルボルン ミカ・ハッキネン マクラーレン 詳細
1999 3月7日 1 メルボルン エディ・アーバイン フェラーリ 詳細
2000 3月12日 1 メルボルン ミハエル・シューマッハ フェラーリ 詳細
2001 3月4日 1 メルボルン ミハエル・シューマッハ フェラーリ 詳細
2002 3月3日 1 メルボルン ミハエル・シューマッハ フェラーリ 詳細
2003 3月9日 1 メルボルン デビッド・クルサード マクラーレン 詳細
2004 3月7日 1 メルボルン ミハエル・シューマッハ フェラーリ 詳細
2005 3月6日 1 メルボルン ジャンカルロ・フィジケラ ルノー 詳細
2006 4月2日 3 メルボルン フェルナンド・アロンソ ルノー 詳細
2007 3月18日 1 メルボルン キミ・ライコネン フェラーリ 詳細
2008 3月16日 1 メルボルン ルイス・ハミルトン マクラーレン 詳細
2009 3月29日 1 メルボルン ジェンソン・バトン ブラウン 詳細

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月9日 (月) 08:10 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【オーストラリアグランプリ】変更履歴

ご利用上の注意