オードリー・ヘプバーン
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| オードリー・ヘプバーン Audrey Hepburn |
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![]() 映画『ローマの休日』でのヘプバーン |
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| 本名 | Audrey Kathleen Ruston | ||||||||||||||||||||||||||
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| 別名 | Edda van Heemstra | ||||||||||||||||||||||||||
| 生年月日 | 1929年5月4日 | ||||||||||||||||||||||||||
| 没年月日 | 1993年1月20日(満63歳没) | ||||||||||||||||||||||||||
| 出生地 | |||||||||||||||||||||||||||
| 国籍 | |||||||||||||||||||||||||||
| 職業 | 女優 | ||||||||||||||||||||||||||
| ジャンル | 映画 | ||||||||||||||||||||||||||
| 活動期間 | 1948年 - 1989年 | ||||||||||||||||||||||||||
| 配偶者 | メル・ファーラー (1954年 - 1968) アンドレア・ドッティ (1969年 - 1982) |
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| 家族 | ショーン・ヘプバーン・ファーラー (1960年生) ルカ・ドッティ (1970年生) |
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| 主な作品 | |||||||||||||||||||||||||||
| 『ローマの休日』 『ティファニーで朝食を』 『マイ・フェア・レディ』 |
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| 備考 | |||||||||||||||||||||||||||
| AFI(米国映画協会)の「最も偉大な女優50選」では第3位。
同協会の2002年選出で「最も愛すべきラブストーリー・映画ベスト100本」にも、第4位『ローマの休日』、第12位『マイ・フェア・レディ』、第54位『麗しのサブリナ』、第57位『いつも二人で』、第61位『ティファニーで朝食を』。 |
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オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn、1929年5月4日 - 1993年1月20日)は、イギリスの女優。
本名は、オードリー・キャスリーン・ヴァン・ヘームストラ・ヘプバーン・ラストン(Audrey Kathleen Van Heemstra Hepburn-Ruston)。日本においては「ヘップバーン」と表記する場合もある[1][2]。各種資料の一部に本名を「エッダ・ヘームストラ」とするものもある。「エッダ」は、戦時中、ドイツ占領下にあったオランダで、「オードリー」という名がイギリス的であることを心配した母エッラが、自らの名前をもじって(EllaをEddaとした)一時的に変えたものである[3]。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 生い立ち
アイルランド系イギリス人でイギリスの保険会社に勤める父ジョセフ・アンソニー・ヘップバーン・ラストンとオランダ人の母エッラ・ファン・ヘームストラ(貴族の出)のもとに、ベルギーの首都ブリュッセルで生まれる。生後3週間で百日咳にかかり、発作のために心臓停止状態となるも母親の必死の心臓マッサージにより蘇生する。5歳でイギリス・ケント州にある寄宿学校に入学。
その頃、両親は離婚し、ファシズムに共鳴した父親は家族から去った。10歳のときに祖父のいるオランダへ移住し、6年間Arnhem Conservatoryでバレエの特訓を受ける。15歳には有能なバレリーナになった。
[編集] 戦中・戦後
第二次世界大戦中はオランダで、密かにドイツのオランダ占領に対する抵抗運動の資金集めのために踊るなど、反ドイツのレジスタンス運動に従事していた。オードリーの叔父と母親の従兄弟はドイツに対する抵抗者だったため、オードリーの目の前で銃殺された。彼女の異父兄弟もドイツの強制収容所に入れられた。オードリーは栄養失調のため急性貧血症、呼吸困難、浮腫を患った。16歳の時、オランダの病院でボランティアの看護婦をしていたが、マーケット・ガーデン作戦で大激戦地となったアーネムの病院で一人のイギリス陸軍兵を介護する(20年後彼は映画監督になって彼女の作品を演出することになる―『暗くなるまで待って』のテレンス・ヤングである)。また、戦争中、食料がないときはチューリップの球根を食べ、飢えをしのいだという。なお、「マーケット・ガーデン作戦」を描いた1977年公開の映画『遠すぎた橋』においてケイト・テル・ホルスト夫人役(アーネム郊外の自宅をイギリス軍負傷兵のため提供する)をオファーされたが、拒否している。
アンネ・フランクと同い年で、戦後、オードリーはアンネの事を知りひどく心を痛めたという。後年、映画『アンネの日記』のアンネ役のオファーもあったのだが、辛い過去を思い出すのを恐れて断った事もある。ロンドンでバレエを習う等、ヨーロッパを中心とする各国で生活した経験を持つ。そのためか英語、フランス語、オランダ語、スペイン語、イタリア語に抜群に堪能であった。
[編集] キャリア
第二次世界大戦終結後、オードリーの家族は無一文でロンドンに移り住み、母のエッラは様々な職に就いて家族の生活を支え、オードリー自身もエージェントの持ち込む映画やテレビの端役をこなし家族を支えていたが『初恋』で、主役の妹でバレリーナの役柄を演じる幸運に恵まれる。『モンテカルロへ行こう』の撮影のために訪れたリヴィエラ(フランス)において、同地に滞在していた女流作家のシドニー=ガブリエル・コレットに見出され、彼女のブロードウェイ上演舞台作品である『ジジ』の主役・ジジ役に大抜擢。ジジ役を探していたコレットが、オードリーを初めて見た際に、「私のジジを見つけたわ!」と言ったのは有名なエピソードである[4]。
前後して、『ローマの休日』のアン王女役のスクリーンテストに合格。パラマウント映画と契約し、アメリカにおいて映画初出演を果たす。『ローマの休日』のアン王女役で一躍有名となり、女優業での成功がほぼ確実視されている状況となると、専属するパラマウント映画は、オードリーの為に次回作を用意するも、彼女はブロードウェイの舞台『オンディーヌ』への出演を熱望する。もちろん、偉大な映画作家達の作品と名優との共演という筋書きを整えていたパラマウント映画は大反対するも、オードリーは反対を押し切るかたちで舞台への出演を行う。結果的には舞台作品『オンディーヌ』においてトニー賞の主演女優賞を受賞し、舞台女優としても大成功を収めることとなる。
華奢で日本人に親しみやすい風貌と言われ、その衣装も憧れの的となり、当時の女性達の間ではヘップバーン・カットやサブリナパンツなどブームとなった現象も数ある。現在でもその人気は根強く、写真展等のイベントが開催されるほどである。映画への出演数はそれほど多くはないものの、『ローマの休日』ではアカデミー主演女優賞を獲得(イタリア・ローマで開催されたプレミアではイングリッド・バーグマンがオードリーの演技に感動して泣いてしまった)。
その後も『麗しのサブリナ』、『ティファニーで朝食を』、『マイ・フェア・レディ』等に出演。本人によると『マイ・フェア・レディ』では歌唱部が吹き替えられ、また『ティファニーで朝食を』では主人公が彼女の本来のイメージとはかけ離れており、どちらもがっかりしたという。ただし、作曲家のヘンリー・マンシーニは彼女をイメージして名曲『ムーン・リバー』を作曲して、広く親しまれている。
1962年、マリリン・モンローが当時のアメリカ大統領で、モンローと性的関係にあったと言われているジョン・F・ケネディの誕生日で『ハッピーバースデートゥーユー』を歌ったことは非常に有名であるが、実は1963年にオードリーも歌っていたことはあまり知られていない。
彼女がジバンシーのミューズであった事は有名。作中の彼女の衣装の大半はジバンシーが手がけている。
1954年に俳優のメル・ファーラーと結婚、息子ショーンが生まれる。メルはこれが三度目の結婚で、俳優として当時下り坂であり、映画制作へ軸足を移していた。名優として駆け上がる妻との不釣り合いがたたり、離婚した。
1970年に、10歳年下のイタリア人精神科医アンドレア・ドッティと再婚し、男児をもうけたが離婚に終わっている。彼女の出演歴が1960年代後半から1970年代にかけて欠落しているのは、子育てに専念するため、引く手あまたの大作の出演を拒否し続けたためである。ドッティとの別離後から亡くなるまで、オランダ人俳優ロバート・ウォルダーズ(女優マール・オベロンの最後の夫)と同棲した。
1989年のスティーヴン・スピルバーグ監督作品『オールウェイズ』を最後に女優業を引退した。
[編集] 晩年
1989年の引退後に、国際連合児童基金のユニセフ親善大使に就任し、当時内戦の続くソマリアやスーダンなどの子どもたちに笑顔を届けた。就任の際に、オードリーは「わたしは、ユニセフが子どもにとってどんな存在なのか、はっきり証言できます。なぜって、私自身が第二次世界大戦の直後に、食べ物や医療の援助を受けた子どもの一人だったのですから」と語っている。その一方で『世界の庭園(庭園紀行)』という番組のホスト役として、7ヶ国、16の庭園を訪れる。
1993年1月20日、スイス・ローザンヌ近郊のトロシュナ村で大腸癌のため亡くなる。
死後10年以上経つ現在でもなお「スクリーンの妖精」として世界中のファンを魅了し続けている。
[編集] 評価
2009年現在、アカデミー賞、トニー賞、エミー賞、グラミー賞を全て獲得した9名の中の一人である。
AFI(米国映画協会)が選出した「最も偉大な女優50選」では第3位である。また、同協会が2002年に選出した「最も愛すべきラブストーリー・映画ベスト100本」にも第4位に『ローマの休日』が、第12位に『マイ・フェア・レディ』が、第54位に『麗しのサブリナ』が、第57位に『いつも二人で』、第61位に『ティファニーで朝食を』が、それぞれ選ばれている。
日経リサーチが2004年12月27日に発表した「タレント・キャラクターイメージ調査」において、好意度ランキングで第1位に選ばれた[5]。
2006年9月23日、日本テレビ系列で放映された「日本人が選ぶ100人の美女」の第2位に選ばれた。
このような高い人気に着目した日本の三井住友銀行が、インターネットを利用した銀行サービスや女性顧客向けの総合口座サービスのCMキャラクターにヘプバーンを起用している。CMは、ヘプバーンが出演した映画から有名な場面を抜き出し、宣伝する商品に合うような日本語の台詞を吹き込む形式を取っている。 なお、この時に吹替を担当した声優が池田昌子である。
2007年11月3日放送の『スマステ』での特別企画「大人が選ぶ映画のヒロインベスト30」で彼女が演じた『ローマの休日』のアン王女が1位に選ばれた。これに関してゲストの森光子は「1番はしょうがないですね。偉い人だから。キュートで、かわいくて、キレイだし…」と絶賛した。
[編集] 主な受賞
- アカデミー賞
- 1953年 主演女優賞 『ローマの休日』
- 1992年 ジーン・ハーショルト友愛賞
- エミー賞
- 1993年 Outstanding Individual Achievement - Informational Programming 『Gardens of the World with Audrey Hepburn』
- トニー賞
- 1954年 演劇女優賞 『オンディーヌ』
- 1968年 Special Tony Award
- グラミー賞
- 1994年 Best Spoken Word Album for Children 『Audrey Hepburn's Enchanted Tales』
- ゴールデングローブ賞
- 1954年 主演女優賞(ドラマ) 『ローマの休日』
- 1954年 世界でもっとも好かれた女優
- 1989年 セシル・B・デミル賞
- ニューヨーク映画批評家協会賞
- 1953年 女優賞 『ローマの休日』
- 1959年 女優賞 『尼僧物語』
- 英国アカデミー賞
- 1959年 英国主演女優賞受賞 『尼僧物語』
- 1965年 英国主演女優賞受賞 『シャレード』
[編集] 主な出演作品
| 公開年 | 邦題 原題 |
役名 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1948 | オランダの7つの教訓 Nederlands in 7 lessen |
スチュワーデス | |
| 1951 | 若気のいたり One Wild Oat |
ホテルの受付嬢 | |
| 天国の声 Laughter in Paradise |
シガレットガール | ||
| ラベンダー・ヒル一味 The Lavender Hill Mob |
チキータ | ||
| 1952 | 若い妻たちの物語 Young Wives' Tale |
イヴ・レスター | |
| モンテカルロへ行こう Nous irons à Monte-Carlo |
メリッサ・ウォルター(フランス語版)/リンダ・ファレル(英語版) | ||
| 初恋 The Secret People |
ノラ・ブレンターノ | ||
| 1953 | ローマの休日 Roman Holiday |
アン王女(アーニャ・スミス) | アカデミー賞最優秀主演女優賞受賞 ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞受賞 (ドラマ部門) ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞受賞 キネマ旬報ベストテン第6位 |
| 1954 | 麗しのサブリナ Sabrina |
サブリナ・フェアチャイルド | |
| 1956 | 戦争と平和 War and Peace |
ナターシャ | |
| 1957 | パリの恋人 Funny Face |
ジョー・ストックトン | |
| 昼下りの情事 Love in the Afternoon |
アリアーヌ・シャバッス | ||
| 1959 | 緑の館 Green Mansions |
リマ | |
| 尼僧物語 The Nun's Story |
ガブリエル(シスター・ルーク) | 英国アカデミー賞イギリス女優賞受賞 ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞受賞 |
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| 1960 | 許されざる者 The Unforgiven |
レーチェル・ザカリー | |
| 1961 | ティファニーで朝食を Breakfast at Tiffany's |
ホリー・ゴライトリー | |
| 噂の二人 The Children's Hour |
カレン・ライト | キネマ旬報ベストテン第10位 | |
| 1963 | シャレード Charade |
レジーナ・ランパート | 英国アカデミー賞イギリス女優賞受賞 |
| 1964 | パリで一緒に Paris When It Sizzles |
ガブリエル・シンプソン | |
| マイ・フェア・レディ My Fair Lady |
イライザ・ドゥーリトル | ||
| 1966 | おしゃれ泥棒 How to Steal a Million |
ニコル・ボネ | |
| 1967 | いつも二人で Two for the Road |
ジョアンナ・ウォレス | |
| 暗くなるまで待って Wait Until Dark |
スージー・ヘンドリクス | ||
| 1976 | ロビンとマリアン Robin and Marian |
マリアン | |
| 1979 | 華麗なる相続人 Bloodline |
エリザベス | |
| 1981 | ニューヨークの恋人たち They All Laughed |
アンジェラ | |
| 1986 | おしゃれ泥棒2 Love Among Thieves |
カロリーヌ | |
| 1989 | オールウェイズ Always |
天使ハップ |
[編集] 日本語文献
- 購入しやすい本のみ。
- 『オードリー・ヘプバーン オートグラフ・コレクション』 近代映画社、2008年
- ヘップバーン・フェラー・ショーン 『母、オードリーのこと』 実川元子訳 竹書房、2004年
- ボブ・ウィロビー写真 『世にも素敵なオードリー王国 ヘプバーン写真集』 山本容子・文 講談社+α文庫 2003年
- 清藤秀人 『オードリー・ヘプバーン98の真実』 近代映画社、2007年
- 『オードリー・ヘプバーン 世界を魅了した20作ヒロイン集』 近代映画社、2004年
- 『オードリー・ヘプバーンスタイル』 近代映画社 2003年
- チャールズ・ハイアム 『オードリー・ヘプバーン 映画に燃えた華麗な人生』 柴田京子訳、近代映画社 1986年
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ ヘップバーンの表記に関する解説:安藤邦男「カタカナ英語と英語教育」
- ^ ヘップバーン明記での刊行物:『アルバムオードリー・ヘップバーン』(ゼンバッハ・K・ユルゲン編、川原亜矢子翻訳、ISBN 4062119145)など。
- ^ メル・ファーラーとの間に生まれた息子ショーン・ヘプバーン・ファーラーの著書 『AUDREY HEPBURN―母、オードリーのこと』(ISBN 4-8124-1668-X)による。
- ^ バリー・パリス著 『オードリー・ヘップバーン物語〈上〉』(ISBN 4-08-760390-3)による。
- ^ 「タレント・キャラクター消費者の好意度 麗しのオードリー不滅 イメージネット調査」『日経流通新聞MJ』2004年12月27日付、2面
[編集] 外部リンク
- Audrey Hepburn Official site(英語)
- Audrey Hepburn - Internet Movie Database (英語)
- オードリー・ヘプバーン映画肖像オフィシャルライセンスエージェント
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最終更新 2009年11月9日 (月) 21:25 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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