カポレットの戦い
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| カポレットの戦い | |
|---|---|
![]() カポレットの戦いとイタリア軍の敗走経路 |
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| 戦争:第一次世界大戦 | |
| 年月日:1917年10月24日-11月19日 | |
| 場所:オーストリア・ハンガリーのカポレット(現在スロベニアのコバリード) | |
| 結果:オーストリア、ドイツ軍の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 指揮官 | |
| 戦力 | |
| 400,000人(35個師団) | 650,000人(41個師団) |
| 損害 | |
| 死傷者20,000人 | 戦死11,000人 戦傷20,000人 捕虜275,000人 |
カポレットの戦い(―のたたかい)とは、第一次世界大戦中の1917年10月24日から11月9日にかけて、オーストリア・ハンガリーのカポレット(現在スロベニアのコバリード)で戦われた戦い。第十二次イゾンツォの戦いとも言われる。 カポレットの戦いは、突撃部隊(de:Stoßtrupp)とオスカー・フォン・フーチェルによって編み出された浸透戦術の有効性を示した。
目次 |
[編集] 概要
ドイツ軍の増援を受けたオーストリア・ハンガリー軍は、イタリア軍の戦線を突破し、ほとんど機動予備を持たなかったイタリア軍を敗走させた。この成功でドイツはオーストリアの崩壊をなんとか押しとどめることができ、また18年春の西部戦線での攻勢に専念することができた。
[編集] 背景
オーストリアは開戦から1917年中葉までに多大な損害を出していた。その数死傷捕虜合わせて実に150万人にも及び、もはやドイツ人とハンガリー人しか真面目に戦わなくなっていた。ドイツ軍参謀本部は、来たるべき第12回目のイゾンゾ会戦にはオーストリアは耐えられないであろうと観察した。オーストリアの崩壊は同盟軍の敗北にもつながる。そこでドイツはオーストリアを援助してイタリアの脅威を排除しようと考えた。
攻撃計画はオーストリア側から提案された。この案はバインジッヅァ高地北のトルミノから攻撃を加えようとするものである。イタリア軍のトルミノ付近の防備は貧弱ではあったが、山地で大軍の集中が難しい。そこでドイツ軍最高司令部は山地戦に詳しいクラフト・フォン・デメルジンゲン将軍を現地へ派遣して作戦計画の可能性を探った。デメルジンゲン将軍は、困難は多いもののトルミノの突破は可能であるとの報告を出した。ここにおいてドイツ軍はオーストリアと共同して攻勢に出ることに決した。
[編集] 直前の両軍
独墺軍ではドイツ6個師団、オーストリア9個師団から成る第14軍が編成され、主攻撃を担当した。その左翼には墺第3軍、第4軍からなるボレヴィッツ軍集団が配備。イゾンゾ~トルミノ一帯では37個師団である。
一方イタリア軍では、独第14軍正面には第3軍が配備されていた。イゾンゾ~トルミノ一帯では47個師団である。脱走将校などを通じて独墺軍の攻撃計画が漏れていたがイタリア軍首脳部は鑑みることなく、カポレット地区の配備兵力は薄いままであった。
[編集] イタリア軍の損害
イタリア軍の損害は莫大だった。11,000人が戦死し、20,000人が傷を負った。そして275,000人が捕虜となったのである。さらに2,500門の砲がオーストリア軍の手に落ちた。独墺軍はヴェネツィアに向かって100km以上前進したが、イタリア軍(フランス・イギリス・アメリカの連合国軍が支援していた)が新たに構築した防衛線であるピアーヴェ川を越えることは出来なかった。この防衛線は続くピアーヴェ川の戦いでも保持され、後にヴィットリオ・ヴェネトの戦いで独墺軍が完全敗北する踏み台となった。
イタリア軍司令官のルイージ・カドルナは、敗戦の責任をとって更迭され、アルマンド・ディアズとピエトロ・バドリオが後任となった。
またこの戦いは、イタリア政府に「近代的軍隊にとって、敵への恐怖だけは十分に士気を保てない」ということを気付かせた。カポレットの敗戦の後、イタリア宣伝局が設置され、(皮肉にも)領土の保全と社会正義の実現を兵士たちに約束した。さらに、イタリアの軍事戦略はより慎重なものとなり、カポレット戦以降の戦死傷者は、大戦中のイタリアの総死傷者650,000人の5分の1の数であった。
この戦いの後、イタリアにおいて「カポレット」という言葉は特別の意味を持つ言葉となった。すなわち、酷い敗北を指す言葉となったのである。例えばベニート・ムッソリーニは、社会主義者による1922年の失敗したゼネストについて「イタリアの社会主義にとってカポレットとなった」と述べている。
[編集] 連合軍の戦争指導
連合国側では、戦闘はラパッロにおかれた協議機関によって指導された。これは後の連合国軍最高会議のもととなるものであり、連合国の軍事協力を改善し、一体的な戦略を採ることを狙いとしていた。
[編集] ロンメル
エルヴィン・ロンメルはこの戦いで、ヴュルテンベルク王国(現在のバーデン=ヴュルテンベルク州)の山岳歩兵中隊を率いて戦い、3,000名のイタリア兵を捕虜とした功績で プール・ル・メリット勲章を叙勲。軍歴に華を添えた。ロンメルの将器は、カポレット南西のモンテ・マタユール(Monte Matajur)攻略戦で示された。45時間不眠で進軍した後、ロンメルは休むことなくロンガローネにあるイタリア軍駐屯地の攻撃を行った。このことで、ロンメルは後にこう言われるようになった。「ロンメルはいつまでも中尉のままのようだ。即断即決し、そのはずみで行動する」
[編集] 参考文献
- リデル・ハート、上村達雄(翻訳)『第一次世界大戦〈下〉』中央公論新社、1970=1976年翻訳/2000年、ISBN 978-4120031007
- 『〔戦略・戦術・兵器詳解〕図説 第一次世界大戦<上>』学習研究社、2008年、ISBN 978-4056050233
- 『〔戦略・戦術・兵器詳解〕図説 第一次世界大戦<下>』学習研究社、2008年、ISBN 978-4056050516
- 瀬戸利春『歴史群像No64 カポレットの戦い』学習研究社、2004年
[編集] 関連項目
- 第一次イゾンツォの戦い - 1915年6月23日-7月7日
- 第二次イゾンツォの戦い - 1915年7月18日-8月3日
- 第三次イゾンツォの戦い - 1915年10月18日-11月3日
- 第四次イゾンツォの戦い - 1915年11月10日-12月2日
- 第五次イゾンツォの戦い - 1916年3月9日-3月17日
- 第六次イゾンツォの戦い - 1916年8月6日-8月17日
- 第七次イゾンツォの戦い - 1916年9月14日-9月17日
- 第八次イゾンツォの戦い - 1916年10月10日-10月12日
- 第九次イゾンツォの戦い - 1916年11月1日-11月4日
- 第十次イゾンツォの戦い - 1917年3月12日-6月8日
- 第十一次イゾンツォの戦い - 1917年8月19-日9月12日
最終更新 2009年8月20日 (木) 22:37 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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