カラカラ
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カラカラ(ラテン語:Caracalla、186年4月4日 - 217年4月8日)は古代ローマ帝国皇帝(在位:211年 - 217年)。アントニヌス勅令を発布し、属州の全自由民にローマ市民権を与えた。
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[編集] 生涯
先帝セプティミウス・セウェルスとユリア・ドムナの子として、186年、ガリアのリグドゥヌムに生まれた。「カラカラ(Caracalla 、カラカッラ)」という語は、彼の愛用した外套に由来する通称であり、本名はマルクス・アウレリウス・セウェルス・アントニヌス(Marcus Aurelius Severus Antoninus)という。
193年、父セプティミウス・セウェルスが皇帝になった。セウェルスが211年にエボラクム(Eboracum:現在のイングランドのヨーク)で死ぬと、カラカラと弟ゲタは共同皇帝として帝位に就いた。のちカラカラは弟ゲタとの不仲が決定的になり、毒殺を恐れるゲタを、母を介して和解したいと呼び出し、母の眼前で殺害した。この殺害をカラカラは正当防衛であると主張したが、アレクサンドリアの市民は諷喩詩を作り、カラカラの主張を揶揄した。この侮辱に応えるため、カラカラは215年、アレクサンドリアを訪れた際に高位の市民たちを虐殺させた。史家カッシウス・ディオによればカラカラはその治下に約2万人を虐殺させたという。さらに軍事的な独裁強化もおこなったため、市民の評価は低かった。
しかしその一方で、兵士と共に徒歩で行軍し、土木作業にも汗を流し、兵士の給与を上げるなどしたため、軍内部では人気があったという。政治家としては浅はかであったが、軍事能力はなかなかのものであった。だが217年4月8日、カルラエ付近でプラエフェクトゥス・プラエトリオ(近衛隊長)マクリヌスに暗殺された。パルティアとの戦いにエデッサから赴く途上であった。
カラカラの治世に際立った業績は以下の3つである。212年にローマ市民権を帝国領内のすべての自由人に与えたこと、銀貨の改鋳を行ったこと、カラカラ浴場として今日も知られる大浴場を建設したことである。
[編集] アントニヌス勅令
詳細は「アントニヌス勅令」を参照
212年、カラカラは「アントニヌス勅令(Constitutio Antoniniana )」を発布し、全属州の自由民にローマ市民権を付与した。このローマ市民権の拡大は、主に税収の拡大を狙ったものとされている。ローマ市民にすることで、相続税や奴隷解放税の納税を義務づけられるからである。しかしながらこれは「有望な若者に自分の財産を遺贈する」「長年尽くしてくれた奴隷への感謝をこめて、奴隷の身分から解放してやる」という、当時のローマ人の、それも富裕層の慣習を前提とした徴税であった。そのような慣習が存在しない、また首都ローマほど富裕層が多くはない属州民にそれら税を課したとて、ほとんど税収は見込めなかった。逆に全ての属州民に課せられていた「属州民税」(収入の10分の1)がなくなったため、税収の減少を招いた。結果、その埋め合わせのための臨時税の乱発が常態化して、「広く浅く、分かりやすく公正に」という初代皇帝アウグストゥス以来の税制は崩壊し、国家財政は改善不能に至った。また、従来はローマ軍団に入ることが属州民がローマ市民権を取得する方法であったために、兵士のなり手に不足することは無かったが、属州民という枠組みが無くなったために兵士のなり手が減って、軍団内の高齢化が促進され、さらにローマ市民の市民精神に立脚していた重装歩兵の精神的支柱も破壊し、軍団兵の質の低下を招き、ローマの国防能力は大幅に低下した。
通常、市民権の拡大は現代の人権思想からは肯定的に捉えられやすい。だが、市民権が国家への貢献によって取得する権利から誰もがもらえる既得権となったため、それを得ようとする努力から生まれる社会の活力・流動性が失われ、ローマ市民の矜持とでもいうべきものが消失したと見ることもできる。また「アントニヌス勅令以前のローマ市民」「勅令以降のローマ市民」という、言わば「固定した階層」を産み出してしまったがために、結果としては階層に流動性があった時代よりも、不平等が拡大したとも言える。
[編集] 功績と汚点
[編集] 参考文献
[編集] 関連する文学作品
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最終更新 2009年3月20日 (金) 17:35 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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