ヘルベルト・フォン・カラヤン
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| ヘルベルト・フォン・カラヤン | |
|---|---|
ヘルベルト・フォン・カラヤン(1938年)
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| 基本情報 | |
| 出生名 | Herbert Ritter von Karajan |
| 出生 | 1908年4月5日 |
| 学歴 | ウィーン音楽院 |
| 出身地 | |
| 死没 | 1989年7月16日(満81歳没) 郊外アニフ |
| ジャンル | クラシック音楽 |
| 職業 | 指揮者 |
| 活動期間 | 1929年 - 1989年 |
| レーベル | EMI、ドイツ・グラモフォン ソニー・クラシカル |
| 公式サイト | http://www.karajan.org/ |
| クラシック音楽 |
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| 作曲家 |
| ア-カ-サ-タ-ナ ハ-マ-ヤ-ラ-ワ |
| 音楽史 |
| 古代 - 中世 ルネサンス - バロック 古典派 - ロマン派 近代 - 現代 |
| 楽器 |
| 鍵盤楽器 - 弦楽器 木管楽器 - 金管楽器 打楽器 - 声楽 |
| 一覧 |
| 作曲家 - 曲名 交響曲 - ピアノ協奏曲 ピアノソナタ ヴァイオリン協奏曲 ヴァイオリンソナタ チェロ協奏曲 弦楽四重奏曲 - オペラ 指揮者 - 演奏家 オーケストラ - 室内楽団 |
| 音楽理論/用語 |
| 音楽理論 - 演奏記号 |
| 演奏形態 |
| 器楽 - 声楽 宗教音楽 |
| イベント |
| 音楽祭 |
| メタ |
| ポータル - プロジェクト カテゴリ |
ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan, 1908年4月5日 - 1989年7月16日)は、オーストリアの指揮者。1955年よりベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督を務め、一時期それと同時にウィーン国立歌劇場の芸術監督の地位にもあったことなどから、日本では「楽壇の帝王」と称されることもあった。20世紀後半のクラシック界のみならず、広く知られたマエストロ(巨匠)の一人である。
目次 |
[編集] 人物・来歴
1908年にオーストリア・ハンガリー帝国(現在のオーストリア共和国)ザルツブルク州のザルツブルクで貴族の子として生まれた。兄のヴォルフガング(1906年-1987年)も後に音楽家になっている。
ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院とウィーンの音楽大学で学んだ後、親の買い上げたオーケストラによりザルツブルクでデビュー。ドイツのウルム市立歌劇場の総監督から誘いが来て、1929年に『フィガロの結婚』でオペラ指揮者として脚光を浴び、1934年には同国アーヘン市立歌劇場で音楽監督に就任した。1938年のベルリン国立歌劇場におけるヴァーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の指揮で国際的にも認められ、これにより翌1939年にはベルリン国立歌劇場およびベルリン国立管弦楽団の指揮者の地位を得るとともに、イタリアのミラノ・スカラ座でオペラを指揮することとなった。ちょうどこのころ、アドルフ・ヒトラー総統主催の第九演奏会の指揮を務め、ヒトラーから「君は神の道具だ」と絶賛された[要出典]。またマスコミからは「奇蹟のカラヤン」と賛辞を贈られた。
1946年、ウィーン・フィルとの戦後初の演奏会を前に、戦時中ナチスの党員であった[1]ことを理由に、ソ連の占領軍によって公開演奏停止処分を受けた。しかし翌1947年には再び処分保留となった。1948年にウィーン交響楽団の首席指揮者、翌1949年にウィーン楽友協会の音楽監督に就任。また、イギリスのレコード会社EMIの録音プロデューサーのウォルター・レッグの元で、フィルハーモニア管弦楽団との演奏活動およびレコード録音も盛んに行うようになった。
1951年、戦後再開したバイロイト音楽祭の主要な指揮者として抜擢される。しかし、翌年には音楽祭を主催するヴィーラント・ワーグナーと、演出を巡って対立。この後、ヴィーラントの死後もバイロイトに戻ることはなかった。
1954年、ドイツ音楽界に君臨していたヴィルヘルム・フルトヴェングラーが急逝したことで、翌1955年にベルリン・フィルの終身首席指揮者兼芸術総監督の地位に登りつめ、1989年まで34年もの長期間この地位にとどまった。1957年には同楽団と初の日本演奏旅行を行う(カラヤン自身は1954年、NHK交響楽団を指揮するため単身来日していた)。
1956年から1964年まではウィーン国立歌劇場の芸術監督を務めたが、オペラ劇団員のストライキをめぐり、保守的で聴衆に受けない監督のエーゴン・ヒルベルトと衝突した。
1950年代からはミラノ・スカラ座でも主要な指揮者として活躍していた。1964年12月17日にスカラ座での椿姫の上演が完全に失敗したため、以後スカラ座では「椿姫」の上演を封印することとなった(カラスの呪い)。
このころから健康問題の不調に悩まされるようになりながらも、世界中でおびただしい回数の演奏旅行を行った。1965年には映画監督アンリ=ジョルジュ・クルーゾーとともにコスモテル社を設立して、クラシック音楽の映像化事業にも着手している。
1967年には、自らの理想に沿うワーグナーのオペラの上演をめざして、ザルツブルク復活祭音楽祭を始めた。1972年には、ベルリン・フィルとともに3度のコンサートを行い、ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭をも創設し、自ら音楽監督に就任した。ベルリン・フィルがオペラのオーケストラピットに入るようになったのはこの音楽祭が契機となっている。
1972年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団団員の養成を目的としたオーケストラ・アカデミー、いわゆるカラヤン・アカデミーを創設した。
1982年、自身の映像制作会社テレモンディアルをモンテカルロに設立。ベートーヴェン交響曲全集をはじめとする、主要レパートリーの映像化にも着手した。1983年、女性クラリネット奏者ザビーネ・マイヤーの入団を巡り、男性団員のみという原則を楯に加入を認めないベルリン・フィルハーモニーと対立、激しい軋轢は新聞種にもなり、ベルリン・フィルの芸術監督辞任の噂もささやかれたが、翌年和解に至る(結局マイヤーは自ら退団)。晩年を迎えたカラヤンはこの騒動の後、ベルリン・フィルからの離反を強め、もう一つのヨーロッパを代表する楽団であるウィーン・フィルとの結びつきをより深めていくことになる。
1988年、ドイツの雑誌『デア・シュピーゲル』は、「お金の魔術師」というタイトルでカラヤン批判の特集記事を組んだ。その内容とは、カラヤンの側近がカラヤンとベルリン・フィルの台湾への演奏旅行の条件として法外な出演料と、カラヤンとウィーン・フィルとの演奏フィルムの購入を台湾側に要求した、というものだった。このスキャンダルに加え、カラヤンのベルリンでの演奏回数が減っていたという事情も手伝って、カラヤンへの批判が噴出した。ベルリン・フィルやドイツの野党からも退任を求める声が高まった。
翌1989年4月24日、ウィーン・フィルとの演奏会出演の翌日に、健康上の理由でベルリン・フィルの芸術監督と終身指揮者を辞任した。その3か月後、ザルツブルク近郊にあるアニフの自宅でソニーの大賀典雄社長(当時)との会談中に、心不全により死去した。この突然の死がなければ、ドイツ・グラモフォンとの長年の契約を解消し、ソニーと新しい契約を結び、ウィーン・フィルと自身のレパートリーの新録音・再録音に着手。また、1991年には10年ぶりにウィーン国立歌劇場に復帰する予定だったともいわれている[2]。
カラヤンは指揮者の職業病ともいえる、脊椎の持病にも悩まされ続け、生涯に3度の手術をした。1978年の脳梗塞(『家庭交響曲』のリハーサル中、落とした指揮棒を取ろうとして指揮台から落ちたのが発作の原因であった)等が追い撃ちをかけた[3]。晩年には、歩行も厳しいほど体のコントロールを失うことにもなった。その頃のカラヤンは指揮台の柵につけられた、サドル状の特製の椅子に座って指揮し、長年目をつぶって指揮していたオーケストラのみの曲でも1983年ごろからは目を開いて指揮することが多くなった。
[編集] 脚注
- ^ 1933年4月8日、ザルツブルクにおいて当時オーストリアでは非合法政党だったナチスへの入党手続きをとった。ナチスの党員簿によると、最初の入党後カラヤンは行方不明扱いとされ、最初の党員番号は抹消されており、同年5月1日にウルムで再入党している。当時のことを後年「私にとってナチス党員になることは、スキークラブの会員になる程度の感覚だった」と述懐している。戦後の非ナチ化審理の際、カラヤンは1935年、アーヘン市立歌劇場のポスト就任と同時に入党と申告しているが、なぜ非ナチ化委員会でカラヤンの申告が不問にされたかは謎に包まれている。ただし、リチャード・オズボーン著の伝記では「戦後の時代に誤った情報が多く流された」とされており、議論の前提となる資料に多くの誤りがあったと述べられている。
- ^ 『レコード芸術』1989年8月号
- ^ フランツ・エンドラー『カラヤンの生涯』高辻知義訳、福武書店、1994年、ISBN 4828817379
[編集] 音楽
同じく戦後派の指揮者カール・ベームによれば、カラヤンは自分の求める響きが出るまで、辛抱強く楽団員を説得していたと述べている(ベームは正反対)[1]。
レガートを徹底的に使用し、高弦を鋭くさせ、(1960年代後半から)コンサート・マスターを2人おき、コントラバスを10人ないし12人と大型演奏にすることにより、オーケストラの音響的ダイナミズムと、室内楽的精緻さという相反する要素の両立を実現したことにある。どんなに金管が鳴っていても、内声や弦パートがしっかり鳴っていなければならないことや、低音パートがいくらか先に音を出すことなどを要求した。ライナー・ツェペリッツ(ベルリン・フィルの首席コントラバス奏者)は当時「(オーケストラが)これほどまでの音楽的充実感、正確性を追求できたことは未だかつてなかった。われわれは世界中のどのオーケストラにも優る、重厚で緻密なアンサンブルを手に入れたのだ」との発言を残している。こうした音楽傾向は宇野功芳など一部の評論家には音楽の音響面ばかりを追求していると感じられたため、「音楽が大衆に媚びている」「音楽のセールスマン」「精神性が感じられない」などと批判されることもあったが、彼の正確さと完璧さの追求は、LP時代から「カラヤンのLPは買っても裏切られることは少ない」という信頼感につながった。
カラヤンの指揮法はダウン式で、手を振り下ろした地点で音の打点を示すものであった。またオーケストラは(長年鍛えられたベルリン・フィルの場合これが顕著であったが)指揮の打点時のずっと後に音を出すことを心がけ、非常に重量感のある音を求めていた。また、楽員の集中力や陶酔力を深めるためとして目をつぶって指揮したため、団員ははじめ大いに戸惑ったが、「じきに慣れるさ」の一言で押し通し、事実その通りになった。目を閉じる指揮法については、暗譜での指揮に関しクナッパーツブッシュから「(私が暗譜で指揮をしないのは)私は楽譜が読めるからだ」と皮肉を言われ、それに対し演奏に集中するための暗譜であることを誇示するために目を閉じるようになったという伝説がある。
しかし、バイエルンのテレビ番組で行われた、ソプラノ歌手、アストリッド・ヴァルナイ、ビルギット・ニルソン、マルタ・メードルの対談によると、三人ともが「カラヤンは、(楽譜を置かないために)よく自分がどこを振っているのかわからなくなり、くるくる手をまわして円を描いていた」と証言している [2]。そのためヴァルナイが文句を言うと、10年もの間カラヤンはヴァルナイを排除した。
カラヤンは、当時の同世代の指揮者としては広範なレパートリーを有していた(同時期に活躍したカール・ベーム、オイゲン・ヨッフム、ヨーゼフ・カイルベルトといったドイツ系指揮者はほとんど独墺系の作曲家しか録音しなかった)。ベートーヴェンやブラームス、R.シュトラウス、ブルックナーなどのドイツ・ロマン派の音楽や、チャイコフスキー、あるいはモーツァルトのディヴェルティメントやセレナーデなどで特に高く評価された。また、ヴェルディやプッチーニ等のイタリア・オペラ、シベリウスやグリーグなど北欧の作品も得意とし、これらについてはカラヤンに批判的な評論家達[誰?]からも賞賛する声が多い。また、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンなどの新ウィーン楽派の演奏でも高い評価を得た。
R.シュトラウスとは個人的な知己でアドバイスをもらっており、彼の作品の演奏も高い評価を得ている。また『メタモルフォーゼン』(23人の弦楽器奏者のための作品)について、シュトラウス本人に後半部で各パートを3人に増やし69人で演奏することを提案し、同意を得ていたが、ベルリン・フィルの室内楽的緻密さによりその演奏方法の実現を可能にした。演奏や録音に数多く立ち会った小泉和裕も、カラヤンがこれを実施していることを証言している[要出典]。
1970年にワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の世界初のステレオによるスタジオ録音を、東西ドイツ統一前のドレスデンで行った(この録音企画の当初の指揮者はサー・ジョン・バルビローリだったが、1968年の「プラハの春」事件に際して、亡命チェコ人であるラファエル・クーベリックが音楽家たちにあてた「東側諸国での演奏自粛」という嘆願書にバルビローリが賛同して、この録音を断った。しかしカラヤンはその代役を快く引き受けた<山崎浩太郎「レコード芸術」2000年10月号>)。また映像作品にも取り組み、積極的に新しい分野を開拓していった。
ヨーロッパのオペラハウスでの原語上演は、カラヤンに始まるといわれている。それ以前はコヴェントガーデンやウィーンですら、オペラの現地の言葉での翻訳上演は半ば常識であった。カラヤンの芸術監督時代のウィーン国立歌劇場で始められた原語上演への改革が、その後の今日に至る原語上演の広まりのさきがけとなった。
また、完璧主義者カラヤンは、自らのイメージ作りにも独自のこだわりを持ち、特に写真やビデオの撮影と公開については顔にしたたる汗を写すことすら許さず、写真も片側からの撮影しか許可しなかったといわれる[要出典]。映像収録の際はベルリン・フィルの団員達も音と映像を別撮りされたり、薄毛の団員はかつらをかぶせられるなどした[要出典]。遺されている映像は、逆光や望遠が多用されており、今日のコンサート映像のそれとは大きく手法が異なっているが、これもカラヤンなりのこだわりだったとする向きも多い[要出典]。
その他の録音・映像として、1982年におけるマーラーの交響曲第9番、1988年におけるブルックナーの交響曲第8番、ザルツブルクにおけるオペラ映像などの実績が見られる。
[編集] ライフスタイル
- ジェット機を乗り継いで世界中を飛び回って活動するという、昨今のスター指揮者の活動様式を始めた最初の一人だった。カラヤン以前には、指揮者は一つ処でオーケストラやオペラハウスの顔をするのが普通であった。また自家用ジェット機を保有していて、自ら操縦し別荘などへ行っていた。愛機はダッソー・ファルコン 10。晩年になり、80歳で期限が切れる飛行機免許の代替としてヘリコプターの免許を取得している。
- 大変な車好きでありスピード狂としても知られ、様々なスポーツカーや高性能車、高級車を所有し乗り継いでいた。歴代の愛車はメルセデス・ベンツ 300SL、ポルシェ・356、ポルシェ・911、アウディ・クワトロ、BMW、フェラーリ、ジャガー、ロールス・ロイスなど。日本車(スバル・レオーネツーリングワゴン)を愛用したこともある。運転技術はF1ドライバーのニキ・ラウダ直伝。最晩年には赤いポルシェ・959に乗っていた。エリエッテ夫人は納車された959を見て、「もっとレコードを録音してもらわなきゃね」とジョークを飛ばしていた(「カラヤン・イン・ザルツブルク」にその時の様子が映像収録されている)。
- カラヤンのスピード狂はスキーにも及び、直滑降の名手として山小屋の主人から「アルプスで1番早いダンナ」と呼ばれていた。
生前は派手な生活で知られたが、自ら地元アニフの教会内に用意し死後に埋葬された墓地は極めて質素である。死後、ザルツブルク市は遺族に対し豪華な墓地の提供を申し入れたが、エリエッテ夫人は故人の遺志を尊重しそれを断っている[3]。
[編集] 日本とカラヤン
日本との関係は古く、1954年の初来日以降、11回来日している。日本でのカラヤンの人気は高く、カラヤンは指揮者の代名詞としてクラシック・ファンのみならず一般大衆もその認知するところであった。一時期、レコード雑誌のクラシック音楽のレコード・ベスト30を決定する投票で、カラヤンのレコードが28枚も占めたほどであった[要出典](残る2枚は、イ・ムジチ合奏団によるヴィヴァルディの『四季』)。
カラヤンは、東京・赤坂にある日本有数の音楽ホールであるサントリーホールの建設にも設計の段階から携わっている(このホールは、カラヤンとベルリン・フィルの本拠地であったベルリン・フィルハーモニーをモデルにしている)。その業績を称えて、サントリーホールの前(アーク森ビル)の広場が「カラヤン広場」と命名され、今日もその名を刻んでいる。サントリーホールのオープニングを祝う来日公演は、病気でキャンセルを余儀なくされ、弟子である日本人指揮者小澤征爾に代役がゆだねられた。
[編集] 来日公演
[編集] NHK交響楽団
[編集] ベルリン・フィル
- 1957年11月3日 - 11月22日。日比谷公会堂、東京体育館などで公演。最終日の22日(於東京体育館)の後半の演目であるベートヴェンの交響曲第5番「運命」では、NHK交響楽団との合同演奏も実施した。
- 1966年4月12日 - 5月3日。東京文化会館などで公演。
- この時、公演の一部がNHK-FMにてステレオ放送される(その内、東京の7公演は全て生放送された。この時、生放送でステレオで聴けた地域は関東、静岡、甲信越のみだった)。また、ラジオ、テレビ(白黒のみ)での放送も多く、「テレビ放送ではカラヤンをもっと写せという視聴者の声が殺到した」という記事で週刊誌まで賑わすほどで、「カラヤン・ブーム」を巻き起こしたという[5]。なお、この公演より、放送条件の契約事項として、放送されたビデオ・テープは放送後全て、前述のコスモテル社に返却されることとなる。しかし、この時収録されたものの内、ベートーヴェンの「コリオラン」序曲のみは後に教育テレビ「1966年音楽ハイライト」でも放送され、その際保存用として残していたキネレコ映像が唯一NHKアーカイブスに残されていたため、この映像と音声はDVD化された[6]。
- 1970年5月8日 - 5月22日。東京文化会館、日比谷公会堂、フェスティバルホールで公演。
- 1973年10月25日 - 11月4日。NHKホール、フェスティバルホールで公演。
- 1977年11月6日 - 11月18日。フェスティバルホール、普門館で公演。この公演で彼がホールの音響を酷評したため、設備が一新されることとなる。
- 1979年10月16日 - 10月25日。普門館で公演(この全公演の内5回の公演を、NHKがPCMデジタルにて収録した)。
- 1981年10月28日 - 11月8日。東京文化会館、NHKホールで公演。
- TBSにより、来日公演の様子がテレビ中継された。
- 1984年10月18日 - 10月24日。東京文化会館、普門館、ザ・シンフォニーホールで公演。
- (1986年10月28日 - 10月30日。サントリーホール・オープニングコンサートの一環)
- 10月28日 サントリーホール
- 10月29日 サントリーホール
- 10月30日 サントリーホール
- モーツァルト:ディヴェルティメント第17番
- ブルックナー:交響曲第9番
- 1988年4月29日 - 5月5日。ザ・シンフォニーホール、東京文化会館、サントリーホールで公演。
- 4月29日 ザ・シンフォニーホール
- 4月30日 ザ・シンフォニーホール
- 5月2日 サントリーホール
- 4月29日の公演に同じ
- 5月4日 東京文化会館
- ベートーヴェン:交響曲第4番
- ムソルグスキー~ラヴェル編:組曲『展覧会の絵』
- 5月5日 サントリーホール
- モーツァルト:交響曲第39番
- ブラームス:交響曲第1番
- 東京公演がNHK-FMで生放送された。その3公演は、NHKのマスターテープを元に2008年にCD化されている。
[編集] ウィーン・フィル
- 1959年10月27日 - 11月7日 当時のNHKホール(内幸町)、日比谷公会堂、フェスティバルホールなどで公演。
- この時の一部公演が、NHKエンタープライズよりCDまたはDVD化されている。
- ウィーン・フィルとの来日公演はこの時だけ。1990年2月に、東京と大阪での計4回予定されていた来日公演(『レコード芸術』1989年8月号)は、死によって幻となった。
[編集] CDとカラヤン
CD(コンパクトディスク)の記録時間「74分」は、カラヤンが決めたという俗説がある。CDの開発元であるオランダのフィリップス社から記録時間はどれくらいがよいかと問われたとき、彼は「ベートーヴェンの第九が入るようにしてほしい」と要望し、それが通ったという説である。[8]。
実際は、CDの直径を決める際、当時普及していたカセットテープの対角線の長さである11.5cmを主張したフィリップスと、12cmを主張したソニーとで意見が大きく分かれ、当時ソニーの重役であった大賀典雄が調査の末、74分収録できればたいていの交響曲及びオペラの一幕はCD一枚に収まるという結果を得てそれを根拠にした[9]。前者ならば録音時間は60分、後者ならば74分録音できることになる。カラヤンの影響については、大賀自身が自著で否定している。[要出典]。[10]
1981年のザルツブルク復活音楽祭で、ヘルベルト・フォン・カラヤン財団が、ソニー、フィリップス、ポリグラム・グループと協力し、急遽、CDの生産に踏み切ると発表している。
[編集] 没後のリリース
カラヤンは1989年に亡くなっているので、それ以降の新録音は当然ない。しかし、生前は発売が許可されなかった録音や、デジタルリマスタリングを施したもの、あるいはザルツブルク音楽祭でのライブや放送録音の発掘などで新リリースが相次いでいる。中でも、1995年に発売された「アダージョ・カラヤン」はラテン系諸国を中心に大ヒットを記録した。ヨーロッパで100万枚を突破し、日本に上陸すると40万枚を売り上げ、人気ポップアーティストを抑えてアルバム年間売り上げの第1位となった(現在までに日本で100万枚、全世界では500万枚を突破している)。[要出典]
2006年には、FIFAワールドカップを記念して、それまで特典盤でのみ発表されていた「ヨーロッパ国歌集 ザ・アンセム・アルバム」がギリシャとデンマークの国歌を追加して正式にリリースされた。また、同年には1957年(ベルリン・フィル)と1959年(ウィーン・フィル)の日本公演を収めたDVDがリリースされた。
2007年12月には、1984年10月の大阪公演(『ローマの松』ほか)のDVDが発売された。
2008年には、晩年の日本・イギリスでの公演などライブ録音のCD・DVDが多数発売された。
[編集] 最後の一日
当時ソニーの社長だった大賀典雄がカラヤンの自宅を訪ねた時、カラヤンは「左胸のあたりが調子悪いから、自宅の温水プールで泳いだ」と語った。大賀は、カラヤンに次世代のデジタルビデオ・カメラを出来るだけ早く納品する約束と、カラヤンがLDでの発売しか認めていなかったレガシー・シリーズの映像作品を8ミリのソフトで発売しないかという営業に来ていた。エリエッテ夫人がシャワーを浴びている時に、カラヤンが突然ぐったりとなり、大賀の腕に抱かれたまま心停止となった。緊急のヘリコプターが呼ばれたが間に合わなかった。
それは、カラヤンがDGからソニーに移籍する直前の死去だった。移籍に当たっては、そのテストケースとして、カルロ・マリア・ジュリーニをソニーへ送り込み、また「カラヤンの耳」とも喩えられたレコーディング・エンジニアのギュンター・ヘルマンスも送り込んでいた。
辞任したベルリン・フィルとの最後のコンサートは、ザルツブルク復活祭音楽祭でのヴェルディのレクイエム。生涯最後の録音と演奏会は、ウィーン・フィルとのブルックナーの交響曲第7番だった。なお、カラヤンは逝去する前日にザルツブルク祝祭大劇場で、この年の夏の音楽祭でプレミエを迎えるヴェルディの歌劇『仮面舞踏会』のリハーサルを行っていた。
[編集] 脚注
- ^ ドイツ「シュテルン」誌、1981年8月20日号
- ^ http://www.geocities.com/Vienna/Strasse/7321/mnvdisc.html
- ^ 扶桑社「モーストリー・クラシック」2008年6月号
- ^ 「KARAJAN 100th Anniversary Box」の解説書より
- ^ 「KARAJAN 100th Anniversary Box」の解説書に記載
- ^ 「KARAJAN 100th Anniversary Box」の解説書より
- ^ 「KARAJAN 100th Anniversary Box」の解説書より
- ^ 小松潔「カラヤンと日本人」P125、日経プレミアシリーズ、2008年
- ^ ソニー社史
- ^ 小松潔「カラヤンと日本人」P126、日経プレミアシリーズ、2008年
[編集] 関連文献
- ヘルベルト・フォン・カラヤン、フランツ・エンドラー『カラヤン 自伝を語る』吉田仙太郎訳、白水社、ISBN 4560036853
- フランツ・エンドラー『カラヤンの生涯』高辻知義訳、福武書店、1994年、ISBN 4828817379
- リチャード・オズボーン『ヘルベルト・フォン・カラヤン』木村博江訳、白水社、2001年、ISBN 4560038465(上巻)ISBN 4560038473(下巻)
- ロベルト・C・バッハマン『カラヤン―栄光の裏側に』横田みどり訳、音楽之友社、1985年、ISBN 4276217253
- ヴェルナー・テーリヒェン『フルトヴェングラーかカラヤンか』高辻知義訳、音楽之友社、1988年、ISBN 4276217199
- ロジャー・ヴォーン『カラヤン―帝王の光と影』堀内静子訳、時事通信社、1987年、ISBN 4788787318
- エルンスト・ホイサーマン『カラヤン―人と芸術』猿田悳訳、東京創元社、1978年
- クラウス・ウムバッハ『金色のソナタ―音楽商業主義の内幕』西原稔・玉川裕子訳、音楽之友社、1994年
- 『カラヤン 全軌跡を追う―レコーディング587タイトル完全ディスコグラフィ Ontomo mook』音楽之友社、ISBN 4276960274
[編集] 外部リンク
- ヘルベルト・フォン・カラヤン紹介ページ (英語、ドイツ語で閲覧可能)
- オーストリア百科事典(ドイツ語)
- MSNによるカラヤンの紹介(ドイツ語)
- Tribute site to Herbert von Karajan
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最終更新 2009年11月30日 (月) 12:39 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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