カルロス・サインツ
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2009年ダカールラリーにて
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| WRCでの経歴 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 活動時期 | 1987 - 2005 |
| 所属チーム | フォード、トヨタ、スバル、シトロエン |
| 出走回数 | 196 |
| チャンピオン回数 | 2 (1990, 1992) |
| 優勝回数 | 26 |
| 表彰台回数 | 97 |
| ステージ勝利数 | 756 |
| 通算獲得ポイント | 1242 |
| 初戦 | 1987 ポルトガルラリー |
| 初勝利 | 1990 アクロポリスラリー |
| 最終勝利 | 2004 アルゼンチンラリー |
| 最終戦 | 2005 アクロポリスラリー |
カルロス・サインツ(Carlos Sainz, 1962年4月12日 - )は、スペインのラリードライバー。WRCで2度のドライバーズタイトル、また通算26勝を誇る(2007年現在、最多勝記録保持者はセバスティアン・ローブ)。
目次 |
[編集] 人物
スペイン人であるために「エル・マタドール」と呼ばれることもあるが、その名の所以どおり彼の勝利へのモチベーションは凄まじいものがあり、チームや共に組むコ・ドライバーにさえ、ベストな仕事を求める完璧主義者として有名。その一端が垣間見えるのはマシン開発で、セットアップには一切の妥協を許さない。そのため、彼が開発に携わったマシンは高い完成度みせる。ちなみにトヨタ在籍時には「右リアの車高が2mmほど高いようだ。調整してくれ。」とF1マシン並みのセッティングを要求したという逸話が残っている。
ターマックラリーの盛んなスペイン出身ながら、グラベルラリーで多くの勝利をつかみ、スノーラリーのスウェーデンでも常に優勝争いに絡む。結果的に優勝はできなかったものの4年連続で2位を獲得するなど、どの路面でもすぐに適応して優勝争いに絡むオールラウンダーとして名高い。彼がチャンピオンを取る以前は得意なラリーにだけ参戦してチャンピオンを獲得するといういわばスペシャリストタイプのドライバーが多かった。しかし彼がチャンピオンを獲得して以降、ディディエ・オリオール、コリン・マクレー、トミ・マキネン、マーカス・グロンホルム、そしてセバスチャン・ローブのようなオールラウンダータイプのドライバーがWRCを席巻するようになる。
[編集] 経歴
1962年スペイン生まれ。学生時代はテニスに夢中になり、スカッシュ・チャンピオンを獲る活躍をみせる。大学時代は弁護士志望であったが、次第にラリーへの関心を抱きはじめ、その後ラリー界に身を投じることを決意する。ワークスチームのシートを得たのは1987年のフォード・シエラである。ちなみにこのときのチームメイトはディディエ・オリオール。早くからポイントを獲得するなど、非凡な才能を見せたサインツは当初、王者ランチアのドライバーとして活躍する夢を抱いていた。ところが、ランチアのチェザーレ・フィオリオ監督はそんな彼に対し冷たい評価しか下さなかった。逆に1988年のツール・ド・コルスで初優勝を成し遂げていたオリオールはフィオリオ監督から高く評価され、翌1989年のドライバー契約を締結することとなった。このことに強烈な怒りを覚えたサインツは打倒ランチアに向けて歩みを始める。このとき彼の走りに目を惹かれたトヨタ・チーム・ヨーロッパ(TTE)のオベ・アンダーソン監督からオファーを受け契約を交わすこととなる。
[編集] スペイン初のワールドチャンピオン
1989年に、TTEへ移籍。トヨタ・セリカST-165を駆るサインツは序盤リタイアを重ねるものの、随所に光る走りを見せ、終盤3戦で連続表彰台を獲得する力を見せる。1990年は開幕から好調で、アクロポリスラリーで初優勝を成し遂げる。そしてサンレモラリーで3位に入り、デビュー4年目にして初の世界チャンピオンに輝いた。ちなみに日本車に乗った初の世界チャンピオンである。この年の1000湖ラリーでは「北欧出身ドライバーでなければ勝てない」というジンクスを破って優勝している。1991年は5勝をするものの、ランチアのユハ・カンクネンに敗れ2位。1992年にはサファリラリーから、新型マシンセリカST-185が登場する。このマシンはST165を遥かに凌ぐ速さを得ていた。しかし、セッティング幅を持たせる目的に投入したサスアームの取り付け角を調整出来るサスペンションが仇となり序盤は苦戦するも、通常のサスペンションに変更した中盤以降は熟成も進み、ランチアのディディエ・オリオールとの熾烈な争いの末、最終戦のRACで二度目のタイトルを獲得。また、チームやトヨタ首脳陣とも良好な関係を築き、彼のタイトルを記念して、ST185をベースに”カルロス・サインツエディション”という特別限定車も発売され、共に栄光を分かち合ったトヨタとのパートナーシップは翌年も続くように思われた。
[編集] 不遇の時期
しかし、TTEはイギリスの石油会社、カストロールによる1993年以降のスポンサード決定を表明し、この煽りで彼は自身のスポンサー、レプソル(スペインの石油会社)とのバッティングを避けるためにTTEを離れ、急遽、イタリアのプライベートチーム、ジョリークラブに移籍することになった。だが、ワークス活動を縮小し、マシン開発を担っていたアバルトが撤退したため、戦闘力向上はおろか、信頼性も大幅に低下したデルタ・インテグラーレではタイトル争いに絡めず、チャンピオンシップ獲得を目標とする彼の思惑とは裏腹に成績は下降の一途を辿った。この年の最高位はサンレモラリーの2位。しかも、ワークス・フォードの脱落にも関わらず、プライベーターでフォードを駆るジャンフランコ・クニコに完敗したものだった。ランチア最後のラリーとなった地元のカタルニアも、初日の最初のステージでベストタイムを刻むも、電気系のトラブルでリタイアし、まさに不調のシーズンを象徴する結果だった。このときを境に、彼は二度とプライベート・チームでの参戦は行わないと決意する。
[編集] マクレーとの対峙 増すチームとの軋轢
心機一転、翌1994年はスバルに移籍した。前年に登場したインプレッサはレガシィよりもコンパクトで、水平対向エンジンがもたらす低重心で抜群の操作性はライバルよりも抜きん出ており、テストを重ねるにつれ、サインツは勝てるマシンであることを確信する。序盤はピレリタイヤとのマッチングに苦心するも、ピレリの開発が進むと、アクロポリスでついにインプレッサにWRC初勝利をもたらす。中盤以降はトヨタのオリオールとの熾烈なタイトル争いを繰り広げる。なかでも、この年のアルゼンチンはWRC史上、稀にみる秒差の戦いを繰り広げた名勝負の一つであった。以降のラリーでもオリオールとの接戦は続き、過熱するタイトル争いは最終戦のRACまで持つれ込む。序盤にコースアウトで下位に沈むオリオールを尻目に終盤までトップ3に食い込み、タイトルはサインツのものと思われた。しかし、最終のステージを走行中、彼は路面に転がっていた材木を避け損ね、コースアウト。コース復帰を試みるも、山林のステージのために観客も少なく脱出に手こずり、ゴールするも無念のタイムアウト。劇的な場面での劇的な展開にファンは驚愕し、結果、タイトルはオリオールのものとなった。1995年は開幕戦モンテカルロでフォードのフランソワ・デルクールとの接戦の末に勝利し、幸先の良いスタートを切るや、第3戦のポルトガルもトヨタのユハ・カンクネンとの接戦を制し優勝し、タイトル争いに絡むものの、続くニュージーランドはラリー前のトレーニング中に追った右肩の靭帯損傷でラリーを欠場。このことが後に最終戦までもつれこんだタイトル争いに大きな影響を及ぼした。その後、少しでもタイトル争いを有利に進めるために次戦のオーストラリアでは完調ではない怪我をおして復帰するもリタイア。続く地元カタルニアでは復帰戦初の勝利を挙げるも、これはトップ争いをしていたチームメイトのコリン・マクレーをチームオーダーで無理やり2位に降格させて得たものであり、彼にとって後味の悪いものに他ならなかった。タイトルを賭けての争いとなった最終戦RACは前戦から打って変わってチームオーダーは出されなかったが、カタルニアで受けた精神的ダメージが影響したためか、満足な走りは出来ず、勢いにのるマクレーを前にまたもやタイトルを逃した。また、この年のタイトル争いは彼とチーム首脳との間に大きな軋轢を生み、結果、ことある事に契約の話し合いを持ちかけてくるプロドライブのボス、デビッド・リチャーズとの溝はもはや修復不可能な状態にまで発展。これにより、彼は来季は古巣TTEの復帰を試みるが、奇しくもこの年、TTEはカタルーニャ・ラリーでのリストリクタースキャンダルで受けたペナルティで翌年のWRC参加を取りやめざるをえなくなっため、急遽、彼は自身のスポンサー、レプソルのバックアップの下、フォードへの移籍を決断した。
[編集] 三度目のタイトル獲得ならず
1996年は序盤戦のWRC初開催のインドネシアで勝利を挙げると、翌1997年もアクロポリスとインドネシアで2勝を挙げる。しかし、チーム運営がフォードモータースポーツから翌97年は再びワークス経験の乏しいマルコム・ウィルソン・モータースポーツ(現Mスポーツ)に代わるドタバタ劇で思うようなマシン開発が出来ず、三菱、スバルの後塵を拝し続けた。そのため、彼は97年の終盤を待たずに古巣トヨタへの移籍を発表する。1998年は開幕戦モンテカルロでトヨタでの復帰後初の勝利を挙げると、中盤戦のニュージーランドではライバルを圧倒。2度目の勝利を挙げ、再び熾烈なタイトル争いを繰り広げ、決定は最終戦のグレートブリテンまで持つれ込んだ。序盤はタイトルリーダーのマキネンが初日の一つ目のステージでクラッシュ。タイトルはサインツの手中におさまると思われていたが、最終ステージで彼の乗るカローラはゴールまで300メートルを残して無情にもエンジンブローで力尽き、またも3度目のタイトル獲得は叶わなかった。1999年は勝利こそないものの、安定した走りでポイントを獲得するも、終盤戦のサンレモでTTEはF1参入のため、この年限りでのWRC撤退を表明。再びフォードに復帰し、2000年、2001年、2002年と三シーズンをフォードともに過ごすが、2000年に本格的にWRC復帰をしたプジョーと206WRCの速さにラフロード走行を重視したフォーカスでは分が悪く、タイトル争いには絡めなかった。
[編集] 引退へ
2003年はシーズン開幕直前まで所属チームが決定しなかったが、ギリギリでシトロエンとの契約にこぎつける。このとき1988年以来コドライバーを務めてきたルイス・モヤは「無報酬に近いギャラでは家族を養えない」とコンビ解消を表明し、現役を引退。同郷出身のドライバー、ヘサス・ピュラスの相棒だったマルク・マルティと組む。2003年シーズンは、この年から初開催となるトルコで勝利。スピードでまさる若手を相手にベテランの力をみせ、翌2004年シーズンもシトロエンで走る。アルゼンチン・ラリーで現役最後の26勝目を飾る。しかし、同年のカタルニア・ラリー直前に引退を宣言。同年のオーストラリア・ラリーが彼のWRC最終戦となるはずであったが、彼はレッキ中に起こしたコースアウトで首を負傷し、ラリーを欠場。これで彼のキャリアは終わるものと思われた。
その後は、かつてWRCの一戦であり2007年シーズンからWRC復帰が予定されている、2005年のラリー・ポルトガルでかつてのコンビ、ルイス・モヤとゼロカーを走らせたりしていたが、サインツのあとにシトロエンのドライバーになったフランソワ・デュバルの成績不振のため、メイクスタイトル獲得めざすシトロエンはラリー・オブ・ターキーのドライバーに引退したはずの彼を再び抜擢した。7ヶ月ぶりのラリーにもかかわらず、熟練した彼らしい走りは健在で、見事4位入賞を獲得。さらにアクロポリス・ラリーでは3位表彰台を獲得し、引退の身でありながら、チームから科された大仕事を見事にやり遂げた。アクロポリス終了後、彼は「もうWRCに戻ることは絶対にない」というコメントを残し、90年代のWRCのトップコンテンダーとして、幾多の困難を乗り越えながらも栄光を掴み、数々の名勝負を繰り広げた名ドライバーは、多くのファンに惜しまれながら再びWRCを去った。
WRC引退後はフォルクスワーゲンワークスで2006年のダカール・ラリー、2008年のニュルブルクリンク24時間レースなどに出場、ラリーレイドへの参加を表明している。WRCにおいては同郷で後継者と目されるダニエル・ソルドの指南役として公私共にサポートしている。
[編集] その他
- サッカーが得意のようで[1]またFIFA公式チャリティマッチ ジダン・フレンズvs.ロナウド・フレンズに招集され、PKでロナウド・フレンズの1得点を挙げている。(同マッチにはF1のミハエル・シューマッハも招集されロナウド・フレンズのMFとして活躍)
- バレンシアサーキットで行われたトヨタGT-One TS020のテストに参加した事がある。たまたまマーティン・ブランドルがサインツの走りをコースサイドで見ていて、サインツが走らせていたのを知り、「タイムも悪くないし、彼は速いね!」驚いたというエピソードがある。この事から、トヨタのル・マンプロジェクトに参加するのでは、という憶測を呼んだことがあるが、「あくまで参加してみただけ」と言う事で、実戦デビューには至らなかった。
[編集] 脚注
[編集] タイトル
| 年 | タイトル | 車 |
|---|---|---|
| 1987 | スペイン国内選手権 | Ford Sierra RS Cosworth |
| 1988 | スペイン国内選手権 | Ford Sierra RS Cosworth |
| 1990 | アジアパシフィック選手権 | Toyota Celica GT-Four |
| 1990 | 世界ラリー選手権 | Toyota Celica GT-Four |
| 1992 | 世界ラリー選手権 | Toyota Celica Turbo 4WD |
[編集] 世界ラリー選手権での優勝
| 年 | ラリー | 開催国 | コ・ドライバー | 車 |
|---|---|---|---|---|
| 1990 | Acropolis Rally | ギリシア | ルイス・モヤ | Toyota Celica GT-Four |
| 1990 | Rally of New Zealand | ニュージーランド | ルイス・モヤ | Toyota Celica GT-Four |
| 1990 | 1000 Lakes Rally | フィンランド | ルイス・モヤ | Toyota Celica GT-Four |
| 1990 | Lombard RAC Rally | イギリス | ルイス・モヤ | Toyota Celica GT-Four |
| 1991 | Rallye Automobile de Monte-Carlo | モナコ | ルイス・モヤ | Toyota Celica GT-Four |
| 1991 | Rallye de Portugal | ポルトガル | ルイス・モヤ | Toyota Celica GT-Four |
| 1991 | Tour de Corse - Rallye de France | フランス | ルイス・モヤ | Toyota Celica GT-Four |
| 1991 | Rally of New Zealand | ニュージーランド | ルイス・モヤ | Toyota Celica GT-Four |
| 1991 | Rally Argentina | アルゼンチン | ルイス・モヤ | Toyota Celica GT-Four |
| 1992 | Marlboro Safari Rally | ケニア | ルイス・モヤ | Toyota Celica Turbo 4WD |
| 1992 | Rally of New Zealand | ニュージーランド | ルイス・モヤ | Toyota Celica Turbo 4WD |
| 1992 | Rallye Catalunya-Costa Brava (Rallye de España) | スペイン | ルイス・モヤ | Toyota Celica Turbo 4WD |
| 1992 | Lombard RAC Rally | イギリス | ルイス・モヤ | Toyota Celica Turbo 4WD |
| 1994 | Acropolis Rally | ギリシア | ルイス・モヤ | Subaru Impreza 555 |
| 1995 | Rallye Automobile de Monte-Carlo | モナコ | ルイス・モヤ | Subaru Impreza 555 |
| 1995 | Rallye de Portugal | ポルトガル | ルイス・モヤ | Subaru Impreza 555 |
| 1995 | Rallye Catalunya-Costa Brava (Rallye de España) | スペイン | ルイス・モヤ | Subaru Impreza 555 |
| 1996 | Bank Utama Rally Indonesia | インドネシア | ルイス・モヤ | Ford Escort RS Cosworth 4x4 |
| 1997 | Acropolis Rally | ギリシア | ルイス・モヤ | Ford Escort WRC |
| 1997 | Bank Utama Rally Indonesia | インドネシア | ルイス・モヤ | Ford Escort WRC |
| 1998 | Rallye Automobile de Monte-Carlo | モナコ | ルイス・モヤ | Toyota Corolla WRC |
| 1998 | Rally of New Zealand | ニュージーランド | ルイス・モヤ | Toyota Corolla WRC |
| 2000 | Cyprus Rally | キプロス | ルイス・モヤ | Ford Focus RS WRC |
| 2002 | Rally Argentina | アルゼンチン | ルイス・モヤ | Ford Focus RS WRC 02 |
| 2003 | Rally of Turkey | トルコ | マルク・マルティ | Citroen Xsara WRC |
| 2004 | Rally Argentina | アルゼンチン | マルク・マルティ | Citroen Xsara WRC |
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年11月4日 (水) 08:39 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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