ガダルカナル島の戦い
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| ガダルカナル島の戦い | |
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![]() ガダルカナル島要図。北岸中央部がヘンダーソン飛行場 |
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| 戦争:大東亜戦争 / 太平洋戦争 | |
| 年月日:1942年8月7日 - 1943年2月7日 | |
| 場所:ソロモン諸島ガダルカナル島 | |
| 結果:連合軍の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 指揮官 | |
| 戦力 | |
| 36,204 | 60,000 |
| 損害 | |
| 戦死 10,600 餓死・戦病死 15,000 |
戦死 1,598 戦傷 4,709 |
ガダルカナル島の戦い(ガダルカナルとうのたたかい, Battle of Guadalcanal)とは、第二次世界大戦[1]において1942年8月以降日本軍と連合国軍が西太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島を巡って繰り広げた戦いである。
目次 |
[編集] 背景
日本は大東亜戦争(太平洋戦争)開戦後の緒戦の勝利によって、援蒋ルート遮断と南方資源(原油、天然ゴム等)の獲得のため、ビルマ、フィリピン、シンガポール、インドネシアの広大な占領地を獲得した。しかし、第二次の作戦については方針が定まってはいなかった。
日本海軍は、アメリカを相手に長期持久戦を行うことを不利として、積極的に戦線を拡大して早期に主力艦隊同士の決戦を図ることを主張した。その海軍が1942年4月に計画したのが、第1に連合国の反攻拠点と考えられたオーストラリアの攻略作戦であり、第2にミッドウェー島を攻略することでアメリカ艦隊を引き寄せて撃滅しアメリカの継戦意欲を失わせる作戦であった。日本陸軍は、当初中国などの大陸方面での作戦を重視しており、太平洋方面は海軍の領域であるという認識に立っていたため、太平洋での作戦遂行にほとんど関心を払わなかった。したがって大兵力を満州や中国から引き抜かなくてはならないオーストラリア攻略作戦に消極的ではあったが、オーストラリアを孤立させることについては海軍と見解が一致した。
これで企画されたのが米豪遮断作戦である。この作戦は、ニューギニア島東南岸のポートモレスビー攻略作戦(「MO作戦」)とニューカレドニア、フィジー、サモアの攻略作戦(「FS作戦」)から成るものであったが、「FS作戦」遂行にあたって5月に前進飛行場の建設適地とされたのが、ガダルカナル島であった。
ところが日本海軍はミッドウェー海戦において主力航空母艦4隻を失うこととなり、「FS作戦」の実施は一時中止されることとなった。だが、守勢に回ったとしても必要となるソロモン諸島の制空権拡張のため、ラバウル以南の前進航空基地を建設する為、大本営は6月下旬にガダルカナル島の飛行場建設を正式決定した。
航空偵察の後、7月6日に海軍第11・13設営隊2,571名が建設作業を開始した。設営隊がこの地に赴いた当初、大本営は連合軍の太平洋方面の反攻開始は1943年以降と想定していたため、当地においても戦闘能力のある人員は、設営隊と護衛の海軍陸戦隊(第18警備隊基幹)を合わせても600名足らずであった。ちなみに連合軍上陸直前の8月5日には滑走路の第1期工事が完了している。なおこれに先立つMO作戦時に、近接するツラギ島には水上機基地が設けられていた。
日本軍の予測は外れ、アメリカ軍は早くも7月2日には対日反攻作戦となる「ウォッチタワー作戦」を発令した。米国陸軍マッカーサー大将は、「ウォッチタワー作戦」の目標をフィリピンにより近いラバウルとすることを主張していた。しかし、太平洋艦隊の空母戦力が充実していないことを理由に海軍作戦部長アーネスト・キング大将から猛反対され、当時飛行場建設が行われていたガダルカナル島を攻略することで双方一応の決着をみた。そして7月4日以降ガダルカナル島への偵察・爆撃が強化され上陸作戦への布石が打たれた。
[編集] 前哨戦
[編集] ガダルカナル島上陸緒戦
8月7日午前4時、海兵隊第1海兵師団(師団長アレクサンダー・ヴァンデグリフト少将)を主力とし、オーストラリア軍の支援を受けた10,900名の海兵隊員が、艦砲射撃と航空機の支援の下でガダルカナル島テナル川東岸付近に上陸を開始した。同時にツラギ島方面にも4個大隊1,500名が上陸し壮絶な玉砕戦が行われた。また、これとは別に6,705名が海上に師団予備として残された。
ツラギ島方面の戦いについては「フロリダ諸島の戦い」を参照
8月7日、ガダルカナル島の日本軍は哨直の第13設営隊以外は眠っており、連合軍の攻撃は完全な奇襲となった。
上陸当初、最も敵に近いルンガ川の飛行場地区に第11設営隊の陣地があり、ルンガ川を挟んで第13設営隊、海軍陸戦隊が駐屯していたが、各隊の陣地は防空壕以外に陣地整備されているものは何も無い状況だった。そのため、敵兵力の把握もままならないままルンガ川東岸の第11設営隊約1,350名は駆逐され、完成間近の飛行場を含むルンガ川東岸一帯は連合軍の手に落ちた。
この上陸戦において、米軍側公刊戦史は小銃、機関銃数挺、70粍山砲及び75粍山砲各2門、弾薬、ガソリン、燃料、使用可能なトラック35台を含む自動車と電波探知機2台、糧秣多数を鹵獲したと伝えている。一方、第13設営隊隊長岡村徳長少佐は冷静に指揮下の1,200人の設営隊員を敵上陸地点の反対方向のルンガ川西岸地区に移動させ、ルンガ川橋梁を破壊してルンガ川西岸で連合軍部隊を迎え撃つ姿勢を見せた。
同日夕方、どうにか数十名の部下を従えた第11設営隊隊長門前鼎大佐が岡村部隊と合流して善後策を協議し、ルンガより西方約4キロメートルにあるマタニカウ川を第一戦陣地とし、門前隊、岡村隊、第18警備隊(含む第84警備隊の1部)を合わせてガダルカナル島守備隊を構成することとなった。8日午前零時、門前大佐が中隊長としてクルツ岬に向けて中隊本部を後退させ、岡村隊と警備隊にマタニカウ川正面に展開を終えたのは8日午前4時30分とされる。この際に同隊がクルツ岬付近のジャングルに設営された海軍本部に収容できた食料は、わずか7日分であった。
これに対し、連合軍の動きを知った日本海軍は現地のラバウル第25航空戦隊(陸攻27、艦爆9、戦闘機17の計53機)と第八艦隊(三川軍一中将、増強を受け重巡5隻、軽巡2隻、駆逐1隻)に反撃を指示した。また、陸海軍協定に則り、陸軍に協力を求め、在ラバウル陸軍第17軍はグァム島の一木支隊、パラオ諸島駐屯の第35旅団(川口支隊)をガダルカナルに投入することとした。
米軍上陸日当日から翌日にかけて行われた25航戦による爆撃は、直前で敵艦上戦闘機及び敵急降下爆撃機の撹乱銃撃を受けてしまい効果が薄かったものの、この地域に米空母部隊が進出しているという貴重な情報を得ることとなる。25航戦は34機喪失の大被害を受け、うち艦爆隊は当初から航続力不足のため不時着覚悟の出撃であり、全機体が失われている[2]。また三川中将率いる第八艦隊は翌8月8日夜半に戦場海域に到達しそこで連合軍艦隊と遭遇し、第一次ソロモン海戦が戦われ、重巡4隻を撃沈し同1隻を大破させる快勝を演じた。
詳細は「第一次ソロモン海戦」を参照
上陸初日からの日本軍による反撃により、テナルの米軍揚陸地点を危険と判断したフレッチャー中将は揚陸作業を中断して空母群と輸送船団を南方に退避させた。そのため、第1海兵師団も十分な物資を揚陸できず上陸作戦完了後、海兵隊の1日の食事は2食に制限された。また、ガダルカナル島での航空優勢が確立されるまで、同島への物資補給は米軍も駆逐艦輸送に限定されることとなった(後に日本軍はこの手法を「鼠輸送」と称して常用するようになるのである)。
[編集] 日本陸軍による反撃
一木清直大佐率いる大本営直轄の一木支隊(第七師団歩兵第二十八連隊を基幹とする)約2,300名は、当初ミッドウェー島攻略部隊に充当されていた部隊であったが、1942年6月のミッドウェー海戦で日本軍が敗北したため攻略作戦は中止となり、一時グァム島に休養を兼ねて留め置かれていた。
同年8月7日の連合軍ガダルカナル上陸が始まると内地転属が解除され、そのままトラック諸島へと輸送された。トラック諸島からガダルカナルまでは駆逐艦「陽炎」以下6隻に第1梯団として支隊本部163名、大隊本部23名、歩兵4個中隊420名(軽機関銃36、擲弾筒24)、機関銃隊110名(重機関銃8挺)、大隊砲1個小隊50名(歩兵砲2門)、工兵1個中隊150名が乗船し急派されている。支隊の残りは、海軍の横須賀第5特別陸戦隊主力とともに輸送船で第2梯団として送り込まれることとなったが、同時に出航したにもかかわらず9.5ノットの低速が災いし、イル川渡河戦(米国名:テナルの戦い)には間に合わなかった(イル川は現地名で、日本軍は中川と呼称。テナル川はイル川の東方に位置し日本軍通称は蛇川)。このほか横須賀第5特別陸戦隊の先遣部隊(高橋中隊)が駆逐艦により輸送され、8月16日に上陸成功して設営隊などと合流している。
駆逐艦輸送であった為、一木支隊は実質、1個大隊相当の戦力しかなかったといえる。さらに、一木支隊に届いていた敵情については「連合軍兵力は約2,000名」、「敵上陸目的は飛行場破壊にあり、現在は島からの脱出に腐心している」などといった海軍第11設営隊、や駐ソ武官の情報などがあった[3]。そのため、第1梯団は軽装(1人当たり小銃弾250発、食料7日分)で急行し、海軍部隊を保護して、ただちに敵を攻撃する方針を決定する。
8月18日にガダルカナル島タイボ岬に無血上陸した一木支隊は、ひたすら東を目指して前進した。海岸沿いの砂浜を主に夜間行軍により進み、20日夕刻頃までにはテナル川を越えてイル川西岸地域まで到達している。当初の構想では海軍第11設営隊跡(ヘンダーソン飛行場東側の丘状地)に支隊本部を置き、飛行場に所在していると思われる敵残存兵力を攻撃することとしており、一木大佐は飛行場から3キロも離れたイル川東岸に敵防御陣地があることを想定していなかった。
日本軍とは対照的に、アメリカ海兵隊は18日にコーストウォッチャー(Coastwatchers)の通報によりタイボ岬沖からの日本軍上陸を察知していた。19日昼には、倒した日本軍斥候兵の階級章から、タイボ岬に上陸した日本軍が陸軍部隊であることに気づき、20日夕刻までにはルンガ地区イル川東岸の防備を固めていた。
20日18:00にイル川を越えて先行していた将校斥候(渋谷大尉・館中尉ら)34名中31名が、アメリカ海兵隊の攻撃により戦死の憂き目に遭う。2時間後に離脱兵から報告を受けた一木大佐は激高し、不明将校の捜索を命じるに当たって「行動即索敵即攻撃」を各中隊に命じている。
21:00頃には、一木支隊の尖兵中隊がイル川西岸で思いもよらぬ敵からの銃砲撃を受け立ち往生しているところに支隊本部が合流した。
22:30より歩兵砲の砲撃を合図にイル川渡河を決定。火力の差は明白で、M3 37ミリ対戦車砲(en)、M1A1 75ミリ榴弾砲、M2A1 105ミリ榴弾砲などを有する強力な砲兵に援護された機銃座陣地を前に、100名余の損害を出して一旦攻撃を停止する。敵兵力が10,900人を擁する大軍であることを知らない一木大佐は、なおも1時間後に同様の白兵攻撃を命じて、同様に機銃陣地からの十字砲火を受け今度は200名を越す損害を受けたとされる。また、その間にも敵砲兵陣地からの砲撃、とりわけ迫撃砲による砲火は苛烈を極め、日本軍の反撃は渡河に成功した一握りの兵による軽機や手榴弾による攻撃にとどまった。一部の将校は一旦後退することを具申したが一木大佐は聞き入れず、攻撃を続行した。
ようやく翌21日午前5時頃、一木大佐はイル川左岸の海岸部に残兵を集め状況把握に努めたが、夜明けとともに敵機が上空を舞い始め、陸上からはアメリカ海兵第1連隊がイル川を越えて一木支隊の退路を断つように迂回攻撃を仕掛けてきたため、包囲された一木支隊は苦戦に陥った。
同日午後から投入された水陸両用戦車6両により支隊本部は蹂躙され、一木支隊は壊滅した。海岸で波打ち際に追い詰められた兵士は執拗な包囲射撃によりことごとく殲滅された。海岸での米国海兵隊による掃討戦は21日14時には概ね終了し、意識不明の負傷兵15名が捕虜となった。
結局、8月25日までに生きて上陸地点のタイボ岬まで戻れたものは916名中126名(うち戦傷者30名)であり、790名(戦死者行方不明者777名、捕虜15名)の損害[4]を出して戦いは終わった。米軍の損害は戦死者40名余りとされている。
支隊長一木大佐は21日の戦闘で戦死したと思われるが、その状況は不明である。ちなみに、戦闘開始時に総員背嚢遺棄が命じられたため、早くも一木支隊の残存兵は飢えに悩まされるようになった。
[編集] 第1次総攻撃
[編集] 川口支隊
一木支隊の壊滅の報を受ける前、8月中旬から川口清健少将率いる支隊(第三十五旅団司令部及び歩兵第百二十四連隊基幹)約4,000名の輸送が始まっていた。しかし、連合艦隊司令部では8月20日に「ガダルカナル島付近で敵機動部隊が出現」との報告を受け、川口支隊の船団輸送を一時中止し、ガダルカナル島海域の航空優勢の確立のためトラック島の機動部隊(空母「翔鶴」「瑞鶴」「龍驤」基幹)に出撃を命じた。日米両軍機動部隊の間で、8月23日~24日にかけて東部ソロモン海域において第二次ソロモン海戦が戦われることになる。
詳細は「第二次ソロモン海戦」を参照
海戦の結果、日米両軍とも空母戦力に相当のダメージを受けたが、米軍は護衛空母「ロングアイランド」を使ってヘンダーソン飛行場基地航空部隊に航空機を送り込むことに成功した。そのためヘンダーソン基地航空隊の動きが活発化し、一木支隊第二梯団の輸送船団は空からの攻撃で輸送船1隻、駆逐艦1隻を失いショートランド泊地へ退避した。第二次ソロモン海戦後もガダルカナル島海域に一時とどまっていた空母「瑞鶴」が支援していたが(8月25日)、及ばなかった。これを見て川口支隊の船団輸送も中止となり、輸送は駆逐艦による鼠輸送と島づたいの舟艇機動による蟻輸送に頼ることとなった。増援が遅れる間に、ガダルカナル島の海軍部隊は徐々に圧迫され、マタニカウ川の防衛線を放棄して後退しはじめていた。
川口支隊は、一木支隊の第二梯団と共に9月7日までにガダルカナルに上陸した。川口少将の主張により、60隻の小型舟艇に分乗し島づたいにガダルカナルに向かった別働隊(約1,000名)は、空襲や故障で被害を受けたうえ分散状態になり、本隊とは飛行場を挟んで反対側にたどり着いてしまい、総攻撃には間に合わなかった。駆逐艦を使った本隊もアメリカ軍の空襲のため、兵員はともかく、重火器は高射砲2門・野砲4門・山砲6門・速射砲14門しか揚陸できなかった。陸上輸送の困難から、このうち実際に戦闘に参加した砲は、さらにわずかとなる。
川口支隊は、一木支隊の戦訓から、正面攻撃を避けるべくヘンダーソン飛行場の背後に迂回してジャングルから飛行場を攻撃することを試みた。しかし、そのために必要な地図の準備はなく、険しい山岳地形の密林に進撃路を切り開くために各大隊の工兵部隊は通常装備を捨てて、つるはしとスコップによる人海戦術で総攻撃の当日まで啓開作業を行った。完成した粗末な啓開路では重火器や砲弾の運搬は不可能であり、その大部分は後方に取り残された。作業により兵は疲労困憊していた。
9月12日午後8時を期して「中央隊(左、中、右と3個大隊が別々に行動)」、「左翼隊(岡明之助大佐率いる舟艇機動の第124連隊第2大隊)」、「右翼隊(一木支隊の残存集成部隊)」が同時に米軍陣地に攻撃を行うことになった。しかし、夕方までに攻撃位置につけたのは僅か中央隊の一部だけであった。
12日の総攻撃は各部隊バラバラに攻撃を行い、実質的な第1次総攻撃(米国名「血染めの丘(エドソンの丘)の戦い」Battle of Edson's Ridge)が行われたのは13日の夜半から14日の未明にかけてである。12日から14日に至る間、川口支隊の左翼隊とその後詰の舞鶴大隊は米軍の集中砲火の前に前進を阻まれ戦いに至らず、各隊は鉄条網と火線を越えられずに散発的な戦いのみに終始した。
激戦となった中央隊左翼を担当した田村昌雄少佐率いる青葉大隊の一部が、中央隊右翼国生大隊のアメリカ軍陣地の第一線を突破し、さらに3個中隊のうちの1個中隊がムカデ高地の端からヘンダーソン飛行場南端に達し、付近の建設中の倉庫などの拠点を確保した。だが、混戦のすえに日本軍は敗走した。日本軍はアメリカ軍を5,000名と判断していたが、実際には18,000名に増強されていた。この内、川口支隊と対戦したのは700人である。
この戦闘による川口支隊の戦死者・行方不明者は約700名で、一木支隊と比べれば損耗率は低かったが、激戦となったのは国生大隊と田村大隊の2個大隊だけであり、国生少佐、水野少佐を含め中隊長クラスの幹部将校が戦死した。また、再起を画してアウステン山からマタニカウ川西岸にかけて負傷者を含めた5000名余りが駐屯することになり、兵站線の細い日本軍は、以後食料・弾薬の補給不足が深刻化し、以後ガダルカナル島(ガ島)はさながら「餓島」の様相を呈することになる。
[編集] 第1次総攻撃の総括とその後
1942年9月17日、杉山参謀総長は昭和天皇にガダルカナル島の戦いについて以下のように上奏している。
- 川口支隊の攻撃不成功の要因はジャングルを利用した奇襲に重点を置きすぎ、連絡不十分なまま戦力を統合運用しなかったためであること
- 連合軍の防御組織、とりわけ物的威力が予想以上であり、同島では今後まったくの力押しによる戦闘が求められること
- この戦いを受けて第17軍に、関東軍、支那派遣軍などから20個単位の戦車、砲兵戦力を転用、編入して戦機である10月中にガダルカナル飛行場を奪回するべきこと
- ガダルカナル島の戦いにおいては、陸海軍戦力を統合発揮する必要があること
しかし、この上奏文をもとに作成された大陸命688号による兵力の転用は当時の日本軍の海上輸送能力を超えたものであった。重火器を大発による「蟻輸送」により送り込む計画が破綻すると、10月1日からの駆逐艦による鼠輸送(連合軍は「東京エクスプレス」と称した)だけでは、兵站線途上のショートランド島から先に充分な重火器と弾薬を供給できなかった。
そこで10月中旬に、機動部隊の護衛と戦艦部隊によるヘンダーソン飛行場艦砲射撃の間接支援で、ガダルカナル島タサファロング沖に大挙6隻の高速貨物船での揚陸を企図することになる。
10月7日には、先に到着していた増援の歩兵第4連隊が、ヘンダーソン飛行場を射程下におさめるために不可欠なマタニカウ川東岸への進出を図った。しかし連合軍の予想外の反撃に遭い、第2次総攻撃を前に、戦力の3分の2にあたる2個大隊が壊滅的な打撃を受けてマタニカウ川西岸へ撃退されてしまった。
詳細は「マタニカウ川東岸の戦い」を参照
他方アメリカ軍は、10月13日にヌーメアからアメリカル師団の1個連隊をガダルカナル島に送り込むことに成功した。また、9月の危機で脆弱だったムカデ高地の陣地を補強し、ジャングルに敷設した集音器の数も増やし、ジャングルからの日本軍に管制射撃網を敷く体制を整えた。
10月15日にニミッツは、それまで南太平洋戦域の米軍を統括指揮していたロバート・ゴームリー(Robert L. Ghormley)海軍中将を更迭、代わりに猛将ウィリアム・ハルゼー中将を起用している。
[編集] 第2次総攻撃
[編集] 第二師団
10月初旬、百武晴吉中将以下の第17軍戦闘司令部がガダルカナル島へ進出し、第二師団(師団長・丸山政男中将)が同島に派遣された。作戦目標は、飛行場を挟んで川口支隊とは反対側の西側に上陸し、飛行場占領することであった。なお、川口支隊の輸送時にネックとなった船団護衛について、海軍はヘンダーソン飛行場基地については戦艦及び巡洋艦の艦砲射撃による破壊を行う事とし、さらに米空母の出撃に備えて第3艦隊(空母「翔鶴」「瑞鶴」)が10月11日以降、トラック島を出撃しガダルカナル島北方海面に進出することとなった。
10月12日未明、ヘンダーソン飛行場の艦砲射撃第一陣として向かった重巡部隊が、サボ島沖海戦で敗北を喫することとなる。
13日の第2陣となった戦艦「金剛」「榛名」を中心とする艦隊がガダルカナル島に夜間の艦砲射撃を行う(ヘンダーソン基地艦砲射撃)。さらに翌14日朝にはラバウルから飛来した海軍航空隊による空襲、14日夜には重巡洋艦「鳥海」「衣笠」による艦砲射撃が追い打ちをかけた。
これを受けて、第二師団を乗せた高速輸送船団6隻が泊地に投錨し揚陸作業を開始した。一連の事前砲爆撃によって米軍の航空部隊は飛行機の半分以上とガソリンのほとんどを焼失する大きな打撃を受けていたが、米海兵隊は既にヘンダーソンとは別に規模の小さな戦闘機用の滑走路を完成させていた。海軍の航空偵察も陸軍川口支隊も其れを察知しておらず、潰し損なったため、第二師団の揚陸作業中の現地上空の航空優勢の確保は達成できなかった。結果、兵員の上陸は終わったものの食料は50%、重火器類は20%の揚陸がすんだ時点で輸送船団に被害が目立ち始め、船団を北方に退避させることとなってしまった。
第二師団は、ジャングルの迂回作戦で道を見失い支離滅裂となった川口支隊の失敗を受けて、大部隊による正攻法で攻撃を行う計画であった。そのため20,000名以上の大兵力、火砲200門以上と戦車1個連隊(戦車・装甲車75両)の火力を上陸させようとしたが戦車や重火器のごく一部しか揚陸できなかった。やむなく、作戦は変更され、歩兵の主力は先に失敗したジャングルの迂回作戦を取ることになり、当初の正面攻撃は一部の部隊が陽動として行うことになった。だが、ジャングルを進むための地図や土木機械の準備は川口支隊の時と同様に全く行われておらず、従って進撃路の啓開は遅々として進まず、部隊はまたもや支離滅裂の状態となった。右翼部隊を指揮していた川口支隊長は第1次総攻撃の反省から、大本営から派遣された作戦参謀辻政信中佐に迂回攻撃を進言したが、意見が対立し罷免された。
戦車や重砲はとてもジャングル内の迂回路を進むことは出来ないため、陽動隊に配属された。その数は、水上機母艦日進などで輸送された野砲7門・10センチ榴弾砲4門・15センチ榴弾砲15門・10センチ加農砲3門などにすぎず、戦車は独立戦車第1中隊が九五式軽戦車及び九七式中戦車合わせて10数両を持つだけであり、何よりも砲弾が不足していた。ジャングルの迂回路を進む主力には山砲・速射砲・迫撃砲など小型で軽量の砲が配属されていたが、人力担送は困難を極め、大半は進撃路の遙か後方に取り残され、戦闘には間に合わなかった。
こうした状況にも係らず第二師団は「23日にはガダルカナルの占領を完了。ツラギ、レンネル、サンクリストバルに転進し、これを占領する予定なり」という意の電報を大本営に送っていた。[5]
こういった中で日本は10月24日にバラバラにアメリカ軍陣地に攻撃を掛けた。川口少将を罷免したことで右翼方面の連絡系統は著しく混乱し、飛行場の1キロ手前まで到達したところで司令部に作戦成功を意味する「バンザイ」の電報を送った。これは勿論誤報であったが、将校一同は「御芽出度う」と交歓し合い、井本参謀は日誌の一項を覆う大文字で「天下一品の夜」と記した。[6]。左翼方面は敵に突撃し、哨戒線を突破したが砲火に晒され大損害を出した。25日から26日朝にかけて第二師団は繰り返し夜襲をかけたが、装備の不足などから猛砲火を浴び戦傷含めた損害は半数以上と壊滅状態に陥った。25日からは飛行場から発進した米攻撃機による空襲が始まり、高級将校多数が戦死した。ラバウル基地の零戦は飛行場占領の誤報を受けガダルカナル基地を目指したが、飛行場からF4Fが迎撃してきてパニックに陥った。
陽動のため海岸線沿いを進んでいた住吉支隊では、住吉正少将が作戦の拡大を急遽決定し、戦車部隊にマタニカウ河の渡河を命じた。これに対し米軍は37mm対戦車砲や75mm自走砲を配備して日本軍を待ち構えていた。戦車隊は河の中央付近で十字砲火を浴びて次々に撃破され、対岸にたどり着いた2両も地雷で動けなくなったところを75mm自走砲に撃破された。
26日には師団参謀がガダルカナル奪回は不可能との旨を辻政信参謀に報告し、作戦は中止された。
戦闘における全体の戦死者については、資料がなく不明であるが、第二師団麾下の歩兵第二十九連隊では、兵員2,554名に対し戦死・行方不明553名となっている。
[編集] 第2次総攻撃の総括とその後
11月12日にガダルカナルより大本営陸軍部作戦課長の服部卓四郎大佐が帰京し次のように第2次総攻撃の失敗について、東條陸軍大臣に報告している[7]。
- 敵は完全に制空権を掌握し、熾烈巧妙な火力準備により裸の我が軍を迎え撃った。
- 敵は地上攻撃と空中攻撃を併用し、我が軍の航空支援は皆無だった。
- 我が軍の大隊長級の能力薄弱。
- 兵の士気は麻痺しており、さらに顧慮すべき衛生は劣悪。高い発熱、下痢、栄養失調により第二師団の戦力は4分の1に低下。戦傷兵の後方担送には1人につき4から8人が必要な状況にある。
- 現地の火砲は一五榴弾砲12門、一〇センチ加農砲2門、野砲4門、山砲8門、高射砲12門の計48門で、弾薬不十分。
- 糧食は非常に不足し、揚陸物資も搬送手段無く、末端には届いていない。
- 軍司令官は健康。「やる」と言っているが第一線を把握していない。
- 敵は白昼堂々と船団輸送しているが、我が軍は潜水艦でコソコソ揚陸するも10隻で僅かに2日分の糧食を輸送できるに過ぎない(この時期に潜水艦による輸送は始まっていないため、駆逐艦の誤りと推測される)。
結論として、既定の第38師団、第51師団の投入を行うほか、ブカ、ショートランド、ガダルカナル島エスペランス岬付近に飛行場を整備し陸軍より戦闘機2個戦隊、軽爆1個戦隊はぜひ必要。次期攻撃は18年1月末となるべし、と結んでいる。
また、11月16日に第8方面軍司令官の今村均は昭和天皇に拝謁し、「南東太平洋方面よりする敵の反抗は、国家の興廃に甚大の関係を有するにつき、速やかに苦戦中の軍を救援し戦勢を挽回せよ」との言葉を受け、同日、大陸指1338号によるソロモン群島方面の作戦要領が次の通り示された。
- 陸海軍の協力により各種の手段による敵機の活動封止に努めるとともに12月中旬を目処として所要の飛行場の整備を完了する。
- 飛行場の整備に伴いガダルカナル方面の敵航空勢力を制圧し、機宜に応じて船団輸送により攻撃兵力と軍需品を強行輸送しする。
- 作戦準備を拡大した上で、18年1月中旬末をもって攻撃準備の完成をなす。
しかし、これら中央の決定がなされている間にも南方戦線は憂うべき情況を呈していた。すなわち、ニューギニア方面で南海支隊がイスラバ、デネギ、ココダ、オイビとオーストラリア軍に追撃され11月10日には要衝ゴラリの維持も不能と見て全面退却に移っていた。さらに連合艦隊の協力を得て進めたガダルカナル島への第38師団の船団輸送も、輸送船11隻中7隻を失い、さらに残る4隻も11月15日に揚陸作業中をアメリカ航空部隊の攻撃にさらされ、事実上、輸送計画は失敗に終わった。また、輸送船11隻約7万7千トンの大量喪失により、過ぎる10月22日に決定された陸海軍局部長会議で決まっていた民間船舶20万トンの軍徴用の解傭を一転、民間からの追加徴用へと陸軍を突き動かすことになった。また、この船舶増傭問題が後にガダルカナル島撤退論に大きな影響を及ぼすことになる。
[編集] 第三十八師団の輸送とその後の戦い
第2次攻撃時に派遣された機動部隊と米機動部隊との間で10月26日に南太平洋海戦が起きた。日本側はベテランパイロットの多くを失ったが、空母1隻沈没、1隻中破の戦果を挙げ一時的にアメリカ側の稼動する空母は0になった。この報告を受け第三十八師団約1万名による攻撃が決定した。
[編集] 第三十八師団
11月10日、佐野忠義中将率いる先遣隊が上陸した。14日に主力師団の輸送が開始され、海軍は制海権の確保と再び飛行場を砲撃するため戦艦2隻を含む第11戦隊を派遣し第三次ソロモン海戦が発生した。
詳細は「第三次ソロモン海戦」を参照
日本海軍は海戦で戦艦2隻を失った上、肝心の飛行場の攻撃も上手くいかず、輸送船団は米軍機の空襲に晒された。結果、輸送船11隻中6隻が沈没、1隻が中破離脱[8]し、翌日に強行突入した輸送船4隻も岸辺に乗り上げたまま炎上した。かろうじて揚陸した兵器・弾薬食料のほとんども、輸送船から浜辺の集積地に集めるのがやっとの状態で、ヘンダーソン飛行場から繰り返し出撃してくる米軍機の銃爆撃によって荷役組織力が麻痺し、さらに繰り返された執拗な米軍機の攻撃により物資は積み上げられたまま焼失した。最終的に揚陸を確認された兵力は2,000名、重火器は皆無、食料が4日分だった。これによりガダルカナルの兵力は数字の上では約2~3万名を数えたが、伝染病にかかった者や餓死寸前の者が大半で、戦闘可能な兵員は8,000人程度だった。[9]18日、第三十八師団による夜襲が行われたが失敗し、その後アウステン山の西稜線守備隊として翌年1月のアメリカ軍の反転攻勢を受けることになる。
[編集] 転進
第三十八師団の輸送失敗のあと、大本営はさらに第五十一師団と第六師団をガダルカナル島に送り込むことを計画する。だが、ガダルカナル島の航空基地も増強されていて、アメリカ軍の制空権下の輸送が成功する見通しは全く立たなくなっていた。
既に低速の輸送船はガダルカナルに近づくことができず、駆逐艦の鼠輸送に終始していた。しかし駆逐艦による輸送でも、10月下旬の第二師団総攻撃失敗以降、わずか3ヶ月あまりの間に10数隻の駆逐艦が撃沈される結果となった。やむなく潜水艦による輸送まで試みられていたが、駆逐艦以上に搭載力が小さく、成功しても効果は微々たるものであった。
12月6日には閣議において作戦部長の田中新一中将が救援の為に必要な16万5000トンの艦船をガダルカナルに送り込むよう訴えたが、大本営はその半分の増援も認めなかった為、東條英機を馬鹿野郎と怒鳴りつけ更迭された。
1942年12月31日の御前会議において「継続しての戦闘が不可能」としてガダルカナル島からの撤退が決定された。この決定からさらに1ヶ月を経た1943年2月1日から7日にかけて、撤退作戦が行われた。各部隊のほとんどは予定通りに撤退地点まで到着することが出来たが、身動きの出来なくなった傷病兵を自決させ、あるいは「処分」することが大規模に行われていたという。
詳細は「ケ号作戦」を参照
ガダルカナル島に上陸した総兵力は31,404名、うち撤退できたものは10,652名、それ以前に負傷・後送された者740名、死者・行方不明者は約2万名強であり、このうち直接の戦闘での戦死者は約5,000名、残り約15,000名は餓死と戦病死(事実上の餓死)だったと推定されている。一方、米軍の損害は、戦死1,598名、戦傷4,709名であった[10]。
国民には敗北の事実は隠され、撤退は「転進」という名で報道された。そのため、撤退した将兵も多くはそのまま南方地域の激戦地にとどめ置かれた。この悲惨な状況について国民が知り得たのは大本営発表の次の一文のみであった。
ソロモン群島のガダルカナル島に作戦中の部隊は昨年8月以降、激戦敢闘克く敵戦力を撃摧しつつありが、その目的を達成せるにより、2月上旬同島を撤し、他に転進せしめられたり
[編集] 日本軍のエピソード
[編集] 軍紀の乱れ
ガダルカナル島の戦いは日本の継戦能力の限界を超えた状況となっており、11月24日にはある将校が「そこら中でからっぽの飯盒を手にしたまま兵隊が死んで腐って蛆がわいている」旨を大本営に報告したが、撤退は未だ決まらなかった。1ヵ月後の12月31日になって日本軍はようやく撤退に向けて動き始めたがこの間にも多くの将兵が餓死していった。(これはガダルカナル以降補給の途絶えた各戦場で見られた現象で、ある生存者はジャングルを「緑の砂漠」と表現した。)ほとんどの部隊では、ふらふらと何とか歩ける兵士はすべて食糧の搬送に当たり、陣地を「守る」のは、立つこともできなくなった傷病兵という状態に陥っていた。そういう中で、やっと手に入れた食糧を戦友のもとに届けようと最後の力を振り絞り、背中に米を担いだまま絶命する兵士も現れれば、食糧搬送の兵を襲って米を強奪する兵士も現れる状況になった。また、戦いも末期になると孤島に封じられ、食糧の欠乏が深刻になると軍紀の荒廃は極まり、飢えた兵士の中からカニバリズムも発生したと言われ、書籍[11]では、ガダルカナルからの帰還兵の話として、日本兵狩りについて触れられている。
こうした軍紀の乱れは「遊兵」と呼ばれるどの部隊にも属さない兵を生み出し、日本軍の組織的戦闘能力の減耗を加速させた。
[編集] 余命の判定
1942年12月頃からアウステン山の守備についていた兵士たちの間で不思議な生命判断が流行り出した。
立つことの出来る人間は、寿命30日間。身体を起して座れる人間は、3週間。寝たきり起きれない人間は、1週間。寝たまま小便をするものは、3日間。もの言わなくなったものは、2日間。またたきしなくなったものは、明日。
– 五味川純平『ガダルカナル』398項
この記述は、刊行物としては辻政信参謀の戦後著作が初出となっているが、実際には歩兵弟124連隊旗手小尾靖夫少尉の陣中日誌『人間の限界』12月27日の項が元になっていると思われる。小尾も、後にこの手記を発表しており、また公刊戦史「陸軍南太平洋戦史(1)」にもこの風聞が掲載されている。
[編集] 日本軍撤退作戦後
ガダルカナル島最後の撤退作戦に参加した海軍輸送隊指揮官の言によると撤退するのが難しい傷病兵の多くは、武士道精神を重んじ、捕虜になることを防ぐため、手榴弾などで自決するか、戦友達の手(手榴弾・機関銃・銃剣など)によって葬られた[12]。日本軍撤退作戦終了後、ガダルカナル島はソロモン諸島におけるアメリカ軍の新たな兵站基地として使用された。また、ガダルカナル島内の日本軍の残兵掃討を行い、部隊の練度を上げることが行われたと言われる。戦後刊行されたグラフ雑誌ライフには、米軍の捕虜となった日本の傷病兵などが、戦車の前に一列に並べられ、キャタピラでひき殺されている様子が掲載されたという[13][要出典]。
日本軍狙撃兵は、ガダルカナル撤退作戦時、アメリカ軍の急追を防ぐため伏兵として島内各所に残された[要出典]。彼らは自力で食料収集を行ないつつ、日本軍撤退後も個人個人の判断で戦闘を継続した。ガダルカナル島の最後の日本兵が投降したのは、1947年(昭和22年)10月27日である[14]。
[編集] ガダルカナル戦の意義と日本軍の敗因
ミッドウェー海戦とともに、太平洋戦争における攻守の転換点となった戦闘とされている。一般に、ガダルカナル戦は日本軍が米軍の物量に圧倒されて敗北した戦いと認識されている。川口支隊の敗北までの時点で、その点を冷静に判断し、兵を引いていれば、その後の泥沼のような消耗戦で何ら得るところなく戦力と継戦能力をすりつぶす事態は避けられたと考えられる。
航空機の損害はミッドウェーの約3倍、搭乗員の損失はそれを遙かに越えた(ミッドウェーでは、航空機が母艦の沈没によりもろとも海没したが、救助された搭乗員は実際には多く、搭乗員の戦死は100名余りに止まっている)。このため搭乗員の練度は著しく低下した。航空部隊の消耗の原因に、拠点であるラバウルからガダルカナル島まで往復8時間という長距離攻撃を強いられた事が一因に挙げられる。ブーゲンビル島のブカやブインなどへの中間飛行場整備もその当初は必要性が認められず整備が遅れており着手した時にはその戦機を既に逃して間に合わなかった。
大量の輸送船が撃沈されたこと、それにともないさらなる商船徴用[15]が行われたことは、それ以降の海上輸送と軍需生産に深刻な打撃を与えた。海軍にとっては、艦隊の手足となる駆逐艦を輸送任務中に大量喪失したことが、前記の航空部隊の消耗に加え、以後の作戦遂行上大きな打撃となった。
物量について言うと、最終的には米軍の物量は日本軍を圧倒したが、一連の戦闘の全期間でそうであったわけではない。8月頃の時点では、米軍は第一次ソロモン海戦での敗北のため、輸送船団が一時退避するなどして重装備や弾薬の揚陸が遅れており、物量はかなり欠乏を来していた(アメリカ軍側で言う「八月危機」)。ヴァンデグリフト少将は「実際の手順とは逆の手順で日本軍が来襲していたら、ガダルカナルの連合軍はなすすべもなく追い落とされていただろう」と述べている。
しかし、実際には日本軍は最初はわずか900名の一木支隊第一挺団、次は6,000名の川口支隊と一木支隊第二挺団という、兵力の逐次投入を行い、敵を圧倒的に下回る兵力で攻撃を掛けては撃退された。もっとも、仮に占領に成功していたとしても、その後日本から6,000キロ以上も離れたこの島を、米軍の反攻を前にどこまで維持できたかは疑問である。
[編集] 参考文献
- 五味川純平『ガダルカナル』(文春文庫、1983年) ISBN 4-16-711510-7
- NHK取材班 編『太平洋戦争 日本の敗因2 ガダルカナル 学ばざる軍隊』(角川文庫、1995年) ISBN 4-04-195413-4
- Center of Military History, United States Army, GUADALCANAL (米国公刊戦史)
- Marine Corps Historical Center, First Offensive: The Marine Campaign For Guadalcanal (米国公刊戦史)
[編集] ガダルカナル島の戦いを題材にした作品
- 20世紀フォックス『シン・レッド・ライン』、1998年アメリカ映画
- 戸部良一 他『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』(中公文庫、1991年) ISBN 4-12-201833-1
- 森本忠夫『ガダルカナル 勝者と敗者の研究 日米の比較文明論的戦訓』(光人社NF文庫、2008年) ISBN 978-4-7698-2570-8
- 軍医・高木八郎がガダルカナル戦場で詠んだ短歌約150首が『アララギ』1943年8月号から翌年11月号にかけて掲載されている。歌集『南海の雲』(1953年)所収。
- メダル・オブ・オナー パシフィックアサルト PCゲーム
- メダル・オブ・オナー ライジングサン
[編集] 脚注
- ^ 戦時日本政府では大東亜戦争、連合国では第二次世界大戦太平洋戦線(The Pacific War)と呼称されていた。
- ^ 乗員救助のため駆逐艦の緊急派遣などの措置は取られており、収容された乗員から連合軍艦隊の詳細情報を得られた。
- ^ 大本営海軍部では当初は本格的な上陸と考えていたが、前記各情報から主力は撤退したと誤認するに至った。
- ^ 戦死者数は日本側公刊戦史より捕虜は米側公刊戦史より抜粋しており合計数は一致しない
- ^ 『帝国陸軍の最後』より
- ^ 『失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)』・『帝国陸軍の最後』より
- ^ 大本営陸軍部軍務課長真田穣一郎大佐の日誌より要約抜粋
- ^ 佐渡丸。離脱してショートランド泊地への帰還に成功するが、11月18日の空襲で沈没。
- ^ 『帝国陸軍の最後』より
- ^ First Offensive: The Marine Campaign For Guadalcanal
- ^ 滝口岩夫著『新版・戦争体験の真実―イラストで描いた太平洋戦争一兵士の記録』、第三書館、1999年初版 ISBN 4-807-499181 87項
- ^ 出典:滝口岩夫著『新版・戦争体験の真実―イラストで描いた太平洋戦争一兵士の記録』、第三書館、1999年初版 88項-89項
- ^ 出典:滝口岩夫著『新版・戦争体験の真実―イラストで描いた太平洋戦争一兵士の記録』、第三書館、1999年初版 218項
- ^ 「あの戦争上 太平洋戦争全記録」p249 産経新聞社編
- ^ 本来なら初期作戦が完了して徴用解除が進められるはずの時期であった。
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最終更新 2009年10月13日 (火) 03:58 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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