ガンダーラ

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インド(紀元前6世紀)の十六大国
左上の Gandhara がガンダーラ

ガンダーラ(Gandhāra, Gandhara, Ghandara, Ghandahra, Chandahara, ペルシア語; Gandara)は、現在のアフガニスタン東部、およびパキスタン北西部にあった古代王国。カブール河北岸に位置し、その東端はインダス川を越えてカシミール渓谷の境界部まで達していた。(Political History of Ancient India, 1996, P151)

ガンダーラの王国は紀元前6世紀11世紀の間存続し、1世紀5世紀には仏教を信奉したクシャーナ朝のもとで最盛期を迎えた。1021年ガズナ朝スルタンマフムードにより征服された後、ガンダーラの地名は失われた。イスラム支配下ではラホール、またはカブールが周辺地域の中心となり、ムガル帝国の支配下ではカブール州の一部とされた。

目次

[編集] 地理

ガンダーラはベーダ時代、カブール河岸からインダス河口までをその疆域としていた。その領域はペシャワール渓谷として知られている。のちの時代にガンダーラ人はインダス河を越え、パキスタンのパンジャブ州北西部をも領土に含めた。ペルシアと中央アジアの重要な交通路であったガンダーラは国際的な商業都市として繁栄した。時代によって、ペシャワール渓谷とタクシラ、スワット渓谷をまとめてガンダーラの領域に含めることがあるが、中心地は常にペシャワール渓谷であった。王国の首都はチャールサダ、タクシラ、ペシャワール、末期にはインダスのフントに置かれた。

[編集] 歴史

[編集] アケメネス朝ペルシャの支配

ガンダーラの名前は『リグ・ヴェーダ』にも現れているが、紀元前6世紀にはアケメネス朝ペルシャキュロス大王、もしくはダレイオス1世によってその版図に組み込まれたことが分かっており、ペルセポリスのダレイオス1世碑には"GADARA"という名前が記録されている。ギリシアの歴史家ヘロドトスの著書『歴史』にはペルシャ帝国の20の属領が記されているが、そこではガンダーラはPaktuikeまたはペシャワール渓谷として記録されている。

[編集] アレクサンドロス大王の東征と、マウリヤ朝の支配

紀元前380年頃までにペルシャの支配は弱まり、多くの小王国がガンダーラを分割支配した。紀元前327年にはアレクサンドロス大王がガンダーラに侵攻したが、大王はこの地に1年も留まらなかった。同じ頃、マウリヤ朝チャンドラグプタ王はタクシラにあったが、紀元前305年にはセレウコス朝を破り、アフガニスタン南部を支配下に収めた。その後、1世紀半にわたりマウリヤ朝がこの地を支配した。チャンドラグプタの孫アショーカ王は熱心な仏教徒となり、ガンダーラに多くの仏塔を建立した。その後、マウリヤ朝が衰退してインド亜大陸に退くと、ギリシャ系のバクトリアがこの地に勢力を拡張した。紀元前185年頃、ガンダーラとパンジャーブはバクトリア王デメトリウスにより征服された。その後、バクトリア分裂の後、ガンダーラ地方はバクトリア内部での独立した政権が支配した。

[編集] メナンドロス王とクシャーナ朝の支配

メナンドロスはガンダーラの最も有名な王である。仏教徒となった彼は『ミリンダ王の問い』として仏典に描かれ、多くの仏教徒によく知られる存在となった。紀元前140年頃にはメナンドロス王は死に、クシャーナ朝による支配が始まった。同じく、パルティア系民族により圧迫され、イラン高原からサカ族がガンダーラ地方へ移住した。現在のパキスタン北部、アフガニスタンで使用されているパシュトー語はこのサカ族の言語を起源としている。紀元前90年にはパルティアはイラン東部を支配下に収め、紀元前50年頃にはアフガニスタンに残る最後のギリシャ人勢力を駆逐した。パルティアはガンダーラにギリシャ的な芸術様式を持ち込んだギリシア系住民を一掃した。我々がガンダーラ美術の発展を見るのはこのときからである(紀元前50年75年)。

[編集] クシャーナ朝治世下での黄金期

パルティアは紀元75年には中央アジアからのトルコ系遊牧民であるクシャーナ朝によってバクトリアへと移動し、クシャーナ人はその地に約一世紀のあいだとどまった。クシャーナ朝の支配下でガンダーラは黄金時代を迎える。ペシャワール渓谷とタクシラにはこの時代の仏塔と仏寺の遺構が数多く見られる。カニシカ王(紀元128年-151年)統治下にガンダーラ美術は繁栄し、多くの仏教建造物が建立された。カニシカ王は仏教が中央アジアから極東にまで広がりを見せることになった最大の功労者だった。王のもとで、ガンダーラは周辺文明の中心となり、その地で栄えた仏教美術はアジア全域に広がった。ペシャワールには120メートルもの巨大な仏塔が建立されたほか、数多くの仏教遺跡が残り、後世、東アジアからの巡礼地として神聖視された。カニシカの死後、王国は東方領土を失い始め、西方ではサーサーン朝の支配下に入った。しかし、クシャン族の族長の元で新しい仏塔は建立され続け、旧来のものは拡張された。仏寺には大仏像が建てられ、断崖には磨崖仏が彫られた。

[編集] 衰退

450年頃、匈奴が侵入し、ヒンドゥー教が一時盛んとなったが、サーサーン朝が再び盛り返し、568年には匈奴を駆逐した。644年にサーサーン朝がイスラム帝国に敗れると、ガンダーラはテュルク系民族によって支配され、ふたたび仏教が広まった。多くの中国からの仏教巡礼者による旅行記はガンダーラがこの数世紀の間に大きく変容したと記録している。次第にヒンズー教が隆盛となり、仏教寺院は次々と放棄されていった。その後、イスラム勢力が侵入し、ガンダーラの名は忘れられていった。

[編集] ガンダーラ美術

ギリシャ、シリア、ペルシャ、インドの様々な美術様式を取り入れた仏教美術として有名である。開始時期はパルティア治世の紀元前50年-紀元75年とされ、クシャーナ朝治世の1世紀5世紀にその隆盛を極めた。インドで生まれた仏教は当初、仏陀そのものの偶像を崇拝することを否定していたが、この地でギリシャ文明と出会い、仏像を初めて生み出した。また大乗仏教も生まれた。「兜跋(とばつ)毘沙門天像」という頭に鳳凰のついた冠をかぶった像が存在し、毘沙門天の起源がギリシア神話ヘルメス(ローマのメルクリウス)であるという説がある。5世紀にはこの地に匈奴が侵入し、その繁栄は終わりを告げた。

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

最終更新 2009年8月21日 (金) 23:48 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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