キエフ大公国

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ルーシ
Рѹсь
882年頃 - 1240年

の国章
国章
の位置
公用語 古ルーシ語
首都 キエフ
キエフ大公
882年 - 924年 オレグ(初代?)
1239年 - 1240年 ダヌィーロ(最後)
面積
  不明km²
人口
不明人
変遷
882年 ルーシの「建国」
988年 キリスト教の導入
1037年 聖ソフィア大聖堂の建立
1132年 ルーシの「戦国時代」
1240年 モンゴル来襲。キエフ陥落。
通貨 グルィーヴナ

キエフ大公国(きえふたいこうこく)は、9世紀後半から1240年にかけてキエフ首都とした東欧国家である。正式な国号はルーシ(古ルーシ語:Рѹсь)で、日本語名はその大公座の置かれたキエフに由来する。

ルーシ族と呼ばれる北欧系のヴァイキングによって建国され、リューリク朝によって統治された。10世紀までに同地の東スラヴ人との混血によってスラヴ化し、キリスト教の受容によってキリスト教文化圏の一国となった。11世紀には中世ヨーロッパの最も発展した国の一つであったが、12世紀以降は大公朝の内訌と隣国の圧迫によって衰退した。1240年モンゴル来襲によってキエフは落城し、事実上崩壊した。国民国家史観を中心とした研究史においては、ウクライナベラルーシロシアの三国の共通の祖国とされる。

目次

[編集] 国号

中世時代の史料で確認できるルーシの正式な国号は「ルーシ」のみである[1]。しかし、近世時代以後ルーシの政治的・文化的遺産をめぐって東欧諸国が争ったことから、現在の学術文献ではルーシの正式な国号の代わりに以下のような人工的な学術用語が用いられることが多い。

  • キエフ・ルーシ[2]:19世紀初頭のロシア帝国の歴史学者、ニコライ・カラムジーンが『ロシア国家の歴史』において初めて用いた概念[3]。大公座の置かれた場所によって呼ばれる。近代・現代の学術文献において広く用いられているが、中世・近世時代の史料では見られない。
  • ウクライナ=ルーシ:20世紀初頭のウクライナの歴史学者、ムィハーイロ・フルシェーヴシクィイが『ウクライナ=ルーシの歴史』において初めて用いた概念[4]。ルーシの本土があった場所から命名した。ウクライナこそがルーシの後継者であると主張する、フルシェーウシクィイの系統を汲むの学者が用いる。
  • キエフ・ロシア:ロシアこそがルーシの後継者であると主張する、カラムジーンの系統を汲むの学者が用いる概念。
  • ルーシ大公国(~たいこうこく):近世のポーランド王国リトアニア大公国の諸年代記に見られる概念。15世紀のリトアニア大公国の内乱中にヴォルィーニで興亡した大公国、また17世紀半ばドニプロ・ウクライナで存在したコサック国家の正式な国号に由来する。
  • キエフ国家(~こっか):西欧・日本の学術文献に使用されている用語。国民国家史観の影響により生じた「ルーシ」と「ロシア」の用語の混合を回避するために用いる。
  • キエフ大公国(~たいこうこく):日本語の学術文献に使用されている用語。他国の学術文献にはあまり見られない。名前が似ているため、キエフ公国と混同されていることがある。

[編集] 歴史

[編集] 建国期

8-9世紀の東スラヴ人

ルーシ最古の年代記である『ルーシ原初年代記』(『過ぎし年月の物語』)によれば、ノヴゴロドに拠って最初のルーシの国家を建設したといわれるリューリクの子、イーゴリを擁した一族のオレグ882年頃、ドニエプル川流域のキエフを占領して国家を建てたのが始まりだとされている。なお、この国家を建設したと年代記が記している「海の向こうのヴァリャーグ」がノルマン人なのかそうでないのかには議論の余地があるが、ノルマン人が関与していたことはほぼ間違いないとされている[5](彼らの言語古ノルド語であったが、次第に古ルーシ語へと変遷して行ったと推定されている)。建国当初はまだキリスト教化もしておらず、ペルーンなどの固有の神々を信仰していた。

建国より10世紀までの歴代支配者、すなわちオレグイーゴリ1世、そしてその寡婦オリガは周囲の東スラヴ諸民族を次々に支配下に収めて勢力を拡大。また、南に位置する大国東ローマ帝国とも数度戦い、帝国の首都ツァリグラードを攻撃した(ルーシ・ビザンツ戦争)。いずれの戦いも当時マケドニア王朝支配下で国力を上昇させていた東ローマに撃退されているが、これらの接触を通じて帝国の首都コンスタンティノポリスとキエフの間には商人が行き来し、次第に東ローマの文化やキリスト教がルーシに流れ込むようになっていく。オリガに至っては東ローマ皇帝コンスタンティノス7世を代父としてキリスト教の洗礼を受けたと言われている。

[編集] 英雄達の時代

[編集] スヴャトスラフの戦い

オリガの息子スヴャトスラフ1世の時代、キエフ大公国は大きく勢力を伸ばす。965年にはハザール・カン国に大打撃を与え、ハザールに貢納していたヴォルガ川上流域のヴャチチ族を服属させた。さらにスヴャトスラフは南西へ転戦して、968年にはブルガリア帝国に侵攻。一度は撤退するものの、971年に再度ブルガリアへ遠征してこれを撃破。そのまま東ローマ帝国へ兵を進め、帝国のヨーロッパ側領土を明渡すように要求するまでに至った。しかし、皇帝ヨハネス1世ツィミスケス率いる重装騎兵軍団と秘密兵器「ギリシアの火」を装備した東ローマ艦隊に敗れ、遠征は失敗に終わった。スヴャトスラフは、二度とバルカン半島へ現れないという条件の和議を結んで帰国する途中の972年ドニエプル川の浅瀬でペチェネグ人に襲われ戦死した。

[編集] ウラジーミル聖公とヤロスラフ賢公

黄金の門。古代キエフへの入り口。

スヴャトスラフの死後、長男のヤロポルク1世が後を継いだが、980年に弟のウラジーミルに追われ、ウラジーミルが支配者(ウラジーミル1世)となった。ウラジーミルは領土を大きく広げ、キエフ大公国はその最盛期を迎えた。貴族の反乱に悩まされていた東ローマ皇帝バシレイオス2世へ援軍を派遣する見返りとしてバシレイオスの妹アンナを妃に迎え、キリスト教を国教として導入した。これによってルーシはキリスト教世界の一員となり、東ローマ皇帝と縁戚関係を結んだことによってキエフ大公国の国際的地位も上昇した。

なおこの時、東ローマ帝国からキリスト教を導入した事により、キエフ府主教コンスタンディヌーポリ総主教庁の影響下に置かれる事となった。これは直接的にはウクライナ正教会の礎となり、ロシア正教会の母体ともなった。

1015年のウラジーミルの死後、後継を巡って争いが起きる。長男のスヴャトポルク1世は機先を制して弟達を殺害し、大公位を継承しようとしたが、ノヴゴロドにいた別の弟ヤロスラフが大軍を率いてキエフを攻略し、スヴャトポルクを追放して大公となった(ヤロスラフ1世)。当初は弟のムスチスラフの反乱などに悩まされたヤロスラフだが、やがて弟と和解し、ペチェネグ人を討ち、ポーランド王国から奪われていたヴォルイニ地方を奪い返した。またスウェーデンハンガリー王国などと縁戚関係を結ぶなど活発な外交を展開した。なお、1043年には東ローマ帝国と対立し、コンスタンティノポリスへ遠征を行ったが、これには失敗している。これがキエフ大公国の最後の対東ローマ遠征となった。

内政面でも、法典を整備し、キエフの街を拡張し、教会を建設するなど文化の振興にも尽くした。これにより、ヤロスラフは「賢公」と呼ばれている。

[編集] 衰退と国家の解体

ヤロスラフ1世は1054年に没した。死に際してヤロスラフは、子供たちを重要な都市へ配して国家を安定させようと図ったが、かえって争いが頻発してしまった。また、ペチェネグ人に代わってポロヴェツ族が度々ルーシを攻撃した。こうしてキエフ大公の権威は低下し、諸公が自立傾向を強めることになった。

この傾向は1113年に大公となったウラジーミル2世モノマフとその子ムスチスラフ1世の時代にいったん食い止められる。ウラジーミルはポロヴェツとの戦いで戦果を上げ、キエフ大公国全体の統一を回復した。

しかし、1132年のムスチスラフの死後は再び諸公の争いが頻発し、キエフはリューリク家の血を引く諸公達の争奪戦の場所となって破壊されてしまった。十字軍遠征と、それによる地中海貿易の活発化でドニエプル川経由の交易が衰退し、内乱やポロヴェツとの度重なる戦争でキエフの街とキエフ地方は荒廃。人々は北東のノヴゴロドやモスクワなどへ移住していった。

これによりルーシは完全に分裂し、北東ルーシのノヴゴロド公国ウラジーミル・スーズダリ大公国や南西ルーシのハールィチ・ヴォルィーニ大公国などが割拠する時代に入ることになる。

1240年モンゴル帝国軍が南ルーシを制圧し、キエフ大公国は事実上崩壊した。

[編集] 社会

  • 大公
  • 諸公
  • 聖職者(コンスタンチノープル総主教に属すキエフ大主教区)
  • 軍人
      • 友隊(дружина
        • 老(大)友隊(старша (велика) дружина
          • 老仁(良仁)、貴族(старшие мужи, бояри, боляри):公の評定衆、政務・軍事の担当者。大将(воєвода)、代官(посадник)、千人長(тисяцький)、百人隊長(соцький)、住人隊長(десяцький)などの役職に任命された。
        • 若(小)友隊(молодша (мала)дружина
          • 若党、貴族(младшие мужи, боярські сини):公の側近。公が滞在する地域で裁判・警察・行政などが任された。その中では玄関衆(під'їздні)、過料取衆 (вирники)、契約衆(рядовичі)、帯刀衆(мечники)、小姓衆(отроки)、宮廷衆(дворяни)などの区分が存在した。
  • 平民(Проста чадь
    • 町人(людье градские):基本的に公や貴族の城ないし館の周りの町(посад)に住む。自治組織を持ち、ヴィーチェ(віче)と呼ばれる町内会議で行政を営む。
      • 職人(鍛冶屋、焼物屋、大工、革細工人、武具屋など)
      • 商人:ギリシャ衆(ビザンツ帝国との貿易を独占していた商人団)、ザロザ衆(カフカス地方とアジアの諸国との貿易を貿易を独占していた商人団)、イヴァン党(蜜蝋の独占して販売していた商人団)
    • 農民(смерди)
  • 奴隷(холопи, закупи):公、貴族、聖職者に属して雑務を行う。自宅や家族を持つことが許されていた。

[編集] 文化

[編集] 歴代の公・大公

キエフ・ルーシの大公たちの印形あるいは紋。ルーシの支配者であったリューリク朝三叉戟を用いたシンボルを家紋にしていた。

[編集] リューリク朝

  • イーゴリ1世(在位:913年/923年 - 945年)
  • スヴャトスラフ1世(在位:945年 - 973年?)
  • ヤロポルク1世(在位:973年 - 978年)
  • ウラジーミル1世(聖公)(在位:978年 - 1015年)
  • スヴャトポルク1世(在位:1015年 - 1016年)1度目
  • ヤロスラフ1世(賢公)(在位:1017年) 1度目
  • スヴャトポルク1世(在位:1018年 - 1019年)2度目
  • ヤロスラフ1世(賢公)(在位:1019年 - 1054年)2度目
  • イジャスラフ1世(在位:1054年 - 1068年)1度目
  • フセスラフ(在位:1068年 - 1069年)
  • イジャスラフ1世(在位:1069年 - 1073年)2度目
  • スヴャトスラフ2世(在位:1073年 - 1075年)
  • フセヴォロド1世(在位:1075年 - 1076年)1度目
  • イジャスラフ1世(在位:1076年 - 1078年)3度目
  • フセヴォロド1世(在位:1078年 - 1093年)2度目
  • スヴャトポルク2世(在位:1093年 - 1113年)
  • ウラジーミル2世モノマフ(在位:1113年 - 1125年)
  • ムスチスラフ1世(在位:1125年 - 1132年)
  • ヤロポルク2世(在位:1132年 - 1139年)
  • ヴャチェスラフ1世(在位:1139年)
  • フセヴォロド2世(在位:1139年 - 1146年)
  • イーゴリ2世(在位:1146年)
  • イジャスラフ2世(在位:1146年 - 1149年)
  • ユーリー1世ドルゴルーキー(在位:1149年 - 1150年)
  • ヴャチェスラフ(在位:1150年)
  • イジャスラフ2世(在位:1150年)2度目
  • ユーリー1世ドルゴルーキー(在位:1150年)2度目
  • イジャスラフ2世(在位:1150年 - 1154年)3度目
  • ロスチスラフ1世(在位:1154年)
  • イジャスラフ3世(在位:1154年 - 1155年)1度目
  • ユーリー1世ドルゴルーキー(在位:1155年 - 1157年)3度目
  • イジャスラフ3世(在位:1157年 - 1159年)2度目
  • ムスチスラフ2世(在位:1159年) 1度目
  • ロスチスラフ1世(在位:1159年 - 1161年) 2度目
  • イジャスラフ3世(在位:1161年)3度目
  • ロスチスラフ1世(在位:1161年 - 1167年)3度目
  • ムスチスラフ2世(在位:1167年 - 1169年)2度目
  • グレプ(在位:1169年 - 1171年)
  • ウラジーミル(在位:1171年)
  • ロマン・ロスチスラヴィチ(在位:1171年)
  • フセヴォロド・ユーリエヴィチ(在位:1171年 - 1173年)
  • リューリク2世(在位:1173年 - 1174年)
  • ヤロスラフ・イジャスラヴィチ(在位:1174年)
  • ロマン・ロスチスラヴィチ(在位:1174年 - 1176年)2度目
  • リューリク2世(在位:1180年 - 1181年)
  • スヴャトスラフ3世(在位:1181年 - 1194年)
  • リューリク2世(在位:1194年 - 1202年)
  • イングヴァルド(在位:1202年)
  • リューリク2世(在位:1204年)
  • ロマン・ムスティスラーヴィチ(在位:1204年 - 1205年)
  • リューリク2世(在位:1205年 - 1210年)
  • フセヴォロド4世(在位:1210年 - 1214年)
  • ムスチスラフ3世(在位:1214年 - 1223年)
  • ウラジーミル3世(在位:1223年 - 1235年)
  • イジャスラフ4世(在位:1235年 - 1239年)
  • ミハイル(在位:1239年)
  • ロスチスラフ2世(在位:1239年)
  • ダヌィーロ(在位:1239年 - 1240年)*代官による支配

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 脚注

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  1. ^ РоусьРусьなど、発音は同じと推測される単純な表記揺れは存在する。
  2. ^ ウクライナ語:Київська Русьベラルーシ語:Кіеўская Русьロシア語:Киевская Русь
  3. ^ カラムジーンによると、ロシア帝国はルーシはの直接な後継者であり、「ルーシ」そのものはロシアの古称にすぎない。なぜなら、ルーシは1240年に滅んだわけではなく、ルーシの政治的中心がキエフからモスクワへ移っただけだからであるという。それがために、ルーシ(ロシア)の歴史は「キエフ・ルーシ」、「モスクワ・ルーシ」、「帝国のルーシ」という区分に分かれると主張した。(Карамзин Н. М. История государства Российского: в 12 т. (до 1612) (ロシア語))。
  4. ^Михайло Г. Історія України-Руси: в 10 т.  (ウクライナ語)
  5. ^ 井上浩一栗生沢猛夫『ビザンツとスラヴ』P287(中央公論社〈世界の歴史〉、1998年) 

[編集] 参考文献

最終更新 2009年10月27日 (火) 03:16 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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