キミ・ライコネン
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| キミ・ライコネン | |
|---|---|
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|
| 基本情報 | |
| フルネーム | キミ・マティアス・ライコネン |
| 国籍 | |
| 出身地 | 同・エスポー |
| 生年月日 | 1978年10月17日(31歳) |
| F1での経歴 | |
| 活動時期 | 2001-2009 |
| 過去の所属チーム | '01 ザウバー '02-'06 マクラーレン '07-'09 フェラーリ |
| 出走回数 | 156 |
| 優勝回数 | 18 |
| 通算獲得ポイント | 613 |
| 表彰台(3位以内)回数 | 62 |
| ポールポジション | 16 |
| ファステストラップ | 35 |
| 初戦 | 2001年オーストラリアGP |
| 初勝利 | 2003年マレーシアGP |
| 2009年順位 | 6位 (48ポイント) |
| タイトル | 1(2007) |
| (記録は2009年終了時) | |
キミ・マティアス・ライコネン(Kimi-Matias Räikkönen, 1978年10月17日 - )は、フィンランド・エスポー出身のレーシングドライバーにして元F1ドライバー。2007年のF1ワールドチャンピオン。姓はライッコネンと表記されることもある。
目次 |
[編集] 初期の経歴
5歳の時に兄のお下がりのモトクロスバイクを乗り始め、8歳の時に兄とともにカートをはじめる。12歳のときより本格的なレースに参戦し、1999年までにカートで数々のタイトルを獲得する。
1999年にはフォーミュラ・フォードユーロカップに参戦するが、資金難により数戦で参戦を取りやめている。しかし、同時期に参戦したフォーミュラ・ルノーイギリス選手権のウィンターシリーズではマノー・モータースポーツ・チームのシートを得て4戦4勝し、翌2000年のレギュラーシーズンは10戦中7勝、2位1回、3位2回という圧倒的な成績でチャンピオンを獲得する。
ジュニア・フォーミュラにはこの2年弱の期間に23レースに参戦したに過ぎなかったが、その内13レースで勝利を上げ、53%という高い勝率を記録している。
フォーミュラ・ルノーでの成績に注目したF1ザウバーチームのオーナーペーター・ザウバーにより、2000年9月に催された同チームのテストに招かれ、スペインのヘレス・サーキット、カタロニア・サーキットでザウバーのF1カーのステアリングを握った。ここでの走りが認められ、翌年のレギュラードライバーとして契約。
[編集] F1での経歴
[編集] ザウバー時代(2001年)
フォーミュラでのレースは実質フォーミュラ・ルノーのみで、F3を経験せずにF1に参戦することについて(当時のFIA会長であるマックス・モズレーを含め)他の関係者からの批判は小さなものではなかった。事実、当初ライコネンのスーパーライセンスは4戦限定の仮ライセンスで、危険であれば取り消される可能性もあった。 しかし、デビュー戦オーストラリアGPで6位入賞を果たし、周囲の批判を沈黙させる。その後正式にスーパーライセンスが発給された。第6戦オーストリアGP、第8戦カナダGPでは共に4位入賞するなど、全17戦中4戦で入賞し9ポイントを獲得し、ドライバーズランキング10位を獲得。国際F3000チャンピオン獲得経験のあるチームメイトのニック・ハイドフェルド(12ポイント獲得)と比べても大きくは引けを取らず、結果としてザウバーチームはF1参戦以来、最高の成績でシーズンを終えた。
[編集] マクラーレン時代(2002年-2006年)
ザウバーでの活躍は、当時ザウバーにエンジンを供給していたフェラーリからも注目され、2002年についてはフェラーリに移籍する可能性が囁かれていたが、結果的にライコネンを獲得したのはマクラーレン・メルセデスであり、当時マクラーレンのドライバーであった母国の先輩ミカ・ハッキネンの後任としてチームに加入した。
[編集] 2002年
開幕戦オーストラリアGPで自身初のファステストラップを記録するとともに3位に入賞して初表彰台を獲得するなど、年間で4回の表彰台を獲得し、24ポイントを獲得した。リタイアは10回を記録したが、内ミスによるものは第12戦ドイツGPの1度だけで、残りは全てメカニカルトラブルによるものだった。中でも度重なるエンジントラブルに悩まされ、第14戦ベルギーGPから第16戦アメリカGPにかけての3戦連続を含め、計6戦をエンジントラブルによって失った。
この年、特筆されるレースは第11戦フランスGPで、残り6周首位走行中に、前を走る周回遅れのアラン・マクニッシュの車から出たオイルによりスリップした隙にミハエル・シューマッハにオーバーテイクされ2位に終わったが、初優勝が期待されたレースとなった。
[編集] 2003年
マクラーレンの新車開発の遅れにより、前年型『MP4-17』の改良型である『MP4-17D』で臨んだ。
第2戦マレーシアGPで初優勝を飾ったのち、第9戦ヨーロッパGPで自身初のポールポジションを獲得、第15戦アメリカGPでも2回目のポールポジションを記録するなど頭角を現し、優勝こそ1回のみであったが、安定してポイントを積み上げたことで、当時ドライバーズタイトル3連覇中のミハエル・シューマッハと最終戦までタイトル争いを演じた。最終的に2点差で敗れはしたものの、ドライバーズポイントランキングで2位を獲得した。
[編集] 2004年
開幕戦から新車『MP4-19』を投入するものの、車は絶対的な競争力に乏しく、信頼性も欠けていた。度々マシントラブルに見舞われ、7戦を消化した時点でリタイアは4回。第4戦サンマリノGPでの8位入賞による1ポイントしか獲得できなかった。
第8戦カナダGPでは決勝レースで5回ものピットストップをしながらも5位入賞を果たし[1]、第9戦アメリカGPでも6位入賞し、シーズン中盤になって復調の兆しを見せた。第10戦フランスGPでマクラーレンが改良車『MP4-19B』を投入すると、続く第11戦イギリスGP予選でシーズン初のポールポジションを獲得。決勝レースでも、同年初の表彰台となる2位を獲得。その後第13戦ベルギーGPでシーズン初優勝を飾った。
この年はF1以外のレース活動として、マネージャーのスティーブ・ロバートソンとともにライコネン・ロバートソン・レーシング(ダブルRレーシング)を設立し、チームは翌年からのイギリスF3選手権参戦を発表している。
[編集] 2005年
開幕当初はマクラーレンの新車『MP4-20』の信頼性不足によりやや出遅れた。しかし、第4戦サンマリノGPから3戦連続ポールポジションを獲得し、第5戦スペインGP、第6戦モナコGPではポール・トゥ・ウィンを達成するなど次第に調子を上げ、チャンピオン争いに絡んでいく。第7戦ヨーロッパGPでは、首位で迎えたファイナルラップにおいてサスペンション破損によりリタイア(記録上は11位完走扱い)し、タイトルを争うフェルナンド・アロンソに優勝を許してしまった。
特筆すべきは第18戦日本GP。前日の予選ではタイムアタック直前に雨が降り出すという不運に見舞われ、決勝を17番グリッドで迎える事になる。オープニングラップで一気に12番手まで順位を上げると、怒濤の追い上げで20周目には7番手に。その後もじわじわと順位を上げ38周目のジャンカルロ・フィジケラのピットストップと、41周目のジェンソン・バトンのピットストップによりトップに立つが、残り8周でのピットインにより、首位の座をジャンカルロ・フィジケラに明け渡し2位に後退。しかし1秒以上速いペースで追い上げ、その差を一気に取り戻し迎えたファイナルラップ、1コーナーでのブレーキング勝負で劇的なオーバーテイクを見せ、優勝を果たすという素晴らしいレースを展開した。
決勝後の記者会見では「今日のレースは間違いなく僕のベストレースに入るだろうね」とクールに語った。
5回のポールポジション獲得や、10回のファステストラップ獲得[2]、7回の優勝を飾るなどの活躍を見せ、ルノーのアロンソと激しいチャンピオン争いを繰り広げたが最終的に及ばず、ランキング2位でシーズンを終えた。
シーズン7勝は、チャンピオンのアロンソと並び2005年シーズンの最多勝である。また、ワールドチャンピオンを獲得できなかったドライバーがそのシーズン中に挙げた勝利数としては過去最多となるものである[3]。
[編集] 2006年
新車『MP4-21』は、昨年のような圧倒的なスピードは影を潜め、マクラーレンは未勝利に終わった。マシンは信頼性に欠けていたうえ、絶対的なスピードもシーズンを通してルノーやフェラーリには及ばず、シーズンの三分の一をノーポイントで終えた。第7戦モナコGPや第13戦ハンガリーGPなど、何度か訪れた優勝のチャンスは自身のミスやトラブルによるリタイアで失った。
また、モナコGPではリタイヤ直後に自身の所有するクルーザーに乗り込み、水着姿で飲酒をしながら観戦している姿が国際放送で映し出され、「職場放棄である」としてF1関係者から批判を受けた[4]。
第15戦イタリアGP終了後に、この年限りで引退するミハエル・シューマッハの後任として、2007年からフェラーリに移籍する事が発表された。
なお、この年はライコネン・ロバートソン・レーシングが、マイク・コンウェイを擁して、イギリスF3選手権で初めてドライバーズチャンピオンを獲得した。
[編集] フェラーリ時代(2007年-2009年 )
[編集] 2007年
フェラーリ移籍初戦となった開幕戦オーストラリアGPで自身初めてハットトリックを達成。開幕戦から3戦連続で表彰台に上がる活躍を見せるも、第4戦スペインGPではマシントラブルによりリタイヤに終わる。翌戦の第5戦モナコGPでは予選でクラッシュを喫し16位、決勝でも速さを見せられず8位に終わった。第6戦カナダGP・第7戦アメリカGPでもマクラーレンの連勝を許し、ランキング首位のルイス・ハミルトンとのポイント差は26となった。しかし、第8戦フランスGP、第9戦イギリスGPを連勝し挽回。第14戦ベルギーGPにおいてはポールトゥーウィンを果たし、スパ・フランコルシャン3連覇を記録する。しかし、ハミルトンとの得点差は残り2戦で17ポイントと依然として大きく、ライコネンのタイトルの望みは最終戦を待たずして消滅する可能性が高かった。ところが第16戦中国GPでハミルトンがリタイアし、自身が優勝したことによりかろうじて望みは繋がれる。そして最終戦ブラジルGPにて予選3位から優勝を果たし、ハミルトンが7位、アロンソが3位に終わったためランキング3位から逆転で初の年間総合優勝に輝いた。最大26ポイント差を跳ね返す、F1史上最大の逆転劇であった。
ライコネンは中盤から最終戦まで7連続表彰台を獲得し、安定してポイントを獲得したこともチャンピオンに輝いた1つの要因である。この年のチャンピオン争いは最終的に1位ライコネン110ポイント、2位ハミルトンと3位アロンソが109ポイントと、1位から3位までの差が1ポイント差という史上初の接戦であり、さらにシーズン最終戦まで三つ巴の争いが続くというF1史上でも稀に見る激戦であった。
[編集] 2008年
予期せぬ形でスタートすることになった。開幕戦オーストラリアGPにおいて、予選Q1終了間際にトラブルが発生。Q2へ進出できず16位に終わる[5]。決勝では序盤は順調に順位を上げていくものの、オーバーランやスピンを喫し、最終的にはエンジントラブルでリタイアとなった。規定周回を満たしていたため完走扱いとなり、後にバリチェロの失格処分で順位が繰り上がり1ポイント獲得。第2戦マレーシアGPにおいてシーズン初優勝を飾ると、第4戦スペインGPでは自身2度目となるハットトリックで完全勝利を達成した。しかし、この勝利がシーズン最後の勝利となった。その後の第6戦モナコGPでは様々なミスを犯し、後方での戦いを余儀なくされたあげく、予選19番手からスタートし5位走行と健闘していたフォース・インディアのエイドリアン・スーティルに追突し、リタイアに追い込んでいる。結果的に完走を果たすも9位ノーポイントに終わる。続く第7戦カナダGPではピットレーン出口でレッドシグナルで停止中に、ハミルトンに追突されリタイアを喫する。更に第8戦フランスGPでは首位を快走していたが、エキゾーストの破損によりペースが下がり、2位に終わった。第12戦ヨーロッパGPから第15戦シンガポールGPまでトラブルやミスが相次ぎ4戦連続ノーポイントに終わっている。これが影響し、第16戦日本GPを終えてタイトル防衛の可能性は消滅した。第17戦中国GPではハミルトンとタイトルを争うチームメイトのフェリペ・マッサを先行させるというチームプレーを披露。最終戦ブラジルGPにおいても、チームプレーに徹し、2年連続のコンストラクターズタイトルに貢献し、ドライバーズタイトルではロバート・クビサと同点であったものの、優勝回数で上回り3位でシーズンを終えた。
タイトル連覇は逃したものの、レース中には速さを見せた。第4戦スペインGPから第9戦イギリスGPまで6戦連続でファステストラップを獲得[6]、年間10回のファステストラップを獲得[7]した。
[編集] 2009年
大幅に変更されたレギュレーションに合わせて開発されたマシン・F60の競争力は低く、開幕から3戦をノーポイントで終えた。第4戦バーレーンGPでシーズン初ポイントを獲得し、第6戦モナコGPを3位で終え、ようやくシーズン初表彰台を獲得した。
第10戦ハンガリーGPを2位表彰台で終えた後の7月末には、母国で開催されたWRCラリー・フィンランドに、フィアット・グランデプント・アバルトS2000でスポット参戦し、ラリーへの将来的な転向も示唆した[8]。結果はリタイアに終わった。
そして第12戦ベルギーGPにおいて、レース序盤から終始僅差で追いかけるフォース・インディアのジャンカルロ・フィジケラを退けて、フェラーリは今季初、自身としては2008年スペインGP以来約1年4ケ月ぶりに勝利した。
[編集] F1休養
2010年シーズンはフェルナンド・アロンソがフェラーリに加入することになり、ライコネンはフェラーリからの離脱が決定。その後マクラーレンと契約交渉を行ったがまとまらず、マクラーレンはジェンソン・バトンの獲得を発表した。ライコネンのマネージャーであるスティーブ・ロバートソンは「F1での選択肢はマクラーレンだけだった」と語り、他チームからのF1参戦の可能性はないことを明らかにしているほか[9]、ライコネン本人もマスコミのインタビューに対し「1年間休みを取ることに決めた」と語っており[10]、2010年はF1から離れることが決定的となっている。
そのため2010年シーズンについては、世界ラリー選手権(WRC)参戦が有力視されており、所属チームにはペター・ソルベルグのプライベートチームや、シトロエンの系列チームなどの噂が挙がっている[11]。
[編集] エピソード
- 北欧出身で常にクールな性格からニックネームは「アイスマン」。雑誌などのインタビューでも口数が少なく、あまり英語の滑舌が良くないことから「記者泣かせ」と言われる[誰?]。
- F3000はおろかF3の経験すらなくF1のテストを経験したが、2度のテストの後のインタビューでは「実際F1の運転はすごく簡単だと思った。フォーミュラ・ルノーに戻るより簡単だ。」と語っている[12]。
- マネージャーは、F1参戦前からディビッド・ロバートソン、スティーブ・ロバートソン親子。彼らは、ジェンソン・バトンを発掘した人物でもある。また、ライコネンと共同でF3チーム「Räikkönen Robertson Racing」を運営している。
- 大の酒好きとしても知られ、表彰台でのシャンパンファイトでは、まずシャンパンを一口飲んでから参加する。大逆転でワールドチャンピオンを勝ち取った2007年最終戦ブラジルGPでは、表彰台に上がった途端にシャンパンを口にした。シャンパンの代わりにローズウォーターを使用するバーレーンGPの表彰台では、一口含んだ後はすぐにボトルを渡してしまった。
- 人生で最初の車は、母親の友人からもらったラーダ。赤い車体を自分で黒く塗装していた。エンジンブローしても、父親がスペアのエンジンをたくさん持っていたので、必要になれば交換していたらしい[13]。
- スパ・フランコルシャンとは相性が良く、2004・2005・2007・2009と3連勝を含み4度優勝しているおり、リタイアに終わった2008年ではラスト2周までトップを走行していた(2006年は未開催)。
- ドイツで開催されるグランプリでは極端に完走率が低い。ホッケンハイムでは2001年から2005年まで5年連続リタイア。2006年にようやく3位表彰台を獲得した。ニュルブルクリンクでも2005年の最終ラップに起きたアクシデントを含め、7回出走して5回リタイアしている。
- 2005年イタリアGP(モンツァ・サーキット)において、F1史上最高時速『370.1km/h』を記録している。
- ドイツの「ビルド・アム・ゾンタック」によると、2006年ハンガリーGP後に催されたレッドブルのパーティーに出席し、酒に酔って7,500ドル以上入った財布と、運転免許証とパスポートを紛失したという[14]。しかし、イタリアの「ガゼッタ・デロ・スポルト」によると、パーティー後に飲酒運転で摘発され、7,500ドルは罰金で、運転免許証とパスポートは没収されたという[15]。しかし、レッドブルの発表によると、ライコネンはパーティーに出席すらしていないという。
- 2007年シーズン開幕前、地元フィンランドのスノーモービルレースに「ジェームス・ハント」名を使って出走し優勝[16]。シーズン中には地元のパワーボートレースにゴリラの着ぐるみで変装して参加した[17]。
- 2007年イタリアGPでは「Iceman」のロゴが入ったバイクで現れた[要出典]。また、2007年度チャンピオンシップを優勝したことから「Iceman」を製造したドイツのヴァルツ・ハードコア社からカスタムメイドのチョッパー・バイク「Iceman II」を贈られた。「Iceman」は当時所属したマクラーレンに合わせて黒、「Iceman II」はフェラーリ・レッドとなっている[18]。
- 2007年の前半に自家用クルーザー『Sunseeker Predator 72』(価格は約350万ユーロ)を購入したが、岩礁に乗り上げた際に破損した。2008年の中旬に2台目の『Sunseeker Predator 108』(価格は約1,000万ユーロ)へ買い換えている[19]。
[編集] F1での年度別成績
(2009年終了時)
| 年 | 所属チーム | 車番 | ランキング | 獲得ポイント | 決勝最高位・回数 | 表彰台回数 | 予選最高位・回数 | FL記録回数 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2001年 | ザウバー | 17 | 10位 | 9 | 4位・2回 | 0回 | 7位・2回 | 0回 |
| 2002年 | マクラーレン | 4 | 6位 | 24 | 2位・1回 | 4回 | 2位・1回 | 1回 |
| 2003年 | 6 | 2位 | 91 | 1位・1回 | 10回 | 1位・2回 | 3回 | |
| 2004年 | 6 | 7位 | 45 | 1位・1回 | 4回 | 1位・1回 | 2回 | |
| 2005年 | 9 | 2位 | 112 | 1位・7回 | 12回 | 1位・5回 | 10回 | |
| 2006年 | 3 | 5位 | 65 | 2位・2回 | 6回 | 1位・3回 | 3回 | |
| 2007年 | フェラーリ | 6 | 1位 | 110 | 1位・6回 | 12回 | 1位・3回 | 6回 |
| 2008年 | 1 | 3位 | 75 | 1位・2回 | 9回 | 1位・2回 | 10回 | |
| 2009年 | 4 | 6位 | 48 | 1位・1回 | 5回 | 2位・1回 | 0回 |
| 年 | 所属チーム | シャシー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | WDC | ポイント |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2001 | ザウバー | C20 | AUS 6 |
MAL Ret |
BRA Ret |
SMR Ret |
ESP 8 |
AUT 4 |
MON 10 |
CAN 4 |
EUR 10 |
FRA 7 |
GBR 5 |
GER Ret |
HUN 7 |
BEL Ret |
ITA 7 |
USA Ret |
JPN Ret |
10位 | 9 | ||
| 2002 | マクラーレン | MP4-17 | AUS 3 |
MAL Ret |
BRA 12 |
SMR Ret |
ESP Ret |
AUT Ret |
MON Ret |
CAN 4 |
EUR 3 |
GBR Ret |
FRA 2 |
GER Ret |
HUN 4 |
BEL Ret |
ITA Ret |
USA Ret |
JPN 3 |
6位 | 24 | ||
| 2003 | MP4-17D | AUS 3 |
MAL 1 |
BRA 2 |
SMR 2 |
ESP Ret |
AUT 2 |
MON 2 |
CAN 6 |
EUR Ret |
FRA 4 |
GBR 3 |
GER Ret |
HUN 2 |
ITA 4 |
USA 2 |
JPN 2 |
2位 | 91 | ||||
| 2004 | MP4-19 | AUS Ret |
MAL Ret |
BHR Ret |
SMR 8 |
ESP 11 |
MON Ret |
EUR Ret |
CAN 5 |
USA 6 |
FRA 7 |
7位 | 45 | ||||||||||
| MP4-19B | GBR 2 |
GER Ret |
HUN Ret |
BEL 1 |
ITA Ret |
CHN 3 |
JPN 6 |
BRA 2 |
|||||||||||||||
| 2005 | MP4-20 | AUS 8 |
MAL 9 |
BHR 3 |
SMR Ret |
ESP 1 |
MON 1 |
EUR 11 |
CAN 1 |
USA DNS |
FRA 2 |
GBR 3 |
GER Ret |
HUN 1 |
TUR 1 |
ITA 4 |
BEL 1 |
BRA 2 |
JPN 1 |
CHN 2 |
2位 | 112 | |
| 2006 | MP4-21 | BHR 3 |
MAL Ret |
AUS 2 |
SMR 5 |
EUR 4 |
ESP 5 |
MON Ret |
GBR 3 |
CAN 3 |
USA Ret |
FRA 5 |
GER 3 |
HUN Ret |
TUR Ret |
ITA 2 |
CHN Ret |
JPN 5 |
BRA 5 |
5位 | 65 | ||
| 2007 | フェラーリ | F2007 | AUS 1 |
MAL 3 |
BHR 3 |
ESP Ret |
MON 8 |
CAN 5 |
USA 4 |
FRA 1 |
GBR 1 |
EUR Ret |
HUN 2 |
TUR 2 |
ITA 3 |
BEL 1 |
JPN 3 |
CHN 1 |
BRA 1 |
1位 | 110 | ||
| 2008 | F2008 | AUS 8 |
MAL 1 |
BHR 2 |
ESP 1 |
TUR 3 |
MON 9 |
CAN Ret |
FRA 2 |
GBR 4 |
GER 6 |
HUN 3 |
EUR Ret |
BEL 18 |
ITA 9 |
SIN 15 |
JPN 3 |
CHN 3 |
BRA 3 |
3位 | 75 | ||
| 2009 | F60 | AUS 15 |
MAL 14 |
CHN 10 |
BHR 6 |
ESP Ret |
MON 3 |
TUR 9 |
GBR 8 |
GER Ret |
HUN 2 |
EUR 3 |
BEL 1 |
ITA 3 |
SIN 10 |
JPN 4 |
BRA 6 |
ABU 12 |
6位 | 48 |
[編集] 脚注
- ^ レース後にブレーキダクトの寸法違反でウィリアムズとトヨタが失格になったことによる
- ^ ミハエル・シューマッハが2004年に記録したものと並び、1シーズンのファステストラップ獲得の最多記録
- ^ 但し2005年は全19戦ありF1史上最多のレース数の年だったことを考慮する必要はある。ライコネン以前では、アラン・プロストが1984年と1988年の2度、シーズン16戦中7勝をあげながらタイトルを逃している。また、翌2006年シーズンにはミハエル・シューマッハもシーズン18戦中7勝をあげながらタイトルを逃している。
- ^ チームメイトのファン・パブロ・モントーヤがまだレース中であり、本来なら速やかにピットに戻りチームに情報を提供すべき場面であったため。
- ^ 後にグロックの降格で15位に繰り上げ
- ^ アルベルト・アスカリの7回連続に次ぐ、歴代2位の記録
- ^ 2005年の自身の記録と並ぶ年間最多記録
- ^ F1-Live.com 2009年8月3日
- ^ ライコネン、2010年は休養へ - レスポンス・2009年11月20日
- ^ キミ・ライコネン 「競争力のあるマシンがあれば2011年にF1復帰する」 - F1-Gate.com・2009年11月20日
- ^ キミ・ライコネン、WRCへの移籍候補チームが浮上 - F1-Gate.com・2009年11月20日
- ^ Autosport.com 2000年10月26日
- ^ マクラーレン公式サイト「ASK KIMI」にて
- ^ F1-Live.com 2006年8月23日
- ^ Gazzetta dello Sport 2006年8月22日
- ^ Autosport.com 2007年3月12日
- ^ F1-Live.com 2007年8月2日
- ^ motorcyclenews 2007年11月5日
- ^ OneStopStrategy.com 2008年9月4日
[編集] 外部リンク
- The Official Formula 1 Website - DRIVER PROFILE
- キミ・ライコネン公式ウェブサイト
- kimicentral.net
- Kimi Räikkönen Fans Webblog
| スポーツのタイトル | ||
|---|---|---|
| 先代: フェルナンド・アロンソ |
F1ドライバーズチャンピオン 2007年 |
次代: ルイス・ハミルトン |
|
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|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 3 | 5 | 7 | 9 | |||||||||
| 2 | 4 | 6 | 8 | 10 | |||||||||
| 11 | 14 | 16 | 20 | 22 | |||||||||
| 12 | 15 | 17 | 21 | 23 | |||||||||
| 1 | 3 | 5 | 7 | 9 | 11 | ||||||||
| 2 | 4 | TBA | 6 | 8 | 10 | TBA | |||||||
| 14 | 16 | 18 | TBA | 20 | TBA | 22 | TBA | 24 | |||||
| 15 | 17 | TBA | 19 | TBA | 21 | 23 | TBA | 25 | TBA | ||||
|
||||||||||||
最終更新 2009年12月2日 (水) 17:40 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【キミ・ライコネン】変更履歴






