キャロル・シェルビー
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| キャロル・シェルビー | |
|---|---|
キャロル・シェルビー(2007年)
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| 基本情報 | |
| フルネーム | キャロル・ホール・シェルビー |
| 国籍 | |
| 出身地 | 同・テキサス州 |
| 生年月日 | 1923年1月11日(86歳) |
| F1での経歴 | |
| 所属チーム | スクーデリアチェントロ・マセラティ, テンプルビュエル・マセラティ, アストンマーチン, |
| 活動時期 | 1958 - 1959 |
| 出走回数 | 8 |
| 優勝回数 | 0 |
| 通算獲得ポイント | 1.5 |
| 表彰台(3位以内)回数 | 0 |
| ポールポジション | 0 |
| ファステストラップ | 0 |
| F1デビュー戦 | 1958年フランスGP |
| 最終戦 | イタリアGP |
| タイトル | 0 |
キャロル・シェルビー(Caroll Hall Shelby, 1923年1月11日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州出身の50年代後半に活躍した元レーシングドライバー。
レース引退後はレーシングカーデザイナーとして後世に残る名車を数々創り上げた。1991年国際モータースポーツ殿堂入り。
目次 |
[編集] レーサーとしての経歴
[編集] 初期の経歴
ダラスにあるウッドロー・ウィルソン高校を卒業後、アメリカ空軍に入隊。第二次世界大戦まで飛行教官やテストパイロットなどをしていた。
除隊後養鶏場を経営するが、友人に誘われ草レースに参戦し優勝してしまう。この勝利がきっかけとなり、プロの道へ進むこととなる。
[編集] F1参戦・ルマン優勝
1958年、 第6戦フランスGP(ランス)でスクーデリアチェントロ・マセラティよりF1デビュー(予選17位、決勝リタイヤ)。
第7戦イギリスGP(シルバーストーン)で3周遅れながら初完走(予選15位)。
第10戦イタリアGP(モンツァ)でリタイヤしたものの、チームメイトで同郷のマステン・グレゴリーとマシンをシェアして4位でゴール。生涯最初で最後のポイント(但しマシンシェアのため、ポイントは半分の1.5点となる)を獲得。この年は4レースに参戦した。
1959年、 第3戦オランダGP(ザントフォールト)よりアストンマーチンで参戦(予選10位、決勝リタイヤ)。
同チームよりル・マン24時間に参戦し優勝(パートナーはロイ・サルヴァドーリ)。
第5戦イギリスGP(エイントリー)で自身予選最高位の6位となる(決勝リタイヤ)。
第8戦イタリアGP(モンツァ)のレースを最後に引退(予選19位、決勝10位)。
[編集] F1全成績
(key)
| 年度 | チーム | シャシー | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | WDC | Points |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1958 | スクーデリアチェントロ | マセラティ 250F | マセラティ 直6 | ARG |
MON |
NED |
500 |
BEL |
FRA DNF |
GBR 9 |
GER |
ITA 4* |
MOR |
- | 0 | |
| テンプルビュエル | POR 9 |
|||||||||||||||
| 1959 | デビッド・ブラウン コーポレーション | アストンマーチン DBR4/250 | アストンマーチン 直6 | MON |
500 |
NED DNF |
FRA |
GBR DNF |
GER |
POR 8 |
ITA 10 |
USA |
- | 0 |
* マシンシェアのためシリーズポイントとしては無効。
| 先代: オリビエ・ジャンドビアン フィル・ヒル |
ル・マン24時間歴代勝者 1959 キャロル・シェルビー ロイ・サルヴァドーリ |
次代: オリビエ・ジャンドビアン ポール・フレール |
[編集] カーデザイナーとしての経歴
[編集] フォード時代
心臓病でレーサーを引退後、シェルビーアメリカンを設立。イギリスのACカーズのシャシーをベースにフォード製260エンジンを搭載したシェルビー・コブラを設計し、1962年、イギリスとアメリカで発売した。翌年、シェルビーは289エンジンでFIAのGTホモロゲーションを取得し、ル・マンをはじめとしたGTレースに参戦を開始した。1964年にはシェルビー・デイトナでル・マンGTクラス優勝。1965年にはFIA GT選手権を取得した。同年エンジンを427に変更し、ホモロゲーション取得のためにロードゴーイングバージョン・427SCが製作された。
一方で当時フェラーリ買収を目論見失敗に終わっていたフォードは、ル・マンでフェラーリを打ち負かすためGT40を走らせていたが、64年、65年と連続して全車リタイヤの憂き目にあっていた。65年のル・マン終了後、シェルビーアメリカンによるリメイクがおこなわれ、Mk.ⅡとなったGT40は、翌1966年のル・マンで1~3位までを独占。その後Mk.Ⅳに進化して1969年まで4連覇を達成した。
こうした過程で当時フォードの副社長であったリー・アイアコッカと親密な関係にあったキャロル・シェルビーは、若者に人気のあったマスタングのレースバージョンであるシェルビーGT350やGT500を製作するなど、ますますフォードとの関係を深めていった。
[編集] クライスラー時代
アイアコッカがフォードを解雇されクライスラーの社長に就任すると、フォードとキャロル・シェルビーの関係も困難な様相を見せ始めた。シェルビーはクライスラーのなかでも、とりわけダッジブランド車のモディファイを手がけるようになる。ベースとなったのはサブコンパクトのダッジ・オムニ、ダッジ・チャージャー(このチャージャーはシャーシこそオムニと共有だがボディースタイルはまったく異なっており、スポーティである)、チャージャーをベースによりスポーティで高級感をだしたダッジ・デイトナ、ミッドサイズのスポーティセダンダッジ・ランサー、チャージャーが生産終了したあと後継車で登場したダッジ・シャドウがベース車となっていた。 その集大成がバイパーである。
最終更新 2009年11月14日 (土) 06:21 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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