キャンディーズ

キャンディーズの最新ニュースをまとめて検索!

キャンディーズ
基本情報
出身地 日本
ジャンル アイドル
活動期間 1972年 - 1978年
レーベル CBS・ソニー
事務所 渡辺プロダクション
メンバー
ラン(伊藤蘭
スー(田中好子
ミキ(藤村美樹
  

キャンディーズ(Candies)は、1970年代に活躍した日本アイドルグループである。メンバーは、ラン伊藤蘭1955年(昭和30年)1月13日 - )、スー田中好子1956年(昭和31年)4月8日 - )、ミキ藤村美樹1956年(昭和31年)1月15日 - )の3人。所属事務所渡辺プロダクション。多くの楽曲は、当時渡辺音楽出版社員であった松崎澄夫(現・アミューズソフトエンタテインメント代表取締役社長)のプロデュースによるものである。

目次

[編集] 年表

[編集] 略歴

[編集] デビュー当時

キャンディーズのメンバーは、3人とも東京音楽学院のスクールメイツ出身。1972年(昭和47年)4月に、NHKの新番組「歌謡グランドショー」のマスコットガールとして3人揃って抜擢され、番組プロデューサーから「食べてしまいたいほどかわいい女の子たち」を意味して「キャンディーズ」と名付けられた。3人ともスクールメイツの中でも特に目立つ存在ではなく、歌謡グランドショーでもマスコットガール兼アシスタント(椅子・マイク運び・代理音合わせ)に過ぎず、歌手デビューの予定はなかった。しかし歌謡グランドショーに出てしばらくたった頃、東京音楽学院をたまたま訪れた松崎澄夫が、教室に入ってきたキャンディーズの3人を見て「かわいい子がいるなあ」と目を止めた。松崎が音楽学院の担当者にレコードデビューの有無を聞くと、「まだです」との返事が返ってきたので、松崎はそのままキャンディーズの歌手デビューを決定した。

1973年(昭和48年)に「あなたに夢中」で歌手デビュー。またデビュー前からは、人気バラエティ番組8時だョ!全員集合」にもレギュラー出演していたが、デビュー後しばらくはヒット曲に恵まれなかった。デビュー当時のメインボーカルは、当時最も歌唱力が高かったスーが起用されていた。

[編集] 人気歌手へ

だが当時のマネージャーである諸岡義明が、三人の中でランだけファン層が異なる(お姉さん的)事を発見、諸岡の提案により、1975年(昭和50年)に発売した5枚目のシングル「年下の男の子」で方針を転換。「お姉さん」的キャラクターのランをセンター・メインボーカルに据えて前面に出した処、これが当たって初ヒットとなり、又オリコンでも初のベストテン入りを果たした。以降のシングルでは、「わな」がミキのセンターである以外は、すべてランがセンターを務めた。翌1976年(昭和51年)発売の「春一番」はオリコンで最高3位まで上昇、キャンディーズ自身代表曲のひとつとなっている。

その後も個性の違う3人という組み合わせや、「8時だョ!全員集合」や、「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」などのバラエティ番組でコントまでこなす積極的なテレビ出演と、愛らしい振り付けを交えた数々のヒット曲により、幅広い人気を獲得した。

キャンディーズのデビューから遅れること3年、1976年のデビュー直後から社会現象的に爆発的な人気を獲得したピンク・レディーに対し、レコード売り上げ等に関してはやや劣勢だった。その後キャンディーズも1977年(昭和52年)に入ってからは、「やさしい悪魔」「暑中お見舞い申し上げます」がオリコンで5位以内にランク、いつしかピンク・レディーと比較対照されることがあった。一部には、両者をライバル視する向きもあったが、スーとケイ(増田恵子)とは仲が良かった。また同世代の青年男性の殆どがキャンディーズを支持するも、小学生女児などの女性層の人気が多かったのがピンク・レディーであり、男女それぞれの支持層も対照的であったのでビジネスモデル上、両者はライバル関係にはなかった。

[編集] 人気絶頂時の解散

しかし1977年の夏、人気絶頂となりつつあったキャンディーズは、突如解散を発表する。同年7月17日、日比谷野外音楽堂のコンサートのエンディングで、3人は涙を流しながら、ランが「私たち、皆さんに、謝らなければならない事があります」ミキが「ごめんなさい!」スーが「許して下さい...」とそれぞれファンに対して謝罪。それから突然の解散宣言後、ランが叫びながら発言した「普通の女の子に戻りたい!」は非常に有名で、当時流行語にもなっている。3人は同年9月末で解散する意思を固めていたが、事前に所属事務所の正式な了承を得ずに発表したこともあり、事務所の説得と話し合いの末、解散は半年間先送りされることになった。

この解散発表からキャンディーズの人気は沸騰し、ラストシングルの「微笑がえし」では初めてオリコン1位を獲得した。このためキャンディーズは解散によってさらに人気を盛り上げたと言える。

1978年(昭和53年)4月4日、当時空前であった後楽園球場に5万5千人を集め、マスコミが歌謡界史上最大のショーと呼び、日本でも「ザ・ピーナッツ さよなら公演」以来2例目となるお別れコンサート(ファイナルカーニバル)が行われ、4年半の活動に終止符を打った。この模様は全国にテレビで中継され、高視聴率を獲得している。最後に述べた「本当に私たちは、幸せでした!!」の口上も有名。コンサートの最後に歌われた「つばさ」は先に解散を知った全国キャンディーズ連盟の有志が作った「3つのキャンディー」という歌への返歌として伊藤蘭が作詞したものである。歌う前に伊藤が「やはりこの歌を歌いたい」と言ったのはそのためである。

なお、解散直後もTBSテレビ「ザ・ベストテン」内では「微笑がえし」が引き続きランクインした為、慰労会を兼ねたスタッフとの海外バカンス中に、電話ではあるがTV出演をしたことがある。当時は海外との衛星回線が弱く、放送直前電話が繋がらない可能性があった為、ベストテン側とキャンディーズ側双方のスタッフで、一日中電話を繋いでいたという。

[編集] 解散後

キャンディーズの解散から30年以上経った現在も、公には一度も再結成を行っていない(ただしプライベートでは、解散後も3人揃うことがよくあるという)。

しかしソロでは、3人ともに芸能界に復帰していた時期がある。

  • 伊藤蘭は、俳優水谷豊と結婚。現在は女優として活動中。
  • 田中好子は、復帰後ソロでの音楽活動を行いシングル「カボシャール」などをリリースしたが、現在はおもに女優として活動中。既婚(夫は夏目雅子の兄)。
  • 藤村美樹は1983年(昭和58年)にソロ歌手として期間限定で復帰し、カネボウ春のキャンペーンソング「夢・恋・人」(シングル、アルバムともに同名)を発表、マスコミにも取りあげられ、ザ・トップテンにも10位にランクインしスマッシュヒットとなった。以降、芸能界の表舞台には出てきていない。

[編集] キャンディーズサウンド

[編集] ハーモニー

  • デビュー曲から4曲目の「なみだの季節」までは、ハーモニーを強調した曲が多い。
  • しかし5曲目の「年下の男の子」以降はユニゾンや、伊藤蘭のソロにより主旋律を強調し、ハーモニーを控えめに入れる曲が多い(前者の代表は「春一番」であり、後者の代表は「内気なあいつ」である)。
  • したがって主旋律ではなく三声和音を強調する曲は「ハートのエースが出てこない」「暑中お見舞い申し上げます」「アン・ドゥ・トロワ」、2声和音を強調する曲は「夏が来た!」などである。
  • 尚アルバム曲ではハーモニーを強調する曲が解散まで続いている。。

[編集] コーラスパート

  • ソプラノを伊藤蘭、メゾソプラノを田中好子、アルトを藤村美樹が主に担当している(このパート分けは穂口雄右がおこなった)。
  • 「年下の男の子」以降、リードボーカルは伊藤蘭か藤村美樹であるが、三声和音の際には、前述のパート分けが適用されるために、主旋律の上下でハモる場合は、田中好子が主旋律を歌うことが多くなる(例「微笑がえし」「夏が来た!」「わな」、例外として「暑中お見舞い申し上げます」では主旋律を伊藤蘭が担当している)。シングル曲の三声和音はこのパターンが主である。
  • しかし主旋律の上にハーモニーが入る場合は、パート分けが一定せず「春一番」の場合は主旋律を伊藤蘭、3度上を藤村美樹、5度上を田中好子が担当したり、「やさしい悪魔」では主旋律を藤村美樹、その上のコーラスパートを田中好子、その3度上を伊藤蘭が担当したり、「アン・ドゥ・トロワ」のサビでは主旋律を田中好子が、3度上を藤村美樹が、5度上を伊藤蘭が担当する。
  • 藤村美樹が一番高いパートを担当するのは、シングルでは「危ない土曜日」と「哀愁のシンフォニー」のみである。

[編集] 2声和音

主旋律を伊藤蘭と田中好子が歌い、3度下又は3度上を藤村美樹が歌う場合が多い(例「春一番」「夏が来た」「つばさ」)。

[編集] レコードとステージとの差異

ステージや歌番組ではレコードと違い3人が主旋律をユニゾンで歌唱し、コーラスはバックのMMPや女性コーラスなどに任せることが多く、レコード音源や譜面通りの譜割やパート割で三人のコーラスが再現される事はほとんどなかった。この傾向は解散まで続いた。典型的なものとして和音をユニゾンで置換える場合がある(「やさしい悪魔」)。さらにこの際、バックバンドのMMPにコーラスを任せ、三人は主旋律を歌う場合もある。もう一つが、主旋律を大きめの声を出すことである(「アン・ドゥ・トロワ」「微笑がえし」)。

[編集] 音楽

[編集] シングル

発売順 A面タイトル 発売日 作詞 作曲 編曲 備考
1 あなたに夢中 1973年(昭和48年)9月1日 山上路夫 森田公一 竜崎孝路
2 そよ風のくちづけ 1974年(昭和49年)1月21日 山上路夫 森田公一 穂口雄右
3 危い土曜日 1974年(昭和49年)4月21日 安井かずみ 森田公一 竜崎孝路
4 なみだの季節 1974年(昭和49年)9月21日 千家和也 穂口雄右 穂口雄右
5 年下の男の子 1975年(昭和50年)2月21日 千家和也 穂口雄右 穂口雄右 キャンディーズ初のBEST10入り
6 内気なあいつ 1975年(昭和50年)6月1日 千家和也 穂口雄右 穂口雄右
7 その気にさせないで 1975年(昭和50年)9月1日 千家和也 穂口雄右 穂口雄右
8 ハートのエースが出てこない 1975年(昭和50年)12月5日 竜真知子 森田公一 竜崎孝路
9 春一番 1976年(昭和51年)3月1日 穂口雄右 穂口雄右 穂口雄右 アルバム『年下の男の子』収録の人気曲をシングル化。トップ3入り
10 夏が来た! 1976年(昭和51年)5月31日 穂口雄右 穂口雄右 穂口雄右
11 ハート泥棒 1976年(昭和51年)9月1日 林春生 すぎやまこういち 船山基紀
12 哀愁のシンフォニー 1976年(昭和51年)11月21日 なかにし礼 三木たかし 馬飼野康二
13 やさしい悪魔 1977年(昭和52年)3月1日 喜多条忠 吉田拓郎 馬飼野康二 衣装デザインをアン・ルイスが担当
14 暑中お見舞い申し上げます 1977年(昭和52年)6月21日 喜多条忠 佐瀬壽一 馬飼野康二
15 アン・ドゥ・トロワ 1977年(昭和52年)9月21日 喜多条忠 吉田拓郎 馬飼野康二
16 わな 1977年(昭和52年)12月5日 島武実 穂口雄右 穂口雄右
17 微笑がえし 1978年(昭和53年)2月25日 阿木燿子 穂口雄右 穂口雄右 事実上のラストシングル、有終の美を飾りオリコン1位獲得
18 つばさ 1978年(昭和53年)11月21日 伊藤蘭 渡辺茂樹 渡辺茂樹 解散後、キャンディーズの意向に反して発売されたもの

[編集] アルバム

発売順 タイトル 発売日 曲数 備考
1 あなたに夢中〜内気なキャンディーズ〜 1973年(昭和48年)12月5日 12
2 危ない土曜日〜キャンディーズの世界〜 1974年(昭和49年)6月21日 12
3 なみだの季節 1974年(昭和49年)12月10日 12
4 年下の男の子 1975年(昭和50年)4月21日 12 初の全曲オリジナル・アルバム
5 その気にさせないで 1975年(昭和50年)10月1日 12
6 Candies' Carnival For 10000 People 1975年(昭和50年)12月21日 10 同年10月19日 蔵前国技館LIVE
7 春一番 1976年(昭和51年)4月1日 12
8 夏が来た! 1976年(昭和51年)7月21日 12 ムーンライダーズが参加
9 キャンディーズ・ライブ 1976年(昭和51年)12月5日 18 同年10月11日 蔵前国技館LIVE
10 キャンディーズ 1 1/2 やさしい悪魔 1977年(昭和52年)4月21日 18 2枚組(うち1枚の片面には3人のサインを刻印)
11 Candy Label 1977年(昭和52年)9月1日 16 2枚組(30cm盤1枚+17cm盤1枚)
12 CANDIES 1676 DAYS 1977年(昭和52年)12月5日 58 5枚組
13 早春譜 1978年(昭和53年)3月21日 20 2枚組
14 FINAL CARNIVAL Plus One 1978年(昭和53年)5月21日 39 同年4月4日 後楽園球場LIVE、3枚組(うちスタジオ録音1枚)

[編集] ベスト・アルバム

[編集] CD-BOX

[編集] キャンディーズの曲をカバーした歌手

CDとして発表されたもののみ。

[編集] 映像

  • CANDIES FOREVER (β/VHS/LD/DVD)
    キャンディーズ・ファイナルカーニバル For Freedom/1978.4.4 後楽園球場
  • CANDIES TREASURE (4枚組DVD)
    Disc1/1977.9.28 砂防会館
    Disc2/1977.11.20 千葉県文化会館
    Disc3/1978.2.9 芝郵便貯金ホール
    Disc4/CANDIES HIT PARADE
  • 歌の妖精(VHS/第7巻) - 天地真理太田裕美・キャンディーズ
  • タイムトリッパー/キャンディーズメモリアル(徳間書店) - 付録DVDにキャンディーズ出演CM10本を収録

[編集] レギュラー番組

[編集] CM出演

  • 広島ナタリー(1974年/初CM)
  • 旭化成レオナ66(1974/75年)
  • キスミーシャインリップ(1976年)
  • バンダイキャンディーズ・ステージオンマイク(1976年)、キャンディーズ・フラッシュマイク(1977年)
  • ハウス食品ククレカレー(1976/77年)、ククレミートマーボ(1977年)
  • 森永製菓チョコフレーク(1976年)、チョコスナックトリオ(1976年)、ラブチャット(1976年)、チョコぼうし(1976年)、チョコモナカ(1977年)、森のどんぐり(1977年)
  • 三洋電機ブラックシャーシ/ズバコン《カラーテレビ》(1975/76年)、ひえひえ《エアコン》(1977年)
  • TDKカセットテープ(1977年)

[編集] エピソード等

  • 解散までの期間に全国をコンサートツアーした(「ありがとうカーニバル」)。これはいわゆる解散記念興行路線であり、これは後の山口百恵を始め、大物歌手やロックバンドの解散時に恒例のものになっていった(この形式での興行は1975年ザ・ピーナッツが最初と言われる)。リリースするレコードも、刻々と迫る解散を視野に入れた内容になっていった(「わな」はその例である)。この時、ずっとメインボーカルの機会がなかったミキに、1曲のみとはいえメインの座が与えられた。
  • 15枚めのシングル「アン・ドゥ・トロワ」は作曲者の吉田拓郎もセルフカバーしているが、拓郎版では曲の終わりに「さよなら、キャンディーズ」と歌っている。
  • 当時のコンサートでは客席から多数の紙テープが投げられていた。ファンはキャンディーズが怪我を負わないように、予め紙テープの芯を抜いていたが、それでもステージ上に大量に蓄積された紙テープが足に絡まり、細かい切り傷が絶えなかったという。「哀愁のシンフォニー」のサビの部分で、客席から一斉に紙テープが投げられるシーンは圧巻。
  • キャンディーズが活躍していた時代、ラジカセが普及し始めた。当時のラジカセオープンリールと比較すると、音質に難は有ったが安価であったため、若年層に好まれた。多くのコンサート会場では、観客がラジカセを持ち込むことが認められていたため、コンサートを録音しながら観ることが可能であった。この傾向は若年層が多かったキャンディーズファンに顕著に見られ、客席の椅子の肘掛部分に、マイクガムテープ等で固定する者もいた。その痕跡は、キャンディーズ解散後も暫らく残ったという。またキャンディーズファンは年齢層が高く音楽ファンが多かった為に当時としては高価で珍しかったステレオカセットレコーダー(デンスケ)を持ち込んでいた猛者も多く現在においても非常に高品質な録音が残っている。彼ら猛者はマイクスタンドを持ち込みワンポイントステレオマイクを装備しそれは異様な光景でもあった。
  • 日本初の、全国組織型ファンクラブ全国キャンディーズ連盟」(「全キャン連」)を持ったアイドルとしても知られる。なお、当時のファンには学生運動崩れの武闘派も多数いた。現在アイドルのコンサートで行われているオタ芸の原形もメジャーなアイドルの中ではキャンディーズが元祖である。デビューから数曲の間は8時だョ!全員集合等で新曲を披露しても殆どメンバーの名前などを叫ぶコールがなかったが、その気にさせないで辺りからコールが激増した。
  • 同一事務所に所属していた太田裕美もキャンディーズのオーディションに参加しており、メンバーになる可能性もあった。もし実現していれば、ラン・スー・ミキに倣って「ヒロ」と呼ばれていたであろうと言われている。
  • 同一事務所に所属していたザ・ピーナッツから衣装をプレゼントされたが、2着しかなかったのでもう1着をザ・ピーナッツ側が作成して用意した。
  • キャンディーズの妹分として結成されていたキャンディーズjrというグループがあったが(同じ事務所)、キャンディーズ解散後にトライアングルに改名した。キャンディーズファンから「違和感がある」という声が多かったため、あるいは敬意を表して、「キャンディーズ」の名称を半ば永久欠番扱いとしたため、と諸説ある。
  • 各仕事によりかなり違ったキャラクターを見せていた。歌番組やゲスト出演ではアイドルらしくしおらしい受け答えをするが、ラジオ番組ではくだけた言葉遣いで、台本とは言え下ネタも口にするなどかなり弾けたキャラクターである。もっともスタッフや出演者が多いテレビと違った、ラジオ番組独特の親密さゆえのリラックスした姿であろう。ライブのステージにおいてはファンに対してはありがちなタメ口ではなく「皆さん、ノってくださーい!」と言った具合に、ライブのノリの良さにしては丁寧な言葉を使っている。ただし現在の一部のアイドル見られるような過剰なリップサービスをせずに最後に掃けるときも「ありがとうございました」「また逢いましょう」等と定例文型を述べるに留まっていた。唯一例外として、後楽園球場におけるファイナル・カーニバルの後半では、3人のMCが一部くだけた口調になっていた。
  • 全盛期当時既に大学生世代であったメンバーではあるが、週刊誌の対談などでは処女である事を強調していた。
  • 三人それぞれのイメージに関しては、「妻にするならスー、恋人にするならラン、秘書にするならミキ」との評があった。松下治夫の著書には「蘭は気丈なタイプ、スーはおっとりしたタイプ。」と書かれていた。
  • 女性グループとしては非常に珍しい事に、3人で仲が良い。仕事で常に3人一緒にもかかわらず、ツアー中のホテルではツインにエクストラのベッドを入れてもらい、同じ部屋で寝ていたという。休日も一緒に過ごすことが多く、まれに連休が取れると、3人で泊りがけで旅行に行った(3人だけでなく、友人も同行することがあった)。ケンカもしたことがないんだって?という質問にランは「2人の気持ちが分かりすぎるから」と答え、ミキは「感情的に姉妹以上になっている」と語っている。現在でもプライベートでたまに集まる事があると田中好子(スー)が最近(2006年、2007年)のテレビ番組で、伊藤蘭がラジオ(2007年)で語っている。
  • 2007年(平成19年)に公開された映画『Little DJ〜小さな恋の物語』では、劇中「年下の男の子」が物語の重要なキーとなる楽曲として登場し、シングル盤も小道具として用いられた。「年下の男の子」は同作品のサントラCD(アミューズソフトエンタテインメント)にも収録されている。

[編集] 解散への軌跡とその後

  • 「キャンディーズ」とは本来ラン・スー・ミキのグループユニット名であるが、これに3人を支えた関係者、および全国のファンが一体となったムーブメントこそが「キャンディーズ」だったという見方もある。
    • 日比谷野外音楽堂の解散宣言直後、メンバーの3人は改めて記者会見に臨み、およそ9ヶ月後の1978年4月4日に正式に解散することを決めた。当初はファン、関係者とも賛否が分かれたが、「キャンディーズの三人が解散を望んでいる以上、それを支持する」ことで意思統一が図られた。
    • 後にそれは誰からともなく「最高の状態で解散する」ことへと気運が高まり、そのためには今まで獲得していなかったオリコンチャート1位をとることが最終目標となった(それまでの最高位は「春一番」「わな」の3位)。
    • このような状況下でラスト・シングル「微笑がえし」の作詞を担当した阿木燿子は、キャンディーズの集大成となるよう、それまでのA面タイトル(春一番、わな、やさしい悪魔等)を歌詞の随所に散りばめた。またレコーディングの際、ちょっとした逸話がある[1]
    • 微笑がえし」が発売されてからは、主に全キャン連がこのラスト・シングルを1位にしようとラジオ番組で広報につとめたり、一部の地域では一人2枚以上の購入を呼びかける動きもあった。このように一部に「内輪受け」の要素があったのは事実だが、それを差し引いても「微笑がえし」は春の別れと旅立ちをイメージした普遍的な名曲であり、一般層をも巻き込んで解散直前の1978年3月12日、ついに念願のオリコンチャート1位を獲得する(後に「春一番」とともにスタンダードとなる)。
    • ラスト・シングルでキャンディーズ自身最初で最後の1位を飾り、文字通り最高の状態で解散を迎えることが出来たのはメンバーの3人に起因するところのみならず、前述の通り解散宣言からラスト・シングルまで関係者やファンまで全てが一体となって、即ち全てが「キャンディーズ」なる現象と化したためとの一考がある。
  • 1978年4月4日のファイナルカーニバルから30年の時を経て、当時の代表的なファンであった全国キャンディーズ連盟の有志が、解散当時キャンディーズのマネージメントをしていた大里洋吉・現アミューズ相談役に協力を要請し、2008年4月4日に「全国キャンディーズ連盟2008大同窓会」と銘打って、約2000名の参加者の下、記念の地である後楽園球場の跡地に同年3月オープンしたJCB HALLにて開催された。参加者から発起人として約200名が名前を連ね、発起人代表の石黒謙吾を始め約100名が当日の運営をボランティアとして手伝い、このイベントを盛り上げた。それらの様子は、各マスコミにも取り上げられ話題となった。
  • 松下治夫の著書には公式に渡辺プロダクションが手がけた最初のアイドルはキャンディーズであると記されている。また前述のとおり初期のころの売出しにはNHKの歌謡グランドショーの協力も大きく貢献しているという。
  • 伊藤蘭の夫の水谷豊が『うたばん』に出演した際のトークによると、現在でも年に数回は3人で集まって食事や会話をすることがあるとのことである。

[編集] 主な共演者

[編集] 支えた裏方達

穂口雄右
「春一番」「年下の男の子」「微笑がえし」等代表曲の作詞や作曲を担当した作曲家。元GSアウト・キャストのメンバー。
MMP(ミュージック・メイツ・プレイヤーズ)
キャンディーズ全盛期のライブを支えたバックバンド。リーダーはワイルドワンズでキーボード担当の「チャッピー」こと渡辺茂樹。後の「スペクトラム」のメンバーも数多く在籍していた。
当初は「ロックンロールサーカス」の名前で、伊丹幸雄のバックバンドを務めていたが、あいざき進也のバックを努める際に「ビート・オブ・パワー」と名前を変え、その後編成を変えMMPとなった。大里マネージャーの意向により1975年8月の日劇ウエスタンカーニバルや10月の蔵前1万人カーニバルで一部サポートに起用される。ホーンセクションをフィーチャーしたロックバンドであるMMPは、当時流行していたソウルミュージックのカバーに力を発揮。またオリジナル曲に於いてもフルバンドでは生み出せないノリをもたらした。ライブに於ける、MMPオリジナル曲「SUPER CANDIES」で客席を煽り、「ハートのエースが出てこない」でキャンディーズが登場するメドレーは名物のひとつとなった。
1977年、キャンディーズ解散前にホーンセクションが「ホーンスペクトラム」として独立(ライブのサポートは解散まで継続)。バンド自体はキャンディーズ解散後にシングル「悲しき願い」を発売するなどの活動もあったが、ほどなくして解散。後にリズムセクションの一部と「ホーンスペクトラム」の主要メンバーが合流して「スペクトラム」を結成した。
《MMP及びそのメンバーによる楽曲》「SUPER CANDIES」「ダンシング・ジャンピング・ラブ」「さよならのないカーニバル」等
諸岡義明
当時渡辺プロダクション社員、現在はワタナベエンターテインメント顧問。
ザ・ピーナッツ担当後、1973年より初代キャンディーズ担当マネージャーに就任。前述のランのセンター指名など、キャンディーズを大ヒットアイドルに育てた。常に3人と行動を共にし、的確に指導を行っていた。また諸岡以下のキャンディーズを支えた裏方達は「花の諸岡班」とも言われていた。マネージャー交代時にはランは余りのショックに相当落ち込んでいたと言われている。
大里洋吉
当時渡辺プロダクション社員、現アミューズ相談役。
1975年夏より1977年までの約2年間、キャンディーズ担当2代目マネージャーに就任。キャンディーズ解散前に渡辺プロダクションを退社しアミューズを設立するも、解散時には契約プロデューサーとしてキャンディーズに協力していた[2]。後にサザンオールスターズなどをスターに育て上げた。のち、2008年4月には「全国キャンディーズ連盟2008大同窓会」(ビデオコンサート)のプロデュース(演出・構成)を担当。
全国キャンディーズ連盟
キャンディーズをサポートしていたファンの団体。アイドルのファン団体としては稀代な組織力を誇り、キャンディーズをバックアップしていた。

[編集] 脚注

[ヘルプ]

[編集] 関連項目

番組のテーマ曲として、キャンディーズが歌う「ラッキーチャンスを逃がさないで」(アルバム『春一番』『GOLDEN☆BEST キャンディーズ』に収録)が使われていた。

[編集] 外部リンク

[編集] 参考文献

  • 『ばいばいキャンディーズ キャンディーズ百科』 ペップ出版、1978年
  • 『CANDIES HISTORY』(CDボックス)付録ブックレット ソニー・ミュージックエンタテインメント、1998年
  • 野地秩嘉『芸能ビジネスを創った男-渡辺プロとその時代』新潮社、2006年
  • 軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』文春文庫、1995年
  • 松下治夫「芸能王国 渡辺プロの真実」 ISBN 9784903853079


最終更新 2009年11月4日 (水) 14:57 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【キャンディーズ】変更履歴

ご利用上の注意