クメール・ルージュ

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カンボジアの政党
クメール・ルージュ
Khmer Rouge
党旗
成立年月日 1951年6月28日[1]
解散年月日 1999年
解散理由 構成員の投降、離脱など
政治的思想・立場 共産主義
毛沢東主義
  1. ^ クメール人民革命党として結成。
  

クメール・ルージュフランス語: Khmer Rougeクメール語: ខ្មែរក្រហម)は、かつて存在したカンボジア政党。正式名称はカンボジア共産党。幹部はオンカー(組織の意)と呼ばれた。もともと「クメール・ルージュ」(赤色クメール)という言葉は、ロン・ノル政権前のシアヌーク時代のサンクム体制に反抗する武闘左翼勢力に対する総称として、シアヌークがつけた一種のあだ名だった[1]。その後、時代情勢の変化や粛清の結果、カンボジアの左翼勢力は事実上ポル・ポトのグループと同義語になった。。1980年以降は共産党系の名称の類似性から混乱を避けるために指導者の氏名からポル・ポトとも言われる。

目次

[編集] 概要

1953年ノロドム・シハヌーク国王のもとでカンボジアが独立すると、極左武装勢力クメール・ルージュは反シハヌーク闘争を開始した。1960年代、ベトナム戦争により国内は不安定となったものの、シハヌーク政権時代には爆撃・内戦は激化しておらず、食糧は輸出するほど豊富で大量の国内避難民も発生していなかった。この当時クメール・ルージュはまだ弱小勢力だった。

1970年アメリカに支持されたロン・ノルクーデターで王政は廃位された。 直後アメリカ軍南ベトナム軍がホーチミンルート南ベトナム解放民族戦線を追撃するためカンボジア領内に侵攻、さらにこれまで局部的であった米軍の空爆は人口密集地域を含むカンボジア全域に拡大される。この事態を受けてシハヌークは亡命先の北京でカンプチア民族統一戦線を結成、反米・反ロン・ノル諸派の共闘を呼びかける。

クメール・ルージュ勢力の伸張の背景には、シハヌークがロン・ノルによって追放された後、クメール・ルージュ側についたことで国王を慕う農民層がクメール・ルージュを支持するようになったこと、及びロン・ノル政権の腐敗に対する大衆の反発と、冷戦下における中華人民共和国中国共産党による支援があった。また当時、ウィリアム・ウエストモーランド将軍が率いるアメリカ軍は、第二次世界大戦で日本に投下した総量の3倍もの爆弾をカンボジアに投下し、数十万の農民が犠牲となった。これにより農業インフラは徹底的に破壊され、カンボジアは食糧輸出国から輸入国へ転落した。

クメール・ルージュのイデオロギーは、ヨーロッパ撤退後の反植民地主義と毛沢東思想の極端な形式を組み合わせたものである。党の指導層は、1950年代のフランスの大学への留学中に、そうした思想に親しんだ。またカンボジアの共産主義者の間には、ベトナム人への長い服従に対する反感があった。彼らは政権を握った時、カンボジアの社会にかつて思い描かれた原始共産制への移行の強制を試みた。党中央が毛沢東思想に染まっていく上では中国共産党の康生の薫陶によるところが大きく、康生はポル・ポトをして「毛沢東思想のもっとも忠実な実践者」と賞賛した。

クメール・ルージュ党中央委員会の常任委員会は、ポル・ポト、ヌオン・チア、タ・モクキュー・サムファン、ケ・ポック、イエン・サリソン・セン、ユン・ヤトおよびイエン・シリトを含む。クメール・ルージュの首脳部は、1960年代から1990年代半ばまでおおよそ不変だった。

[編集] 略歴

[編集] 民主カンボジア

[編集] 「完全な共産主義社会」

クメール・ルージュは、カンボジアの国名を「クメール共和国」から「民主カンボジア」に変更した。農村の荒廃と食糧輸入援助停止という飢餓・混乱状態の中、食糧増産を図る為、プノンペンなど大都市住民、資本家、技術者、知識人など知識階級から一切の財産・身分を剥奪し、農村に強制移住させ農業に従事させた。学校、病院および工場も閉鎖し、銀行業務どころか貨幣そのものを廃止し、宗教を禁止し、一切の私財を没収した。さらに一切の近代科学を否定した。クメール・ルージュはこれを「階級が消滅した完全な共産主義社会の建設」と称した。

移住させられた人々は、「集団農場」で農業に従事させられる一方、知識人階級は「反乱を起こす可能性がある」とされ殺害された。親ベトナム派や反乱の可能性を疑われたクメール・ルージュ内の人間も殺された。革命が成功したことを知り、国の発展のためにと海外から帰国した留学生や資本家も、殺された。また、子供は親から引き離して集団生活をさせ、幼いうちから農村や工場での労働や軍務を強いた。

戦争で国内が疲弊し海外からの食糧援助がすべて打ち切られた状態の中、クメール・ルージュはソ連ベトナムとも断交し、高度な専門知識、工業、貨幣制度をも否定した。そして原始共産制社会を理想とする極端な重農政策を強行したが、当然これは非現実・非科学的であり、カンボジア全土に大規模な飢饉をもたらした。

[編集] 大量殺戮

この政策は、強制労働および飢饉を通じて、カンボジア人の大量死に至った。クメール・ルージュ政権は、更に旧政権関係者、各種専門家および知識人への関係を持った者および親ベトナム派の党員、ベトナム系住民を殺戮した。

クメール・ルージュによって殺戮された人々の数が、さまざまな立場で検討されている。ヘン・サムリン政権は330万人が死んだと主張した。CIAは5万~10万人がクメール・ルージュによって殺害されたと推測したが、これには飢餓による死者数を含まない。アメリカ国務省アムネスティ・インターナショナルイェール大学・カンボジア人大量虐殺プロジェクトの3者は、それぞれ120万人、140万人および170万人と推計している。これらの機関は内戦時代の死者数については数字を出していない。 フィンランド政府の調査団は、ポルポト以前の死者(戦闘・爆撃による)を60万人、ポルポト以後の死者を100万人としている。

[編集] 没落

1978年5月にはポル・ポトへの反乱が疑われた東部軍管区のクメール・ルージュがポル・ポト配下の南西部のクメール・ルージュの攻撃を受け、東部地域の将兵が大量に処刑されるという事態が起きた(五月決起)。その結果ベトナム領には東部地区から十数万人の避難民が流入した。数年間の国境紛争およびベトナムへの大量の難民流入の結果、カンボジアとベトナムの関係は戦争寸前まで悪化した。クメール・ルージュは同年の4月にベトナムに侵入し、バ・チューク村の住民のほとんどを虐殺していた(村民3,157名のうち生き残ったものは僅か2名)。

同年の12月25日、ベトナム軍は10個師団もの兵力を国境に集め、カンボジアからの避難民から組織されたカンプチア救国民族統一戦線 (KNUFNS) を先頭にカンボジアに侵攻した。ベトナム軍は「カンボジアをクメール・ルージュの魔手から解放しようとしているKNUFNSを後方から支援しているだけ」という立場をとっており、ベトナム正規軍はカンボジアにいないと言い張っていたが事実は異なっていた(実際は累計15万を超える正規軍が派遣されており、KNUFNSの構成員は2万人程度だった)。実戦経験及びに装備の点で優れるベトナム軍はクメール・ルージュの抵抗を排し、わずか半月でプノンペンを占領、1979年1月7日にポル・ポト政権を追放した。

カンボジア人の従来のベトナム支配に対する反感にもかかわらず、ベトナムの侵入者は、広範囲に離脱したクメール・ルージュ党員によって支援された。彼らはクメール・ルージュの後の政府の中心を形成した。クメール・ルージュは西へ退き、タイによって非公式に保護され、ルビーと材木の密輸による資金で長年タイ国境付近の領域を支配し続けた。1985年にはキュー・サムファンが公式にクメール・ルージュのリーダーとしてポル・ポトを継いだ。

クメール・ルージュは、ベトナムとのゲリラ戦状態に至ると、アメリカレーガン政権)やイギリスサッチャー政権)から資金援助を受けた。カンボジアに多く埋められている地雷は、この期にクメール・ルージュが埋めた物だと言われる。

カンボジア侵攻に関してソ連は一貫してベトナムを支持し中国は一貫してカンボジア(クメール・ルージュ)を支援していた。すなわち、クメール・ルージュとベトナムの対立は、中ソ対立代理戦争の様相を呈していたのである。中国と友好関係にあった西側諸国は結果的にクメール・ルージュを陰で支援することとなった。このため、国連もクメール・ルージュ側を正規の政権として承認し続け、大量虐殺などの暴挙が国際的非難から免れることとなった。

中国は、カンボジアを占領しクメール・ルージュを追放したベトナムを激しく非難した。最終的にこの対立は中越戦争で火を噴くこととなるが、この時も実戦経験で勝るベトナム軍が中国軍に煮え湯を飲ませている。

1991年、全てのカンボジアの政治勢力は、選挙と武装解除を行う条約に調印した。しかしクメール・ルージュは1994年の国連監視の総選挙にも参加せず、選挙結果を拒絶し、戦闘を継続した。1996年にナンバー2のイエン・サリを含む多量離脱があり、残された兵士は半数の約4000人だった。1997年の党派の争いはクメール・ルージュ自身によるポル・ポトの監禁および裁判に結びついた。ポル・ポトは裁判で終身刑を宣告され、翌1998年4月15日に死去した。また、キュー・サムファンは1998年12月に投降した。クメール・ルージュの残りのリーダーは、1998年12月29日に、1970年代の大量殺戮に対して謝罪した。1999年までに、大半のメンバーは投降あるいは拘束された。

[編集] クメール・ルージュ特別法廷

自国民大虐殺、人道に対する罪などで元指導者達を裁く裁判(クメール・ルージュ裁判)は、国際連合をはじめとする国際社会の働きかけがある一方で、2006年7月3日に開始されるまで引き延ばされてきた[2]。この理由として、現政府の多くの職員が元クメール・ルージュ党員であること、クメール・ルージュを強力に支援した中国共産党の阻止活動があったこと、などが挙げられている[要出典]。この間、ポル・ポトが1998年に、タ・モクが2006年に死亡するなどし、また存命中の指導者の高齢化も進みつつある。若いカンボジア人の多くは、30年近く前に起きた暗黒の歴史には無知のままである。

起訴、審理ともにカンボジア人と外国人の司法官が共同でおこなうが、旧ユーゴスラヴィア戦犯法廷などとは違って当事者による裁判官の指名を認めるなど、「国際水準なみの国内法廷」という独特の法廷に関する国際連合の関与は限定されている。二審制であり、最高刑は終身刑である。日本は、運営予算5600万ドルのうち2160万ドルを拠出している。

訴追対象者は、ヌオン・チア元人民代表議会議長やイエン・サリ元副首相、タ・モク元軍参謀長・最高司令官ら5-10人の元最高幹部らが訴追される可能性が高いとされている。しかし、現政権はこれらの訴追対象者と司法取引を行い恩赦を与えているなど、この訴追に消極的であることが批判を受けている[3][4]

[編集] 脚註

  1. ^ 井川一久編著「新版カンボジア黙示録」田畑書店 p.203、ISBN 4-8038-0205-X
  2. ^ 外務大臣談話:http://www.mofa.go.jp/mofaj/i/press/danwa/2006/das_0703.html
  3. ^ カンボジア政府による特別法廷Webサイト:http://www.cambodia.gov.kh/krt/english/
  4. ^ ヒューライツ大阪によるレポート:http://www.hurights.or.jp/news/0607/b06.html

[編集] 参考文献

クメール・ルージュ支配下のカンボジアに残留した日本人女性は7名。そのうち5名は死亡または行方不明。内藤泰子(歌手の内藤やす子とは無関係の別人。夫と2人の子は死亡)と細川美智子(夫は死亡。2人の子とともに日本へ)の2名は生き残り、1979年にベトナム経由で帰国。

  • 細川美智子、井川一久・著 『カンボジアの戦慄』 朝日新聞社 1980年12月
  • 井川一久、武田昭二郎・著 『カンボジア黙示録』 田畑書店 1981年4月 258p ISBN 4-8038-0149-5
  • 井川一久・編著 『新版 カンボジア黙示録 -- アンコールの国の夜と霧』(現代アジア叢書 5) 田畑書店 1987年8月 463p ISBN 4-8038-0205-X

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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最終更新 2009年11月9日 (月) 13:39 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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