クルト・ダリューゲ
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Kurt Daluege
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1940年のクルト・ダリューゲ
制服は警察将官の制服 |
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| 生年月日 | 1897年9月15日 |
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| 没年月日 | 1946年10月24日(満49歳没) |
| 死没地 | |
| 出身校 | ベルリン工科大学 |
| 所属政党 | |
| 配偶者 | ケテ・ダリューゲ(旧姓シュヴァルツ) |
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| 任期 | 1933年5月11日 - 1936年6月半ば |
| 退任理由 | 警察組織が秩序警察に統合 |
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| 選挙区 | 3区(ポツダムII区) 後、ベルリン東地区 |
| 任期 | 1933年11月5日 - 1945年5月8日 |
| 退任理由 | ドイツ敗戦による国会の消滅 |
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| 任期 | 1934年11月1日 - 1936年6月半ば |
| 退任理由 | 警察組織が秩序警察に統合 |
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| 任期 | 1936年6月17日 - 1945年5月8日 実質的には1943年7月31日に退任 |
| 退任理由 | ドイツ敗戦による秩序警察の消滅 |
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| 任期 | 1942年6月4日 - 1943年8月20日 |
| 退任理由 | 病 |
クルト・マックス・フランツ・ダリューゲ(Kurt Max Franz Daluege[1]、1897年9月15日‐1946年10月24日)は、ドイツの政治家。秩序警察(OrPo)初代長官、第2代ベーメン・メーレン保護領副総督。親衛隊(SS)の高官であり、最終階級は親衛隊上級大将(SS-Oberstgruppenführer)および警察上級大将(Generaloberst der Polizei)。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 前半生
ドイツ帝国プロイセン王国のシュレージエン州(Provinz Schlesien)クロイツブルク(Kreuzburg)に中級公務員パウル・ダリューゲ(Paul Daluege)とその妻ラウラ(Laura)(旧姓ヴェッカー(Wecker))の次男として誕生。二歳年上の兄にエーリヒ・ダリューゲがいる[2]。 ブラスラウとフランクフルト・アン・デア・オーダーの小学校(Volksschule)を卒業したあと、フランクフルト・アン・デア・オーダーの実科ギムナジウムへ入学し、1916年1月に戦時中のアビトゥーアのノートアビトゥーア(Notabitur)に合格してギムナジウムを卒業[3]。
第一次世界大戦中の1916年1月にプロイセン王国軍の近衛歩兵連隊に入隊し、西部方面へ出征した。1917年10月25日に副曹長(Vizefeldwebel)に昇進している。1918年4月に頭と肩を激しく負傷し、以降、ドイツの敗戦までフランクフルト・アン・デア・オーダーで入院していた。大戦中に二級鉄十字章と戦傷章黒章を叙勲した[3][4]。
戦後、1918年から1922年にかけてシレジアの義勇軍(フライコール)に部隊指揮官として参加し、1921年にはシレジア蜂起の鎮圧戦で活躍した[5]。一方、1921年から1924年にかけてベルリン工科大学に在学し、建築エンジニアとしての勉強をした。1924年に工学士の試験に合格。その後、製鉄所で統計家として勤務したのち、プロイセン州農務省に入省した。はじめ技術官助手として勤務したが、後に運河と線路の建設監督官を務め、さらにベルリンのゴミ処理場建設に責任を負う部門の長官に任じられた[3]。
[編集] ナチス突撃隊
1922年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)に入党するが、ミュンヘン一揆の失敗で党が解散したため、一時離れた。その後、禁止された突撃隊(SA)の偽装組織「フロントバン」(Frontbann)に参加。1924年8月から1926年3月22日にかけては「フロントバン」の北方エリアの責任者となった[4][3]。
1926年3月12日に再建されたナチス党に再入党(党員番号31,981)[6]。フライコール退役者や無職者、民族主義者のスポーツ選手などを集めてベルリンに最初の突撃隊(SA)部隊を創設させた。その数は1926年初めには500人に達し、ベルリンのナチ党の一大勢力となった[5]。
1926年11月から1930年7月にかけて突撃隊集団「ベルリン=ブランデンブルク」(SA-Gruppen "Berlin-Brandenburg")の司令官をつとめた。また併行して1926年11月から1930年11月にかけてはナチス党ベルリン大管区指導者ヨゼフ・ゲッベルスの代理を務めている。ダリューゲは、ミュンヘンのナチ党中央に対しても過激な態度を取るベルリン突撃隊の最高指導者であったが、党首アドルフ・ヒトラーは味方につければ頼もしいとみてダリューゲを取りこんだ。ダリューゲは、ゲッベルスとともにベルリンの過激分子を監視する「ヒトラー派」となった[7]。ダリューゲが突撃隊監視の役割を果たせるよう、ヒトラーは、1929年1月からベルリンの親衛隊(SS)部隊の指揮をダリューゲに任せた。さらにミュンヘンにいる親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーから独立して指揮してよいことも認められた[4]。
しかしダリューゲは、ヴァルター・シュテンネスらベルリン突撃隊幹部の反乱を防止できず、またゲッベルスの要請でダリューゲのベルリン親衛隊部隊が反乱の鎮圧に出動するも鎮圧に失敗している。やむなくゲッベルスはこれまで散々けなしてきた警察に介入を願い出ている[8]。しかしナチ党内では鎮圧の功績者はダリューゲとされ、ヒトラーはダリューゲに「SS隊員よ、忠誠こそ汝の名誉」という言葉を贈っている。この言葉は全親衛隊のモットー「忠誠こそわが名誉」の原型となった[9]
[編集] ナチス親衛隊
1930年7月25日に正式に突撃隊を去り、親衛隊(SS)へ移籍した(隊員番号1,119)[6]。ヒムラーから親衛隊上級大佐(SS-Oberführer)の階級で迎えられた。1930年12月から1931年9月にかけて上級指導者地区「東方」(Oberführerbereich "Ost")、1931年3月から1932年8月にかけて第3親衛隊地区(SS-Abschnitt III)、1932年7月から1933年10月にかけては親衛隊集団「東方」(SS-Gruppen "Ost")の司令官となる。いずれもベルリンの親衛隊を管轄する役職である。また1932年7月の総選挙ではベルリンから出馬して国会議員に当選している[4]。
親衛隊移籍後もダリューゲは引き続きベルリンの親衛隊をヒムラーから半ば独立して治めていた。1933年1月30日にナチス党が政権を取り、ヘルマン・ゲーリングがプロイセン州内相となる。ゲーリングはベルリンの親衛隊を取り仕切るダリューゲの取り込みを狙い、2月6日にダリューゲをプロイセン州の特別任務州委員(Staatskommissar z.b.V)に任命し、またプロイセン州内務省へ招いて「ダリューゲ特別局」(Sonderabteilung Daluege)を設置させ、その長官とした。さらに3月30日には無任所州委員(Staatskommissar ohne Geschäftsbereich) に任命。5月11日にはプロイセン州内務省第2局(警察局)の局長に任命した。さらに9月にはプロイセン州地方警察少将(のち中将)の階級を与えられた[3]。これによりダリューゲはナポレオン以来のドイツ最年少の将軍となった[10]。
ゲーリングという後ろ盾を得たダリューゲはますます名目上の上司ヒムラーを軽視するようになっていった[11][10]。このゲーリングとダリューゲの接近は、いまだバイエルン州ミュンヘンにあったヒムラーとラインハルト・ハイドリヒにも伝わった。事態を危険視したヒムラーは、1933年春頃にハイドリヒ(当時親衛隊大佐)をベルリンに派遣し、ダリューゲの説得にあたらせることとした。ハイドリヒはベルリンを訪れ、数回にわたりダリューゲに面会を求めたが、ダリューゲは面会を拒否した。さらにゲーリングのゲシュタポにハイドリヒに圧力をかけてもらい、ハイドリヒをミュンヘンへ追い返すことに成功した[5][11]。
1934年6月30日から7月初めにかけて行われた「長いナイフの夜」の際にはゲーリング・ヒムラー・ハイドリヒらが主導する粛清に協力した。またエルンスト・レームら突撃隊幹部が粛清されたことで様々な突撃隊の部隊や地区の指揮官に空席が生じたため、次の指揮官が決まるまでの一時的な処置としてダリューゲには五つの突撃隊集団(SA-Gruppen)が任せられた[4]。
ゲーリングは1934年4月20日にゲシュタポ指揮権をヒムラーに譲渡し、事実上ヒムラー達と和解していた。しかしダリューゲは、引き続きヒムラーからの独立を目指し、続いてドイツ内務大臣ヴィルヘルム・フリックに接近した。そのため1934年11月から1936年6月にかけてダリューゲは、フリックからドイツ内務省第三局(Abteilung III)(警察局)の局長を任せられていた[4]。フリックとしてもヒムラーを名目上の事務職にして、ダリューゲをヒムラーの常任代理にしてドイツ警察を担わせたいと考えていた[12]。
しかし1936年6月9日、総統アドルフ・ヒトラーは、ハイドリヒから出されていた「ヒムラーが警察唯一の指揮権保持者であり、ヒムラーは独自の資格を持って内務省に参加し、また閣僚待遇で閣議に出席すべき」という提案を認めた。フリックはただちにヒトラーに抗議したが、ヒトラーは、「ヒムラーを閣僚にすることは認めていない。ヒムラーは『事務次官』として閣議に出席するだけだ」と返答してフリックを納得させた[12]。
1936年6月17日にはフリックはヒムラーを全ドイツ警察長官(Chef der Deutschen Polizei)に任命することとなった。ヒムラーはフリックが推すダリューゲを一般警察業務を司る秩序警察長官(Chef der Ordnungspolizei)に任命し、あわせてヒムラーが不在時に警察指揮権を握る全ドイツ警察長官代理にも任命して一応厚遇したが、ゲシュタポや刑事警察(クリポ)など権力の源泉となる政治警察業務はすべてラインハルト・ハイドリヒの保安警察にまとめられたため、ダリューゲの権力は一般警察業務に限定されることとなった。ハイドリヒはダリューゲに「政治的重要事項はすべて保安警察の管掌に属する」とまで書いてよこすようになり[13]、ダリューゲは次第にSS内部における実権を失っていった[14]。
[編集] 第二次世界大戦中
第二次世界大戦開戦後、1939年9月のヒトラーの命令や10月のヒムラーの命令によりダリューゲの秩序警察からも武装親衛隊に人員が出されることとなった。1940年2月から「第4SS警察装甲擲弾兵師団」として16,000人の警察官が出征している[15]。
1942年4月に親衛隊最上位の親衛隊上級大将及び警察上級大将(SS-Oberstgruppenführer und Generaloberst der Polizei)に昇進した。親衛隊上級大将の階級はダリューゲを含めて4人にしか送られていない(他にフランツ・クサーヴァー・シュワルツ、ヨーゼフ・ディートリヒ、パウル・ハウサー)。
1942年6月にベーメン・メーレン保護領副総督をしていたハイドリヒが暗殺により死亡するとその後任に任じられた。ダリューゲは、ハイドリヒ暗殺の報復としてボヘミアでリディツェ村やレジャーキ村の虐殺をおこなった。
一方、ベーメン・メーレン保護領の親衛隊及び警察高級指導者カール・ヘルマン・フランクもハイドリヒの死後、本格的に権力を拡大させ、1942年8月にはベーメン・メーレン保護領担当相に任じられている。ダリューゲはハインツ・ラインファルトを民政長官に任じてフランクの権力の抑え込みをはかっていた[4]。
しかし1943年5月、ダリューゲは心筋梗塞で重体となり、7月31日には秩序警察長官、8月20日にはベーメン・メーレン保護領副総督の地位を降りることとなった(ただし序警察長官職には形式的にドイツの敗戦までとどまった。後任のアルフレート・ヴェンネンベルクは秩序警察長官代理という立場であった)。
その後、ダリューゲは敗戦まで療養していたが、1945年5月にリューベックにおいてイギリス軍により逮捕された[16]。
[編集] 戦後
ニュルンベルクで拘禁されていたが、1946年9月、ダリューゲの身柄はチェコスロヴァキアへと移された。1946年10月9日からベーメン・メーレン保護領副総督としておこなった行為についてチェコスロヴァキアの法廷にかけられ、10月23日には死刑判決を受けた。翌日、即死刑執行に決まる。ダリューゲは、死刑執行直前に壊れたグラスで手首を切って自殺を図ったが、失敗している。パンクラーツ刑務所内において処刑された[17]。
[編集] 家族
妻はケテ・シュヴァルツ(käthe Schwarz)。1926年10月16日に結婚している。妻ケテもナチ党員となっている。ケテとの間に二人の息子と一人の娘を儲けた。また一人の養子をもらっている。クルト・ダリューゲの兄のエーリヒ・ダリューゲも親衛隊隊員となっており、彼は親衛隊中佐まで昇進している[16]。
[編集] 人物
- ベルリンの突撃隊指導者時代には喧嘩好きで知られた。そのため知能の低い人物として「ドゥミ・ドゥミ」(Dummi-Dummi)(ドゥミは「馬鹿」の意)と蔭口されていたという[5]。
- 信仰はプロテスタントだったが、親衛隊の規則に従って1936年11月30日にキリスト教会を離れた[2]
- 身長は6フィート3インチ(190センチ)だった[16]
[編集] キャリア
[編集] 親衛隊階級[3]
- 1930年7月25日、親衛隊二等兵(SS-Mann)
- 1931年2月26日、親衛隊上級大佐(SS-Oberführer)
- 1932年7月1日、親衛隊中将(SS-Gruppenführer)
- 1934年9月9日、親衛隊大将(SS-Obergruppenführer)
- 1942年4月20日、親衛隊上級大将(SS-Oberstgruppenführer)、
[編集] 警察階級[3]
- 1933年9月14日、地方警察少将(Generalmajor der Landespolizei)
- 1935年4月20日、地方警察中将(Generalleutnant der Landespolizei)
- 1936年6月17日、警察大将(General der Polizei)
- 1942年4月20日、警察上級大将(Generaloberst der Polizei)
[編集] 叙勲[2]
- 鉄十字章
- 二級鉄十字章(1916年から1918年の間に叙勲)
- ドイツ十字章
- 銀章(1942年9月10日叙勲)
- 戦傷章
- 黒章(1918年叙勲)
- 戦功十字章
- 剣付二級章(1941年1月30日叙勲)
- 剣付一級章(1941年4月20日叙勲)
- 剣付き騎士章(1943年9月7日叙勲)
- 名誉十字章
- 前線戦士章(1934年叙勲)
- 黄金ナチ党員バッジ(1934年2月1日叙勲)
- 親衛隊名誉リング(1933年12月24日授与)
- 親衛隊全国指導者名誉剣(1935年9月15日授与)
- ダンツィヒ十字章
- 二級ダンツィヒ十字章(1939年8月31日叙勲)
- オリンピック勲章(de:Olympia-Ehrenzeichen)
- 一級オリンピック勲章(1936年10月29日叙勲)
- ドイツ赤十字社勲章(de:Ehrenzeichen des Deutschen Roten Kreuzes)
- 一級ドイツ赤十字社勲章(1938年1月30日叙勲)
- 1938年3月13日記念メダル(1838年11月21日叙勲)
- 1938年10月1日記念メダル(1939年5月4日叙勲)
- 略章「プラハ城」(1939年10月26日叙勲)
- 勤続章(de:Dienstauszeichnung)
- 警察勤続章(Polizeidienstauszeichnung)
- ナチ党勤続章(Dienstauszeichnung der NSDAP)
- 銅章(1940年1月30日叙勲)
- 銀章(1941年か1942年叙勲)
- イタリア王冠勲章(イタリア王国勲章)(it:Ordine della Corona d'Italia)
- 大将校章(1937年4月20日叙勲)
- 大十字騎士章(1938年10月18日叙勲)
- ルーマニア星勲章(ルーマニア王国勲章)(ro:Ordinul naţional)Steaua României
- 大将校章(1942年6月22日叙勲)
[編集] 文献
- ゲリー・S・グレーバー著『ナチス親衛隊』(東洋書林)(日本語)ISBN 978-4887214132
- ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史(上)』(講談社学術文庫)(日本語)ISBN 978-4061594937
- 山下英一郎著『ナチ・ドイツ軍装読本 警察とナチ党の組織と制服』(彩流社)(日本語)。ISBN 978-4779112126
- 『欧州戦史シリーズVol.17 武装SS全史1』(学研)(日本語)ISBN 978-4056026429
- Mark C. Yerger著『Allgemeine-SS』(Schiffer Pub Ltd)(英語)ISBN 978-0764301452
- Michael D. Miller著『Leaders of the SS & German Police, Volume I』(Bender Publishing)(英語)ISBN 9329700373
- Gordon Williamson著 『The SS: Hitler's Instrument of Terror: The Full Story From Street Fighters to the Waffen-SS』(Motorbooks International)(英語)ISBN 978-0879389055
[編集] 出典
- ^ フルネームの情報源は、Michael D. Miller 著『Leaders of the SS & German Police, Volume I』(R. James Bender Publishing)215ページ
- ^ い ろ は Michael D. Miller 著『Leaders of the SS & German Police, Volume I』(R. James Bender Publishing)224ページ
- ^ い ろ は に ほ へ と Michael D. Miller 著『Leaders of the SS & German Police, Volume I』(R. James Bender Publishing)216ページ
- ^ い ろ は に ほ へ と Mark C. Yerger著『Allgemeine-SS』(Schiffer Pub Ltd)148ページ
- ^ い ろ は に ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)68ページ
- ^ い ろ Michael D. Miller 著『Leaders of the SS & German Police, Volume I』(R. James Bender Publishing)215ページ
- ^ ゲリー・S・グレーバー著『ナチス親衛隊』(東洋書林)63ページ
- ^ 『欧州戦史シリーズVol.17 武装SS全史1』(学研)34ページ
- ^ ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)76ページ
- ^ い ろ ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)85ページ
- ^ い ろ ゲリー・S・グレーバー著『ナチス親衛隊』(東洋書林)68ページ
- ^ い ろ ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)197ページ
- ^ しかしこのハイドリヒの提案に対してはダリューゲの秩序警察側も反論し、「警察はもともと常道から外れた事項を処理する巡査の発展したものにすぎず、何らの管理的権能を備えず、ただ他からの指令を実行する機関である。」と言ってはねのけている。(ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)207ページ)
- ^ 『欧州戦史シリーズVol.17 武装SS全史1』(学研)112ページ
- ^ 『ナチ・ドイツ軍装読本 警察とナチ党の組織と制服』彩流社。98 - 99ページ
- ^ い ろ は Michael D. Miller 著『Leaders of the SS & German Police, Volume I』(R. James Bender Publishing)223ページ
- ^ Michael D. Miller 著『Leaders of the SS & German Police, Volume I』(R. James Bender Publishing)223ページ
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最終更新 2009年11月30日 (月) 00:38 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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