クレタ島
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| クレタ島 | |
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| 面積 | 8,300km² |
| 海岸線長 | 1,040km |
| 所在海域 | 地中海 |
| 所属国・地域 | ギリシャ共和国 |
クレタ島(クレタとう、Κρήτη; Kriti, Kreteまたはcrete; 現代ギリシャ語:クリティ)はギリシャ共和国で最も大きく、地中海ではシチリア島、サルデーニャ島、キプロス島、コルシカ島についで5番目に大きな島である。ギリシャはもとより、地中海の代表的な観光地でもある。
面積は8,300平方キロメートル、海岸線の長さは1,040キロメートルであり、北側の海はクレタ海とも呼ばれる。人口は50万人以上。島全体で一つのペリフェリエス(地方)であり、ハニア(Hania)、レティムノ(Rethimno)、イラクリオン(Iraklion)、ラシティ(Lasithi)の4つの県(ノモス)からなる。イラクリオンのニコス・カザンツァキス空港とハニアのダスカロギアニス空港という2つの重要な空港がある。主要な都市は、イラクリオン、ハニア、レティムノ、アギオス・ニコラオスである。
観光スポットとしては、クノッソス宮殿やフェストス遺跡、ゴルティス遺跡などの考古学上の遺跡、またヴェネツィア人がハニアに建てた城といった史跡や、サマリア渓谷やアギア・イリニ、アラデネなどにある渓谷など自然景観が有名である。
なお、ギリシャ共和国の主要宗教はアテネに大主教座を置くギリシャ正教会であるが、クレタ島だけは同じ正教会でもトルコのイスタンブルにあるコンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下にある。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 神話・前史時代
クレタ島の開闢は古く、ギリシャ神話では、赤子のゼウスがクレタ島のアドラステイアとイーデーによってアイガイオン山に匿われ、また、エウロペイアが牛に変じたゼウスにさらわれ、ボスポラス海峡(牛渡りの海峡)を通ってクレタに辿り着き、その子がクレタ王となって文明が生じたとされる。この他にもホメロスのイリアスなど、クレタ島に関する諸話(「テセウスとミノタウロス」や「ダイダロスとイカロス」など)は多い。
[編集] ミノア文明
クレタ島はヨーロッパにおける最初の文明のひとつであるミノア文明が栄えた。当時の社会については、伝えられるべき文字が遺されなかったため、遺構から類推するよりほかないが、平和で開放的であったと考えられている。ミノア期の遺跡には、壮麗な石の建築物や複数階の宮殿があり、排水設備や、女王のための浴場、水洗式のトイレがあった。水力を動力とする仕組みに関する技術者の知識はとても高度なものであった。エジプトなどとの交易によってもたらされた遺物から、ミノア文明は、紀元前3000年頃からクノッソスが衰退した紀元前1400年頃ごろまで栄えたと考えられている。
その当時クレタ島で使われていた言語はミノア語であると考えられている。ミノア語はアルファベットとは異なる象形文字を持ち、これを線文字Aと呼ぶ。線文字Aはいまだ解読されていないが、後世に書体が簡略化された線文字Bは1952年、マイケル・ヴェントリスによって、ギリシャ語である事が判明した。 またミノア語からはクレタ語と呼ばれる言語が派生したと考えられているが、現在は死語であり、資料も地中海沿岸で派遣されたものがわずかにあるだけで、これについて分かっていることは非常に少ない。
[編集] ポリス時代
ギリシャ各地にポリスが出現していた時代のものとして、クレタ島ドレロス (Dreros、現在のドリロス、アイオス・ニコラオスとプラカ (Plaka) の中間)からは現存する最古(紀元前7世紀)の成文法が発掘されている。コスモスと呼ばれる高位役職者の連続した就任を禁じ、再任の場合には10年を経る事を定めたものであり、特定の者に権力が集中する事を防ぐことを狙ったものとみられる。
クレタ島のポリス時代には、他のギリシャ各地とは異なる点が多々ある。
- クレタでは葬制および宗教的慣行について、他のギリシャ各地とは異なり、暗黒時代から前古典期までの連続性がみられる。
- 祭祀が行われた場所は洞穴や山頂など野外であり、神殿のような建造物が少なかった。この事は神殿をアクロポリスに建設し、これを中心に人々が集まってポリスを形成していった他のギリシャ各地と異なっている。前8世紀末から前7世紀にドレロス、ゴルテュン (Gortyn、プリアニスでも神殿が建てられていくが、他の地域の神殿とは構造上の違いがある。
- 中央部ギリシャで考古学上の痕跡としてみられる、前8世紀に起きた社会の再編成が、クレタ島にはそのような現象が起きていない。
クレタ島史の研究に際しては、前6世紀を通じて考古史料が激減しており、前6世紀初頭の解明が重要な課題とされている。
[編集] 中世
- 紀元前27年、現リビアのキレナイカ地方とあわせて、ローマ帝国がキレナイカ属州を設置。ローマ帝国の東西分裂後は東ローマ帝国 が領有を継承した。
- 824年、イベリアのイスラム教徒が侵入。カンディア (Candia、現在のイラクリオン) を建設、クレタ首長国 (Emirate of Crete) の首都とする。
- 843年、イスラム系住民により島全体が領有される。
- 961年、東ローマ帝国が奪回。
- 1204年、十字軍に参加していたヴェネツィア共和国により征服される。
- 1644年から1669年にかけて、オスマン帝国と領有を争い (クレタ戦争)、結果的にオスマン帝国領となる。
[編集] 近代
直接の当事者であるオスマン帝国/トルコとギリシャの争いに加えて、欧州列強の介入により国際政治の上では翻弄され続けた歴史を持つ。
- 1830年のロンドン議定書により、オスマン帝国からエジプト (オスマン帝国の属州だったが、ムハンマド・アリー朝としてほとんど独立状態であった) に移される。
- 1840年にオスマン帝国に戻される (第二次エジプト・トルコ戦争でエジプトの戦力に脅威を覚えた欧州列強の介入による)。
- 1888年、クレタ議会選挙で急進派が多数を占めたことから、オスマン帝国がクレタ島に派兵。議会はそれ以降、ギリシャへの併合を目指す。
- 1896年、在アテネの民族協会とギリシャ海軍がクレタに派兵。欧州列強がクレタ島を封鎖し、これを阻止。
- 1898年、列強の圧力により、オスマン帝国の宗主権の元で自治権を持ったクレタ州 (Cretan State) が発足。司法顧問にヴェニゼロスが着任。ゲオルギオス1世の次男ゲオルギオス王子が1898年から1906年までクレタ総督の地位にあった。
- 1913年、第一次バルカン戦争の結果、オスマン帝国が領有権を放棄し、ギリシャ領となる。
- 1922年、希土戦争の結果ローザンヌ条約が締結され、これにより翌年からトルコとの住民交換 (en) が開始された。イスラム系住人の多くはアナトリア半島沿岸部、シリア、レバノン、エジプトに移住させられたが、その一部は現在から見るとギリシャ人であったとされている。同時にスミルナをはじめとする小アジアからはギリシャ人が移住してきたが、彼らは習慣、方言、食生活等、以前からクレタ島にいた住人とは大きな相違があった。結果的に、クレタ島の民族構成は非常に大きく変わった。
- 1936年、ギリシャ本土のクーデターに反抗し、暴動が発生。戒厳令が敷かれる。
- 1941年、第二次世界大戦中にイギリス軍が進駐。本土がドイツ軍に占拠されたため国王、首相がクレタに避難。その後ドイツ軍はクレタにも進軍し、5月に激しい戦闘の舞台となった (クレタ島の戦い)。落下傘部隊を中心とするドイツ軍がクレタ島に侵攻し、駐留していたイギリス軍を追い出した。国王と首相はカイロに逃れ、ドイツ軍の駐留は第二次大戦終了まで続いた。ドイツ降伏後はギリシャに支配権が戻った。
戦後、ギリシャ本土は全体主義と植民地主義のせめぎ合いの状態であったが、クレタの住民はイギリス風を好み、本土とは距離を置いていた。1967年のクーデター以降は、本土との交通、通信の発達の寄与もあり、政治的距離は縮まっている。
[編集] 出身者
- エピメニデス (紀元前600-500年頃、詩人・預言者、関連項目参照)
- ネアルコス (紀元前360年頃-紀元前300年、マケドニアの将軍)
- メソメデス (2世紀頃、音楽家)
- エル・グレコ (1541-1614、画家)
- エレフテリオス・ヴェニゼロス(1864-1936、政治家)
- ニコス・カザンザキス (1883-1957、作家)
- オデッセアス・エリティス (1911-1996、詩人、ノーベル文学賞受賞)
- ナナ・ムスクーリ (1934- 、歌手・政治家)
- ジョセフ・シファキス (1946- 、計算機科学者、チューリング賞受賞)
[編集] 参考文献
- 桜井万里子編『世界各国史 17 ギリシア史』山川出版社 ISBN 4-634-41470-8
[編集] 関連項目
- アルカディ修道院 - 反トルコ蜂起の舞台となった正教会の修道院。
- 自己言及のパラドックス - クレタ人が「クレタ人はすべて嘘つき」と言った…「嘘つきのパラドックス」の代表例。
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年11月14日 (土) 04:17 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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