クレメンス7世 (ローマ教皇)
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クレメンス7世(Clemens VII 1479年5月24日-1534年9月25日)はローマ教皇(在位:1523年 - 1534年)。メディチ家の出身で、本名はジュリオ・デ・メディチ(Giulio de' Medici)。2代前のレオ10世の従弟に当たる(パッツィ家の陰謀で殺害されたジュリアーノの遺児)。
[編集] 略歴
教皇レオ10世の下で枢機卿として有能な手腕を発揮していたが、教皇に即位した後は不安定な国際情勢に翻弄され、ローマ略奪の惨事を招く。宗教改革という事態に対しても何ら有効な手が打てず、メディチ家の権益擁護に終始した。
芸術・文化のパトロンという面では、枢機卿時代にラファエロを引き立て、1520年に政敵であるマキャヴェッリに『フィレンツェ史』の執筆依頼をしている。のちには天文学者コペルニクスの研究も支援した。晩年にはフィレンツェからミケランジェロを呼び寄せ、システィーナ礼拝堂の壁画の作成を依頼する(ミケランジェロは気が進まず、実際に「最後の審判」を手掛けたのはクレメンス死後の1536年から1541年である)。
在世中はイタリアを巡ってフランスと神聖ローマ帝国との戦闘が続き(イタリア戦争)、マルティン・ルターによる宗教改革運動もあって、不安定な状況であった。1527年、フランスと同盟を結んだ法王への報復として、神聖ローマ皇帝カール5世の軍がローマに侵攻する。クレメンスはサンタンジェロ城に逃れるが、市内では殺戮、破壊、略奪、強姦等の惨劇が繰り広げられた(サッコ・ディ・ローマ、ローマ略奪)。他の都市へ逃れる市民も多く、ルネサンスの中心であったローマは見る影もなく荒廃した。クレメンスが優柔不断だった面もあるが、むしろイタリア戦争、宗教改革、イスラム教国オスマン帝国のヨーロッパへの圧力と、カトリック教会史上最悪の状況であったことから、教皇個人の資質のみを責めるのは酷かもしれない。イタリアとヨーロッパが分裂し、混乱を重ねる時代だったのである。
クレメンスはカール5世と和解し、カールに神聖ローマ皇帝の戴冠を行う。これ以後もイタリアを巡ってフランスと神聖ローマ帝国の戦闘は続くものの、後者の優位がほぼ確定する。
なお、この間にメディチ家のアレッサンドロ(クレメンスの庶子)は教皇の支援の下にフィレンツェを統治していた。1527年、ローマ略奪の報が伝わると一時追放されるが、1530年にカール5世の支援により復帰、1532年にフィレンツェ公国を建国している。
晩年の1533年には、カテリーナ・デ・メディチとフランス王子アンリ(後のアンリ2世)の結婚式に出席。離婚問題で紛糾していたヘンリー8世を破門したが、その1年後の1534年9月に死去。時代の激しい荒波に呑まれた「悲劇の教皇」であったが、ローマの破滅を招き、メディチ家の存続ばかりに心を砕き続けたクレメンスの死を悼む者は誰もいなかったと言う。
[編集] 同名の人物
別に同名の対立教皇クレメンス7世(在位:1378年 - 1394年)がいる。
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最終更新 2009年10月25日 (日) 02:30 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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