クーパー (F1)
クーパー (F1)の最新ニュースをまとめて検索!
| 参戦年度 | 1950, 1952 - 1969 |
|---|---|
| 出走回数 | 128 |
| コンストラクターズ タイトル |
2 (1959, 1960) |
| ドライバーズタイトル | 2 |
| 優勝回数 | 16 |
| 通算獲得ポイント | 342 |
| 表彰台(3位以内)回数 | 58 |
| ポールポジション | 11 |
| ファステストラップ | 12 |
| F1デビュー戦 | 1950年モナコGP |
| 初勝利 | 1958年アルゼンチンGP |
| 最終勝利 | 1967年南アフリカGP |
| 最終戦 | 1969年モナコGP |
クーパー(Cooper Car Company)は、かつて存在したイギリスのレーシングカーコンストラクター。F1の1959年、1960年度コンストラクターズチャンピオン。F2、F3などの下部カテゴリーでも好成績を収めた。
目次 |
[編集] 主な活動
[編集] F1における活躍
1946年、チャーリー・クーパーと息子ジョン・クーパーがサリーのサービトンでレーシングカー製造工場を開業した。第二次世界大戦後の物資難のため、中古の車体や軍のジャンクパーツを流用。オートバイ用のJAPエンジンをミッドシップ式に搭載したクーパー500は、入門カテゴリーのフォーミュラ500(後のF3)でベストセラーとなり、スターリング・モスら若きドライバーに愛用された。このマシンはプライベーターの手により、F1初年度のモナコGPに参戦(当時、特定のグランプリでは台数確保のため混走が許されていた)。次いでブリストルBSエンジン搭載のF2マシンも人気を博し、F2規定下で行われた1952年、1953年のF1では多くのプライベーターに供給された。
ワークス・チームとしては、1955年のイギリスGPにプロトタイプレーシングカー改造マシンでスポット参戦(ドライバーはメカニック出身のジャック・ブラバム)。1957年より2,000ccのコベントリー・クライマックスエンジンを搭載したミッドシップマシンで本格参戦を始める。翌1958年の開幕戦アルゼンチンGPで、ロブ・ウォーカー・レーシングのモスがコンストラクターとしての初勝利を達成。これはF1史上、プライベーター・チームが記録した最初の勝利でもあった。1959年にはエンジンを2,500ccまでボアアップし、ワークス、プライベーター両チーム合わせて9戦中5勝を記録。コンストラクターズ選手権を初制覇し、ワークスチームのブラバムがドライバーズチャンピオンに輝いた。翌1960年もブラバムの5連勝を含む10戦中6勝を挙げ、両タイトルを連覇した。
クーパーの快進撃に衝撃を受けた他チームはこぞってミッドシップマシンを開発。ロータスらの台頭により、徐々にクーパーの優位は失われていく。ブラバムの独立後、ブルース・マクラーレンが新エースとなるも成績は下降。チャーリー・クーパーが死去し、息子ジョンも交通事故で負傷した後、1965年に会社はチップステッド・モーターグループへ売却される。クーパー名義での参戦は続き、1966年にマセラティエンジンを搭載してジョン・サーティース、ヨッヘン・リントらが好走。しかし再び戦力を落とし、1969年末にF1からの撤退を決めた。
|
|
|
[編集] ミニ・クーパーの活躍
ミニ・クーパーの詳細についてはMiniまたはMINI (BMW)を参照。
クーパーは小型乗用車ミニの性能に目をつけ、BMCにスポーツモデルの販売を提案。チューンナップを手がけたミニ・クーパー、ミニ・クーパーSは1960年代のレース界を席巻する。伝統のモンテカルロ・ラリーでは、ランチアやポルシェら強豪を退け1964、1965、1967年の総合優勝を果たした。1966年の優勝が認められれば4連覇だったが、この時はライトの規定違反を問われ失格処分となった。
ミニの製造メーカーが合併・買収などで変化しても、ミニ・クーパーはスポーツモデルとして継承されている。 ジョン・クーパーはチューンナップガレージを経営する傍ら、これらの開発アドバイザーも務めていた。クーパーワークスのシンボルであるブリティッシュグリーンに白いストライプのカラーリング(画像参照)は、市販モデルでも人気カラーのひとつになっている。
[編集] クーパーの功績
[編集] ミッドシップ革命
1930年代のアウトウニオンPワーゲンがミッドシップ方式で成功した例があるものの、フォーミュラカーのエンジンレイアウトは1950年代も依然フロントエンジン・リヤドライブ(FR)方式が主流を占めていた。しかしF1におけるクーパーの活躍により、地殻変動のごとくミッドシップ化が進行することになる。クーパーのマシンは小型でエンジンも非力だったが、ミッドシップ特有の軽快なコーナリング性能を発揮し、フェラーリらのFRマシンを時代遅れなものにした。クーパーは1951年のインディ500にも挑戦し、大排気量車を相手に9位と健闘。その後ロータスの優勝もあり、アメリカのオープンホイールカーレースでもミッドシップ化が進むことになる。
ただし、最初にクーパー500でミッドシップ方式を採ったのは「オートバイエンジンのチェーン駆動に適している」という現実的な理由であった。クーパーの設計思想はむしろ保守的・職人的であり、モノコックシャシーなど革新的な技術を打ちだすロータスに対しては、安全性を考慮し直ちに追随しなかった。
[編集] コンストラクターのモデル
従来のF1参戦マシンは、フェラーリやメルセデス・ベンツなどの自動車メーカーがシャーシとエンジンをセットで開発するのが一般的であった。これに対し、非メーカー系チームのクーパーはシャーシのみを設計し、量販エンジンを搭載するというコンストラクター(車体製造者)の立場で頂点を極めた。下町の小さなガレージの裏庭でマシンを組み立てるため「バックヤードビルダー」と呼ばれたこのスタイルを手本に、1960年代から1970年代にかけて続々と英国系コンストラクターが誕生し、F1に参戦することになる。
[編集] 人材輩出
クーパーは1960年代末に消滅したが、所属ドライバーが独立して創設したブラバムやマクラーレンは、後に名門チームへと成長する。ドライバー以外でも、クーパーのF2チームを指揮し、一時期F1チームの監督代行も務めていたケン・ティレルが独立してティレルを興した。マクラーレンの総帥ロン・デニスも、もとはクーパーのメカニックとしてレース界に入った人物である。
[編集] 関連項目
|
||||||||||||
最終更新 2009年9月19日 (土) 03:31 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【クーパー (F1)】変更履歴


