コービー・ブライアント
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コービー・ブライアント Kobe Bryant ロサンゼルス・レイカーズ No.24 |
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|---|---|
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| 名前 | |
| 本名 | Kobe Bean Bryant |
| 愛称 | ブラックマンバ |
| ラテン文字 | Kobe Bryant |
| 基本情報 | |
| 国 | |
| 誕生日 | 1978年8月23日(31歳) |
| 出身地 | ペンシルベニア州フィラデルフィア |
| 身長 | 198cm |
| 体重 | 93kg |
| 選手情報 | |
| ポジション | シューティングガード |
| 背番号 | 24 |
| ドラフト | 1996年 13位 |
| 経歴 | |
| 1996-現在 | ロサンゼルス・レイカーズ |
| オリンピック | ||
|---|---|---|
| 金 | 2008 | バスケットボール |
コービー・ビーン・ブライアント(Kobe Bean Bryant, 1978年8月23日 - )は、アメリカ合衆国のバスケットボール選手。ペンシルベニア州フィラデルフィア出身。北米プロバスケットリーグNBAのロサンゼルス・レイカーズに所属。ポジションはシューティングガード。シーズンMVP1回、ファイナルMVP1回に輝き、近年のNBA最高の選手の一人と目されている。
父親も元NBA選手で、現bjリーグ東京アパッチヘッドコーチのジョー・ブライアント、母親は元NBA選手ジョン・コックスの妹パミラ・コックス。彼の名前「Kobe」は、父親が来日した際に食べ気に入った神戸牛の「神戸ステーキハウス」から取ったものである[1][2]。2001年12月13日に神戸大使に委嘱された。
目次 |
[編集] 生い立ち
[編集] アメリカ生まれのイタリア育ち
コービーは父親のジョー・ブライアントがNBAで3年目、フィラデルフィア・76ersに所属していた1978年に、2人の姉の弟として生まれた。ジョーはその後サンディエゴ・クリッパーズ、ヒューストン・ロケッツを渡り歩き、1983年にはNBAを離れ、大西洋を渡ってイタリアリーグに移籍することになった。父親に連れ立って一家もイタリアに引越し、6歳だったコービーはイタリアで約7年を過ごすことになる。彼の地ではサッカーが盛んなため、少年時代のコービーも周囲の子供たちと同じようにサッカーに熱中しており、ACミランの大ファンだった。コービーは後に、もしイタリアに住み続けていたらプロのサッカー選手を目指していただろう、と語っているほどである。その一方でNBAでは目立った成績を残すことが出来なかったジョーがイタリアではトップ選手として活躍しており、ジョーに触発されたコービーは次第にバスケットボール選手を志すようになり、ジョーの練習や試合には常に付き添ってバスケットの技術と知識を培うようになった。ジョーは1991年に現役を引退。ラ・サール大学のヘッドコーチに就任が決まったため、一家は再びフィラデルフィアに舞い戻ることになる。
[編集] 高校時代
コービーはフィラデルフィアのローワー・メリオン高校に進学。長年イタリアで過ごしてきたコービーにとってアメリカは異文化の地であり、最初はその環境に馴染むことに苦労したが、3年生になる頃にはいよいよその才能を発揮し出し、このシーズンには31.1得点10.3リバウンド5.2アシストの成績を残して州の最優秀選手に選ばれる。一躍注目選手となった彼のもとには、複数のNCAA名門校からスカウトが訪れるようになり、またオフシーズンに全米から優秀な高校バスケット選手が集うABCDキャンプに参加し、ここでも目覚しい活躍を見せたことで、プロからも熱い視線を受けるようになった。4年生のシーズンには母校を42年ぶりの州チャンピオンシップに導いている。
[編集] ロサンゼルス・レイカーズ
[編集] ドラフト
高校に在学中のコービーは多くのバスケット選手がそうしたように、大学への進学を考えていた。ところが彼が高校を卒業する前年の1995年のNBAドラフトでケビン・ガーネットが高校を卒業したばかりの選手としては実に20年ぶりの指名を受け、高卒選手に対してNBAへの道が拓けたことでコービーは心変わりし、NBA入りを決意。高校での最後にシーズンが終了した後、会見を開いて1996年のNBAドラフトへのアーリーエントリーを宣言した。またコービーは当時すでに引退を目前に控えていた、憧れのマイケル・ジョーダンと対戦したかった事もひとつの理由であると語っている。
前年にガーネットが全体5位という上位指名を受けたとは言え、当時はまだNBA関係者の大半が高校を卒業したばかりの選手が即プロで通用するとは思っておらず、この年のドラフト候補生の中ではコービーは特別評価の高い選手という訳ではなかった(この年のドラフト候補生にはアレン・アイバーソンやステフォン・マーブリー、レイ・アレンなど、名だたるスター候補生が揃っていた)。しかしドラフト前に行われたワークアウトでコービーの才能を見抜いていた当時ロサンゼルス・レイカーズのゼネラルマネージャーだったジェリー・ウェストがコービー獲得に動いた。ドラフト当日、コービーは全体13位でシャーロット・ホーネッツを受けるが、ウェストはホーネッツとトレードを行い、生え抜きのベテランセンターブラデ・ディバッツを放出し、かわりにコービーを獲得(このトレードはシャキール・オニール獲得のためのサラリーキャップ調整のためでもあった)。コービーは名門レイカーズの一員としてNBAのキャリアをスタートさせることになったのである。なお、レイカーズが持っていた24位指名権は、コービーと後に多くの栄光を共にするデレック・フィッシャーに行使された。またこの年のドラフトは先の3人のほか、マーカス・キャンビーやシャリーフ・アブドゥル=ラヒーム、アントワン・ウォーカー、ジャーメイン・オニール、スティーブ・ナッシュらが指名を受けており、ドラフト史上でも屈指の豊作の年と評価された。
[編集] キャリア初期
ルーキーイヤーとなった1996-97シーズンはシューティングガードの他にスモールフォワード、ポイントガードもこなしたが出場時間は約15分とまだ少く、このシーズンは平均7.6得点の成績に終わった。それでも随所で才能の片鱗は見せており、1月28日のダラス・マーベリックス戦では故障者が続出したことも手伝って初めて先発に抜擢され、当時の先発出場の最年少記録を塗り替えた。オールスター・ウィーク・エンドではスラムダンクコンテストに出場し、レッグスルーダンクを決めて見事に優勝(ただし大会自体は盛り上がりに欠け、翌年からの2年間、ダンクコンテストは開催されなかった)。またルーキーチャンレジでは当時の歴代最多得点となる31得点をあげている。
2年目の1997-98シーズンになると出場時間も増え、その才能を発揮し始める。そのプレーはファンの心を掴み、ベンチスタートであったが、試合途中に交代で出場すると大きな歓声が起こり、多くのファンがいたことがうかがえた。コービーの活躍もあってチームは61勝21敗の好成績を残し、コービー自身もシーズン途中までは平均20点近い得点を挙げ、シックスマン賞受賞は確実と目されていたが、シーズン後半に調子を落とし(最終成績は15.4得点)、記者投票では惜しくも2位に終わっている。さらにこの年のNBAオールスターゲームではファン投票で選出され、プロ2年目、弱冠19歳でスターの仲間入りを果たすが、試合では独りよがりなプレーが目立ち、コービーの"性格"が表沙汰になったのはこの頃からだった。
ロックアウトで50試合に短縮された1998-99シーズンにはリック・フォックスから完全に先発を奪い、成績を19.9得点5.3リバウンドまで伸ばして初のオールNBA3rdチームに選出される。名実共にリーグトップレベルの選手に成長したコービーだったが、彼の活躍が増すごとに、レイカーズの大黒柱、シャキール・オニールとの摩擦も大きくなり、2人の不仲説が公に報じられるようになった。この頃のレイカーズはレギュラーシーズンこそ高い勝率を残すもののプレーオフでは敗退を繰り返しており、1997-98シーズンにはユタ・ジャズに、そしてこの年もティム・ダンカン、デビッド・ロビンソンのツインタワーを擁するサンアントニオ・スパーズに2年連続でスイープ負けを喫していた。
[編集] 三連覇時代へ
なかなか優勝に手が届かないレイカーズは新シーズン開幕を前にチーム改革に踏み切った。最も大きな動きは、コービーもその招聘を待望していたシカゴ・ブルズを2度の三連覇に導いたフィル・ジャクソンのヘッドコーチ就任だった。彼の指導により、コービーとオニールは少なくともコートの中では共存の道を見つけることが出来るようになった。またベテランのロン・ハーパーらが加入してロスターも大幅に入れ替わり、レイカーズは新たな指導者と新たな陣容で新シーズンを迎えた。
1999-00シーズンが始まるとレイカーズは快進撃を開始。終わってみれば史上でも屈指の勝率となる67勝15敗の成績だった。コービー自身も初のアベレージ20得点越えとなる22.5得点6.3リバウンド4.9アシストを記録し、オールNBA2ndチームに選出された(オニールはシーズンMVPを受賞)。またディフェンス面での大幅な改善も見られ、初のオールディフェンシブ1stチームにも選ばれるなど、攻守共にハイレベルなスーパースターへと成長した。プレーオフではライバルチームのサクラメント・キングスやポートランド・トレイルブレイザーズの前に思わぬ苦戦を強いられるも、カンファレンス決勝は第7戦でのコービーの25得点11リバウンド7アシスト4ブロックという活躍もあってブレイザーズを4勝3敗の末に降し、念願のNBAファイナル進出を果たす。
ファイナルではレジー・ミラー擁するインディアナ・ペイサーズと対戦。コービーにとっては夢にまで見た大舞台だったが、第2戦で足首を捻挫してしまい、第3戦はベンチから試合を見守るという屈辱を強いられた。レイカーズはコービー不在でもオニールがコートで大いに暴れ回り、最初の3試合を2勝1敗とシリーズを優位に進めた。最高の舞台を目の前に居ても立っても居られなくなったコービーは、怪我も癒えぬうちに第4戦に強行出場した。試合は接戦となり、延長に突入。オーバータイムではこの日ファウルトラブルに陥っていたオニールがついにファウルアウトに追いやられたが、足を引き摺ったままプレイを続けるコービーがオーバータイムのチームの得点の殆どをあげるという活躍を見せ、レイカーズを勝利に導いた。レイカーズはその後4勝2敗でペイサーズを降し、レイカーズにとっては1988年以来の優勝を決めた。コービーにとっては4年目にして初の優勝となった。
チャンピオンチームとして迎えた新シーズンもコービーは平均28.5得点をあげるなど絶好調で、私生活ではプレーオフを前にした4月に電撃結婚するなど嬉しい話題もあった。チームは56勝26敗と前年ほどではなかったが、プレーオフに入れば1回戦からカンファレンス決勝までの全シリーズを全勝で勝ち抜くという圧倒的な強さでファイナルに進出。ファイナルではコービーとは同期であるアレン・アイバーソンのフィラデルフィア・76ersと対決し、4勝1敗で降して連覇を達成した。
連覇を果たし、オールNBAチームなどにももはや常連となっていたコービーだが、過去2年は故障にも苦しみ、1999-00シーズン、2000-01シーズンは2年連続で出場回数は60試合代に留まっていた。しかしこのシーズンにはキャリアで初めて80試合に出場し、成績も25.2得点5.5アシストと高水準を維持。オールNBAチームでは初の1stチームに名を連ねた。出身地であるフィラデルフィアで開催されたオールスターでは自身初のMVPを受賞。しかし前季のファイナルで76ersを破っているため、観客からはブーイングを食らってしまい、コービーにとっては傷心のオールスターとなってしまった。プレーオフでは3年連続でファイナルに進出し、ジェイソン・キッド率いるニュージャージー・ネッツと対決。4戦全勝という最高の形でシリーズを制し、ついに三連覇を達成した。当時23歳だったコービーは、3回の優勝を経験した史上最も若い選手となった。
[編集] 王朝の揺らぎ、そして崩壊
三連覇を達成して無敵の名を欲しいままにしていたレイカーズだが、コービーとオニールの反目は優勝の美酒に和らぐどころかむしろ年々強まっており、彼らのロッカールームは冷め切っていた。2002-03シーズンはオニールが開幕から欠場。オニールの不在で伸び伸びとプレイしたコービーはこのシーズン初のアベレージ30得点越えとなる30.0得点6.9リバウンド5.9アシストを記録し、得点王レースでは2位につけるなど個人としては過去最高のシーズンを送っていたが、チームはコービーとオニールの不仲による影響や、三連覇したことでのモチベーションの低下などが響き、50勝32敗と波に乗り切れないシーズンだった。プレーオフではカンファレンス決勝でスパーズと対戦し、2勝4敗で敗戦。レイカーズの連覇記録もこの年に途絶えた。
王座奪回を目指すレイカーズはオフにカール・マローンとゲイリー・ペイトン、2人のビッグネームを獲得するという大型補強を敢行。オニールにコービー、マローン、ペイトンと史上類を見ない豪華な陣容に、新シーズンのレイカーズへの期待はいやが上にも高まった。しかし再び頂点に返り咲くはずだったシーズンを、コービーはコート外のスキャンダルで台無しにしてしまう。オフの6月に19歳の女性からレイプされたと訴えられたのである(詳細は後述)。このスキャンダルでコービーは観客のブーイングや裁判所とアリーナを行き来する生活に悩まされるシーズンを送る羽目となった。また期待の補強組みもマローンがシーズンの半分近くを欠場、全ての栄誉を手に入れてしまったオニールのモチベーションは益々下がっており、さらに今度はコービー自身も膝や肩の故障に襲われるなど、このシーズンのレイカーズは受難続きだった。それでもプレーオフでは勝ち抜いて、ファイナルに進出。デトロイト・ピストンズと対戦するが、1勝4敗と完敗を喫してしまい、王座奪回は失敗に終わった。
この頃になるとコービーとオニールの関係は危険水域に達していた。オニールはコービーの独りよがりなプレイが気に入らず、そしてコービーは同じ三連覇を達成しても評価が上がるのはオニールばかりという状況(3回の優勝でファイナルMVPを獲得したのは全てオニールだった)は受け入れ難いものだった。またコービーはジャクソンHCとの関係も悪化させており、21世紀最初の王朝を築いたチームはすでに内部崩壊していた。
2004年のオフシーズン、ついにレイカーズ王朝に幕が降ろされる。この年、フリーエージェントとなったコービーは再契約を望むレイカーズに対し、この先もオニールをチームの中心に据えるなら、ジャクソンの下でプレーしなければいけないのならば移籍する、という意志をちらつかせてチームにエースの座を要求した。レイカーズは結局コービーを選択し、オニールとジャクソンはレイカーズを退団、夢のチャンピオンリングを求めてレイカーズにやってきたマローン、ぺイトンもレイカーズを去り、同期のフィッシャーも移籍するなどして、王朝チームは完全に崩壊した。コービーはレイカーズと7年で総額1億3600万ドルの大型契約を結んだ。ちなみにこの時ロサンゼルス・クリッパーズはコービー獲得を本気で狙っていた。
[編集] 栄光と不満の日々
晴れてエースの座に座ったコービーだったが、彼を待っていたのは辛い現実だった。新ヘッドコーチには名将ルディ・トムジャノビッチを招き、ラマー・オドムやカロン・バトラーら新戦力を揃えたが、一度ゼロから仕切り直したチームが王朝時代のように勝てるはずもなく、2004-05シーズンは34勝48敗と負け越し、11年ぶりにプレーオフ出場を逃すという屈辱を味わった。新エースとして意気込んで新シーズンに臨んだコービーも27.6得点6.0アシストの成績を残すも、フィールドゴール成功率は43.3%の低水準に沈み、評価を上げるどころかオニールやジャクソンを追い出した挙句にプレーオフにすら導けなかったとして、NBAファンや関係者からはコービーに対する激しいバッシングが巻き起こった。
トムジャノビッチHCはシーズン終了を待たずして「体調不良」を理由に突然ヘッドコーチを辞任してしまったが、オフには1年前に退団したばかりのジャクソンが再びレイカーズのヘッドコーチとして招聘された。ジャクソンはこの期間に出版した著書「The Last Season」の中でコービーを痛烈に批判しており、コービーとの関係が不安視されていたが、コービー自身はレイプスキャンダルがようやく解決したこともあり、新シーズンを良好な状態で迎えようとしていた。
2005-06シーズンはコービーの類稀な得点力が遺憾なく発揮されたシーズンだった。開幕から4試合連続で30得点以上を記録すると、8試合目で42得点をあげたのを皮切りに、このシーズンは27試合で40得点以上を記録。極めつけは1月26日のトロント・ラプターズ戦で達成した81得点である。この1ヶ月前のダラス・マーベリックス戦では第4Qが始まる時点ですでに62得点をあげていたが、試合の大勢はすでに決まっていたためジャクソンHCは第4Qでコービーを起用しなかった。そしてこのラプターズ戦でもジャクソンはコービーをベンチに下げようとしたが、アシスタントコーチに制止されたため、コービーの偉業が達成された。81得点はウィルト・チェンバレンが記録した100得点に次ぐ、歴代2位の記録となった。次々と高得点を叩き出したコービーのこのシーズンの成績は35.4得点5.4リバウンドとなり、初の得点王に輝く。アベレージ35得点越えはジョーダンが1986-87シーズンに記録して以来の極めて高い数字だった。絶好調のコービーに率いられてレイカーズはこのシーズン45勝37敗と勝ち越し、プレーオフにも復帰。1回戦ではフェニックス・サンズと対戦したが、第4戦では2点ビハインドの状況で試合終了間際にジャンプショットを決めて試合を延長に持ち込ませると、オーバータイムでは1点ビハインドの状況で今度はブザービーターを炸裂させ、チームに劇的な逆転勝利をもたらしている。結局シリーズはサンズがものにし、レイカーズは1回戦で敗退したものの、この年はコービーを"優れたスコアラー"から"偉大なスコアラー"と、その評価を一段階押し上げたシーズンだった。
翌2006-07シーズンに入ってもコービーの勢いは止まらず、チェンバレン以来となる1シーズンで50得点以上を10回記録。31.6得点5.7リバウンド5.4アシストの成績で2年連続で得点王に輝き、チームも2年連続でプレーオフに進出している。
コービーが次々と叩き出す並外れた数字に「一人でシュートを打ちすぎる」、「チームの勝利よりも自分の得点を優先させている」と眉根を寄せる人々も少なくなかったが、それでもコービーが史上最高クラスのスコアラーであるという点では多くの人々の間で意見は一致しており、また一部からは「こと得点に関してはジョーダンを越えているのではないか」という声さえ上がり始めた。この頃にはスキャンダルで著しく汚されたコービーへのイメージも大分回復しており、ジャージー売り上げは全選手で1位に輝くなど、周囲からの評価はかつてないほど高まりつつあった。しかしそんな巷の評判を他所に、コービー自身はプレーオフ1回戦敗退を繰り返すチームに不満を募らせていた。
[編集] 最高峰の選手として
コービーのチームに対する不満は2年連続でサンズの前にプレーオフ1回戦敗退を喫した後に爆発。チームに対し、補強が進まない場合は自身をトレードして欲しいと要求した。コービーがとったこの行動がここまで積み重ねてきたコービーへの評価を再び台無しにすることになってしまい、トレード要員になるはずのチームメイトに対する配慮に欠けた発言や、チームフロントに対する攻撃的な批判はファンの反感を買った。コービー自身はその後トレード要求を撤回したが事態は収まらず、コービーはホームのステープルズ・センターで開催された2007-08シーズンの開幕戦で、レイカーズファンから盛大なブーイングを浴びてしまったのである。
- 2007-08シーズン MVPの受賞
しかし新シーズンが始まるとコービーはそれまでの苛烈な発言を一切封印してプレイに集中し、以前よりも増してリーダーシップを発揮するようになり、コービーの変化にチームも刺激されたか最初の10試合を7勝3敗と快調な滑り出しを見せた。開幕前には3シーズンレイカーズから離れていたフィッシャーが復帰しており、またトレード要求の一件でコービーとひと悶着あったアンドリュー・バイナムが急成長を見せるなど、好材料が揃っていた。
オフでは結局コービーが望んだような大型補強はなかったが、トレードデッドライン目前の2月になって、コービーを歓喜させる重要なトレードが実行される。メンフィス・グリズリーズからリーグ有数のビッグマン、パウ・ガソルを獲得したのである。このトレードでレイカーズが失ったものは無きに等しく、「近年最も不公平なトレード」として記録されるが、オニールの退団以後インサイドの駒不足に悩んでいたレイカーズにとってはこの上ない補強であり、レイカーズの戦力は大幅に向上した。レイカーズは勝ち星を積み重ね、混戦となったウエスタンカンファレンスでトップとなる57勝を記録し、一躍優勝候補へとのし上がった。
コービーは28.3得点6.3リバウンド5.4アシストを記録し、念願のシーズンMVPを受賞する。開幕直後にはコービーにブーイングを浴びせていたステイプルズ・センターのファンも、シーズン終盤にはコービーに対し「MVP」コールを送った。プレーオフではウエストの並み居る強豪を蹴散らして5年ぶりのファイナルに進出。奇しくも同じ年に名門復活を果たしたレイカーズの永遠のライバル、ボストン・セルティックスと対戦したが、セルティックスの堅い守りを崩せず、2勝4敗で敗退した。
- 2008-09シーズン ファイナルMVPの受賞
オフには初めてアメリカ代表としてオリンピックに出場し、金メダルを獲得。代表チームでは得点に対する欲を捨て、主にディフェンスでの献身的な姿勢が高く評価され、コービーが以前のコービーではなくなったことを周囲に改めて認識させた。
そして迎えた2008-09シーズン、レイカーズは優勝候補筆頭として開幕から快進撃を続け、65勝17敗で2年連続カンファレンストップに立った。コービー自身は靭帯が断裂した右手小指の手術が出来ずに開幕を迎えていたことが不安視されていたが、それは杞憂に過ぎなかった。チームの戦力が大幅に改善されたことで、これまでのように毎試合フル出場する必要はなくなったため、このシーズンは平均36.1分と先発に定着してからでは最も少ない数字となり、出場時間の減少で成績は26.8得点5.2リバウンド4.9アシストだったが、それでもコービーがリーグ最高峰の選手であることは変わりなく、2月2日にはニューヨーク・ニックスのホーム、マディソン・スクエア・ガーデンでアリーナの新記録となる61得点を記録するなど、話題を振りまくことも忘れなかった。オールスターでは自身3度目のMVPを獲得している。
プレーオフではカンファレンス準決勝で飛車角落ちしたヒューストン・ロケッツ相手に第7戦に持ち込まれるなど苦戦する場面もあったが、期待通りに2年連続でファイナルに進出。王座奪還に燃えるコービーは対戦相手のオーランド・マジックに対し、第1戦で40得点を記録して先制パンチを浴びせると、その後もコンスタントに高得点をあげ続け、マジックに殆ど付け入る隙を与えず、4勝1敗でファイナルを制した。コービーにとっては7年ぶりの優勝となった。オニールがレイカーズを退団してからのコービーの5年間は、「オニールが居なくても優勝できる」ことを証明するための5年間でもあった。そしてようやく成果を収めたこのファイナルでシリーズ平均32.4得点7.4リバウンド5.6アシストを記録したコービーは、念願のファイナルMVPを獲得した。
[編集] コービーとジョーダン
コービーはしばしばマイケル・ジョーダンと比較されることがある。同期のアレン・アイバーソン、若手のレブロン・ジェームスなど、これまでに多くの選手が同じようにネクスト・ジョーダンと目されてきた。しかし、コービーほど極端に比較されてきた選手は他にはいない。それは、ポジションとプレイスタイル、体格と身体能力、ともに闘争心旺盛でかなりの負けず嫌いであること、果てはフリースローの仕草など、類似点が非常に多いことが理由として挙げられる。 事実、プレイスタイルなどは幼い頃からブルズの試合を何度も見続け、ジョーダンの動きを真似ようと研究していたと本人が話している(ディフェンスに関しては、ジョーダンよりスコッティ・ピッペンを参考にしていたという)。 ジョーダン自身も、1998年のオールスターゲーム終了後、後継者としてコービーを指名している。2003年のオールスターゲーム後も、次代を託した多くの選手の一人としてコービーの名を挙げている。
[編集] 代表チーム
コービーの国際試合デビューは意外にも遅く、アメリカ代表に参加したのは2008年の北京オリンピック予選を兼ねた2007年のバスケットボールアメリカ選手権からだった(過去に何度か代表入りの話はあったが、故障などで機会を逸していた)。すでにNBAで不動の地位を築いていたコービーの待望の代表チーム参加とあって大きな話題となり、またアメリカ代表は前回のアテネオリンピックでNBA選手をオリンピックに送り出して以来、初めて金メダルを逃しており、コービーはアメリカの最終兵器として期待を寄せられた。
代表チームにはレブロン・ジェームス、ドウェイン・ウェイド、カーメロ・アンソニーなどスコアラーが大勢居たため、コービーは自ら積極的にサポート役に回り、またディフェンスでは相手チームのエースを大いに苦しめ、若い選手中心で構成されたチーム内では高いリーダーシップも発揮した。コービーの代表参加は大成功となり、本番の北京オリンピックではあっさりと決勝に進出。唯一の接戦となった決勝スペインとの対戦では、第4Qだけで13得点をあげるなど活躍し、チームを見事に金メダルに導いた。中国では近年NBAの人気が高まっていたこともあり、コービーは中国のファンからも大きな声援を受けた。
[編集] プレイスタイル
現在NBAで最も完成された選手の一人。現役屈指の1on1スキルを誇り、そこから繰り広げられるオフェンスバリエーションは実に多彩。ペネトレイトからのレイアップやダンク、ミドルレンジでのターンアラウンドやフェイダウェイなどのジャンパーを主に得意とするが、相手ディフェンダーと正対しながらでも、巧みなフェイクと駆け引きで絶妙な距離を作り、強引にスリーポイントを決めてしまう場面もよく見られ、得点エリアが非常に広い。ファウルをもらう術にも非常に長けており、鍛え上げられた身体と秀でたボディバランスで、バスケットカウントをものにすることもできる。また、視野が広くパスもうまいため、敵のディフェンスが自分に集中した際にはフリーの味方を見つけてアシストする場面も多い。一試合フルに出場できるほどのスタミナも兼ね備えており、随所で見せる高い集中力と相まってゲーム終盤で重要なシュートをことごとく沈める「クラッチシューター」でもある。
名実ともにレイカーズのエースであることは間違いないが、筋金入りの負けず嫌いな性格が災いし、過去には自身の得点にこだわりすぎる一面があったり、チームやメンバーに不満を漏らしたりと、度々「セルフィッシュ」と批判されることがあった。しかし、チームの単独エースとなってからは徐々にそういった面での成長も見受けられ、チームメイトを鼓舞し、彼らを活かすプレイが目立つようになるなど、キャンプテンシーも備えつつある。特に2007-08シーズンはチーム全体を絡めたオフェンスをうまく展開し、単独政権下において自身初となるシーズンMVPの受賞とともにウェスタンカンファレンス首位を獲得したことに対して高い評価を得た。現在はワンプレイごとに自分の役割を把握し、いい意味でオフェンスに対する執着心が緩和されたといえる。
オフェンスでの存在感ゆえにそればかりが注目されがちではあるが、ディフェンスにおいてもリーグ屈指の能力を誇る。現在まで8度オールディフェンシブチームに選出されており、うち6度は1stチームである。ディフェンスはリアクションではなくアクションだといわれる通り、常にアグレッシブにスティールを狙う姿勢を見せている。一方で、相手との絶妙な距離間を保ってチームメイトのいる袋小路に追いつめるなど、駆け引きにも秀でる。1on1ディフェンスのスキルはガードとしてはリーグトップで、正面から突破されることはほとんどない。2008年発行のダンクシュート誌によれば、「現役選手が選んだ最もディフェンスされたくない選手」の1位がコービーであるとのことであった。
[編集] 女性・スキャンダル
ブライアントの若さや容姿、プレイスタイル、成績は彼をNBAで最も人気のある選手の一人としたが、コロラド州のリゾート・ホテルにおけるレイプ・スキャンダルは彼の人気の多くを奪った。ブライアントはスキャンダルの結果マクドナルドとイタリアの菓子メーカー、フェレーロとの契約を失った。
2003年6月30日にコロラド州イーグル郡エドワーズのコロラド・ホテルでフロントデスクとして勤めていた19歳の女性が、同州に膝の治療の為に訪れ、同ホテルに滞在していたブライアントにレイプされたと訴えた。ブライアントは7月17日に逮捕されたが、直ちに保釈された。彼は女性との関係を認めたが、合意の元であると主張した。
裁判はシーズン中にも行われ、彼はその都度コロラドの裁判所に出頭しなければならず、肉体的・精神的消耗が激しい上に練習不足の状態で試合に出なければならないことも度々であった。また、試合中も激しいブーイングに悩まされた。しかし、ブライアントはタフな精神力を見せ集中力を切らすことなくシーズンを終え、まずまずの成績を残した。
女性の証言にも矛盾する点が多々見られ、結局この件は、2005年オフに示談となった。
[編集] その他
- 身長は当初の登録は201cmだったが、ジョーダンが現役復帰した頃からジョーダンと同じ198cmに変更した。
- 2001年4月18日にヴァネッサ・コーネジョ・ウブリエタ・ラインとカリフォルニア州ダナ・ポイントで結婚した。2003年1月19日には長女ナタリアが誕生。
- 2006年の世界選手権にはアメリカ代表として来日する予定だったが、膝の手術のため辞退した。
- 2006-07シーズンから背番号を、プロ入り当初からつけていた8から、24へ変更した。もともと24は入団時に希望した番号だったが、既にフレッド・ロバーツがつけていたため断念、更に第2希望の33もカリーム・アブドゥル=ジャバーの永久欠番だったために8を選んだという経緯がある。24は高校時代最初につけていた番号、33は高校時代に父がプロでつけていたことで24から変更した番号、8はイタリアに住んでいた頃にお気に入りだったイタリアリーグの選手、マイク・ダントーニ(現ニューヨーク・ニックスヘッドコーチ)の番号。
- 2007-08シーズンは、ラシード・ウォーレスを超える15個のテクニカルファウルを吹かれた。ちなみに16個で1試合出場停止となる。
- 2008オフに、それまでのビルドアップされた体から筋肉量を落とす事で20ポンド(約9キロ)の減量を行った。過剰な筋肉を落とすことで年間100試合以上出場するだけのスタミナを向上させた。[3]
- ニューヨーク・ヤンキースのファンである[4]。またFCバルセロナのファンである[5]。
- キャリア初期は特徴的なショートアフロヘアーだった。
[編集] 個人成績
| 略称説明 | |||||
|---|---|---|---|---|---|
| GP | 出場試合数 | GS | 先発試合 | MPG | 平均出場時間 |
| FG% | フィールドゴール% | 3P% | スリーポイント% | FT% | フリースロー% |
| RPG | 平均リバウンド | APG | 平均アシスト | SPG | 平均スティール |
| BPG | 平均ブロック | PPG | 平均得点 | TO | 平均ターンオーバー |
| 太字 | キャリアハイ | ||||
[編集] NBAレギュラーシーズン
| Year | Team | G | GS | MPG | FG% | 3P% | FT% | RPG | APG | SPG | BPG | TO | PPG |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1996–97 | LAL | 71 | 6 | 15.5 | .417 | .375 | .819 | 1.9 | 1.3 | .7 | .3 | 1.58 | 7.6 |
| 1997–98 | LAL | 79 | 1 | 26.0 | .428 | .341 | .794 | 3.1 | 2.5 | .9 | .5 | 1.99 | 15.4 |
| 1998–99 | LAL | 50 | 50 | 37.9 | .465 | .267 | .839 | 5.3 | 3.8 | 1.4 | 1.0 | 3.14 | 19.9 |
| 1999–00 | LAL | 66 | 62 | 38.2 | .468 | .319 | .821 | 6.3 | 4.9 | 1.6 | .9 | 2.76 | 22.5 |
| 2000–01 | LAL | 68 | 68 | 40.9 | .464 | .305 | .853 | 5.9 | 5.0 | 1.7 | .6 | 3.24 | 28.5 |
| 2001–02 | LAL | 80 | 80 | 38.3 | .469 | .250 | .829 | 5.5 | 5.5 | 1.5 | .4 | 2.79 | 25.2 |
| 2002–03 | LAL | 82 | 82 | 41.5 | .451 | .383 | .843 | 6.9 | 5.9 | 2.2 | .8 | 3.51 | 30.0 |
| 2003–04 | LAL | 65 | 64 | 37.6 | .438 | .327 | .852 | 5.5 | 5.1 | 1.7 | .4 | 2.63 | 24.0 |
| 2004–05 | LAL | 66 | 66 | 40.7 | .433 | .339 | .816 | 5.9 | 6.0 | 1.3 | .8 | 4.09 | 27.6 |
| 2005–06 | LAL | 80 | 80 | 41.0 | .450 | .347 | .850 | 5.3 | 4.5 | 1.8 | .4 | 3.13 | 35.4 |
| 2006–07 | LAL | 77 | 77 | 40.8 | .463 | .344 | .868 | 5.7 | 5.4 | 1.4 | .5 | 3.31 | 31.6 |
| 2007–08 | LAL | 82 | 82 | 38.9 | .459 | .361 | .840 | 6.3 | 5.4 | 1.8 | .5 | 3.13 | 28.3 |
| 2008–09 | LAL | 82 | 82 | 36.1 | .467 | .351 | .856 | 5.2 | 4.9 | 1.5 | .4 | 2.56 | 26.8 |
| Career | 948 | 800 | 36.4 | .455 | .341 | .840 | 5.3 | 4.6 | 1.5 | .5 | 2.90 | 25.1 | |
| All-Star | 11 | 11 | 27.1 | .503 | .354 | .778 | 4.5 | 4.6 | 2.7 | .4 | 2.54 | 18.8 |
[編集] NBAプレーオフ
| Year | Team | G | GS | MPG | FG% | 3P% | FT% | RPG | APG | SPG | BPG | TO | PPG |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1996–97 | LAL | 9 | 0 | 14.8 | .382 | .261 | .867 | 1.2 | 1.2 | .3 | .2 | 1.56 | 8.2 |
| 1997–98 | LAL | 11 | 0 | 20.0 | .408 | .214 | .689 | 1.9 | 1.5 | .3 | .7 | 1.00 | 8.7 |
| 1998–99 | LAL | 8 | 8 | 39.4 | .430 | .348 | .800 | 6.9 | 4.6 | 1.9 | 1.2 | 3.88 | 19.8 |
| 1999–00 | LAL | 22 | 22 | 39.0 | .442 | .344 | .754 | 4.5 | 4.4 | 1.5 | 1.5 | 2.50 | 21.1 |
| 2000–01 | LAL | 16 | 16 | 43.4 | .469 | .324 | .821 | 7.3 | 6.1 | 1.6 | .8 | 3.19 | 29.4 |
| 2001–02 | LAL | 19 | 19 | 43.8 | .434 | .379 | .759 | 5.8 | 4.6 | 1.4 | .9 | 2.84 | 26.6 |
| 2002–03 | LAL | 12 | 12 | 44.3 | .432 | .403 | .827 | 5.1 | 5.2 | 1.2 | .1 | 3.50 | 32.1 |
| 2003–04 | LAL | 22 | 22 | 44.2 | .413 | .247 | .813 | 4.7 | 5.5 | 1.9 | .3 | 2.77 | 24.5 |
| 2005–06 | LAL | 7 | 7 | 44.9 | .497 | .400 | .771 | 6.3 | 5.1 | 1.1 | .4 | 4.71 | 27.9 |
| 2006–07 | LAL | 5 | 5 | 43.0 | .462 | .357 | .919 | 5.2 | 4.4 | 1.0 | .4 | 4.40 | 32.8 |
| 2007–08 | LAL | 21 | 21 | 41.1 | .479 | .302 | .809 | 5.7 | 5.6 | 1.7 | .4 | 3.33 | 30.1 |
| 2008–09 | LAL | 23 | 23 | 40.8 | .457 | .349 | .883 | 5.3 | 5.5 | 1.7 | .9 | 2.56 | 30.2 |
| Career | 175 | 155 | 39.4 | .447 | .329 | .811 | 5.1 | 4.7 | 1.4 | .7 | 2.87 | 25.0 |
[編集] タイトル、記録など
[編集] タイトル
- NBAチャンピオン:2000, 2001, 2002, 2009
- 得点王(1試合平均):2006(35.4), 2007(31.6)
- 年間最多得点:2003 (2,461), 2006 (2,832), 2007(2,430),2008(2,323)
- 年間最多フィールドゴール成功:2003 (868), 2006 (978)
- 年間最多フィールドゴール試投:2006 (2,173)
- 年間最多フリースロー成功:2006 (696)
[編集] 受賞歴
- シーズンMVP:2008
- ファイナルMVP:2009
- オールNBA
-
- 1stチーム:2002, 2003, 2004, 2006, 2007, 2008, 2009
- 2ndチーム:2000, 2001
- 3rdチーム:1999, 2005
- オールNBAディフェンシブ
-
- 1stチーム:2000, 2003, 2004, 2006, 2007, 2008, 2009
- 2ndチーム:2001, 2002
- オールスターMVP:2002, 2007, 2009(シャキール・オニールとのW受賞)
- オールルーキー2ndチーム:1997
- スラムダンク・コンテスト優勝:1997
[編集] 記録
NBA記録
- 1試合最多3Pシュート成功:12 (ドニエル・マーシャルと並ぶタイ記録)
- ハーフ最多3Pシュート成功:8 (他5名と並ぶタイ記録)
- 1試合での3Pシュート連続成功数:9(ラトレル・スプリーウェル、ベン・ゴードンと並ぶタイ記録)
- 1クォーター最多フリースロー成功:14(他5名と並ぶタイ記録)
- 1クォーター最多フリースロー試投:16(他6名と並ぶタイ記録)
- オールスター通算最多3Pシュート成功:11(他3名と並ぶタイ記録)
- 自軍の1試合総得点における自身の得点の割合※:66.4%(122得点中81得点)
- 両軍の1試合総得点における自身の得点の割合※:35.8%(226得点中81得点)
- ※ショットクロック導入後
チーム記録(レイカーズ)
- 最多得点
-
- 年間:2,832(NBA歴代7位)
- 1試合:81(NBA歴代2位)、ハーフ:55、クォーター:30、プレーオフ・オーバータイム:12
- 月間1試合平均:43.4
- 1シーズンで40得点以上を記録した回数:27
- 40得点以上を記録した連続試合数:9
- 1シーズンで20得点以上を記録した連続試合数:62
- 最多フィールドゴール成功
-
- ハーフ:18、クォーター:11
- ハーフ最多フィールドゴール試投:28(エルジン・ベイラーとタイ記録)
- 最多フリースロー成功
-
- 1試合:23(2度)、ハーフ:16、クォーター:14、プレーオフ・クォーター:11(他3名と並ぶタイ記録)、連続:62
- 最多フリースロー試投:16
- 最多3Pシュート成功
-
- 通算:799
- 1試合:12(ノーミスで7)、ハーフ:8、クォーター:6、連続:9
- 最多3Pシュート試投
-
- 通算:2,379 、プレーオフ通算:410
- 1シーズン:518、1試合:18
- 最多スティール
-
- ハーフ:6(他3名と並ぶタイ記録)、プレーオフ・クォーター:3(他6名と並ぶタイ記録)
[編集] その他の業績
- 同チームの現役在籍記録1位
- 史上2人しかいない、1試合で80得点以上を記録した1人(2006年1月22日に記録した81得点はNBA歴代2位)
- 史上3人しかいない、9試合連続で40得点以上を記録した1人
- 史上2人しかいない、4試合連続で50得点以上を記録した1人
- 史上3人しかいない、月間で1試合平均40得点以上を記録した1人
- 史上2人しかいない、月間で1試合平均40得点以上を3度記録した1人
- 史上最年少
-
- 先発出場:18歳と158日
- オールスター先発出場:19歳と175日
- スラムダンクコンテスト優勝:18歳と175日
- 通算得点到達
-
- 14,000:26歳と240日
- 15,000:27歳と136日
- 16,000:27歳と192日
- 17,000:28歳と86日
- 19,000:28歳と223日
- 20,000:29歳と122日
[編集] 脚注
- ^ 名前の由来は高級肉 産経新聞2008年6月5日
- ^ NBA Staff (N.D.). "Kobe Bryant Bio". NBA.com. 2007-08-05 閲覧。
- ^ Kobe Bryant Loses 20 Pounds For Upcoming NBA Season
- ^ http://yokomiyaji.cocolog-nifty.com/basketball_diary/2006/11/post_cc18.html
- ^ http://www.youtube.com/watch?v=UkUARAk6CC4
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年11月19日 (木) 21:09 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【コービー・ブライアント】変更履歴









