ゴットフリート・ライプニッツ

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ゴットフリート・ライプニッツ

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646年7月1日グレゴリオ暦)/6月21日ユリウス暦) - 1716年11月14日)はドイツライプツィヒ生まれの哲学者数学者

目次

[編集] 概要

ライプニッツは哲学者数学者科学者など幅広い分野で活躍した学者・思想家として知られているが、また政治家であり、外交官でもあった。17世紀の様々な学問(法学政治学歴史学神学哲学数学経済学自然哲学物理学)、論理学等)を統一し、体系化しようとした。その業績は法典改革、モナド論微積分法、微積分記号の考案、論理計算の創始、ベルリン科学アカデミーの創設等、多岐にわたる。ライプニッツは稀代の知的巨人といえる。

[編集] 哲学における業績

「モナドロジー(単子論)」「予定調和説」を提唱した。その思想は、単なる哲学、形而上学の範囲にとどまらず、論理学、記号学心理学、数学、自然科学などの極めて広い領域に広がる。また同時に、それらを個々の学問として研究するだけでなく、「普遍学」として体系づけることを構想していた。学の傾向としては、通常、デカルトにはじまる大陸合理論の流れのなかに位置づけられるが、ジョン・ロック経験論にも深く学び、ロックのデカルト批判を受けて、精神物質二元的にとらえる存在論およびそれから生じる認識論とはまったく異なる、世界を、世界全体を表象するモナドの集まりとみる存在論から、合理論、経験論の対立を回収しようとしたといえる。

モナドロジーの立場に立つライプニッツからすれば、認識は主体と客体の間に生じる作用ではなく、したがって直観でも経験でもない。自己の思想をロックの思想と比較しながら明確にする試みとして、大著「人間知性新論」を執筆したが、脱稿直後にロックが亡くなったため公刊しなかった。ライプニッツの認識論には、無意識思想の先取りもみられる。

[編集] 同時代の哲学者との関係

ライプニッツは、同時代の著名な知識人とはほぼすべて交わったと考えてもよいくらい活動的であった。

  • 特筆されるのは、1676年バールーフ・デ・スピノザを訪問したことである。そこでライプニッツは「エチカ」の草稿を提示された。だが、政治的問題もあり、また実体観念や宇宙観の違いからスピノザ哲学を評価しなかったと言われる。
  • デカルトやスピノザの他に、マルブランシュの影響を強く受けている。
  • ライプニッツ哲学の最初のまとまった叙述である『形而上学叙説』をめぐっては、アントワーヌ・アルノーとの文通が知られている。

[編集] 著作

『力学要綱』、『弁神論』を除くと、その著作の大半は未完で、かつ死後相当の時間を経て刊行されたため(現在も全集は完結していない)、17~18世紀にはライプニッツの学の全貌は完全には理解されず、楽天主義的であるとの誤解を生んだ。哲学的な思索の深さとは裏腹に、後代への直接的な影響の少ない孤峰というべきであろう。

[編集] モナド Monade(単子)

詳細は「モナド」を参照

複合体をつくる単純な実体で、ここでいう単純とは部分がないということである。モナドは自然における真のアトムであり、これが宇宙の要素である。モナドは、単純実体ではあるが、モナドの内部には多様性と変化が認められる。この内的差異によって、あるモナドは他の全てのモナドから区別される。モナドには外部に通じる窓はないが「予定調和」によって世界全体を自己の内部に映しだしており、このはたらきによって世界全体を認識している。モナドとは精神であり、その内部とは表象である。[1]

[編集] 数学における業績

微積分法アイザック・ニュートンとは独立に発見/発明し、それに対する優れた記号法すなわちライプニッツの記法を与えた。現在使われている微分積分の記号は彼によるところが多い。

しかし、それと同等か、あるいはそれ以上に重要な業績は今日の論理学における形式言語に当たるものを初めて考案したことである。彼によれば、それを用いることで、どんな推論も代数計算のように単純で機械的な作業に置き換えることができ、注意深く用いることで、誤った推論は原理的に起こり得ないようにすることができるというものであった。彼は、優秀な人材が何人かかかって取り組めば、それを実現するのに5年もかからないと信じていたようであったが、現実にはそれを実現するには300年以上を要した(論理学の適用できる範囲は限られているから、彼が考えたような理想には達していないと見るべきかもしれない)。彼は記号に取りつかれていた人物で、論理学以外にも、例えば幾何学について、記号を用いて機械的に証明をする構想を得ていた。

上記の事柄に含まれるが、2進法を研究したのも彼の業績である。彼は中国の古典『易経』に関心をもっており、1703年イエズス会宣教師ブーヴェから六十四卦を配列した先天図を送られ、そこに自らが編み出していた2進法の計算術があることを見いだしている。

[編集] ドイツ出身の悲哀

ライプニッツは三十年戦争の後遺症がまだ残っていたドイツという後進国出身の悲哀を味わらなければならなかった。父は、ライプツィヒ大学の哲学教授で彼に幼いころから読書を教え、彼も14歳で同大学に入学し、2年後に卒業するが、当時のドイツの大学はイギリスフランスに比べて立ち遅れていた。従ってライプニッツの理論を正当に理解・評価できる人はあまりいなかった。ライプニッツが外交顧問としてまた図書館長として仕えたハノーヴァーの選帝侯妃ゾフィー・フォン・デア・プファルツ (1630 - 1714) とその娘ゾフィー・シャルロッテ・フォン・ハノーファーフリードリヒ1世 (プロイセン王)の妃)(1668 - 1705) とハノーヴァーの選帝侯妃の孫ゲオルクの嫁(1705年に結婚)のキャロライン・オブ・アーンズバック(のち、イギリス王ジョ-ジ2世の王妃、ドイツ語名はカロリーネ・フォン・アンスバッハ)(1683 - 1737) らは、この哲学者を尊敬した。1700年に王妃ゾフィーの招きでベルリンに行き科学アカデミーの創設に参加して、初代総裁に就任している。しかし5年後にゾフィー王妃が肺炎で死去すると、ベルリンはライプニッツにとって居心地のいい場所ではなくなってしまった。

ハノーヴァーでも1714年に選帝侯妃ゾフィーが死去し、息子の選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒが、同年にジョージ1世 (イギリス王)となってイギリス国王を兼任すると、キャロラインも皇太子妃となってイギリスに移住した。ジョージ1世は、ライプニッツを煙たく思っていたのでイギリスに連れて行くことはせず、ハノーヴァーに残された。ライプニッツは政治的な支援者を失い、周囲の空気は冷たくなった。晩年のライプニッツは侯家の家史編纂というつまらない仕事に携わり、ほかには自分を理解してくれる外国の学者や友人とひろく文通をかわすだけであった。その文通者は国内外あわせて千人を超えていた。

[編集] 著作

[編集] 脚注

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  1. ^ 「モナドロジー」(ライプニッツ著作集第9巻「後期哲学」/工作舎)

[編集] 参考文献

  • 『ライプニッツの普遍計画』E・J・エイトン著、渡辺正雄、原 純夫ほか訳、工作舎、1990 ISBN 4-87502-163-1
  • 『ライプニッツ術』佐々木能章著、工作舎、2002 ISBN 4-87502-367-7
  •  世界の歴史 8 「絶対君主と人民」中公文庫  大野真弓 
  • 『甦るライプニッツ』 水声通信 no.17 (水声社 2007年)

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月23日 (月) 03:44 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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