サッカー・ブンデスリーガ (オーストリア)

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スタジアムの風景

オーストリアにおけるサッカー・ブンデスリーガ(Fußball-Bundesliga)は、オーストリアのプロサッカーの最上位リーグである。計10クラブが所属している。

リーグは1911年に創設、世界で最も古い歴史を持つサッカー・リーグの一つである。

1924年には1部に次ぎ2部も創立、1部と2部の全チームが完全なプロ・サッカー・クラブとして運営され、イングランドスコットランドに次いで、ヨーロッパで3番目に、同時にイギリスを除くヨーロッパ大陸では最も歴史のあるプロフェッショナル・サッカー・リーグが誕生する。ちなみにプロリーグ初年度に1部で優勝を飾ったチームはSCハコア・ウィーンである。

なお、ブンデスリーガとはドイツ語で「連邦リーグ」の意味であり、オーストリアに限らず、ドイツ語圏において様々なスポーツリーグで用いられている。曖昧さ回避のブンデスリーガを参照のこと。

2007年初頭より、宮本恒靖三都主アレサンドロレッドブル・ザルツブルクへ移籍し、日本人選手も同リーグに在籍することになった。

目次

[編集] リーグの構成

リーグは10チームによる4回総当り(計36試合)で行われ、基本的に7月中旬に開幕し翌年6月上旬に閉幕する。優勝チームは次年度のUEFAチャンピオンズリーグ第2予選への出場権を、2位及び3位でシーズンを終えたチームはUEFAカップ予選、4位のチームはUEFAインタートトカップの2回戦への出場権利を得る。最下位(10位)のクラブはレッドツァック・1部リーグ(オーストリア2部)に自動降格する(代わって2部の優勝クラブが昇格)。(2008年5月現在)

2部リーグはレッドツァック・エアステリーガ(Red Zac Erste Liga、「レッドツァック・1部リーグ」)と称されている。12チームで構成されており、昇格するのは優勝した1チームのみであるのに対し、降格は3チームと厳しいリーグである。

3部リーグとなる「レギオナルリーガ」(Regionalliga)は、西部・中部・東部の3地区に分かれており、各リーグは16チームで構成されている。それぞれのリーグ優勝チームが2部に昇格し、下位2チームもしくは3チームが4部リーグに降格する。同リーグは正式にはセミプロのリーグとされているが、実際には殆どの選手がサッカー選手として収入を得ており、完全なプロチームもある。またセミプロのチームであっても実際にはプロ選手が所属していることも多い。

なおオーストリアには9部リーグまである。4部や5部でも殆どの選手がサッカーによって収入を得ているが、サッカー選手としての収入のみで生計を立てる事は難しい。6部から9部は完全なアマチュアリーグである。

[編集] スポンサーとリーグ公式名称

1997年よりリーグにメインスポンサーがつくようになり、リーグの公式名にもスポンサー名が表記されるようになる。2003年よりオーストリアの大手携帯会社、T-モバイル社(T-Mobile)がメインスポンサーとなったため、リーグの正式名は「T-モバイル・オーストリア・ブンデスリーガ」(T-Mobile Österreichische Fußball-Bundesliga)とされている。

ちなみに同リーグはドイツのブンデスリーガと比べてスポンサーが前面にでやすい環境にあり、リーグの名称も上記の通りでスポンサー企業の名が冠されている。このことは、各クラブのスポンサー獲得をいくらか容易にしている。小さな都市・村のクラブが、有力スポンサーの強力な援助を受けて躍進し、1部昇格を果たすこともめずらしくなく、オーストリアリーグを盛り上げる要因となっている。

しかし、その一方で急激な変化に対するファンの反発を招く場合もあり、例えばレッドブル社が買収したレッドブル・ザルツブルクはこれまでの弱小クラブから一躍首位を独走する強豪となったが、強引なスポンサーの意向により伝統あるユニフォームの変更を迫られるなどたびたびサポーターと衝突し、一部の地元サポーターからの失望を招いた。地域性の尊重とスポンサー企業の意向を調和させることが求められている。

[編集] 歴史

[編集] 国内リーグの誕生以前

オーストリアで初めてFA(イングランドサッカー協会)のルールに基づきサッカーの公式戦が行われたのはハプスブルク帝国時代の1894年のこと。1897年からはチェコハンガリースロバキアなどのチームも参加した国際大会チャレンジ・カップ(オーストリア・カップの前身)が開催されるようになる。1900年からの4年間、そして1906年にはオーストリアでリーグ戦が行われているが、組織上や財政的な問題、そして実際にオーストリア内での試合よりハプスブルク帝国内で行われていた国際親善試合(オーストリア対ハンガリー、オーストリア対チェコ等)やチャレンジ・カップの方が人気があったため、なかなか継続できずにいた。

[編集] オーストリア最高峰リーグの誕生、そして完全なプロ化へ

現在まで続いているオーストリア最高峰リーグが創設されたのは1911年のこと。大々的な宣伝の効果もあり、以前までのリーグとは比べられないほど多くの観客が集まり、様々なスポンサーも付くようになる。しかし多額な金銭がからむようになり、正式にはアマチュアであったのにも関わらず、選手にも固定給料や勝利ボーナスが支払われるようになり、新選手獲得の際にも移籍金が裏金として動くようになる。

このような状況からオーストリア・サッカー協会のフーゴ・マイスル会長は全クラブの正式なプロ化を推薦。1924年には1部に次ぎ2部も創立され、1部と2部の全チームが完全なプロ・サッカー・チームとして運営されるようになる。 そのため1924年がオーストリアでのプロサッカーの始まりとされているが、これはイングランドスコットランドに次いで、ヨーロッパで3番目、そしてイギリスを除くヨーロッパ大陸では最も歴史のあるプロフェッショナル・サッカーリーグの誕生を意味している。ちなみにプロリーグ初年度に1部で優勝を飾ったチームはSCハコア・ウィーンである。

[編集] ヨーロッパ最高峰のリーグへ発展

世界初の室内サッカー大会がオーストリアで行われ、1920年代には女子サッカー専門のサッカークラブも設立されるなど、サッカーの人気はうなぎ上り。優秀な選手がドイツ語圏のみならず東ヨーロッパ南ヨーロッパからも集まるようになり、オーストリア・ブンデスリーガは多くのサッカー選手にとっての「エルドラド」(黄金郷)になる。   国際試合でも好結果を残し、オーストリアのチームが当時ヨーロッパを代表する強豪であったフェレンツヴァーロシュTC(ハンガリー)を5-1で、イタリアの名門ASローマを3-1で、同国インテルをアウェー戦で5-2で破る事も珍しくなかった。また、UEFAチャンピオンズリーグの前身であり、1927年より開催されるようになったクラブ国際大会のミトローパ・カップでもオーストリアのチームが幾度も優勝を飾り、1931年の決勝戦ではオーストリア勢同士の対戦になるなど、オーストリア・ブンデスリーガはヨーロッパ最高峰リーグとして高い評価を得ていた。

[編集] ドイツ・ナチスによるオーストリア併合

しかし1938年にオーストリアがナチス・ドイツに併合されると「サッカーで生計を立てるというプロフェッショナリズムは、1人の成人としての正式な職業に値しない」というナチス・ドイツの方針からプロサッカーは廃止される。これによってドイツ・サッカー選手権の傘下となっても、オーストリア・ブンデスリーガは「ドナウ・アルペンランド・リーガ」という名称で形は残すものの、ナチス・ドイツによるリーグのアマチュア化がレベルの低下を招く。

[編集] 1950年代‐ヨーロッパ最高峰リーグ復活、新たな黄金時代

第2次世界大戦直後からプロサッカー復活への動きがあり、1949年にはプロサッカーが、そして国内リーグ1部と2部が完全に復活する。ナチス・ドイツ時代にフランススペインイスラエル等の各国に逃亡した優秀な選手が戻ってくるようになり、また同時にプロサッカー選手を目指す優秀な若手オーストリア人選手がどんどんと育つようになったことにより、オーストリア・ブンデスリーガは再びヨーロッパ最高峰リーグの地位を取り戻す。

国際試合ではオーストリアのチームがイングランドの国内リーグ優勝を果たしたアーセナルFCを6‐1で、イタリアを代表する名門ユヴェントスを7‐0で、同国のSSラツィオを5‐0で、オランダの名門PSVアイントホーフェンを6-1で、ドイツの名門1.FCカイザースラウテルンを9‐2で、また1年間ブラジルサッカー選手権で無敗を誇っていたアトレチコ・パラナエンセをアウェーのブラジルで7‐1で破るなど他国のチームを圧倒する。

また1951年1952年にブラジルで開催されたFIFAとCBF(ブラジルサッカー連盟)が共催したクラブワールドカップ(当時の正式名称はコパ・リオ)では、開幕戦でオーストリアを代表して出場したクラブチームが1950年FIFAワールドカップ・ブラジル大会での優勝選手が5人スタメン出場し、当時南米最強チームの1つあったナシオナル・モンテビデオエスタジオ・ド・マラカナンで4‐0で下し、2年連続準決勝進出を果たすなど、世界的に見てもオーストリアのサッカーは世界最高水準にあった。

1953年にはFIFA(世界サッカー連盟)が選出した世界選抜チームに11人の選手のうち6人が、そして同チームの監督までもがオーストリア人という快挙を達成している。

このような国際舞台での好結果が長い期間に渡って続いたため、ヨーロッパ最高峰リーグとしての地位は安泰と思われていた。

[編集] 1960年代-1980年代‐他国の台頭、そしてレベルの低下

しかし1960年代になるとドイツをはじめ、ヨーロッパの各国でプロフェッショナル・サッカーリーグがスタート。人口や国の経済力の違いなどから徐々に他国が実力を付けるようになり、同時にドイツの名門1.FCケルンFCバイエルン・ミュンヘン等に代表されるプロサッカー新時代のクラブ運営や新スタジアムの建設などでオーストリアが遅れを取ったため、オーストリアや他国の有望な選手もオーストリアではなくドイツやイタリア等の新たなサッカーのブランドネーションでのプレーを希望するようになる。

オーストリアのチームは1970年代から1980年代にかけて、UEFAチャンピオンズカップUEFAカップウィナーズカップUEFAカップ等で2度の決勝、2度の準決勝、6度の準々決勝進出を果たし、ミトローパ・カップでも3度の優勝を飾るものの、1960年代初期までのような他国を圧倒するような力は失われていき、ヨーロッパ最高峰リーグの肩書きはイングランドやドイツ、イタリアのものになる。

[編集] 1990年代‐ボスマン判決の衝撃と各チームの短い黄金時代

ヨーロッパ・サッカー界に衝撃を与えたボスマン判決。ドイツやイタリア、スペインのリーグ等に比べ経済力に劣るオーストリアにとって、このボスマン判決は多くのクラブにとって死刑勧告と同じ意味をしていた。実際に多くの名門クラブが破産する等、オーストリア・サッカー界全体に大きな波紋を起こす。

このような厳しい状況の中、ヨーロッパカップで好結果を残し、短い黄金時代を迎えたチームもあった。 レッドブル・ザルツブルクの前身であるSVアウストリア・ザルツブルク1994年にUEFAカップ準優勝を果たし、翌年にはUEFAチャンピオンズリーグでもオランダの名門アヤックス・アムステルダムとアウェーで引き分け、ギリシャの名門AEKアテネを破るなどの健闘を見せると、SKラピード・ウィーン1996年にはUEFAカップウィナーズカップでの準優勝を果たす。また、イヴィツァ・オシム監督率いるSKシュトゥルム・グラーツが3年連続UEFAチャンピオンズリーグ本体会出場を果たし、1度はグループリーグを首位で突破するなどの大健闘を見せている。

しかしこのような国際舞台での好結果も、ボスマン判決による衝撃以降、クラブの財政状況から選手の育成分野まで様々な問題を抱えるオーストリア・サッカー界全体の改善にはつながらなかった。

[編集] 21世紀‐サッカーのモダン化、そして新たなヨーロッパ・サッカーに置ける位置付け

21世紀に入ると多くの新たな動きが見られるようになり、オーストリア・サッカー界全体が活発化され、ヨーロッパ・サッカーでのオーストリアの位置付けに変化が見られるようになる。

それまではオーストリア国営放送(ORF)にオーストリア・ブンデスリーガ、及びオーストリア2部の放映権が独占的に与えられていたが、21世紀に入ってからはORFより高額な金額で民間放送のATVや同じく民間の有料チャンネルPremiere等が放映権を獲得。以降は主にORFとATVの競合になり、2008年6月現在ではPremiereが1部と2部の全試合を生中継し、ORFが土曜日の夜のダイジェスト番組と「今週のトップゲーム1試合」をPremiereと同時に生中継することになる。このような状況から放映権の金額は1990年代に比べ大幅に値上がり、よってそれまではあまり大きな割合を占めていなかった放映権料が、各クラブにとって重要な収入源となる。また各州の放送局はオーストリア3部や4部の試合等もテレビで放送するようになる。

2008年UEFAヨーロッパ選手権がオーストリアで開催されることが決定すると、国全体でサッカースタジアムの拡大・モダン化に取り掛かるようになり、ザルツブルクインスブルッククラーゲンフルトでは新しいサッカー専用スタジアムが建設される。よって各クラブもモダンなサッカースタジアムを利用した新たな収入源を得ることになる。また、「ヨーロッパ大陸で最も長い歴史を誇るプロフェッショナル・サッカーリーグ」、という伝統とプライドを重要視するあまり、それまでは過小評価されていたマーチャンダイジング、オンライン上での広告等が主に各クラブの若手スタッフにより全体的に活性化される。

また、それまでは主にサッカーオーストリア代表チームの好結果も手伝い、遅れを取っていた育成に関しても、オーストリア・サッカー協会が全体的な見直し、及び改革を実施。2008年UEFAヨーロッパ選手権に向けて新たな育成プロジェクト「Challenge08」(チャレンジ08)が発表され、各カテゴリーの代表チームがヨーロッパ選手権やワールドカップで好成績を残すようになる。これらの若手選手の台頭も手伝い、リーグ全体が活性化され、また同時に多くの若手選手のブランドネーションへの移籍がオーストリア・サッカーのステータスアップにつながる。

また、オーストリア・サッカー界に大きな衝撃を与えたのはレッドブル社によるSVアウストリア・ザルツブルクの買収である。SVアウストリア・ザルツブルクは2004年の時点で膨大な借金をしており、破産寸前と噂されていたが、レッドブル社の膨大な資金により、ハード面への投資、クラブマネジメントの強化、スカウティング部の設立、新トレーニングセンターの設立、育成の見直し、及び強化など様々な改革が行われたため、現在では国際的に模範的なクラブという高い評価を得るようになった。また、チーム強化にも多大な人件費(監督、コーチ、スタッフ、選手等)をかけチーム力も大幅にレベルアップ、現在では15カ国から20人の代表選手が集まるオーストリアを代表する国際レベルのクラブに生まれ変わっている。

また、サッカーの伝統のみではなくエンターテイメント性を重要視したレッドブル・ザルツブルクの積極的なマーケティングなどに代表されるように、各スタジアムではファミリーブロックや様々なサービスを受けることができるトップレベルのVIPルーム等が設置され、それまではサッカーに目を向けなかった新しい顧客を獲得。また最近では一昔前までの「スタジアムでのサッカー観戦は男性のみが楽しむもの、女性のみで行くところではない」というイメージもがらりと変わり、女性のサポーターの割合も一昔前に比べ大幅に増える。このような顧客層の変化が新たなスポンサーの獲得にもつながり、全体的なリーグ、そしてサッカーの「イメージのモダン化」が加速、ここ最近では子供達からティーンエイジャーの間では「サッカーはクール(格好良い)!」という意識が植え付けられている。

このようなサッカー界を取り巻く全体的な環境の変化に伴い、オーストリア・ブンデスリーガのクラブ関係者も「高い人件費を支払い、(無理やり)ヨーロッパカップでの大健闘を狙う」のではなく「健全なクラブ運営をし、優れた若手選手を育成し、ブランドネーションのクラブに移籍させる」という方針を打ち出す。

「オーストリア・ブンデスリーガはブランドネーションへのステップアップを実現化するのに最も適したリーグ」という共通認識を21世紀に入ってからはクラブ関係者のみではなく、代理人やサッカー選手自らも持つようになり、「オーストリアで活躍すればブランドネーションからのオファーが来る」というポイントも特にドイツ語圏や東ヨーロッパ出身の選手にとって、オーストリア・ブンデスリーガへ移籍する際の重要な要素となっている。

[編集] 歴代優勝クラブ

[編集] ブンデスリーガ所属クラブ

2006-2007シーズン、配列は2005-2006シーズン順位による

2007-2008シーズン、配列は2006-2007シーズン順位による

2008-2009シーズン、配列は2007-2008シーズン順位による

[編集] 各スタジアムデータ

オーストリア・ブンデスリーガの一つの特徴はブンデスリーガに所属する多くのクラブが小さな町村に本拠地を置いていることである。各クラブ専用スタジアムのキャパシティーが町村の全人口より大きいこともあり、一見アンバランスに見えるが、いかにサッカーが人気があるかの証拠でもある。

ランク 町村名 スタジアム名 収容人数 各町村の人口
1 ザルツブルク レッドブル・アレーナ 30.200 150.000
2 インスブルック ティヴォリ・シュターディオン 30.000 130.000
3 クラーゲンフルト ヴェルターゼー・シュターディオン 30.000 92.000
4 ウィーン ゲルハルト・ハナッピ・シュターディオン 17.500 1.680.000
5 マッテルスブルク パッペル・シュターディオン 17.000 6.300
6 グラーツ グラーツ・リーベナウ・シュターディオン 15.320 250.000
7 リンツ リンツァー・シュターディオン 20.100 190.000
8 ウィーン フランツ・ホア・シュターディオン 11.400 1.680.000
9 アルタッハ シュナーベルホルツ・シュターディオン 10.000 6.250
10 リート フィル・メタルバウ・シュターディオン 7.600 12.000



2008年に開催されるヨーロッパ選手権のために拡大されたのは:

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年9月11日 (金) 02:20 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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