サッカー戦争
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| サッカー戦争 | |
|---|---|
| 戦争:サッカー戦争 | |
| 年月日:1969年7月14日から1969年7月19日 | |
| 場所:エル・サルバドル、ホンジュラス国境地帯 | |
| 結果:OASの調停により停戦 | |
| 交戦勢力 | |
| 戦力 | |
| 陸軍20,000名 空軍1,000名 |
陸軍12,000名 空軍1,200名 |
| 損害 | |
| 700 (市民を含む) | 1,200 (市民を含む) |
サッカー戦争(サッカーせんそう、西: Guerra del Fútbol、1969年)とは、サッカーの試合での遺恨がきっかけとなって、エルサルバドルとホンジュラスとの間で勃発した戦争である[1]。100時間戦争やエルサルバドル・ホンジュラス戦争とも呼ばれる。
レシプロ戦闘機同士の空中戦や撃墜が起こった最後の戦争としても知られている。
目次 |
[編集] 背景
1970年に開催予定であったFIFAワールドカップメキシコ大会の出場権を巡り、1969年6月8日、ホンジュラスの首都テグシガルパにおいて、ホンジュラス対エルサルバドルの予選1回戦が執り行われた。結果は1対0でホンジュラスが勝利する。このとき、熱狂的なサッカーファンであったエルサルバドルの18歳の女性がピストル自殺してしまう[1]。彼女の葬儀にはエルサルバドルの代表選手や大統領などもかけつけるなど、一大イベント化し[1]、国の威信をかけた6月15日、エルサルバドルの首都サンサルバドルで行われた2回戦でエルサルバドルは3対0で勝利し、最終戦に望みをつなぐ。
6月27日の最終戦でエルサルバドルは延長の末3対2で勝利する。試合直前、エルサルバドルは外交関係断絶を臭わせ、ホンジュラスを脅迫したが、試合に負けたホンジュラス側が断交を持って応じ、両国の関係は最悪の状況となった[2]。
そもそも、1960年代におけるエルサルバドルとホンジュラスとの間の外交関係は、国境線問題[3]をはじめとする数々の問題を抱えていた[1]。エルサルバドルは1948年以来工業化を始めたが、封建的大土地所有制に手をつけない工業化だったため、破綻は目に見えていた。これをかわすためのガス抜きとしてエルサルバドル政府はホンジュラスへの農業移民を送り出していたが、その数は50万人近くまで膨れ上がっていた[1]。これに対しホンジュラス大統領ロペス・アレジャーノは1962年に土地改革法を施行し、国境未確定地帯に居住しているエルサルバドル人を退去させ、ホンジュラス農民を入植させようとした[1]。
こうした国民感情の悪化と、ワールドカップという国を挙げたイベントが重なり、戦争へと発展した。
[編集] 戦争の展開
先手を打ったのはエルサルバドル軍だった。メキシコシティでの試合から約2週間後の7月10日、エルサルバドル空軍のグッドイヤー FG-1D コルセア(チャンス・ヴォート F4Uのライセンス生産機)とノースアメリカン P-51D マスタングの混成編隊は、ホンジュラスの首都テグシガルパ郊外の空軍基地を空襲し、戦端が開かれた。ホンジュラス空軍の主力はチャンス・ヴォート F4U-5 コルセア。両国空軍のF4Uコルセア戦闘機同士が激しい空中戦を繰り広げ(ホンジュラス側がエルサルバドル側を3機撃墜。レシプロ機によるレシプロ機の撃墜は、これ以降は2007年2月末までのところ、世界的にも発生していない)、空爆の応酬が続く中、エルサルバドル側はさらに7月14日、陸軍歩兵部隊(兵力約12,000人)を投入し、ホンジュラス領内に侵攻した。
[編集] 「最後のコルセア・ライダー」
一連の航空戦で最大の戦果を上げたホンジュラス空軍のフェルナンド・ソト(当時は大尉。公式には空中で撃墜した3機全てが彼の戦果とされている)は、『最後のコルセア・ライダー』として、先進国でもミリタリーファンを中心によく知られることになった。日本でも、彼の乗機である「1/48 ヴォートF4Uコルセア・ホンジュラス空軍1969版」がハセガワから限定生産プラモデルとして発売された。
[編集] 戦争の終結
この100時間程の戦争による双方の死者は合計数千人にものぼった。死者のほとんどがエルサルバドル陸軍の侵攻により殺害されたホンジュラス人の農民であり、このことは両国間に大きな亀裂を作った。 米州機構(OAS)が調停に乗り出した結果、7月29日にエルサルバドル陸軍が撤退を完了し、停戦が成立した。
[編集] 戦争の結果
この戦争の後、ホンジュラスは中米共同市場から脱退し、エルサルバドル製品をボイコットした。ホンジュラスへのエルサルバドル農業移民も禁止され、投資も凍結された。 ホンジュラス市場を失ったエルサルバドル工業は壊滅的な打撃を受けたが、さらにホンジュラスから追放された30万人の農民が失業者となって首都サンサルバドルに溢れ、今まで大土地所有制の矛盾をガス抜きしていたホンジュラスへの移民も禁止されてしまうとなると、ここに来てそれまで覆い隠されてきたエルサルバドル社会の矛盾が一気に露呈してしまったのだ。こうして1972年以降、エルサルバドルでは極右勢力のテロが繰り返された。サッカーから始まった戦争はエルサルバドル内戦に至り、中米一の工業国だったエルサルバドルの没落が始まるのである。
しかし両国関係の修復にはさらに10年以上の歳月を要した。1980年10月30日、激化するエルサルバドル極右勢力のテロリズムと、対抗するファラブンド・マルティ民族解放戦 (FMLN) との間で泥沼の内戦がまさに始まろうとする中で、両国はようやく平和条約を締結した。同年11月のワールドカップ地区予選決勝で、両国は12年ぶりのサッカー対戦が実現し、試合は0-0の引き分けに終わった。 2年後の1982年、中米諸国を巻き込んだいつ終わるともしれない中米ゲリラ戦争の最中に、両国は揃ってのワールドカップ・スペイン大会への出場を果たした。1992年、75,000人に及ぶ死者と100万人とも推測される亡命者を出したエルサルバドル内戦はようやく停戦にこぎつけた。
[編集] その後
戦争の主因の1つである国境問題に関しては、平和条約締結後に国際司法裁判所に付託した。国際司法裁判所は、1992年9月11日に新たな国境線の案を提示。両国はこれを受け入れることを表明したが、実際の作業は難航した。
2006年4月18日、両国の国境地帯に位置する街で式典が開催された。出席したエルサルバドル大統領エリアス・アントニオ・サカ・ゴンサレス(Elías Antonio Saca González)とホンジュラス大統領ホセ・マヌエル・セラヤ・ロサレス(José Manuel Zelaya Rosales)は、国境線375kmを画定する文書に署名した。これにより、国境問題は終結した。
ちなみに上記の82年同時出場から27年経った2009年、翌2010年に開催されるW杯南アフリカ大会出場チームを決める北中米最終(4次)予選でホンジュラスは3位に入り、当時(同時出場)以来2回目となる同大会の出場権を獲得した。サッカー戦争から丁度40年目の出来事だった。
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
[編集] 関連書籍
- リシャルト・カプシチンスキ『サッカー戦争』 北代美和子 訳、中央公論社、1993年 (ISBN 4120022358)
- 滝本道生『中米ゲリラ戦争』毎日新聞社、1988/10 (ISBN 4-620-30653-3)
- 後藤政子『新現代のラテンアメリカ』 時事通信社、1993/04 (ISBN 4-7887-9308-3)
最終更新 2009年10月22日 (木) 14:28 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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