外債
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外債(がいさい)とは、外国債(がいこくさい)と呼ばれ、債務の設定が自国以外で行われた債券(国債・公債・社債)の総称である。
外債は通常は債券引受先の通貨単位で額面を表示する外貨債(がいかさい)という形式を取るが、稀に債券発行元の所属する国家の通貨単位によって額面を表示する。内貨債(ないかさい)という形式も存在する。
そして、何よりも重要なのは、自国が相手国に向けて外債を出す場合もあれば、反対に第三国が発行した外債を自国で引き受ける事もあるという点である。
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[編集] 日本における外債
日本はその歴史上において、幕末に後進国として国際経済に参加し、一度は富国強兵政策によって先進国(人口の2人に1人が農民という農業国家であったが)の地位を築きながら、第二次世界大戦での敗北によって経済基盤を喪失して再度後進国から高度経済成長を経て先進国として復活した経緯がある。このため、長い間外債を他国に向けて発行して資金調達を行う事が多かった。だが、先進国としての日本の地位が固まると逆に他国より日本に向けた外債発行も行われるようになった。
[編集] 円貨建外債
円貨建外債(えんかだてがいさい)とは、日本以外の国家及び日本に本拠地を持たない機関・法人などが、日本市場において日本円による額面表記をもって発行する債券の事である。円建て外債(えんだてがいさい)あるいはサムライ債とも呼ばれる。
発行者は外国政府、政府機関、自治体、企業、国際機関など。発行から償還まで、全てが日本円で行われる。
[編集] 日本による外債発行の歴史
日本政府が発行した最古の外債は1870年4月23日(明治3年3月23日)にロンドンで出された新橋駅-横浜駅間の鉄道建設費用を捻出する為の9分付英貨国債100万ポンド(当時の相場で488万円相当)(→日本の鉄道開業)と1873年に出された秩禄処分のため費用を捻出する為の7分付英貨国債240万ポンド(当時の相場で1,171万円相当)である。これは発行額面100ポンドにつき92.5ポンドで売出されるというという未開国の発行基準扱いによるものであった。[1]更に大隈財政下で紙幣整理のために5,000万円規模の大規模な外債導入が検討されたが、保守派は「大量の外債発行は日本の植民地化を招く」としてこれを非難し、更に明治天皇直々の発言(「節倹の聖旨」)を持ち出してこれを阻止した。以後、政府も外債発行に慎重となり、また当時の日本が銀本位制を採用していて当時の国際的な基軸通貨であったイギリスポンドの金本位制と合致しないこともあり、暫くは行われなくなった。
日本の外債発行が再開されるのは、1897年に金本位制に復帰した後である。1899年に4分利付英貨公債1,000万ポンドを発行して成功を収めた。特に日露戦争においては総額にして約8億円相当の戦費をイギリス・アメリカ両国より外債の形で調達し、更に戦後の財政難に対応するために1908年から3年間に更に7億円の外債を発行した。この時期には東京市・京都市・大阪市・横浜市などの主要な都市や南満洲鉄道などの企業も海外において公債を発行して資金調達を行った。当時日本は多額の貿易赤字で正貨流出に悩まされていたが、正貨の不足による金本位制の崩壊阻止に結果的には役立つことになった。この時期出された外債の総額は約16億円に達し、内国債の総額を上回った。ところが、第一次世界大戦が発生すると大戦景気によって日本経済は回復して外債発行の必要性が薄まる一方で、1916年にはイギリス・フランス・ロシアが初めて日本に向けて外債を発行した。そうした影響で大戦末期には日本は債務国から一転して債権国へとなった。
だが、大戦後の不況で再び国際収支が悪化、加えて関東大震災による経済混乱の中で復興資金のために1924年2月13日にはロンドンで2,500万ポンド(6分利付)、ニューヨークで1億5,000万ドル(6分半利付)の「震災善後外債」が募集された。この外債は初めてアメリカドルによる外債を中心に募集され、大戦後の英米間の経済の逆転を裏付けるものとなっている。震災復興のための資金が切迫していた日本政府は日本が未開国扱いされていた明治初期水準の高い利息を付けて外貨を調達せざるを得ず、日本国内では「国辱公債」とも揶揄された(なお、この時期には東京・横浜両市も復興の為の外債発行を行っている)。また、この時期に社債募集に悩んでいた電力会社がニューヨーク市場の好調ぶりに目をつけて相次いで現地で外債を発行した。
だが、世界恐慌とそれに続く金輸出再禁止を機に日本の外債募集は行われなくなり、更に第二次世界大戦において敵対したアメリカ・イギリス(後にフランス)に対する外債の元利支払を停止した。1943年3月15日には外貨債処理法が制定され、日本国内に還流されていた外債は国内債に変換され、海外保有外債は日本政府の厳重な統制下に入り、物上担保権が剥奪された。
戦後、ポツダム勅令によって外貨債処理法は廃止されたが、アメリカ・イギリス・フランスの3国との債券償還問題が残された。サンフランシスコ講和条約締結後の1952年9月26日にアメリカ・イギリスと、次いで1956年7月27日にフランスとの間で債券償還の処理方法を定めた協定が結ばれた。これを受けて1959年2月17日に戦後初の外債である米貨国債3,000万ドルが発行された。以後、外債発行が行われるようになるが、資本の自由化に伴って様々な手段による外資の導入及び対外投資が行われるようになり、その重要性は低下している。

