サルバドール・アジェンデ

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サルバドール・アジェンデ・ゴセンス
Salvador Allende Gossens
サルバドール・アジェンデ

チリ共和国
第29代大統領
任期: 1970年9月4日1973年9月11日

出生: 1908年7月26日
バルパライソ
死去: 1973年9月11日
サンティアゴ・デ・チレ
政党: チリ社会党
サイン:

サルバドール・アジェンデ博士 (Dr. Salvador Isabelino del Sagrado Corazón de Jesús Allende Gossens , 1908年7月26日1973年9月11日)は、チリの政治家。1970年から1973年までチリの大統領であった。バスク系チリ人である。

目次

[編集] 生涯

[編集] 医師から政界へ

1908年にチリの港町バルパライソバスク系の子孫として生まれる。チリ国立大学の医学部を卒業した後、チリ社会党結成に参加したアジェンデは、1938年に急進党を中心とする人民戦線政府に保健大臣として入閣、その後社会党と共産党の連合である「人民行動戦線」から1958年1964年の大統領選に出馬した。

アジェンデを支援する市民団体(1964年の選挙時)

1958年の大統領選では28.8%の得票を得たが、アレッサンドリ(右派の国民党)とわずか3万票、得票率で3ポイント足らずの差で当選を逃した。冷戦下、資本主義陣営の盟主を自認するアメリカ合衆国はこれを脅威と見なし、CIAを通して対立候補に密かに援助を行ったという[1]

1964年の選挙では、アジェンデは得票を39.9%まで伸ばしたものの、対立候補であり、チリを「進歩のための同盟」による開発計画のモデル国家とすることを目指していたエドゥアルド・フレイが右派の国民党と中道のキリスト教民主党の一致した支援を受けたため、大差での敗北となった。

[編集] 大統領就任

アジェンデとアルゼンチンのカンポラ大統領、キューバのドルティコス(1973年)

CIAやチリ国内の反共主義勢力による執拗なプロパガンダにも拘らず、アジェンデは労働者の男性を中心に支持を広げていた。続く大統領選挙は1970年であったが、アジェンデ政権の成立を憂慮した各勢力は、最悪の場合軍事クーデターも辞さない構えで、反共派の多いチリ軍部と接触した。しかし、チリ陸軍司令官のレネ・シュナイダーは憲法に則った解決を主張した。

1970年の大統領選挙に、アジェンデは従来の人民行動戦線から参加政党が拡大した人民連合の統一候補として出馬し、得票率が対立候補を僅差で上回った。憲法に則り、最終決定は議会で行なわれることになった。CIAと反共勢力はシュナイダーの排除を目論見て、CIAは軍部の反シュナイダー勢力に武器などを譲渡、シュナイダーは暗殺された。しかし、この暗殺は完全に裏目に出た。これに反発した各党はアジェンデを支持、チリ史上初の自由選挙による社会党政権が成立した。企業や鉱山の国営化を進め、キューバソ連などの共産主義国との友好を促進した。同時期に隣国ペルーで「ペルー革命」を推進していたフアン・ベラスコ・アルバラード政権との友好関係も確立され、アジェンデはベラスコを同志として賞賛した[2]

「共産主義国は暴力革命によってしか生まれない」と認識し、また共産主義の不当性の宣伝材料としてきたホワイトハウスにとって、選挙によって選ばれたアジェンデ政権は自説の正当性を揺るがす存在となった。リチャード・ヘルムズCIA長官は、「おそらく10に1つのチャンスしかないが、チリを救わなければならない!……リスクはどうでもいい……1000万ドル使え、必要ならばもっと使える……経済を苦しめさせろ……」と指示し、どんな手を使ってもアジェンデ政権を打倒する姿勢を見せた。合衆国などの西側諸国は経済封鎖を発動、もともと反共的である富裕層(多くは会社・店などを経営している)は自主的にストライキを開始した。さらにCIAは物流の要である1972年9月にはトラック協会に多額の資金を援助しストライキをさせた外、政府関係者を買収してスパイに仕立て上げた。

加えて、アジェンデ政権の経済的失政も苦境に拍車を掛けた。当初アジェンデ政権のペドロ・ブスコビッチ経済相の経済政策は政府支出の拡大、国民の所得引上げによって有効需要を生み出すことにあり、そのための手段としての賃金上昇政策と農地改革が採用された。農地改革は驚異的なペースで進み、フレイ政権が6年間で収用したのと同等の農地面積が就任してから1年で収用され[3]、、さらに1971年1月にそれまでのチリの税制から、チリにとって極めて不利な資本流出を起こしていたアナコンダ社などの外資系の鉱山会社が国有化されてコデルコに統合され、チリの銅山は「拍車を着け、ポンチョを着て」チリの下に戻った。しかし、チリ経済の実力に見合わない支出拡大により外貨準備は1971年末に3000ドルにまで減少するなど急速に底を着き、加えて合衆国による銅価格の操作や援助の削減、国際金融機関によるチリへの貸付停止措置はチリ経済に深刻な影響を与えた[4]。このような状況が複合的に進行した結果、民間投資は激減し、更なる資本流出が進む悪循環が生じた。

こうした混乱により、1971年末から野党は連合して人民連合政府を批判するようになり、さらに1972年6月には人民連合内部での路線対立が尖鋭化した。アジェンデはキリスト教民主党との妥協工作を図り、社会主義的な経済政策を追求するブスコビッチ経済相を更迭し、経済回復を重視する方針を打ち出した。しかし、経済の衰退に歯止めはかからず、チリ国内では悪性のインフレが進行し、物資が困窮し、社会は混乱した。同年9月にトラック業界のストライキが始まったが、このストは10月に入ると全国的な規模に拡大し、一ヶ月以上続くことになった。この「資本家スト」に対抗し、内戦の危機に備えてアジェンデは軍から立憲派のカルロス・プラッツ将軍を入閣させ、11月にストを終わらせた。

しかし、経済の衰退に歯止めがかからないことには変わらず、極右と極左の衝突、混乱は激しさを増すことになった。

[編集] クーデター

詳細は「チリ・クーデター」を参照

アジェンデの眼鏡

これらの混乱はしかし、アジェンデ政権の誘導もあって、その真偽を問わずチリ国民の多くを占める労働者からは、反対派による陰謀と認知された。『敵の攻撃』は結果として労働者の団結を促進し、1973年の総選挙で、人民連合は大統領選より更に得票率を伸ばした。こうした状況に失望した反アジェンデ勢力は、ホワイトハウスの支援と黙認の下で、武力による国家転覆を狙うようになった。

チリ全土でストやデモが勃発する中、6月には軍と反アジェンデ勢力が首都のサンティアゴの大統領官邸を襲撃するが、プラッツ将軍の軍への統制による努力により、このクーデター未遂事件は失敗した。アジェンデはこの事件への報復に労働者への工場占拠を呼び掛け、500以上の工場が政府の直接統制に置かれ[5]、労働者と軍の間で内戦の危機が迫った。このような左右対立の図式の中で、野党内部では秩序回復のための軍の政治介入を求める運動が広がり、次第にチリ軍内部でのクーデター派のコンセンサスが確立すると、アジェンデにとって最大の軍内の同盟者だったプラッツ将軍は孤立し、8月22日に辞職した。後任司令官にはアウグスト・ピノチェト将軍が就任した。

万策尽き、行政力も権威も失ったアジェンデは国民投票に訴えようとしたが、投票が実施される直前の9月11日に、アウグスト・ピノチェト将軍が陸海空軍とカラビネーロスを率いて再度大統領官邸を襲撃した(チリ・クーデター)。アジェンデはクーデター軍と大統領警備隊の間で砲弾が飛び交う中、最後のラジオ演説を行なった後、クーデター軍に殺害された(自殺という説もある)。ラテンアメリカで「9・11」というと、2001年のアメリカ同時多発テロ事件ではなく、1973年のチリ・クーデターを指す事も多い。

[編集] 死後

チリ・クーデターの結果、クーデターの首謀者であったピノチェトが大統領に就任し、チリはピノチェトによる軍事独裁下に置かれることになった。その後16年の長きに亘る軍事政権下で、数千人(数万人という説もある)の反体制派の市民が投獄・処刑された。又、ピノチェトは、ミルトン・フリードマンを代表格とするアメリカのシカゴ学派の経済学者を登用し、後に新自由主義と呼ばれる市場原理主義政策を実行した。その結果、一時は「チリの奇跡」と呼ばれる程に経済は回復したかに見えた。しかし、結果的には一部の富裕階級が利益を得ただけで、アジェンデ時代以上に大きな社会格差と貧困をチリ社会にもたらした。チリ国内における左派の間では、ピノチェト時代の16年間が「失われた10年」と目されている。

この間、ピノチェト将軍の後見人であったホワイトハウスは、1989年ベルリンの壁が崩壊して冷戦が終わった事で、「南アメリカの共産化による自国への脅威」が消えた直後の1990年3月まで、ピノチェトの軍政による酷い人権侵害を見て見ぬ振りをし続けた。

[編集] 家族

  • 娘:イサベル・アジェンデ(es:Isabel Allende Bussi):民政復帰後の1993年以来、父と同じチリ社会党所属の下院議員を務めている。
  • いとこの娘:イサベル・アジェンデ(Isabel Allende Llona):娘と同姓同名の小説家で、サルバドールの娘であるIsabel Allende Bussiのはとこであり、イサベルの父はサルバドールのいとこである。

[編集] 人物

[編集] 革命家チェ・ゲバラとの関係

1959年に両者が初めて会見した時、ゲバラはアジェンデに著書『ゲリラ戦争』を贈ったが、その著書にはこう書いてあったという。「私と違った手段で、しかし私と同じようものを獲得しようとしているサルバドール・アジェンデへ。心をこめて。チェ。」

こうして二人の革命家はお互いの立場の違いを意識しながらも、お互いを敬愛し続けた。1967年に革命指導のためにチェ・ゲバラがボリビアに潜入した際には、チリ野党の指導者としてゲバラを支援し[6]、ゲバラが処刑された後は残存のゲリラ部隊のチリ経由での脱出を助けた。

その後、ゲバラの武力革命とは異なる平和革命によって政権を獲得した後の1971年にアジェンデはこう述べている。「私は世界の多くの優れた人間に会ったけれども、その中で二人だけが他の人たちにない何ものかで私を印象づけた。それはチェ・ゲバラと周恩来であり、その二人のまなざしであった。両人のまなざしには内的な力と確信と皮肉があった。」

[編集] 国内外の評価

アジェンデの銅像

チリ国内ではピノチェト同様、評価は未だに二分されている。親ピノチェト派にとっては左転回により国に混乱をもたらした唾棄すべき存在である一方、ピノチェトの圧政に苦しんだ労働者たちなど左派の人間にとっては今でもヒーローである。実際、2006年12月10日にピノチェトが死去した際には、チリ国内外で左派チリ人がピノチェトの死を祝うデモを行っていたが、その随所でアジェンデの肖像画が掲げられていた。これにより、チリの左派の間では、生前のアジェンデ政権を直接知らない若い世代の間でも、彼の人気が絶大であることが改めて示された。

また、カラカスハバナパリボローニャマドリッドマナグアモンテビデオなど、中南米や欧州諸国の各地にアジェンデの名前を冠した通りや広場などが続々と建設されている事例は、民主主義を通じて社会主義を実現しようとしたアジェンデに対する国際社会の評価の一例と見ることができるだろう[7]

[編集] 脚注

  1. ^ ウィリアム・ホープ「チリ 一九六四年~一九七三年 鎚と鎌が子供の額に焼き印される
  2. ^ 増田義郎/柳田利夫『ペルー 太平洋とアンデスの国 近代史と日系社会』中央公論新社 1999 p.210
  3. ^ 中川文雄/松下洋/遅野井茂男『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社 1985 p.222
  4. ^ 中川文雄/松下洋/遅野井茂男『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社 1985 p.223
  5. ^ 中川文雄/松下洋/遅野井茂男『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社 1985 p.228
  6. ^ ジャン・コルミエ『「知の再発見」双書120 チェ・ゲバラ 革命を生きる』松永りえ:訳、太田昌国:監修、創元社、2004/12 p.106
  7. ^ [1]

[編集] 参考文献

  • 中川文雄/松下洋/遅野井茂男『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社 1985
  • 増田義郎/柳田利夫『ペルー 太平洋とアンデスの国 近代史と日系社会』中央公論新社 1999(ISBN 4-12002964-6 C0020)
  • 増田義郎:編『新版世界各国史26 ラテンアメリカ史II』山川出版社 2000 (ISBN 4-634-41560-7
  • ジャン・コルミエ『「知の再発見」双書120 チェ・ゲバラ 革命を生きる』松永りえ:訳、太田昌国:監修、創元社、2004/12

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 関連項目

先代:
エドゥアルド・フレイ
チリ共和国大統領
サルバドール・アジェンデ
1970年-1973年
次代:
アウグスト・ピノチェト
1974年-1990年

最終更新 2009年11月7日 (土) 10:22 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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